本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

手掘り日本史


司馬遼太郎氏の作品を学生時代から読み続けているせいか、私の中には"歴史小説=司馬遼太郎"のような図式があります。

ただし他の作家の歴史小説を読んでいくうちに、実は司馬遼太郎氏の作品はかなり特殊な部類に入るのではないかと思い始めています。

その最大の特徴は、(作品中の)主人公の人生や所業を追うだけでなく、彼らの生きていた時代の雰囲気を読者へ伝えることに力が注がれている点です。

それは一見すると作品中でしばしば"余談"という形であらすじとは関係のない方向へ逸れているように見えますが、戦国、江戸、あるいは明治時代に生きていた人びとが日常的に持っていた感覚、考え方を作者なりの表現で伝えていることが多いのです。

歴史上の出来事や制度、または文化といったものは教科書や専門書でも学ぶことが出来ますが、そこからは人びとの日常生活はなかな見えてきません。

例えば史観(歴史観)とは、歴史的事実から過去を(ある方向へ)評価する視点として必要ですが、本書で司馬氏は次のように語っています。

私は、史観というのは非常に重要なものだが、ときには自分のなかで、史観というものを横に置いてみなければ、対象のすがたがわからなくなることがある、と思っています。史観は、歴史を掘りかえす土木機械だと思っていますが、それ以上のものだとは思っていません。土木機械は磨きに磨かねばなりませんが、その奴隷になることはつまらない。歴史をみるとき、ときにはその便利な土木機械を停止させて、手掘りで、掘りかえさなければならないことがあります。

司馬氏の周りはつねに歴史書やその専門書であれふれていたはずですが、そこから分かる事実だけを抜き出して並べてみても小説は書けません。

そこに登場する人物たちの表情や立場などが目の前に浮かんできてはじめて作品が書けるといいます。
そしてそれらを想像する作業を著者はタイトルにある"手掘り"と表現しているのです。

そうした思考を続けてきた司馬遼太郎氏は、現代というより歴史の中を延々と漂いながら生活している隠者のような雰囲気が私の中にあります。

本書は評論家の江藤文夫氏が司馬遼太郎氏へインタビューするという形式で進んでいますが、歴史、または歴史小説へ対する姿勢、考え方がよく整理されて掲載されており、その認識の深さと広さに驚かされるとともに、なかなか作品中では現れにくい著者の肉声が聞けたような嬉しい気持ちにもなるのです。