本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

AIで私の仕事はなくなりますか?



本書はジャーナリストの田原総一朗氏がAI技術の可能性、そして未来を専門家へ取材するという形で1冊の本にまとめたものです。

AI(Artificial Inteligence)
、つまり人工頭脳はすさまじい勢いで社会を変えてゆくと言われています。

オックスフォード大学の研究によると、70%以上の確率で米国の労働者の47%が10~20年後に仕事を失うと言われており、野村総合研究所もやはり10~20年後に日本の49%の仕事がAIに置き換わる可能性があると報告しています。


田原氏は自らを"極端な文系人間"と評しているだけあって、AI技術に詳しくはありません。
それでも80歳を過ぎている田原氏が、「文系の年寄りにはAIのことが分からないと悠長にかまえているわけにはいかない」と言わしめるほど注目すべき技術ということです。

本書で取材を受けているのは、いずれもAI技術の研究、または推進に第一線で関わっている人たちです。

  • グレッグ・コラード(グーグル・ブレイン創業者)
  • 松尾豊(東京大学大学院工学系研究科特任准教授)
  • 西川徹(プリファード・ネットワークス社長)
  • 柳瀬唯夫(経済産業省経済産業政策局長)
  • ジェームス・カフナー(トヨタ・リサーチ・インスティチュートCTO)
  • 馬場渉(パナソニックビジネスイノベーション本部副本部長)
  • 冨山和彦(経営共創基盤代表取締役CEO)
  • 奥正之(三井住友フィナンシャルグループ名誉顧問)
  • 井上智洋(駒沢大学経済学部准教授)
  • 山川宏(ドワンゴ人工頭脳研究所所長)

AIというだけでITに携わっていない人に敬遠されがちですが、インタビューを通して田原氏自らも理解できるような言葉を引き出しているため、AI技術の概要や現時点における研究段階が一般人にも理解できるようなレベルで書かれています。

やはりAI技術の研究が進んでいるのはアメリカであり、それを中国が急激に追い上げているというのが世界の情勢のようです。

インタビューに登場する松尾豊氏をはじめ日本の研究は遅れているという見方で共通しており、それはグーグルをはじめインターネットビジネスで爆発的に成功した大企業が巨大な予算で研究に取り組んでいることもありますが、日本の科学技術水準が相対的に落ちてきているという要素もあるようです。

一方で完全な無人運転自動車が登場するのは10年程度はかかるという見方も共通しており、さらに人格を持った汎用AIが登場するのは更に先になるというのが専門家たちの共通した予想であり、あと数年でAIが職を奪うという心配はなさそうです。

いずれにしてもメディアによる"AIの驚異"という類の報道へ対して、本書を読むことで少し冷静に考えることが出来るという点で入門書としては最適な1冊です。

AIは膨大な情報へアクセス可能になったインターネットの延長上にある技術であり、産業革命に匹敵するインパクトを与える技術であることは確かなようです。

だからこそ「AI技術を制するものが未来のビジネスを制する」という認識のもと、今日も世界中の国家や企業がしのぎを削っているのです。

小説出光佐三 ~燃える男の肖像~



昭和を代表する実業家である出光佐三の伝記小説です。

著者は「黒部の太陽」で知られる作家・木本正次氏であり、株式会社復刊ドットコムより2015年に復刊されたようです。

出光佐三といえばすぐに出光興産を思い出しますが、今年に入って昭和シェルの経営統合を行い"出光昭和シェル"として5.8兆円もの売上を誇る巨大企業になっています。

創業者の出光は裸一貫で会社を立ち上げ、当然のように順風満帆であった訳ではなく、何度もの倒産危機を乗り越えて会社を成長させてゆきます。

本書にはその歴史がかなり細部に渡って収められているだけにかなりのボリュームがあるものの、それでも立志伝として濃い内容に仕上がっています。

ここでは詳しく触れませんが、戦前~戦後の激動期に起業家として成功した人物にはある共通点があるように思えます。

あくまでも個人的な解釈ですが、それを本書を例に簡単にまとめてみました。

  • 時代の先を読む
  • ピンチへ対して真っ向から立ち向かう
  • 運がよい
  • 経営へ対して哲学を持っている

まず"時代の先を読む"については簡単です。
創業当時(明治44年)はまだ石炭が機械の主な動力源でしたが、出光はいち早く石油が燃料となる時代が来ること見抜いていました。

"ピンチへ対して真っ向から立ち向かう"については、経営者以前に人間としての意志力が試されます。
世界中の石油が海外資本(いわゆる石油メジャー)に支配される中、出光は直接イランからの石油輸入に挑戦します。
もちろん業界の猛烈な反発に合いますが、臆することなくイラン首相と直接交渉するなど真正面から突破口を開きます。

"運がよい"は結果論にならざるを得ませんが、やはり重要な要素です。
すぐに思いつくのは、出光が起業する際に当時で6千円(現代であれば6千万円)もの大金を援助した資産家・日田重太郎の存在です。
日田は出光の人間性に惚れ込み、利子も返却する必要もないと言いながら資金を提供しました。

最後に"経営へ対して哲学を持っている"ですが、これは強烈な個性が会社経営へ反映された結果でもあります。
その中でも「黄金の奴隷になるな」はよく知られている言葉で、目先の利益を追い求めることで"義理"や"品性"に欠く行動をしてはならないことを意味し、現代でも共感できる内容です。

一方で敗戦直後にも関わらず社内訓示で戦勝国アメリカを批判し、天皇崇拝や神州日本を公言するアクの強さもありました。
出光は"三千年の歴史を有する民族"としての日本人をつねに意識し続けた人物でもあり、こうした訓示も敗戦によって自信を失った社員たちが将来を悲観することを防ぎ、再建への苦難を乗り越えるための勇気を与える効果がありました。


ちなみに百田尚樹氏が2012年に発表し注目を集めた「海賊とよばれた男」でも出光佐三をモデルにした主人公が登場しますが、こちらが物語性を重視した作品であるのに対し、本書は登場人物がすべて実名で書かれており、昔からある伝記形式の作品であるという特徴があります。

当然のようにあらすじは似ていますが、2つの作品を読み比べてみるのも面白いかも知れません。

日本を蝕む「極論」の正体



著述家の古谷経衡(ふるや つねひら)氏が、日本中のあらゆる場所で目にする機会が増えたさまざまな"極論"へ対して検証してゆく1冊です。

最初に著者は、極論は常に競争のない閉鎖的な集団や組織から発生すると指摘しています。

例として世界革命を唱えた共産主義者の一派、終末思想とテロを結びつけたオカルト宗教団体、現代であれば電子掲示板に代表されるネット空間など挙げていますが、もともと常識人であっても強烈な同調圧力の中で次第に極論を正論と思い込むようになってゆくようです。

そもそも曖昧な要素のない(=思考する必要のない)極論の方が人間の心を惹き付けやすいといった側面があるかもしれません。

以下は本書で取り上げられている極論の一部です。

  • 日本共産党による「内部留保批判
  • 右翼、左翼による「TPP亡国論
  • 政府による「プレミアムフライデー
  • ネット上で囁かれる「日本会議黒幕説

著者自身はかつて保守・右派と呼ばれる業界にいたと告白していますが、今は右派、左派とも適度に距離を置いているようです。

それだけにパトロンのいない自身の境遇を自由ではあるが孤独で貧乏と自虐的に語っていますが、それはともかく特定の組織だけと密接に関わる状況下で自由な発言が抑制されてしまうことは容易に想像できます。

本書で解説されている極論へ対する反論はいずれも専門的で難解なものではなく、わかり易い例と自身の取材内容を元にした誰にでも理解できる内容になっています。

私自身は極論に流されない方だと勝手に思い込んでいましたが、本書を読む進めてゆくとその自信が揺らいでくるような内容もあり、改めて身近に極論(もしくは極論に近いもの)が溢れていることに気付かされます。

ネットの普及とともに爆発的に増加する情報の中で必要なことは、受け身だけでなく自分の頭で考える姿勢、具体的には常に情報を疑って裏をとる癖が必要になってくるのではないでしょうか。


ちなみに私自身が最近身近に感じる"極論"は、Webメディアに掲載されるニュースです。

特にWebの場合、記事の見出しを10文字程度で表示する慣習があるために、アクセス数を稼ぐためにインパクトのある、つまり極論としか言いようのないタイトルを目にすることが多いのです。

これも著者流にいえば、Webメディアがなりふり構わずアクセス数を稼げばよいという体質を持った閉鎖的な組織になりつつあるといったところでしょうか。

鋼の女 最後の瞽女・小林ハル



瞽女(ごぜ)」という言葉は知っていましたが、ぼんやりと"女性版琵琶法師"というイメージしか持っていませんでした。

つまり伝統芸能を生業にしている視覚障害者の女性といった程度の知識です。

しかし瞽女は遠い過去の話ではなく、室町時代からはじまり昭和30~40年頃まで越後(新潟県)を中心に活動を続けていたという事実には驚きました。

越後は瞽女文化が最後まで残り続けた地域であり、"長岡瞽女"と"高田瞽女"と呼ばれる2つの集団が存在していました。

本書の主人公である小林ハルは最後の長岡瞽女として活躍し、2005年に105歳で亡くなるまで瞽女唄の保存に尽くした女性です。


経歴だけを見れば瞽女として生涯を過ごした女性と片付けてしまいがちですが、その人生は壮絶なものでした。

三条市に生まれたハルは生後間もなく失明し、それ以降人目につかぬよう家の奥に閉じ込められるようにして幼少期を過ごしました。

また母親から裁縫から洗濯まで身の回りのことは1人で出来るように厳しく躾されます。

あまりの厳しさに母を恐れたハルでしたが、それは盲目であっても1人で生きてゆけるように願った母の愛情であったことを後に知ることになります。

その母もハルが11歳のときに亡くなり、師匠の付き人として厳しい日々が彼女を待ち受けます。

瞽女は自分たちだけで山岳地帯を巡り、時には会津や小国といった県外にまで足を運んだ旅芸人として活躍としていました。

ハルさんは師匠との相性が悪かったらしく、事あるごとに旅先で陰湿な嫌がらせを受け1人で野宿せざるを得ないこともあったそうです。

それ以外にも養女の死や弟子の裏切りなど、数々の苦労をされてきたようです。

数々の逆境の中でもハルさんは「瞽女と鶏は死ぬまで唄わねばなんね」と晩年まで瞽女唄を披露し続けました。

その功績もあって黄綬褒章をはじめてとした数々の受賞を重ねますが、"小林ハル"という人間が魅力的に映る本当の理由は、多くの苦労を乗り越えながら形成してきたその人格にあるといってよいでしょう。

「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」と自らに言い聞かせ、決してひねくれたり逃げたりせず運命を受け入れ続けてきた明治生まれの女性の生き様が読者の胸を打つのです。

幸いにも晩年は老人ホームで忙しくとも平和な日々を過ごせたようで何よりです。

VTJ前夜の中井祐樹 七帝柔道記外伝



抜群に面白い青春スポーツ小説「七帝柔道記」を読んだあと"七帝柔道記外伝"という副題に釣られて立て続けに、手にとったのが本書です。

3つのノンフィクションと2つの対談が収められていますが、何と言ってもタイトルにもなっている「VTJ前夜の中井祐樹」に注目してしまいます。

"中井祐樹"は、北海道大学の柔道部で著者(増田俊也氏)の3学年下の後輩であり、彼は柔道部の副将として主将の吉田とともに七帝柔道で悲願の優勝という快挙を果たします。

七帝戦とは己のすべてをそこに賭けて戦う壮絶な大会ですが、彼の目はもっと遠くを見つめていました。

それはプロの格闘家として生きてゆく道です。

今でこそMMA(総合格闘技)というジャンルは日本のみならず海外でも確立していますが、当時(1992年)はプロ格闘技とプロレスの区別さえ曖昧な、そもそもマーケットさえ存在しない不安定な世界でした。

そんな困難な荒野へ理想だけを持って駆け出した中井には、青春というにはあまりにも過酷な茨の道が待っていました。

試合で負った大怪我が原因でわずか3年間で格闘選手を引退せざるを得ない状況になってしまった中井ですが、彼が引退後した後に空前の格闘技ブームが訪れ、大晦日には格闘技中継が乱立していた時代がありました。

一時は下火になったものの世界中で"MMA"というジャンルが確立しつつあり、再び盛り上がり始めている気配があります。

まだMMAというジャンルを過去を振り返るタイミングではないのかも知れませんが、マイナースポーツだった時代にその基礎を築いた先人がいたことを思い出す機会が必ず来るはずです。

つまり本書は過去に言及しつつも、MMAの発展に貢献した中井祐樹という存在へいち早くスポットライトを当てた作品であるとも言えます。

彼の遺伝子を受け継いだ選手が再び世界を席巻する日が来ることを期待せずにはいられません。

七帝柔道記



七帝柔道(ななていじゅうどう、しちていじゅうどう、Nanatei-judo、Shititei-judo)は、北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学の旧帝大の柔道部で行われている寝技中心の高専柔道の流れを汲む柔道である。七大柔道とも呼ばれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B8%9D%E6%9F%94%E9%81%93

冒頭からWikipediaの解説を引用しましたが、よく知られているオリンピック競技の柔道は立ち技中心のいわゆる"講道館柔道"であり、本書のそれとは異なる競技であるという点です。

7校の大学のみで開催されている競技だけに国際大会は存在せず、いわゆるマイナースポーツであることは間違いありません。

本書は私小説でもあり、著者の増田俊也氏は北海道大学時代にこの七帝柔道の競技者だった経験があります。

それだけに小説中で行われるルールの説明も適切で分かりやすく、七帝柔道の予備知識が無くとも作品の面白さに差し支えはありません。

同氏による木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのかでは木村が(七帝柔道の前身である)高専柔道で優勝する過程が紹介されていますが、こちらが全体的にシリアスで重厚なノンフィクションとして書かれているのに比べ、本書は熱血青春小説としてエンターテイメント性が高い作品になっています。


青春スポーツと来れば次に野球を連想してしまう私ですが、甲子園のように世間から注目される大舞台がなくとも、青春のすべてを七帝柔道に捧げる青年たちの姿が魅力的に書かれています。

もちろん著者の技量もあるでしょうが、壮絶な練習量の中で何度も絞め落とされ続ける日々、"カンノヨウセイ"と呼ばれる新入生への過激な伝統行事、先輩や同級生との確執や硬い絆など自身の濃厚な体験が何よりも大きな要素になっているのは間違いありません。

小説のクライマックスは年に1度開催される7校が一堂に会する"七帝戦"であり、なんと15人の団体戦で日本一が争われます。

この団体戦が柔道といえば個人競技という固定概念を完全に吹き飛ばし、七帝柔道が完全なチームスポーツとして描かれています。

勝っても負けても4年生が引退するこの大会にすべてを賭けてきた男たちの戦いは、寝技の1本のみが勝利の条件となるこの競技において壮絶なものになります。

絞め落とされようが、腕を折られようが自ら負けを認める"参った"を誰もせず、もはやスポーツというよりは己の存在を賭けた戦いといった方が相応しいものです。

個性的なメンバーたちがそれぞれの想いを持って試合に望む姿は、感情移入せずにはいられません。

長く苦しい練習の日々、勉学よりも遊びよりも柔道を優先させた青年たちの日々は他の学生から見ると理解しがたい存在だったはずです。

それでも柔道を通じて学び成長してゆく彼らは、何物にも代えがたいものを得たはずです。
目には見えなくとも大切なものを読者たちへ教えてくれる青春小説です。

黒部の太陽



黒部の太陽」といえば三船敏郎石原裕次郎主演の映画が有名ですが、その原作となったノンフィクション小説です。

黒部川第四発電所(通称:黒四ダム)の建設工事を描いた作品ですが、当時(昭和30年代)は経済成長に必要な電力が決定的に不足している状況であり、それを解消するための黒四ダム建設が世紀の難工事だったことから日本中の注目を集めました。

ちなみに戦時中に建設された黒部川第三発電所(仙人谷ダム)も難工事であり、その様子は吉村昭氏の「高熱隧道」で詳しく取り上げられています。

北アルプスから100キロ足らずで日本海へ注ぐ黒部川は豊かな水量とともに厳しい勾配を持っており、水力発電には最適な河川でした。

一方で黒四の建設場所は、三千メートル級の山に囲まれた鋭いV字型の渓谷であり、人類未踏の猿さえ近づかない秘境でもあったのです。

黒部には、怪我はない」という言葉があり、一歩足を踏み外せば垂直の断崖のため助かる見込みが万に一つもないという意味で使われます。

この黒四の建設を不退転の決意で進めることを決定したのが当時の関西電力社長・太田垣であり、このはじめから予想された難工事へ立ち向かうために腕利きの男たちが結集するというのが物語の序盤です。

工事は5つの工区に分けて進めることが決定しますが、本作品のクライマックとして取り上げられているのが、長野県大町市から黒四の建設現場へ資材を運ぶための関電トンネルを掘削した第三工区の熊谷組です。

このトンネル工事は巨大な破砕帯(粉砕された岩石の層)と毎秒600リットルに及ぶ大量の地下水に阻まれ、掘削工事は難航を極めます。

しかもトンネルが開通しなければ本格的なダム建設の資材を運搬できず、世間では関西電力の経営危機という言葉まで飛び出しました。

苦戦する男たちの姿は重苦しく、文字通り出口の見えないトンネルにいるような気持ちになります。

しかし同時に社長の太田垣をはじめ、決して諦めない不屈の精神で困難へ立ち向かってゆく男たちの姿に読者は勇気づけられるのです。

結果的にこの黒四ダム完成までに171名もの殉職者を出しますが、現代の私たちが水や空気のように利用している電力がこうした犠牲者たちの上に成り立っているということを、今さらながらに実感させてくれる名作ドキュンタリーです。