本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

バッタを倒しにアフリカへ



まず本書で目を引くのは、タイトルと奇抜な格好をした著者です。

ただし著者の前野ウルド浩太郎氏は、趣味がコスプレの人でも芸人でもない、バッタを専門に研究する昆虫学者です。

日本では制度的な問題もあり、学問だけで生計を立てるのは不可能といえるでしょう。
研究者であろうと学者であろうと、自分が発見したことを社会へ還元することを求められます。

その代表的なものが"論文"ですが、論文が直ちに世紀の大発見やノーベル賞につながることは殆どなく、地道な活動が必要とされます。

それでも研究に専念しながら安定した給料をもらえる常勤研究者となれるのは一握りというのが厳しい現実なのです。

著者はポスドク、つまり任期付研究員として任期まであと数ヶ月という不安な日々を送っていました。

その時の心境を著者は次のように綴っています。

進むべき道は二つ。誰かに雇われてこのまま実験室で確実に業績を積み上げていくか、それとも未知数のアフリカに渡るか。安定をとるか、本物をとるか。どちらに進んだほうが自分のなりたい昆虫学者、ファーブルに近づけるだろうか。アフリカに渡ってもやっていける勝算があれば・・・・。

ただこう考えている時点で、彼の中では結論が出ていたと言えます。

アフリカで農作物に被害をもたらしているサバクトビバッタを研究している著者にとって、現地でのフィールドワークは何よりも魅力的なものであり、これこそファーブルも実践していたスタイルだったからです。

ただし研究チームを結成するような予算はどこにもなく、イスラム教圏であるモーリタニアに単身で乗り込むことになります。

もちろんインフラは充分に整っておらず、日本語はもちろん英語も殆ど通じない国です(モーリタニアにはフランス語が公用語)。

つまり言語も気候も文化もまったく異なる国での生活は、ハプニングだらけの日々となります。
しかも研究対象は自然であり、日本の約3倍の国土面積を持つモーリタニアの砂漠でバッタの集団を発見するのは容易なことではありませんでした。

ストレスやホームシックで心が折れそうになる中、本書で目を引くのが著者のユーモアセンスです。

トラブルを単に悲劇と捉えるのではなく、それを自虐的なユーモアにしてなるべくポジティブな方向へ持ってゆく姿勢こそが読者が惹きつけられベストセラーとなった理由でもあるのです。

たとえば砂漠でサソリに刺され毒に苦しめられた際に、次のように締めくくっています。

サソリに刺されると悲惨な目に遭うことがわかったが、致命傷にならないことをこの身をもって実証できたのは大きかった。これで闇の生物に怯えることなく、安心して調査ができる(サソリに2回刺されると、アナフィラキシーショックを引き起こす場合があり、実際には死へのリーチがかかっていたのだが、無知のおかげで勇気リンリンだった)。

また本書を読み進めてゆくと単なる研究者の珍道中ではなく、感動的な自伝になるから不思議です。
夢を語るのは恥ずかしく、夢を追うのは代償を伴いますが、それが叶ったときの喜びは病みつきになると著者は正直に告白しています。

なお著者は研究者としての成果だけでなく、セルフプロデュース能力にも長けています。
ポスドクはある意味でフリーランサーとみなすことができ、同じような立場で頑張っている人たちにとって参考になる部分も多いのではないでしょうか。

禅学入門



元々本書は、1934年に鈴木大拙氏が海外へ禅を紹介するために執筆した「An Intrroduction to Zen Buddhism」が原本になっており、それを鈴木氏自らが1940年に邦訳して国内出版したものとなります。

禅に馴染みのない欧米人向けの入門書ということもあり、仏教が身近にある日本人であれば容易に読めると思い手に取りましたが、その考えは序盤で裏切られました。

決して書かれている文章そのものが難解というわけではありません。
たとえば物語が理論的に構成されていない小説、回答が掲載されていない参考書を読むと人はストレスを感じるはずですが、それと同じような感覚になります。

しかしそれこそが""が何かを知るにあたり当然のようにぶつかる壁でもあるのです。

禅が目指す「悟り」とは、論理的二元主義とは違う物事の見方を会得することでもあるからです。

少し考えれば、生と死、善と悪、肯定と否定、白と黒、富と貧、楽と苦、暖かい寒い、好き嫌い、高い低いなど世の中のあらゆる物が二元主義に支配されていることが分かります。

むしろそれ以外の見方を知らないと言ってよいくらいです。

こうした価値判断、固定概念を徹底的に捨て去るための手助けとして"法案"がありますが、理論的な考えを捨てきれないと意味不明で難解な質問にしか思えません。

たとえば禅師が座禅の際に弟子たちの肩を打つときに使われる竹篦(しっぺい)を示しながら次のような問いを発します。

「お前達がこれを竹篦と言うなら、それは肯定だ。もしまたそうでないと言うなら、それは否定だ。だが肯定もせずに、さてこれを何と言うか。さあ言って見よ。」

まさしく"禅問答"です。

この質問を少しでも不合理と考えた時点で、イコール理論的な考え方を捨てきれていないということになり、そこに禅は存在しません。
そもそも理論から自由である"禅"は、文字で説明することすら不可能なのです。

そう考えると、禅には初心者向けの入門書も、ましてや上級者向けの学術書も存在しないということになり、本書そのものの存在が矛盾であると言えます。


それでも過去の先達が辿った道やその語録を用いつつ、読者に少しでも"禅"の世界を垣間見せようとする著者の努力は伝わってきます。

加えて禅を通じた修行の方法、僧たちの生活などにも具体的に触れられている箇所は、わずかに入門書として相応しいと思える部分です。

いずれにしても気軽に禅を学びたいと手にとった本書が、迷宮の入り口になってしまう人は私を含めて多いはずです。


ちなみに鈴木大拙氏は、仏教学者であると同時に臨済宗の僧侶でもあります。
つまり本書で触れられている内容は、只管打坐で知られる曹洞宗など他の禅宗が定義する"禅"とは当然のように異なることは頭に入れておくべきでしょう。

楚漢名臣列伝



まず最初に、やはり宮城谷昌光氏が描く中国史は最高のエンターテイメントだということを再認識させてくれた1冊です。

タイトルから分かる通り、本書は"楚漢"、つまり項羽と劉邦の戦いが繰り広げられた秦王朝末期から前漢にかけて活躍した名臣たちへスポットを当てた1冊になっています。

本書に登場するのは次の10人です。

  • 張良
  • 范増
  • 陳余
  • 章邯
  • 蕭何
  • 田横
  • 夏侯嬰
  • 曹参
  • 陳平
  • 周勃


やはり楚漢戦争の勝者となった漢(劉邦)陣営で活躍した人物の占める割当がもっとも高いですが、范増、章邯に関しては楚(項羽)陣営で活躍した人物であり、陳余田横の2人はどちらの陣営にも組みせず活躍しました。
張良は劉邦の軍師として知られていますが、実際には韓王の臣下として劉邦へ助力していた期間が長い人物です。

当然のように歴史的に勝者となった人もいれば、敗者となった人もいます。
しかし登場する人物たちに共通するのは、その能力と個性を充分に発揮して歴史上に確かな足跡を残したという点はもちろん、生き方そのものが(著者の個人的観点から見て)爽やかであるという点も重要になっています。

たとえば陳平は貧しさの中で大志を抱き続け、はじめは項羽に仕えるものの、自分が重用も信用もされないことを知ると、劉邦のもとに走り彼が持つ能力を最大限に発揮する機会を得ます。

一方で秦の降将という立場から項羽の臣下となった章邯は、劉邦との戦いで孤立して不利な戦況に陥っても最後まで裏切ることなく、自害に追い込まれるまで戦い抜きます。

意外にも漢の上将軍として比類なき活躍をした韓信、元盗賊の頭領であり項羽をゲリラ戦で悩ませ続けた彭越、項羽麾下随一の猛将である黥布(英布)といった有名な武将が名臣リストは漏れています。

たしかにこの3人の能力や功績は、本書で紹介されている人物に勝るとも劣らないものです。
しかし彼らは才能を自らの栄達のみのために利用し、他人を助けるために用いなかったように思えます。

つまり著者にとって彼らは有能ではあっても名臣ではなかったということになります。
もっと分かりやすく言うと、彼らの生き方から感銘を受ける点がなかったということになるでしょう。

日本縦断 徒歩の旅―65歳の挑戦



おもに戦場カメラマンとして長年に渡り活躍してきた石川文洋氏が、徒歩で日本縦断を行った記録を1冊の本にまとめたものです。

宗谷岬をスタート時点として日本海側の海岸線を歩いて南下し、最後は那覇市でゴールするというルートです。

津軽海峡、そして鹿児島~沖縄間はフェリーを使用しますが、それ以外は完全に徒歩です。

1日30キロを目標に150日間かけて日本縦断を行う計画ですが、体力の限界を追い求めるストイックなものではなく、どちからといえばコツコツと気楽に歩く旅という印象です。

仕事柄、途中で原稿を書かなければいけないときは連泊して原稿を仕上げ、久しぶりに友人と再会して祝杯を交わすなど比較的自由な旅といえるでしょう。

著者自身、今回の目的を「歩いて旅をしたい」という単純な動機であることを告白していますが、各地の風景や人びとの生活をカメラに収めながらの行程を楽しんでいます。

ただタイトルにある通りスタート時点で著者は65歳という年齢であり、決して若いわけではありませんが、最近は60・70代でもマラソンやテニスなど、比較的激しいスポーツを続けている方も多い時代です。


本章は写真を掲載しつつ毎日の旅を記録した日記形式で書かれています。

また日記の合間に旅で感じたことをまとめたコラムを掲載しているため、内容が単調になることもなく、良くまとまった内容になっています。

持ち物や服装、シューズなど、これから徒歩の旅を始めてみようという人にとって有益な情報もあり、また宿泊した宿や食事なども紹介されています。

一方で、やはりというべきか日本の道路は車が走ることを最優先にした作りになっているため、たとえ国道であっても路肩が狭く整備されていない箇所も多く、身の危険を感じることもあったようです。

なお本書が出版されたのは2004年ですが、Webで著者の近況を調べてみたところ、今年(2019年)の6月には81歳にして太平洋側のルートで2回目の徒歩日本列島縦断を成し遂げたというニュースがありました。

さすがに80歳を過ぎての日本縦断には脱帽するしかありませんが、私も歩くのは嫌いでないので、将来"日本横断"くらいのチャレンジなら悪くないという気持ちにさせてくれます。

人生にとって組織とはなにか



著者の加藤秀俊氏は社会学者であり、"組織"についてその性質や仕組みについて理論的に説明できる専門家ということになります。

ただし本書は、強い組織を作るハウツー本や、組織の中で頂点に昇り詰めるための自己啓発本ではありません。

縄文時代の原始的な組織にはじまり、封建時代の地縁を中心とした組織、そして明治以降近代の社縁を中心とした組織が形成されるまでの歴史を語っています。

その中で一番紙面を割いているのが、読者の大半がサラリーマンであることを想定して"会社"という組織へ対する説明です。

学術的な用語はほとんど登場しないため非常に分かり易い一方で、本書から目新しい視点や考えを得ることもありませんでした。

本書は1990年に出版されています。
よって本書で論じられている"会社"は、インターネット登場以前ということもあり懐かしい昭和のサラリーマン像を思い出させるものになっています。


令和の時代にとって実用的な本とは言い難いですが、人間が社会的な動物である以上、テクノロジーが発達し時代が進んでも組織の本質的な部分は昔から大きく変わっていないはずです。

私自身、会社、サークル、町内会など色々なものが当たり前になり過ぎてしまい、本質的な意味でそれらを"組織"として意識して考える機会が殆ど無かったのも事実です。

そのきっかけを与えてくれただけでも本書の価値があるような気がします。

フランス反骨変人列伝



フランスの文学、歴史に造詣の深い安達正勝氏が、世界史の教科書に登場しない人物にスポットを当てています。

しかも時代の流れに逆らった反骨精神旺盛な人、理解に苦しむ変人という実に魅力的(?)な人選をしています。

本書に登場人物は4人ですが、ネタばれしない程度に紹介してみようと思います。



  • モンテスパン侯爵


  • モンテスパン侯爵は、フランスの最盛期に君臨していた太陽王ルイ14世に逆らった地方貴族です。

    ルイ14世は教科書にも必ず登場する有名人であり、絶対王政を象徴する言葉として「朕は国家なり」という言葉が知られています。

    ともかく当時のフランスで王に逆らうなど考えられないことであり、立場も実力も歴然とした差がある中で1人王に逆らい続けたのです。

    その理由は本書を読んでのお楽しみですが、ともかくモンテスパン侯爵は牢獄に入れられようとも、大金を失おうとも自らの信念を曲げませんでした。

    今でいえば大企業の新卒社会人が、1人で社長に歯向かうほど無謀な行動でしたが、なぜか彼の反骨精神にある種の感動を覚えてしまいます。


  • ネー元帥


  • ネーは樽職人の息子として生まれながら、ナポレオンの部下として叩き上げで元帥にまで昇りつめた軍人です。

    勇者の中の勇者」とあだ名れるほど勇敢で優秀な軍人であり、今回登場する4人の中ではもっとも知名度が高いはずです。

    なぜ優秀な軍人であるネーが本書に登場するかといえば、ともかく不器用で世渡りが下手だったからです。

    体育会系の人間を「脳みそまで筋肉でできている」と揶揄することがありますが、まさしくその典型的な人物なのです。

    ネーが生きた時代は、王政→革命→ナポレオン帝政→復古王政 と目まぐるしい動きがありました。

    こうした激動の時代を生き抜くのは、よほどの知力と運が必要ですが、戦場では無類の強さを発揮できても、その他はからっきしだったネー元帥がどのような顛末を辿るかは本書を読んでのお楽しみです。


  • ラスネール


  • 本書では"犯罪者詩人"として紹介されているラスネールですが、4人の中ではもっとも変人といっていいでしょう。

    ラスネールは文学や詩の才能がありつつも社会に認められず鬱屈してゆき、やがて犯罪に手を染めてゆきますが、皮肉にも彼が国中から注目を浴びるのは、殺人を犯し逮捕されたあとの裁判所における振る舞いや雄弁さによってです。

    本書で彼の生涯が語られますが、彼自身が獄中で残した「回想録」も有名であり、日本語訳でも出版されています。



  • 六代目サンソン


  • 以前、同じ著者による「死刑執行人サンソン」を本ブログで紹介していますが、そこに登場するのは主にフランス革命期に死刑執行人だった"四代目サンソン"であり、本書で登場するのは六代目です。

    ムッシュ・ド・パリ」という称号で代々パリで死刑執行人を担ってきたサンソン家ですが、彼らはその役割から市民たちに恐れられ、また軽蔑されてきました。

    それでも彼らは職務を忠実に執行し続け、表に感情を出すことはありませんでしたが、この六代目は死刑制度に疑問を懐き続け、自分の仕事に嫌悪を懐き続けました。

    本章を読みすすめると、変人列伝というより現代社会でも充分に通用する死刑制度の是非を問う真面目なドキュメンタリーという印象を受けます。

    「人に人の命を奪う権利」があるのかという根本的な問いが本章には込められています。



    本書に登場する4人を簡単に紹介してみましたが、歴史教養、娯楽という両面でおすすめできる1冊です。

    学術書のような堅苦しさは微塵もなく、読者が楽しみながら歴史を学べるという著者の意図は見事に成功している1冊といえます。

    ナポレオンの生涯



    著者のロジェ・デュフレスはフランス人であり、世界有数のナポレオン研究の識者のようです。

    ただ私自身が本書を手にとった一番の理由は、訳者が安達正勝氏であるという点であり、本ブログでも紹介した安藤氏の「物語 フランス革命」や「死刑執行人サンソン」はフランス革命の魅力を分かりやすく読者へ伝えてくれる優れた本でした。

    本書を紹介するために訳者まえがきを引用するのがもっとも分かりやすいと思います。

    コンパクトながら、内容が非常に詳しい。単なる伝記ではなく、ナポレオンがフランスおよびヨーロッパにおいて実際どんな政策を繰り広げていたのかが詳しく述べられており、この点に関しては、ナポレオンの分厚い伝記にもまさっていると言って、過言ではない。


    たしかに本書は一般的な新書の形式と分量です。

    ナポレオンの業績以外の無駄な記述を一切省いたような筋肉質な文章構成で、当然の結果として1ページあたりの情報量が豊富です。

    また年代順に整理して書かれているため、読み終えてからも該当箇所を探しやすいという点で優れています。


    ナポレオン賛美に終わることなく、批判的観点もしっかりと保持されている。ナポレオンは超人的天才ではあったが、彼も人の子、弱点はあった。フランス人であるにも関わらず、著者が批判も怠らなかったのは、われわれ日本人にとって大変ありがたいことである。

    これもまったくその通りで、上り調子にある時にナポレオンが推し進めた政治や戦争は殆どすべてがうまく行き、想像力が産み出すこの上もなく大胆な政策を、可能か不可能かという現実感覚に適応させる能力があったと称賛しています。


    一方でナポレオン体制に陰りが見え始めたときは、自分の思い違いをこれまでにもまして認めなくなる。自分の過ちを状況ないしは他人のせいにして、自分の見込み違いであったとは考えない。こうした頑固さが、彼の命取りになったと辛辣な指摘をしています。


    物語としてナポレオンを知りたい人には不向きかもしれませんが、本書はナポレオンの業績のみならず、彼が19世紀はじめ、または後世に残した世界への影響についても触れられており、歴史的評価の中でナポレオンをどのように捉えるべきかのヒントを読者に与えてくれる1冊になっています。

    関ヶ原連判状 下巻



    西軍、東軍陣営に分かれた天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い)が始まろうとする中、細川幽斎が中心となって第三の勢力を作り上げようという謀略の全貌に迫った作品です。

    本来であれば幽斎自らが東西を奔走して計画を作り上げるのが一番分かりやすいのですが、なにせ彼の年齢は60台後半という当時ではかなりの高齢であり、彼に変わって手足のように動く駒が必要になります。

    そこで登場するのがもう1人の主人公ともいうべき石堂多聞です。

    彼はかつて越前の白山神社直属の戦闘集団・牛首一族の出身であり、信長によって派遣された柴田勝家の一向一揆鎮圧の際に一族が殲滅された際の生き残りという設定です。

    用心棒のような役回りですが、その前に石田三成配下の猛将・蒲生郷舎(源兵衛)が幽斎の陰謀を暴くべく立ちはだかります。

    作品を通じて各所で多聞たち一行が敵と渡り合う戦闘シーンが描かれることになりますが、つい最近まで津本陽の剣豪小説を読んでいたせいか描写の迫力不足が否めません。

    また合戦についても西軍へ対して幽斎が立て籠もった田辺城の攻防戦の過程が詳しく書かれている程度です。

    ただ本作品の主題はあくまで幽斎の仕掛ける謀略であり、こうした戦闘シーンは割り切って読むべき作品なのかも知れません。

    少なくとも謀略についてはその過程がこと細やかに描かれており、勅令を得るための朝廷工作は幕末時代に通じるものがあります。

    上下巻800ページにも及ぶ長編であり、幽斎が仕掛けた一世一代、最後の大博打ともいうべき謀略の全貌を解き明かすという知的好奇心は満たしてくれます。