本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

死ぬこと以外かすり傷


毎年多くの若者が新卒として社会に出ていきますが、そのとき彼らは先輩や上司たちと比べて自らには経験、実績、知識、スキルといった社会人に必要な要素が圧倒的に不足していることを実感するはずです。

しかい逆の見方をした場合、若者たちが勝っているのは体力や行動力であると言えます。

本書の著者である箕輪厚介氏は、20代にして雑誌の編集者、30代はじめで多くのヒット作を手掛けた敏腕編集者として有名な方です。

先ほど若者が優れている点は体力と行動力であると言いましたが、そこにさらに要素を加えるならば、"勇気、柔軟性、情熱"であると言えます。

若者たちには築いてきた地位や実績がない故に、失敗を怖れずにチャレンジできるアドバンテージがあり、業界の常識や慣習に染まっていない分、自由な発想を生み出しやすいという利点があります。

さらに感受性の豊かさ、まだ何者でもない人間が持つ野望は、情熱という形になって現れるのではないでしょうか。

箕輪氏はそんな若者の持つアドバンテージをより極端に活かして頭角を表します。
それは自らのことを、落ちるか落ちないかギリギリの網の上でこそ輝く人間だと分析している点からも分かり、本書ではそれを直接的で過激な言葉で書き綴っています。

例えばビジネス書で書かれがちな"失敗を怖れずにチャレンジしよう"という表現は用いられず、本書では"予定調和からは何も生まれない。無理だと言われたら突破する。ダメだと言われたら強行する。ギリギリのラインを歩きながら火を放っていく"ことだといった感じで語られています。

これまた普通のビジネス書であれば"常識に囚われず自由な発想をしよう"という部分については、"言ってはいけないことを言ってしまえ、誰も行かない未開を行け、バカなことにフルスイングせよ"といった独特の表現が用いられています。

"情熱を持って仕事に取り組もう"といったありがちな表現も、"ただ熱狂せよ。狂え。生半可な人間が何も成し遂げられないのは、いつの時代でも変わらない"といった感じで表現しています。

つまり、より(特に若者の)読者の心に響きやすい表現を用いているのです。

ただし勘違いしてはいけないのが、こうした破天荒な言動だけでは不充分という点です。

著者が破滅型に思えるほどに破天荒な言動を行って成功してきたことに間違いありませんが、仕事において誰よりもスピードを重視し、周りが寝ている間も量をこなしてきたという事実があり、昨今の働き方改革を完全に無視して夢中で走り続けてきた結果なのです。

その点についても著者は自覚していて、次のように断りを入れています。
編集者として、サラリーマンとして、僕のスタイルは一般的ではない。
異常だし、狂っているように見えるかもしれない。

それでも著者の言葉に心動かされた読者たちへ対して「バカになって飛べ!」と背中を押してくれる1冊であることは間違いありません。

大部分の人にとって仕事でどんな失敗をしても命までは取られないし、せいぜいかすり傷程度で済むという想いを込めて付けられたタイトルは、著者なりの応援の言葉なのです。

新・冒険論


本書を一言で表すと、冒険者である角幡唯介氏が冒険の意義を語った本ということになります。

そもそも冒険の本質を語ることを目的とした本が皆無であり、かなり珍しい切り口で書かれた作品だと言えます。

かつて世界地図に空白があった時代、人類が誰も到達したことのない場所(極点など)が存在していた時代であれば、たとえ無謀な冒険であったとしても地理学、科学的に新しい知見を得るため、または新しい市場を切り開くといった皆が納得しやすい合理的な理由をつけることができました。

しかし今や地球上に地図の空白地は存在せず、それどころか衛生やインターネットにより誰もが地球上のあらゆる地域を調べることができる時代になりました。

一方で今でもエベレストへの登頂を目指す人は沢山いますし、大自然を舞台とした過酷なアドベンチャーレース、世界一周ヨットレースなどが開催されていますが、著者はそれを冒険とは呼べないと断言しており、それには私もなんとなく同意できます。

例えばエベレスト登山であれば商業ツアーによってマニュアル化されており、大自然の中で行われる過酷なレースであってもルールが存在し、主催者が参加者の安全を保全しようとしているからです。

角幡氏は冒険のキーワードを"脱システム"という言葉で説明しています。

現代においてはさまざまな要素が重層的かつ複雑に絡み合ってシステムが構築されており、そこから脱却することは容易ではありません。

ここは本書の"核"となる部分であり、かなり長くなるので説明は省きますが、私たちにも当てはまる具体的な例を上げると、カーナビやインターネット検索を用いない昔のように地図だけで自動車旅行を行うのが面倒なことが挙げられます。

カーナビ無しではじめての土地を訪れれば道に迷う可能性が高まりますし、ネット検索ができなければ人気の観光地や飲食店を探すのに手間がかかることが容易に想像でき、こうした手軽で便利なシステムを利用しない旅行は苦痛に感じるはずです。

それは冒険でも同じことが言え、あえてGPSや通信手段を持たずに極地を探検したり、ガイドや軽量で防寒性に優れた装備なしにヒマラヤの山に挑戦することが不便であり、しかもそれが自身の生還率の低下に直結します。

またもう1つ冒険に欠かせないキーワードとして"自由"を挙げています。

本書における"自由"とは、"自分の命を自力で統制できている状態"を指しています。

例えば壁にボルトを打ち込みアブミを使うことで登攀の手段の自由が奪われ、GPSを用いれば機械にナビゲーションされることで自由が奪わえます。

つまり冒険における自由とは、わずらわしく、面倒くさくて、ときには不快でさえあるものであり、一方で自由とともに手にした責任とは、判断を間違えれば自分や仲間の命を失われてしまう危険があるものなのです。

つまり安全や成功の確実性を手に入れようとすればするほど脱システムから遠ざかってしまうことに現代の冒険のジレンマがあります。

しかし現代において冒険に値するものが絶滅したかといえばそうではなく、本書にはその具体的な例が挙げられています。

またSNSが発達した現代において、不特定多数の人びとが危険、無謀、迷惑だと批判するような冒険をあえて遂行することで、それらがもたらす社会的意義についても言及しています。

ビジネス書でも常識や慣習に囚われず、怖れず冒険をしようという言葉を見かけますが、本書で言及されているのはあくまでも冒険の中でもより根源的な"身体的な脱システム"のみに特化した内容になっています。

それでも冒険の本質を深く洞察することで、(職業という意味で)冒険者ではない大部分の読者へヒントを与えてくれるような1冊になっている気がします。

エベレストを越えて



植村直己といえば世界初の五大陸最高峰登頂を成し遂げるなど、日本を代表する伝説的な冒険家として知られています。

植村は1984年、43歳のときにマッキンゼー(デナリ)の厳冬期単独登頂中に消息不明となってしまいますが、アマゾン川の6,000km筏下り犬ぞり単独行による北極点到達など、その活躍のフィールドは登山というジャンルに留まりませんでした。

そんな植村にとってもやはり世界最高峰であるエベレストは特別な意味を持つ存在であったようです。

本書は約12年間にわたり、計3回に渡って挑戦した植村のエベレスト登頂の記録を1冊の本にまとめたものです。

  • 日本エベレスト登山隊(1970年)
  • 国際エベレスト登山隊(1971年)
  • 日本冬期エベレスト登山隊(1980年)

本書を読んでまず感じたのは、本業のノンフィクション作家並みに植村の文章が読者を引き込む魅力を持っているという点です。

その秘訣は所々で引用される植村自身の日記であり、そこには当時の状況だけでなく心情も細かく残されています。
つまりこの日記を元に執筆しているため、リアリティ溢れるノンフィクション作品として楽しめるのです。

とくに1回目の登山では、植村が日本人初のエベレスト登頂者となります。

2回にわたる現地探索、そして本格的な登山に備えて現地で越冬しながら登頂の準備を続けながらも、シェルパ族との交流を描いた日々が印象に残ります。

当時はまだエベレストが商業登山化する以前の時代であり、現代に比べ装備も情報テクノロジーも未熟だったためエベレスト登山は危険性の高いものでした。

そこでは登山隊メンバーやそれをサポートしたシェルパ族が亡くなるといった不幸な事故も起こっており、それを目の当たりにしている著者自身だからこそ書ける描写が随所に見られます。

植村直己というと単独行というイメージがありますが、エベレスト登山はいずれもチームで行われたものであり、そうである以上チームワークが重要になりますが、2回目のエベレスト登山では登頂が近づくにつれ、各国から参加したメンバーたちの間に亀裂が入り、チームが空中分解してしまう過程もよく描かれており、興味深く読むことが出来ます。

3回目の登山では自らがチームを率いて冬期エベレストへ挑戦することになります。
これまでの与えられた役割だけをこなすことに集中していた頃とは違い、隊長としてメンバーの命を預かるという立場がいかに重いものであったかを本書の中から感じることができます。

本書は植村自身が体験した冒険譚であるとともに、過酷な自然へ対して人間が挑戦するドキュメンタリー作品でもあるのです。

チベット遠征


中央アジアの探検家として有名なスヴェン・ヘディンが、チベットを探検したときの記録です。

20世紀初頭になり、多くの探検家たちによって世界地図がどんどん埋められてゆきましたが、北は崑崙山脈、南はヒマラヤ山脈に囲まれたチベットは地図上の空白地が残された数少ない秘境でした。

本書には3回に及ぶチベットへの探検が記録されていますが、探検というと勝手に単独、または少人数で行われるというイメージを持ちますが、中央アジアを探検した「さまよえる湖」の時のようにいずれも大規模なキャラバン方式で行われました。

それでもヘディンは次のように嘆いています。
私が自由にできる資力はあまりにも乏しい上、私のキャラバンは小さく、二十一頭の馬、六頭のラクダ、三十一頭のロバから成るものだった。

ずいぶんと贅沢だと思いますが、それはチベット遠征にあたってヘディンにはロシア皇帝ニコライ2世というパトロンが存在していたからです。

しかもその裏には、いずれロシア自身が南下して領土を広げる時に備えてチベットの地理を知っておきたいという政治的な思惑があったことは当然です。

一方でチベットは、南に位置するインドがイギリスの植民地となった過去を教訓に、外国人(とくに白人)の入国を厳しく取り締まっていました。

ヘディンにとって過酷な自然環境が脅威だったのはもちろんでしたが、もっとも厄介な障壁はダライ・ラマと頂点とするチベット政府の軍隊でした。

つまりヘディンが探検したチベットは地図上の空白地ではあっても無人の荒野ではなく、はるか昔から人が住み、ラマ教(チベット仏教)と中心とした独自の文化を持つ国家であったからです。

結局、1回目の探検の目的であったラサへ変装してまで潜入しようとした試みは失敗に終わります。

2回目、3回目の探検ではラサを目指さず、地理的な探検に特化しますが、ヒマラヤ山脈の北に平行するようにそびえ立つトランスヒマラヤ(ガンディセ山脈)の発見、インダス川をはじめとするインドを流れる大河の水源探査など、学術的な面で多くの成果を上げてゆきます。

もっとも1回目の探検から2回目の探検に至るまでの間にイギリスによるラサ侵攻が発生し、ダライ・ラマはモンゴル、続いて中国へと亡命し、この時のチベットの最高指導者はパンチェン・ラマ(タシ・ラマ)に変わっており、寺院都市として有名なシガツェにおいてヘディンと友好的な関係を築いたようです。

中央アジア探検時と同様に、本書にはヘディン自らが書き残したスケッチが200点以上掲載されており、目でも読者を楽しませてくれます。

ヘディンの本職は学者であり、学術的な著書や報告書は膨大な量になるようですが、本書は探検資金捻出を目的に特にアメリカの一般読者を狙って執筆されたものであるため読み易い内容になっています。

今やチベットは中国の自治区に組み入れられ、青海チベット鉄道をはじめとした開発が行われ、もはや秘境とは言えない場所となりましたが、100年以上前のチベットを探検するヨーロッパ人の視点から書かれた本として興味深く、探検記であると同時に歴史としても楽しむことができます。

弔辞


以前レビューした「コロナとバカ」に続いてビートたけしの著書です。

本書を2冊目に手に取ったは、「弔辞」というタイトルになんとなく惹かれたのと、出版元がフライデー襲撃事件を引き起こした講談社であるという点です。

もっとも事件は40年近く前の出来事であり、すでに両者の間にわだかまりはないようです。

タイトルについてたけし本人は次のように述べています。
俺は、この時代に向けて、「弔辞」を読もうと思った。
たとえ、消える運命にあるものでも、それについて、俺自身が生きているうちに別れのメッセージを伝えておこうと考えた。
まもなく、ひっそりとなくなってゆく物事や人々に対して、誰かが言っておかなくちゃならない、覚えていてほしいって思うからだ。

ビートたけしは昭和22年生まれだから今年で77歳ということになります。

著者とは世代は違うものの、自分が生きてきた時代を後世へ伝えておきたいという気持ちは、何となく分かる気がします。

肝心の次の世代へ残したい内容は、自らが過ごしてきた昭和という時代であることはもちろん、芸人のしての足跡、さらにはビッグ3(タモリ・ビートたけし・明石家さんま)の1人として築き上げてきたTV番組全般を指しています。

まず本書から感じるのは、テレビ黄金時代を懐かしむというよりも、俯瞰して現在、そして過去を振り返っているという点です。

たとえば自身が真剣に工夫を続けてきたお笑いを次のように語っています。
お笑いは所詮お笑い、エンターテイメントは所詮エンターテイメントです。
その時代や自分の身に何も起こらなければ楽しいという、それだけのことであって、世の中を救うわけでも、人様の役に立つわけでも全くありません。

私自身はビートたけしがTVで全盛期の活躍をしていた時代が直撃した世代であり、それなりに影響を受けてきたと思いますが、なんだか拍子抜けする発言です。

それでも丹波哲郎を引き合いにして、死後どこへ行くなんて正直、どうでもいいことだと言い放っている点はかつての舌鋒を彷彿とさせてくれます。

本書で印象に残ったのは次の部分です。
最近、「たけしはテレビで喋らなくなった」って言われる。
違うんだよ。俺、収録ではよく喋っているんだ。
だけど、テレビ局が意識的に録画を増やしていて、ちょっと放送するとヤバそうなコメントは局のほうで判断して事前に外しているんだ。
だから面白いことをずいぶん喋ったつもりなのに実際の番組では無口に見えてしまう。

ここでの"ちょっと放送するとヤバそうなコメント"というのは、かつては問題視されなかった発言が、コンプライアンス遵守やスポンサーへの配慮が敏感になった昨今の風潮によるものだと思いますが、やはりこれが最近のTVをつまらなくしている大きな原因であると思わずにはいられません。

おそらくビートたけしという存在は、芸人として破天荒な生き方が許された最後の世代であり、それだけにタイトルの"弔辞"という言葉が読了後も心に残るのです。

左近 (下)


島左近の生涯を描いた、火坂雅志氏の絶筆となった「左近」下巻のレビューです。

絶筆となったため本作品は未完ではあるものの、単行本の上下巻でそれぞれ400ページにも及ぶ分量であり、個人的には8割方まで執筆が進んでいたのではないかと思います。

念願の大和統一を果たした島左近が仕える筒井順慶ですが、実質的には織田信長の勢力下に組み入れ、京都周辺の軍事作戦を担当してた明智光秀の与力大名という位置にありました。

しかし光秀が主人・信長を相手に本能寺の変を起こしたことから筒井家の命運が大きく左右されることになります。

結果として左近をはじめとする重臣たちの判断により筒井家は秀吉と光秀が戦った山崎の戦いに加担することになく、秀吉の時代になって伊賀へ移封されることになるものの、引き続き大名として存続することになります。

一方で若くして病死した順慶の後を継いだ定次が暗愚であり、どんな苦境にあっても筒井家へ忠誠を誓い続けた左近はついに出奔することを決意します。

このときの左近はすでに50近い年齢でしたが彼の武勇は鬼左近として全国的に有名であり、筒井家を辞した直後から各国から仕官の要請がありましたが、それらをすべて断っていました。

その左近を三顧の礼のような形で迎え入れたのが石田三成であり、19万石の城主であった三成は左近へ破格の条件である2万石の俸禄を約束します。

高禄にも関わらず、世間は左近を召し抱えた三成を次のように評しました。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」

三成は武将ではあるものの、秀吉政権下にあって五奉行に任じられたいわば官僚であり、合戦での実績が圧倒的に足りていませんでした。

事務官として優秀な三成でしたが、ときには冷淡と思われようが意に介さず忠実に任務を遂行してゆくため、福島正則藤堂高虎をはじめとした実戦経験豊富な武将たちから蛇蝎のごとく嫌われていましたが、歴戦のつわ者である左近の存在は石田家に箔をつける意味でも重要な存在でした。

一方で秀吉へ対して紛れのない忠義を尽くす三成の心情は本物であり、かつて筒井家へ忠義を尽くしてきた左近はその姿に感銘に近いものを受けるのです。

そんな三成だけに豊臣家へ対して上辺だけの忠誠を誓う家康へ対しては早くから警戒心を抱いており、結果としてそれは杞憂には終わりませんでした。

ちなみに上巻で左近の好敵手として登場したのは柳生宗厳でしたが、作品が完結したときに左近の好敵手となるべき存在は藤堂高虎だったはずです。

8度も主君を変えたといわれた高虎ですが、それは日和見だったわけではなく、つねに最前線で自らの命を的にしながら戦い続けてきた武将であり、その点では左近と共通するものがあります。

残念ながら未完の作品であるため関ヶ原の戦いが作品中で描かれることはありませんでしたが、文学作品が結末を明らかにせずに完結することが多いように、惜しいとは思うものの途中で終わってしまうこと自体はそれほど気にはなりませんでした。

作品のはじめから終わりまで左近は左近であり続け、戦国武将としての生き様を全うすることが分かっているからです。

左近 (上)


島清興(しま きよおき)、通称である島左近で知られている戦国時代の武将を主人公とした歴史小説です。

著者の火坂雅志氏は本作品を執筆中の2015年に58歳で急逝されており、もっとも油の乗り切った時期だっただけに大変悔やまれます。

左近は大和の豪族である筒井家順昭・順慶・定次と3代に渡って仕え、のちに石田三成に破格の条件で召し抱えられ、関ヶ原の戦いで討ち死したと伝えられている武将です。

とくに筒井順慶に仕えていた時には、大和を巡って松永久秀三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らと死闘を繰り広げ、一時期は筒井家が滅亡寸前にまで追い詰められることもありました。

合戦、そして外交とあらゆる手段を駆使して順慶は大和一国を平定することに成功しますが、それには重臣であった島左近の活躍が欠かすことができませんでいた。

弱肉強食の戦国時代にあって弱き者は、強者によって滅ぼされるか、服従するかの二択という殺伐とした世界でしたが、左近は筒井家が劣勢に立たされても主家を見限ることはありませんでした。

作品中で左近はその理由を「それは漢のすることではない」と明快に答えています。

そこには悲壮な覚悟というより、自分がいる限り好き勝手にはさせないという絶対的な自信がバックボーンになっている、戦国武将らしい武将として描かれています。

そして左近にとって好敵手として登場するのが、松永久秀側に仕えている若き日の柳生宗厳(やぎゅう むねよし)です。

"若き日の"と表現したのは、のちに石舟斎と名乗った時代の方が有名なためですが、宗厳もまたかつては左近同様に自らの力を信じて戦乱の中で成り上がろうとした武将の1人であったのです。

筒井順慶にとって最大の敵となった松永久秀も織田信長に一時は従いながらも、おのれの野心に忠実であり、一度反旗を翻したのちは命乞いを潔しとはせず、信長が喉から手が出るほど欲しがった名器・平蜘蛛とともに居城の天守閣で爆死するという壮絶な最期を遂げます。
彼もまた戦国武将らしい人物だったといえるでしょう。

やはり歴史好きの読者にとって、いつ滅びるか分からない乱世にあってひらすら保身に走る武将よりも、その結果はどうあれ生き様を見せてくれる武将に魅力を感じるものであり、その点で島左近はうってつけの主人公なのです。

非情の空: ラバウル零戦隊始末



太平洋戦争における零戦部隊の戦史を綴った1冊です。

著者の高城肇氏は、こうした太平洋戦争における旧日本軍のパイロットたちに焦点を当てた作品が多いようです。

本書は坂井三郎をはじめ日本を代表するエースパイロットたちが在籍した台南海軍航空隊(台南空)が貨物船に揺られてニューブリテン島のラバウルへ転戦するところから始まります。

ラバウルといえば太平洋における旧日本軍最大の拠点があり、アメリカをはじめとした連合軍との間に激戦が繰り広げられた場所として知られています。

旧日本軍としてはラバウル防衛のために精鋭部隊である台南空を配置するという定石通りの戦略を用いた形になりますが、彼らはその期待に応えるかのように次々にアメリカの戦闘機を撃墜してゆきます。

それはパイロットたちの高い伎倆と零戦の性能によるところが大きいですが、空中戦は一瞬の判断ミスや操縦ミスよって生死が分かれる世界であり、作品中ではその様子がよく描かれています。

毎日のように出撃しては敵機と交戦を続けるということは、毎日真剣勝負に出かけるようなものであり、パイロットには強靭な肉体と精神力が求められます。

当時の戦闘機にはレーダーもまた味方と通信するための無線も装備されていませんでした。

そのため敵をいち早く発見することが重要になり、目の良さやセンスが求められ、敵機を攻撃する際には太陽を背にするのが理想的でした。

味方との連携はバンクを振る(機体を横に傾ける)などの合図しか使えず、コミュニケーションとして使える手段は極めて限られていました。

序盤は優位に空中戦を進めていた日本軍ですが、やがて米軍の圧倒的な物資の前に苦戦するようになってきます。

1対1の戦いでは決して遅れを取らない歴戦のパイロットたちも出撃を重ねるうちに、1人、また1人と櫛の歯が欠けるように大空で散ってゆきます。

そもそも空中で撃墜されたパイロットの遺体が回収されることは殆どなく、一瞬のうちに火の玉となって機体と一緒に燃え尽きる運命にあるのは敵味方を問わず一緒なのです。

遂にはラバウル方面で使用可能な零戦の総数が21機であり、戦況の悪化や物資の欠乏により新たな増援が見込めない一方、米軍は1週間に30機もの戦闘機を新規に補充できる状態だったということからも分かる通り、いかにパイロットの能力が優れいようとも戦況は絶望的なジリ貧状態に陥っていたのです。

こうした戦況の中でもパイロットの当時の手紙に残されたから文面から分かるのは、こうした逆境にあっても士気がますます旺盛であったということです。

そこには何としても生き残ってやる、戦争に勝利するという意志よりは、今まで幾度となく弔ってきた仲間たちのように、いつか自分も大空で散るその時まで精一杯戦い続けるという、まさしくサムライのような心境であったように思えます。

それは現代の読者たちから見れば、死を覚悟した悲壮感のようなものに感じてしまいますが、少なくとも当時のパイロットたちは自らが置かれた境遇へ対して悲しみや憐れみを抱くようなセンチメンタルな感情は持ち合わせていなかったのではないでしょうか。

結果的にはラバウル方面へ派遣された台南空が部隊として全滅することはありませんでした。

それは劣勢となった局面を打開するために特別攻撃隊、つまり兵士1人1人の精神力を武器とした特攻という愚劣な作戦を遂行するために機体を明け渡す必要が出てきたからでした。

それでも多くの若い命が日本から遠く離れたラバウルの空で散っていったのは事実であり、生き残ったパイロットたちも心に大きな傷を受けて生きてゆくことになるのです。

青衣の人



今まで読んできた井上靖氏の作品は、歴史を題材としたものや自伝的小説でしたが、本書は恋愛を題材とした純文学といった印象です。

恋愛といいつつも若い男女のそれではなく、いずれも結婚している男女が10年ぶりに偶然にも再会して恋愛感情を抱いていゆくという展開です。

外見上のストーリーはきわめて展開が少ないまま進行し、それは不倫とは呼べない程のものです。

それでも本作品は長編小説としての分量があり、加えて読者を飽きさせない作者の小説家としての伎倆が光っています。

陶芸家として活動し、妻が病気により長期入院中であるという境道助、資産家であり教授である夫を持つ主婦の三浦暁子が主人公といえる存在ですが、暁子を叔母として慕っているれい子という存在がトリックスターのように、例えば時には2人の恋のキューピットとして、時には暁子の恋のライバルとして色々な立ち回りをします。

れい子にも将来を約束した男性がいましたが、移り気の多さ、怖いものを知らないが故の大胆さといった、ときに若い女性に見られるような天真爛漫を絵に描いたような女性です。

一方で道助、暁子に共通するのは自制心、そして怖いものを知っているが故の慎重さであり、本質的には常識ある大人なのです。

おもにこの3人の微妙な心境の変化によって次の展開が次々と訪れてゆき読者を引き込んでゆくのです。

巻末には文芸評論家の亀井勝一郎氏が本作品で扱っているテーマを的確に言い表しています。
たとえば自由という概念がある。
それが最も効果を発揮するのは、いうまでもなく不自由という抑制を設定したときだ。 激しい恋愛は必ずしも恋愛の自由のなかにあるとはかぎらない。
古風なことばが「人目をしのぶ」という抑制や圧力のもとで燃え上がるものだ。
やはり恋愛、不倫といった題材は文学と相性がよいと改めて思い直した作品です。

母親ウエスタン



本ブログでは2作品目となる原田ひ香氏の小説です。

本書を読み始めると、すぐに2つのストーリーが同時並行で進んでいることに気付きます。

それも一時的な転換ではなく、頻繁にストーリーが切り替わりるため最初はすこし戸惑いますが、かなり規則的に一定のペースで切り替わるためすぐに慣れることができます。

加えてこの2つの物語は同時並行に進んでるものではなく、過去と現在を行き来していることも分かってきます。

過去の物語での主人公は広美という不思議な女性です。

彼女は父子家庭となった家にふらりと現れて、子どもたちの世話を献身的にこなします。

そしてまたふらりと父親や子どもたちの目の前から姿を消してゆくのです。

父子家庭といっても子どもの年齢や人数、また家庭事情は異なっていますが、いずれも子どもたちが死別、または家を出ていった母親を恋しがっているという点は共通しています。

冒頭に書いた通り、彼女の作品は本書でまだ2冊目のため、天使が人間の姿を借りて人助けをするというファンタジーな作品なのかもしれないと思いましたが、作品中で描かれる各家庭の事情、そして広美とその時々で訪れている家族たちとの会話の描写はリアリティを重視していることが分かり、現代社会を鋭く捉えようとしている作品であることが分かってきます。

一方で現代で進行してゆくストーリーの方では、スナックのママとなった広美、そして彼女の正体を突き止めようとする大学生の悠理が登場しますが、主人公は悠理と交際している女子大学生であるあおいの視点から描かれています。

悠理がかつて広美によって育てられたという過去があることは推測できますが、あえて広美とはまったく縁のないあおいの視点を用いることによって、読書にとって最大の関心事、つまり広美という謎の女性の正体や目的、さらに知られざる過去が明らかなになってゆく過程が少しずつ自然に描かれています。

広美は特別な美貌の持ち主ではなく、天真爛漫な性格でもありませんし、まして力持ちでも大富豪でもありません。

しかし彼女には子どもたちの気持ちを理解し、寄り添うことのできる能力があり、彼らに危険が迫れば身を挺して守り抜こうとする強い意志があります。

つまり彼女の強さは母親が本来持っている強さであり、それを他人の子どもへ発揮できるという不思議な能力を持っており、綿密な作品の構成とともに読者をストーリーに釘付けにする魅力を持った作品になっています。

コロナとバカ


私にとって一番長くTVで見てきた芸人といえばビートたけしです。

昔ほどTVを見なくなって久しいですが、今でも現役で活躍している姿をたびたび目にします。

また映画監督としても国際的に有名であり、多彩な才能を発揮していることは多く人が知るところです。

作家としての活動も知られており、今までかなりの数の著書を出版しています。

一方で私は今まで彼の著書を1冊も読んだことがなく、比較的最近出版された本書を手にとってみました。

タイトルからわかる通り、本書はコロナ禍の最中(2021年)に発表されており、世の中を色々な角度から評論しています。

もちろんお馴染みのキャラクターは本書でも健在であり、冗談を交えながら歯に衣着せぬ発言をしています。

はじめの章では"コロナがあぶり出した「ニッポンのバカ"と題して、コロナ対策のちぐはぐな政策、またコロナ警察に代表される行き過ぎた同調圧力へ対して容赦なく批判を加えています。

本の良いところの1つは、TVでは炎上するような発言や表現も比較的寛容に受け止められるという点です。

先行きの見えない当時の状況、とくに人を集めて笑ってもらうことを生業にする芸人たちにとっては死活問題でしたが、それだけにその舌鋒はTVでの発言よりかなり鋭くなっていると感じます。

続いての章は"さよなら、愛すべき人たちよ"と題して、最近亡くなってしまった有名人へ想いを馳せています。

まず最初に言及されているのが志村けんであることが意外でした。

いわばライバル関係でお笑いの方向性も異なるため、それほど仲は良くないと勝手に思っていましたが、昔はよく飲みに行った仲だと言います。

ビートたけしにとって志村けんの存在は、仲間というより戦友であったといい、2020年で一番ショックな出来事だったと語っています。

ほかに渡哲也にも言及してますが、カッコいいと感じる憧れの存在だったようです。

最終章では、"ニュース・テレビの「お騒がせ事件簿」"と題して、芸能人たちの不祥事を評論しています。

かつて自分自身が起こした有名なフライデー襲撃事件は、今の時代では完全に芸能界引退レベルの不祥事だったはずです。

もちろんそれは彼自身も充分に分かっており、その上で近年は芸人に対する世間の目が厳しくなっていることを嘆いています。

そもそも芸人に限らず、役者もアーチストという人種は本来ロクでもない人間にも関わらず、とくに芸人に関しては多方面へ進出して「品性を求められる仕事」までに手を出した結果のしっぺ返しだと断言しています。

それでも不倫をネタにできないような芸人はダメだ、遊び方が下手などなど、個人名を挙げて手厳しく批評していますが、ビートたけしほどのキャリアと実績を持つ芸人がいない状況だけに反論できる人も少ないのではないでしょうか。

本書から感じるビートたけしのイメージは、テレビというよりも深夜ラジオで縦横無尽にしゃべり倒していた頃の"ビートたけし"に近いかもしれません。

大家さんと僕


2017年に発表され、メディアでも大きく取り上げられたお笑い芸人・矢部太郎氏が大家さんとの心温まる交流を描いたエッセイです。

エッセイと言いましたが、本書の内容は文章ではなく4コマ漫画で描かれています。

1ページに2話分の4コマ漫画が掲載れていて約120ページに渡る作品ですが、時系列のストーリーになっており、独特のほのぼのとした画風で描かれています。

戸建ての1階に大家のおばあちゃんが住んでおり、矢部氏は2階に賃貸で住んでいる形になります。

このおばあちゃんは昭和はじめの生まれの品の良い老人で、作者にとって祖父母と同じくらい、つまり二周りくらい年齢差があります。

始めは大家さんが作者が留守の間に洗濯物を取り込んだり、帰宅すると電話で挨拶をしたりとその距離感の近さに戸惑いますが、時間が経過するにつれ大家さんとの距離が縮まってゆく仮定がよく描かれています。

やがて日常的にお茶をしたり食事へ行ったり、自然と旅行にも同行するほど親密な交流をするようになります。

昭和の時代にはドラマなどで大家さんへ手渡しで家賃を支払ったりする場面が登場しますが、私自身は7回ほど引っ越しを経験しているものの物件の管理自体は不動産会社が行っていることが多く、大家さんの顔さえ知らずに住んでいたパターンが殆どでした。

実際に本書で描かれている内容は今から約10年前の出来事なので、平成という世にあってまるでタイムスリップしたかのような貴重な経験が描かれている点も人気になった要因だと思います。

ロケーションも東京の新宿という立地であり、大都会の真ん中でこの場所だけ時代に取り残されているかのような不思議な印象を受けます。

私自身も実際に新宿周辺にも関わらず、今でも驚くほど古い一軒家が残ったりしているのを発見した経験があります。

長い間独身で過ごしたおばあちゃんにとって強く記憶に残っているのは思春期と重なっている戦争中の出来事であり、折に触れてその時の話をするというのが定番のようです。

東日本大震災のときには東京も交通網が麻痺して混乱しましたが、おばあちゃんは戦時中の空襲時に比べたら驚くほどの事ではないと平然としています。

やはり戦争を経験した世代は多少の不便さがあっても我慢できる強さがあります。

一方で私たちの世代は電気水道ガスといったライフラインはおろか、インターネット回線が止まっただけでもかなりの動揺を受ける人が多いのではないでしょうか。

残念ながら2017年8月に大家さんがお亡くなりになり、その後自宅も取り壊されたということです。

価値観や幸せの尺度は人や世代によってさまざまであり、改めてその大切さを気づかせてくれる作品です。

なめくじ艦隊


本書は古今亭志ん生の半生記です。

昭和には数多の名人、大看板と言われる落語家たちが登場しましたが、あえて1人だけに絞るとすれば、この"志ん生"の名前を挙げる人がもっとも多いのではないでしょうか。

もっとも私自身が生まれた時には志ん生はすでに亡くなっており、録音でしか噺を聴いたことがありませんが、実際に寄席で彼の落語を聴いたことのある人は高齢の方ではないでしょうか。

自伝のタイトルで「なめくじ艦隊」とは変わっていますが、これは赤貧時代に地面の低い湿地帯に建てられた家賃タダという長屋に住んでいた時代に四方八方から現れたなめくじから来ています。

ズウズウしてくて切っても突いても動じない"なめくじのしぶとさ"を自分自身の姿に重ね合わせて、さらにこの時の長屋風景を徳川夢声氏が「なめくじ艦隊」と名付けたところから本人が気に入ってそのまま採用したようです。

私自身ほとんど関心がありませんが、ここ数年、連日に渡って芸人の不祥事が大きくニュースで取り上げられています。

芸人になるような人間はロクなもんじゃないという昭和の風景が遠いものになりつつあると感じますが、明治生まれの志ん生はさらに数段その上を行っている破天荒さです。

志ん生の父は江戸時代生まれのサムライだったこともあり厳しく怖かったようですが、父親に反発するように放蕩息子に育ちます。

神田、浅草で育った孝蔵少年(志ん生の本名・∶美濃部孝蔵)は、13歳から酒場で冷酒をマスからガブガブ飲み、14歳から賭場へ出入りして博打でスッカラカンになり、父親の大事にしていたキセルを勝手に売り払ったりという、自らを末恐ろしい子供だったと回想しています。

今で言う中学生ですから、コンプライアンスのかけらも感じられません。

奉公にやってもすぐに逃げ出してくる孝蔵少年を持て余した家族は、逃げ戻ってこないよう彼を下関から船に乗せて京城(今のソウル)の印刷会社へ奉公に出しますが、それでもすぐに仕事を辞めて自力で東京まで戻ってくるという行動力です。

どんな仕事をやっても長続きしない彼は、友人の勧めで落語家になることを決心します。

それでも放蕩グセはまったく改まらず、営業先の浜松で一銭も持っていない状態で宿へ泊まり、留置所へ入れられ同じ部屋に入ってきたヤクザの親分相手に一席やったり、女房をもらったあくる日から遊びに出て、彼女が用意した箪笥、長持、琴などの結納品を1ヶ月半ですべて売り払ってスッカラカンにしてしまったというから驚きです。

それは子どもが生まれてからも改まらず、計6回も家賃滞納で家を追い出されるという経験をしています。

そして辿り着いたのが、冒頭に紹介したなめくじ艦隊が出没する家賃タダの長屋ということになります。

本書の秀逸なところは、自らの半生を語るほかにも江戸周辺の当時の風景、落語家仲間のこと、芸人界の伝統やしきたり、寄席の風景などが紹介されている点です。

本作品は、1956年(昭和31年)に発表されおり、当時の志ん生は66歳ということになりますが、すでに遠い記憶になりつつあった江戸、明治の風情を知る最後の世代だったといえます。

本書の文章は江戸弁の口語調で書かれており、おそらくインタビュー形式での取材をもとに文字起こしたと作品だと思われますが、まるで志ん生の落語のような雰囲気と調子があります。

大看板になってからも自分ほど貧乏を味わい尽くした人間はいないと胸を張って語った志ん生師匠の半生は味わい深いものです。

多くの有名人から半生記が出版されていますが、本書は傑作の中の1冊に数えられるべき作品ではないでしょうか。

決定版 この国のけじめ


本書は藤原正彦氏の新聞や雑誌に発表したエッセイをまとめたものです。

元々、単行本として発刊されていた同書を文庫化するにあたり、幾つかのエッセイを追加して"決定版"として出版したようです。

本書では掲載されたエッセイを時系列で掲載したものではなく、いくつかのテーマに分類しています。

用意されているテーマは以下の通りです。

  • 藤原家三代
  • 祖国愛
  • 甦れ、読み書き算盤
  • 学びのヒント
  • 私の作家批評
  • この国のけじめ
  • 日々の風景

この中でも、"祖国愛、"この国のけじめ"に掲載されているエッセイは、ベストセラーとなった「国家の品格」の骨格となっているエッセイです。

戦後、欧米に追従した市場原理主義が波及した結果、日本に古来からある世界に誇れる文化、教養、情緒などが消えつつある現状に警告を鳴らしています。

日本は物質的には豊かになりましたが、著者はそれを「たかが経済」であると主張しています。

日本固有の国柄を無視して国や経済界が自由競争社会を促進した結果、弱肉強食の世界が訪れ、たとえば日本人が本来持っていた「惻隠の情」などが失われ、経済と引き換えにもっと大きなものを失った日本人は不幸になってしまったというものです。

"甦れ、読み書き算盤"、"学びのヒント"では、本ブログでも紹介した「祖国とは国語」とほぼ同じ主張であり、幼児期、小学校から導入されている英語教育を真っ向から批判しています。

著は数学者として大学で教鞭をとっており、さらにアメリカ、イギリスへの留学経験があるだけに説得力があります。

民間団体は学校や文部科学省へ対して、現場で即戦力となる若者を育成する教育改革を求めますが、著者は一見何の役にも立ちそうにない、文学、歴史、科学、芸術などの教養こそがもっとも重要であり、学生時代に例えば投資や起業などの"社会勉強は不要"であると断言し、人間としてのバランス感覚に優れた幹の太い人材を育てる重要性を訴えています。

"私の作家批評"は文字通り著者のお気に入り作家を紹介するエッセイであり、"日々の風景"では日常の出来事を、"藤原家三代"では自ら生い立ち、父や母との思い出を語るもっとも一般的なエッセイが掲載されています。

読書は楽しませてくれるユーモアから、日本の行く末を真剣に論じた自らの大局観を披露するエッセイまで内容は多様であり、藤原正彦ワールドを存分に堪能できる1冊になっています。

新三河物語(下)


 

新三河物語」の最終巻では、信長が本能寺の変で斃れ、つづく秀吉との対決、やがて秀吉の死後に関ヶ原合戦大阪冬・夏の陣を経て江戸幕府の樹立によって家康が天下統一を果たすまでの過程が描かれています。

まだ家康の勢力が小さな頃の譜代の家臣たちは、つねに家康と行動を共にしてきました。

しかし領土が広がり新参の家臣たちが増えてくるに従い、城主として、あるいは攻略する方面ごとに軍を率いて家康と別行動を取ることが多くなります。

その中で本作品の主人公ともいえる元祖「三河物語」の著者である大久保忠教は、おもに信州方面での任務に就くことになります。

その間に家康が秀吉が繰り広げる小牧長久手の戦いが起こりますが、忠教は油断ならない真田昌幸に睨みをきかせるため小諸城から動きませんでした。

つまり下巻になってからの本作品は、家康をすこし遠い位置から見ている大久保一族の視点から見て書かれています。

そして残念なことに、その距離は物理的なものに留まらず、心の距離にも及んでゆくのです。

その要因を簡単に言えば、家康が天下人になるにつれ世の中から戦がなくなってゆきます。
一方で家康の先祖から松平家に仕えて譜代の家臣たちは、おもに戦場での槍働きで活躍してきた猛者たちです。

しかし天下が定まるにつれ時代が求めるのは内政能力となり、新しい人材たちがそれを担うことになります。

例えば晩年の家康が信頼した本多正信藤堂高虎らはいずれも譜代家臣でありませんでしたが、彼らの発言は譜代家臣のそれより重用されることになります。

結果として家康と彼らの思惑により譜代の家臣、酒井家や石川家、さらには大久保家が失脚してゆくことになります。

家康の天下統一にもっとも貢献したのは人質時代から家康に仕え続けた譜代家臣たちでしたが、失脚以前から彼らに与えられた領地の石高は驚くほど少ないものでした。

こうした家康へ対しての譜代家臣の想いが作品中に書かれています。
猜疑のかたまりとなった晩年の今川義元、織田信長、豊臣秀吉となんらかわりはない。
徳川家康だけはそれら三人とはちがう、と三河に生まれた者は誇りたかったのに、いまの家康の迷執のひどさをみれば、落胆せざるをえない。

それでも結果として譜代家臣たちが家康へ向かって反乱することはありませんでした。

もちろん本作品の主人公ともいえる大久保一族にも悔しさややるせなさがあったことは間違いありませんが、その根底には三河武士としての意地や誇りがあったことも間違いありません。

現実の世の中は必ずしも努力が報わる訳ではく、不平等で不条理な場面に出くわすことが当然のようにあります。

そんな時に作品中での大久保一族の生き様は読者へ励ましを与えてくれるはずです。

新三河物語(中)


 


大久保一族の視点から家康の生涯を描いた「新三河物語」の中巻です。

上巻では義元の死によって今川家から独立し、さらに一向一揆を鎮圧して西三河を版図に加えるまでの過程が描かれていました。

本巻では、いよいよ万全の体勢で東三河、さらには遠江へ進出する過程、南下してきた武田信玄との激突、さらには最大の同盟国であり庇護者でもあった織田信長が本能寺に斃れるまでが描かれています。

精強で知られる三河武士ですが、戦国最強クラスの武力を誇った武田家との戦いでは質・量ともに劣勢に立たされますが、ここで得た経験は家康を大きく成長させたと言えます。

それは家康に仕える家臣たちにとっても同じであり、信玄と相手に敗れたとはいえ正面から戦いを挑んだ徳川家は周りから嘲笑されるどころか一目置かれるようになります。

この中巻での山場は、三方ヶ原の戦いで信玄に敗北を喫した家康が、長篠の戦いで信玄の後を継いだ勝頼へ対して大勝利を収める場面です。

この戦いで大久保忠世・忠佐兄弟は馬防柵の外に出て、柵の無い部分へ回り込もうとした敵の主力・山県昌景と渡り合い、信長が見惚れるような戦いを繰り広げます。

ともかくこの戦いによって家康は武田の兵が敗走する背中をはじめて見ることになるのです。

これによって家康は三河、遠江に加えて駿河、甲斐を手に入れ大大名の地位を確立します。

さらに続く信州への進出には、大久保忠世が任せられることになるのです。

ところで本作品は今どきの歴史小説の中ではかなり硬派であり、随所に著者のこだわりが垣間見られます。

巻頭には家康が活動した地域の地図と城の所在が記されており、さらには大久保一族の詳細な家系図も掲載されています。

家系図には30人以上の大久保家の武将が紹介されており、(いみな)と通称の両方が記されています。

当時は名前を諱(本名)で呼ぶことはなく、通称で呼ぶことが一般的であり、作品中でも文脈によって忠世は七郎右衛門、忠佐は治右衛門、忠教は平助として書かれることが多く、馴れるまでは家系図と作品を往復しながら読まないと登場人物が頭に入ってこないため、すこし大変です。

歴史小説初心者にとってはすこし敷居が高い作品ですが、逆に言えば戦国時代の雰囲気に没頭して読むことができる作品であるといえます。

新三河物語(上)



三河物語」といえば大久保忠教(おおくぼ・ただたか)が自らが仕えた松平家(徳川家)の戦国時代から江戸時代初期にかけての歴史を書き記した第一級資料(対象となる出来事と同時代に書かれた記録)として知られています。

本書はタイトルから推測できるように歴史作家の宮城谷昌光氏が「三河物語」を元にして、自らの構想で現代版の「新三河物語」歴史小説として執筆した作品といえます。

吉川英治氏が「新・平家物語」という作品を発表していますが、同じような位置にあたる作品です。

話は代わりますが、徳川家康が江戸時代という260年も続く幕府を築けた要因は、最終的には""という要素が一番大きいと思いますが、次に挙げられるのは家臣団の優秀さに尽きると思います。

家康を信長や秀吉と比べても個人の能力にそれほどの差があったとは思えません。

さらに信長や秀吉も家康に勝るとも劣らない能力を持った家臣たちを抱えていましたが、家康の家臣団には他の2人にはない特徴がありました。

それは"忠誠心の高い譜代の家臣団"から多くの優秀な武将が輩出されているという点です。

信長はそもそも譜代だからという理由だけで家臣を信頼したり重用する性格ではなく、戦国時代には珍しく完全能力主義に近い方法を採用していました。
そのため能力不足と判断された家臣は譜代であっても容赦なく追放するワンマン経営者のような手法を取ります。

また裸一貫で天下統一を実現した秀吉には、そもそも譜代家臣が存在しませんでした。
そのため彼の死後には、多くの家臣が離反して徳川方へ鞍替えすることになります。

この2人と比べて家康には松平家の当主となる前から仕えていた石川家、酒井家、本多家、大久保家、鳥居家といった家系から優秀な武将が登場しています。

本作品は大久保家の視点から家康の生涯が描かれており、この家からも大久保忠世、忠佐、忠隣、忠教など多くの優秀な武将を輩出しています。

上巻では家康が幼少から人質として過ごし、元服してからは配下の武将として仕えた今川家の当主・義元が、桶狭間で討ち取られる時代から始まり、西三河の一向一揆を鎮めるまでが描かれいます。

ようやく念願が叶って岡崎で独立を果たす家康ですが、次は家臣までもが家康側と一向宗側に分かれて骨肉の争いを行う羽目になりますが、後から見ればこうした苦難の時代をともに過ごした家康と家臣たちの結束はより強固になったと言えます。

上中下巻に分かれ、各巻ともに400ページ以上に及ぶ長編小説ですが、大久保家という譜代家臣から見た家康の生涯という視点は新鮮なものであり、じっくりと味わいたい作品です。

任せるコツ



大きな組織(企業)で部下を抱えて売上目標を達成しなければならないマネージャー、今は小さな組織(企業)であってもこれから部下を増やして大きな組織へ成長させてゆきたマネージャー、いずれもキーとなるのは部下の育成であると言えます。

本書のサブタイトルには「自分も相手もラクになる正しい"丸投げ"」とある通り、著者の山本渉氏はそのための時代にマッチした方法が丸投げであると提唱しています。

"丸投げ"というとネガティブな文脈で使われるケースが殆どですが、あえてこの言葉を使っていることに意味があります。

それは、自らお手本となり部下の面倒を見ながらグイグイと引っ張ってゆくリーダーが優秀であるとされてきた時代が続きましたが、これからの時代にはそぐわない、つまり丸投げして部下に任せるマネジメントが最適だということです。

また"正しい丸投げ"とあるからには、当然"悪い丸投げ"というものも存在します。
それは中途半端な丸投げであり、部下に仕事を任せたと口では言いながら、そのやり方にいちいち細かく口出しをしてしまうことです。

結果としてその部下はやる気が失われ、続いて主体性が失われ、成長が止まり、最終的に指示待ち人間が出来上がってしまうというものです。

かくいうは私にも思い当たる節がありますが、これは「任せ切れない」ことに起因するものです。

部下に仕事を任せられない人には、プレーヤーとして優秀なケースが多いと著者はいいます。

つまりマネージャー本人の方が能力や経験があるため「自分がやった方が早い」、「自分がやった方が完成度が高い」と考えているからであり、その本質には失敗したくないという恐怖心があるのです。

著者はかつて野球の野村監督が「失敗と書いて"成長"と読む」を語ったように、積極的に失敗させることが必要だと説いています。

もちろん組織として許容できない失敗(損害)は避けるべきですが、任せ切る、つまり丸投げをするためにはマネージャー自身の勇気と決断、忍耐が必要なことが分かります。

一応本書は体系的に順序立てて書かれているものの、著者は必ずしも本書のすべてをいきなり実行するのではなく、納得感のあった項目から取り入れてよいとしています。

著者は今もビジネスの最前線で年間100近いプロジェクトを手掛ける統括ディレクターという立場で活躍しています。

それだけに多くの失敗も経験していると自ら公言していますが、学術論や机上論ではなく、こうした現場から学んだ知識・知恵というのは積極的に活用する価値のあるものだと思えます。

南海の龍 若き吉宗



本書は徳川吉宗が第八代将軍となるまでの若き日々を描いた作品です。

著者の津本陽氏は和歌山出身であり、自身にとって吉宗は地元の偉人でもあります。

吉宗は和歌山藩主・徳川光貞の四男として生まれます。

御三家の1つである紀州徳川家とはいえ四男であること、母親が身分の低い側室であったことから、吉宗は将軍職はおろか和歌山藩の家督を継ぐ可能性さえ低い立場でした。

通常であれば部屋住み、いわゆる居候として肩身の狭い一生を送るのが通常だったようです。

吉宗自身もはじめから自身が藩主やまして将軍になるとは思っていなかったはずですが、生活に苦しむ百姓の暮らしを観察するうちに密かに大望を抱くようになります。

さらに吉宗は病弱だった兄たちとは違い、幼少期から聡明で武芸にも秀でた一面があり、吉宗の将来に期待して有能な家臣団(石川門太夫、加納久通、服部忠左衛門、大畑才蔵など)が集まるようになります。

しかし当然のように嫡子である長兄や次兄を擁する家臣たちから敵対視され、藩内ではいわゆる主流派ではありまでんした。

歴史の記録上では、吉宗が藩主や将軍に昇り詰めることになるのは、単なる幸運(継承順位の高い人たちの相次ぐ病死)ということになっていますが、本作品では裏で吉宗の家臣団が一致団結して、彼を押し上げるべく活動したことが大きな要因であるという筋書きになっており、ときには暗殺という手段さえ用いています。

もちろん彼らがそうした活動を報告することはありませんが、聡明な吉宗は雰囲気でそれとなく察しているという描写がされています。

はじめは吉宗の伝記的な歴史小説だと思い読み始めましたが、実際には藩内で吉宗派閥がライバルである兄たち(綱教、頼職)と権力闘争を繰り広げる場面にクライマックスが置かれており、立身出世をテーマにした時代小説的な楽しみ方をすることもできます。

また津本陽氏が得意とする真剣勝負の場面が少ないのは残念ですが、隠れ目付で伊賀忍者を率いる石川門太夫が隠密活動で活躍する描写は新鮮であり、剣豪小説とは違った魅力で読者を楽しませてくれます。

西郷と大久保



タイトルの「西郷と大久保」とは言うまでもなく、維新三傑にも数えられる薩摩藩出身の西郷隆盛大久保利通のことです。

この2人は同じ町内で生まれ幼少期から親友という間柄で育ち、のちに同志として二人三脚で明治維新を実現させ、やがて西南戦争で敵味方に分かれて戦うことになるという運命をたどります。

著者の海音寺潮五郎氏は生前次のように語っていたようです。

「わたくしは、1901年(明治34年)に薩摩の山村に生まれました。先祖代々の薩摩人です。明治34年と申せば、西南戦争から24年目です。今日、支那事変や大東亜戦争に兵士として戦った人が多数いるように、当時の薩摩には西南戦争に出たおじさん達が多数いました。ですから、その頃の薩摩の少年らは、その人々から西南戦争の話を聞き、西郷の話を聞いて育ちました。聞かされても、そう感銘を受けない人もいたでしょうが、わたくしは最も強烈深刻な感銘を受け続けつづけたようです。」

つまり著者が育った環境を考えると、作家としてこの2人を取り上げた作品を書くのは必然的だったように思えます。

まず頭角を表すのは、薩摩藩主・島津斉彬の小姓(庭方役)として直接教えを受けた西郷であり、当時から最も聡明な大名と言われた斉彬に感化され、その手足のようになって働くことになります。

それだけに斉彬が急死を遂げたときには誰よりも悲しみ、国父(幼い藩主の父親)として実験を握った久光とは、生涯に渡って不仲だったようです。

そして斉彬との面識はなかったものの、その西郷から影響を受けて頭角を現したのが大久保です。

作品中には2人の性格が書かれる箇所が何度か登場します。

その表現はさまざまですが、西郷はものに動じない沈着さがあるのと同時に感情豊かな表情を持ち、勇気や決断する場合の凄まじさ、さらに誠実・潔癖なほどの心術といった一種の英雄的な気質がありました。

一方の大久保は、つねに正しく現実を把握する冷静さを持ち、そこから理論構築のプロセス経て具体的なステップを1つ1つ進めてゆく実行力に優れ、こちらは軍師タイプの気質があったといえるでしょう。

この2人の能力が息の合った両輪のように回転することで、明治維新において薩摩藩が主導的な役割を果たした原動力になったのです。

同時にこの2人は、私情を捨てて命がけで物事に望む強靭な意志力を持っているという共通点もあり、これが2人の間に方向性の相違が生じたときに悲劇的な結末を迎えさせた要因にもなっています。

本書は、西郷と彼が神のごとく尊敬する斉彬との出会いから寺田屋事件、そして西郷が2度目の流刑から帰還するまでの出来事が詳細に書かれていますが、そこから新政府(明治政府)が発足するまでの4年余りの年月が紙面の関係か、または著者の判断によるものなのか省略されおり、朝鮮との外交方針を巡って西南戦争へ至る一連の流れへと場面が移り変わってしまう点が少し残念です。

それでも文庫本で500ページ以上もある読み応えのある長編となっており、歴史をさまざまな角度から眺めることの面白さや奥深さを改めて実感できる1冊であるといえます。