本と戯れる日々


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ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

倭人伝、古事記の正体

倭人伝、古事記の正体 卑弥呼と古代王権のルーツ (朝日新書)

ノンフィクション作家として活躍する足立倫行氏が日本のルーツ、つまり古代日本の謎に迫ろうと試みた1冊です。

タイトルから分かる通り、本書では「魏志倭人伝」と「古事記」という有名な2冊の歴史書、そして著名な日本考古学者・森浩一氏の学説を元に日本各地を取材旅行に訪れています。

まず「魏志倭人伝」といえば"邪馬台国"、そして"卑弥呼"が連想されますが、その所在地が九州、もしくは近畿いずれであったかの論争は学界でも結論は出ていません。

個人的には九州説派なのですが、著者(そして森浩一氏)も九州説を前提として各地の古墳をはじめとした遺跡を巡っています。

まず魏志倭人伝が日本書紀や古事記と決定的に異なるのは、魏志倭人伝が中国で成立した歴史書であるのものの、邪馬台国(そして女王である卑弥呼)が存在していた3世紀当時に書かれた同時代資料だという点です。

そこには邪馬台国(邪馬壹國)のほかに、末盧国伊都国奴国不弥国狗奴国など30にのぼる国々が古代日本に存在していたことが伺えます。

対馬国壱岐(一大)国といった場所が特定できている国が存在する一方、倭人伝に書かれている邪馬台国への旅程を正確に解釈すると、九州のはるか南の太平洋上に存在していたことになってしまい、これが邪馬台国の場所が特定できない大きな理由になっています。

しかし解明されていない謎が多いこと自体が邪馬台国、しいては古代日本史の魅力でもあり、著者が遺跡を巡りながらその存在を想像してゆく旅程を読者は一緒に楽しむことができます。


後半は古事記という神話と天皇の系譜を記した書物を取り上げています。

古事記は日本書紀とほぼ同じ時期(8世紀初頭)に書かれた歴史書ですが、日本書紀が天武天皇の勅令によって編纂されたヤマト政権の正史であるのに対し、古事記は太安万侶(おおのやすまろ)によって作られたと推測されるものの、その成立過程は不明な点が多いようです。

この2つの歴史書は大筋で同じ内容を扱いつつも、古事記には物語としてのエピソードが豊富であり、必ずしもヤマト(天皇)政権を絶対的な存在として描いていない部分があり、正史(日本書紀)と違い、当時の語り部が伝える伝承を取り入れたという説があるようです。

著者はヤマトタケルの東征スサノオやオオクニヌシを中心とした古代出雲の伝承、葦原中国(日本)を治めるために行われた天孫降臨など、古事記の主要な内容に沿って遺跡を巡ってゆきます。

古事記は倭人伝よりかなり後世(約500年後)に成立しているものの、神話や古い言い伝えの要素をかなり含んでいるため、その全容を解明するのは倭人伝よりも困難なのかも知れません。

しかし本書で著者と対談している森浩一氏は、自らの著書「倭人伝を読みなおす」について、

「邪馬台国がごこにあったかとか卑弥呼とはどんな女王だったかだけに関心をもつ人は、本書を読まないほうがよかろう」

とまで断言し、倭人伝はいったい何を描こうとしたのか、現実に自分の足で歩いて、よく見て考えることが大切だと指摘しています。

古代日本の遺跡は私たちが思っている以上に全国に点在しています。たまには本書を片手に、遺跡を訪れてみるのもよいかも知れません。





オーストラリア6000日

オーストラリア6000日 (岩波新書)

あとがきからの引用ですが、本書はオーストラリアの大学で教授として教鞭をとっている著者(杉本良夫氏)が次のような想いで執筆した本です。

この本は、私を取り巻く個人的なかけらを組み合わせて書き綴ったもので、学問的な均等を保って、オーストラリア社会の全体像を提示しようという試みではない。メルボルンに定住する私人として、自分に興味のある生きざまにだけ焦点を当てて、私見を展開してみた。身辺雑記であることを意識して、普通の学術書では常識となっている脚注や参考文献は、すべて省いた。敬称もなるべく略した。

タイトルに「オーストラリア6000日」とありますが、著者はオーストラリアに永住権を持ち、本書執筆時点で約18年もの滞在期間を経ていることから、一般的に見れば日本からオーストラリアへの移住民(つまりオーストラリア人)といえるでしょう。

本書を"私見"とするだけあって、研究者としての学問的追求はほとんど見られませんが、それでも著者の専攻が比較社会学であることから、その視点は鋭く多元的であり、オーストラリアの文化や習慣、社会問題を紹介する際に日本と比較することはあっても、日本人独自の視点といった性格は薄く、国際経験豊かなジャーナリストが執筆しているという印象を受けます。

一方で本書が出版されたのは1991年であり、ここに書かれている内容は今から25年前のオーストラリアの姿であることも留意して読む必要があります。

オーストラリアは欧州人(アングロ・サクソン)系の国であるものの積極的に移民や難民を受け入れています。

この点はかつてのアメリカと同じであり、日本人から見るとオーストラリアとの違いが分かりにくいかも知れませんが、オーストラリアはアメリカと違い、移民が持ち込んできたそれぞれの文化的伝統を維持してゆくマルチカルチュラリズムを推奨しています。

著者は見る角度によっては島国である点、銃の所持を厳しく規制している点、大統領制ではなく首相制を採用している点、また軍事的にアメリカに依存している点などは日本とオーストラリアの共通点であると指摘しています。

また太平洋戦争では日本とオーストラリアは敵対関係にあり、戦闘のみならず捕虜収容所などで双方の兵士(民間人)に多くの犠牲者が出ていることも忘れてはなりませんし、親日家がいる一方で日本へマイナスの感情を抱いている人たちもいるのです。

ただし著者は単純な日豪比較、米豪比較を極力避け、オーストラリアの自然から始まり、長期休暇やレジャー、市民活動、テレビやラジオの特色や人気番組の紹介、スポーツや教育、結婚に至るまでオーストラリア人のライフスタイルを身近な例を挙げながら紹介してくれ、その内容はさながらオーストラリアへの移住ガイドブックのようです。

インターネットが普及する以前のオーストラリアとはいえ、その文化的背景や伝統を知る上で現在でも充分に参考になるはずです。

そしてオーストラリア社会の抱える自然破壊や貧困格差の拡大といった問題点にも鋭く言及しています。

地理的、経済的にもオーストラリアは日本にとって緊密で重要な関係にある一方で、日本人がオーストラリアに抱くイメージは"広大な自然"、"コアラ、カンガルー"といった漠然としたものであり、主要都市はおろか首都の名前も知らない人が多いはずです。

本書は日本人にとって近くて遠いオーストラリアを市民たちの文化や日常生活の視点から理解できる貴重な本といえます。

つばさよつばさ

つばさよつばさ (集英社文庫)

JALの機内誌「SKYWARD」に連載されている浅田次郎氏の旅をテーマにしたエッセー集です。

この連載は好評でかなり続いているようで、本ブログで以前紹介した「アイム・ファイン! 」が第2弾だったようであり、今回紹介する「つばさよつばさ」がシリーズ第1弾です。

1年の3分の1を旅先で過ごすという著者ですが、人気作家だけに実際には講演や取材で出かける機会が多く、長い休暇をとって気ままに海外旅行というわけにはいかないようです。

それでも何気ない身の回りの出来事から外国と日本との文化比較論に至るまで、どれも肩肘張らずに浅田流の軽快なエッセーで書き綴っています。

例えば日本には混浴の習慣がありますが、ヨーロッパの中でもドイツやオーストリアでは混浴の習慣があることを自らの驚きの体験とともに語ってくれるのは、エッセーとして楽しめるほかに海外旅行の豆知識としても役立ちます。

またかなりの食道楽を自負する著者が、"世界中のグルメ"ではなく"まずいもの"を紹介してくれるのはかなりユニークな内容です。
もちろん文化が異なれば味覚の好みも違ったものになるのは承知の上で次のように結論付けています。

長い間の学習によれば、地元の名士にとっておきの現地料理をふるまわれて、うまいと思ったためしがない。つまりそうした場合には、最も文化の隔たったディープな料理を食わされるからである。
だがふしぎなことに、うまいものよりまずいもののほうが、懐かしく思い出させる。世界が平らになり、さほどのカルチャーショックを感じなくなった今、まずいと感じるものは明らかに、旅の娯しみを教えてくれるのである。

誰しも旅先でまずいものを食べたいとは思わないはずですが、どこか深さを感じさせる言葉です。

年季の入った旅行通だけあって、著者はあえて日本人観光客が訪れない静かな土地を訪れることがあるようで、滞在先で持て余した時間を埋めるために浮世離れした仕事の役に立たない書物を読みふける習慣があるそうです。

こうした著者の姿からはかえってエッセイストよりも文学者としての一面が垣間見れます。

たそがれのドーヴィルに戻ると、なぜかその街には、日本人観光客の姿がなかった。石畳を渡る海風が、けっして徒労などではなかったよと、私のゆえなき感傷を慰めてくれた。
いつも叱らずにねぎらい労って下すった、この風は母の声に似ている。ドーヴィルを訪れるのなら、やはり冬がいい。

やはり本書もバッグの片隅にしのばせて旅行先でリラックスしながら読みふけるのが相応しいでしょう。

ロスジェネの逆襲

ロスジェネの逆襲

「オレたちバブル入行組」、「オレたち花のバブル組」に続く半沢直樹シリーズ第3弾です。

ちなみに大ヒットしたTVドラマは第2弾までを原作にしており、単行本(最新版)では第4弾まで発売されているようです。

つまり本作品はTVドラマ化されていない半沢直樹シリーズであり、続編(放映されるかは分かりませんが)が待ちきれない人は本書で一足先に新シリーズを楽しむことが出来ます。

当ブログで本シリーズを"劇場型経済小説"、主人公は大組織の不正を許さない反骨心と正義感を持った人物だと表現しましたが、この半沢直樹は敵の弱みを握って情報(証拠)を引き出したり、味方に引き入れるために利で誘ったりとかなりのハードネゴシエーターであり、インテリジェンスな要素も満載です。

作品ごとに舞台は大きく異なるものの、大枠のストーリーは定型化されつつあり、個人的には経済小説というよりむしろスパイ小説に近い印象さえ受けました。

主人公は組織からどんなに冷遇されようと自分からは決して裏切らない(辞めない)点も、どこかスパイ小説の主人公めいた雰囲気があります。

ドラマで話題になった「倍返しだ!」のセリフも「1点取られたら2点取り返す」というスポーツマンシップ溢れたものではなく復讐の宣言であり、実際に半沢を陥れようとした相手は臥薪嘗胆のごとく猛烈な反撃を食らうのです。


前作で七面六臂の大活躍だったにも関わらず、組織の都合で東京中央銀行から子会社の東京セントラル証券へ出向を命じられた半沢直樹は(少なくとも表面上は)平然とそれを受け入れます。

これは事実上の左遷ですが、そこでも相変わらずの半沢は、よりによって(出向元の)親会社、つまり東京中央銀行を相手に壮大な戦いを挑むことになります。

そしてその舞台はITベンチャー企業のM&Aであり、敵対的買収(TOB)ホワイトナイト株の時間外取引などかつて話題になったキーワードが登場します。

主人公の半沢は好景気バブルの就職世代ですが、今回半沢ととも奮戦する部下の森山、IT経営者の瀬名はともに就職氷河期に社会人となったロスジェネ(ロストジェネレーション)であり、彼らの口からは割を食ってしまったという本音が出てきます。

「オレたちって、いつも虐げられてきた世代だろ。オレの周りには、いまだにフリーター、やり続けている大学の友達だっているんだ。理不尽なことばかり押し付けられてきたけど、どこかでそれをやり返したいって、そう思ってきたんだ」

かくいう私もロストジェネレーションの1人ですが、半沢が彼らを叱咤激励しながら引っ張ってゆく場面は読んでいて微笑ましくもあり、本作品の見どころの1つになっています。

オレたち花のバブル組

オレたち花のバブル組 (文春文庫)

前回紹介した「オレたちバブル入行組」の続編、つまり半沢直樹シリーズの第2弾です。

今回は半沢の勤める東京中央銀行、そして銀行からの融資で再建を目指す老舗の伊勢志摩ホテル、さらには銀行の適性な融資を巡っての金融庁の検査といった構図が物語の中心となりますが、さらにはタミヤ電機ナルセンといった他の企業も巻き込んで怒涛のように物語が進行してゆきます。

金融業に縁のない人にとって金融庁検査と言われてもピンと来ませんが、池井戸氏がストーリーの流れの中で分かり易く解説してくれるため、先ほどの複雑な構図も自然と読者の頭の中に入ってくるのは前作と同じく本シリーズの優れた点です。

また一見すると、業績不振のホテルが銀行から融資を受けて再建を目指すといった普通にありそうな出来事が、さまざまな陰謀によって銀行の土台を揺るがしかねない状況へ発展してゆくというダイナミックな展開も本シリーズの魅力です。


銀行という大組織の内部では過酷な出世争いが繰り広げられ、幹部にまで昇進できるのは一握りの人間ですが、それは能力だけで決定されるフェアなものではありません。

時には組織内の陰謀によって責任を押しつけられ、また時には派閥争いに敗れて脱落してゆく者も多いはずです。

私のように大企業に勤めた経験がなくとも、そうした企業の内情を耳した経験を持つ人は多いはずです。

そして主人公の半沢直樹は常に理不尽な理由で逆境に立たせられる運命のようであり、しかも今回立ち塞がる敵は、銀行内部のみならず、融資先の伊勢志摩ホテル、さらに金融庁の検査官という敵だらけの状況ですが、同時に半沢の熱意と姿勢に惹かれて協力する人たちも現れるのです。

彼は頭が切れるバンカーであり、何より権力に屈しない反骨心を持ち合わせています。

組織の理不尽な要求に屈せず、自らが正義と信じることを貫き通す

誰もが心の中で憧れるサラリーマンを体現しているのが半沢直樹であり、それが本作品が支持されている大きな要因であることは間違いありません。

オレたちバブル入行組

オレたちバブル入行組 (文春文庫)

多少なりとも本屋へ通う習慣のある人であれば、つねに最新作が大々的に宣伝される池井戸潤氏が飛ぶ鳥を落とす勢いの作家であることは容易に分かります。

そして滅多にTVドラマを見ない私でも「倍返しだ!」のセリフで有名な「半沢直樹」が大ヒットになったことも知っています。

普段から最新作やベストセラーを意識せず気の向くまま読書をしているため、今までたまたま池井戸氏の作品を読む機会がありませんでしたが、はじめて手にとった同氏の作品がドラマ「半沢直樹」の原作にもなった本書です。

主人公の半沢直樹は、銀行という巨大で旧態依然とした組織のサラリーマンですが、やられたらやり返す気骨のある銀行員という設定です。

銀行のような大組織が持つ独自の文化は、その組織が生き抜いてきた経験や知識が遺伝子として織り込まれ反映されているという長所がある一方、時には時代の流れに取り残され停滞を招く危険性を持ち合わせています。

つまり半沢は、その独自の文化が持つ悪い面(悪習)へ対して正面から立ち向かってゆくのです。

彼はバブル時代の完全な売り手市場の時に入行したものの、その恩恵を充分に受けることなくバブルの崩壊に直面してしまった世代であり、その敵の正体を具体的に言えば、大組織の悪習に染まりきり、自らの権力を背景に陰謀を巡らす団塊世代の銀行幹部たちということになります。

大組織の中で信念を貫き通す半沢の姿は、城山三郎氏の「官僚たちの夏」の主人公であるミスター・通産省こと風越信吾に通じるところがありますが、城山氏の作品が実在の人物をモチーフにしている一方、本作品は完全なフィクションです。

ただしフィクションである利点を充分に活かし、ストーリーに起伏を持たせ、クライマックスが盛り上がる内容になっています。

あえてこの作風を名前を付けるならば"劇場型経済小説"という言葉がしっくりときます。

それでいて一定のリアリティを失わない作品の高い質は、著者が元々銀行員だったという経験が間違いなく役に立っています。

また入念に練りこまれたストーリーのほかに見逃せないのが、銀行という組織の仕組みが作品を通じて自然と学べるという点です。

私のように金融業界に高い関心のない読者でもジェットコースターのようにストーリーに引きずり込まれ、思わず半沢を応援せずにはいられないエンターテイメント性の高さは、累計250万部という数字にも納得できる大ベストセラー作品です。

半パン・デイズ

半パン・デイズ (講談社文庫)

小学校入学を前に、東京から瀬戸内の小さな町に引っ越してきたヒロシ少年。

本書はそんなヒロシ少年の小学校6年間を描いた青春小説です。

このヒロシ少年は、著者である重松清氏自身の小学生時代を部分的にモチーフにして組み立てられています。

重松氏は私よりも一回りは上の世代ですが、それでも"昭和"に小学生時代を過ごしてきた私にとって、作品中で描かれる景色はどこか懐かしく、読み進めてゆくと何度もヒロシ少年の姿を自分自身に重ね合わせてしまう場面が何度もあります。

この作品には、いじめ、ケンカ、勉強や遊び、初恋、大人に褒めら、叱られ、友達や親族との出会いや別れといった多くの経験を通して、少年が少しずつ成長してゆく軌跡がぎっしりと詰まっています。

小学生は"世間"を知りません。
この"世間"とは"大人の世界"と言い換えてもよく、大人が何気なく過ごしている日常が感受性豊かな小学生にとっては新鮮な日々なのです。

ヒロシ少年の体験を繊細に描いてゆく"大人の重松氏"の力量に驚きつつも、どんどん物語に引きこまれてゆきます。

またヤスおじさん、チンコばばあ、親友の吉野、シュンペイさん、タッちんなどなど、、多くの個性豊かなキャラクターが登場し、彼らを通じてヒロシが内面的に成長してゆき、いつの間にか広島弁もすっかり板についてゆく過程は時に涙やほろ苦さもありながら、最後には清々しい気持ちにさせてくれます。