本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

歳月(下)

新装版 歳 月(下) (講談社文庫)

引き続き、江藤新平を主人公とした歴史小説「歳月」のレビューです。

大久保利通岩倉具視といった権力の中枢にいる人間と対決するかのように征韓論に同調の立場をとった江藤ですが、法律家として人権保護に尽力している立場からは、他国を征服する政策に反対するのが自然であるように思えますし、また国内の法律が未整備だった点を考えても、内政に集中して外征は控えたいところだったのではないでしょうか。

そこには江藤が理論の信奉者であると同時に、好悪の差が激しい感情豊かな一面が伺え知れます。


そして羽陽曲折を経て征韓論派が敗れることになりますが、不平を持った士族から絶大な人気を得ている西郷隆盛と時を同じくして下野することになります。

これだけ頭の回転が早かった人物が、不平士族に祭り上げられて無謀な反乱の首魁となるのは不思議ですが、個人的には革命期の混乱が収まりきらない明治初期において小さな反乱が大きな波状効果を生み出しうる時代背景があったと思いますし、天才にありがちな過剰な自信が、政敵である大久保の実力を軽く見てしまった面もあると思います。

結果としては、江藤の計算はことごとく外れることになり、呆気なく反乱は鎮圧されることになります。


司法卿の頂点に君臨していた人物が、「佐賀の乱」と呼ばれる政府転覆の首謀者となる顛末は歴史の面白さであり、そこには人間"江藤新平"の悲劇、そして喜劇が混在し、この小説が生まれる所以になったところだと思います。

仮に江藤があらゆる感情を押し殺して法律の整備に専念したならば、有能な政治家として活躍し、間違いなく同藩出身者の大隈重信のように総理大臣を経験する人物となったと思いますが、そこには単なる立身出世の物語以上のものは無かったでしょう。


"江藤新平"という人物を、大久保利通という稀代の政治家を敵に回した挙句に、罠にはめられた獲物のように悲劇的な最期を迎えた人物として歴史上の敗者と結論付けるのは簡単です。

ただし彼が政治家として後世に与えた影響は大きいと思いますし、何より著者によって小説の形でスポットを当てたときに、記憶に残る魅力的な素材を持った人間であった間違いありません。

歳月(上)

新装版 歳月(上) (講談社文庫)

佐賀藩士として生まれ、明治維新後は司法卿・参議を務め、その後「佐賀の乱」の首謀者となった"江藤新平"を主人公とした歴史小説です。

著者の司馬遼太郎は、歴史上の人物を地域の風土に根ざした性質と結びつけて描くことが多いですが、この小説での江藤は勤勉で理論好き、そして頑固な一面がある典型的な佐賀人として描かれています。

当時の佐賀藩には"弘道館"という教育水準の極めて高い藩校があり、そこの出身者である江藤新平は秀才でもあります。

さらに個性を決定付けるものに生い立ちなどの要素がありますが、江藤は極めて貧窮した家庭で生まれ育っています。成人してからも脱藩の罪により、その生活は苦しい時代が続きます。

維新が達成される寸前のタイミングで罪を解かれますが、二重鎖国という独自の政策により外部からの情報を持たない佐賀藩にとって、脱藩を経験している江藤の存在は貴重であるという背景があり、一気に藩の代表として活躍を始めます。

やがて新政府に出仕し、そこで法律を整備する司法卿のトップへと就任するや否や次々と近代的な法律の整備に着手します。

幕末における江藤の活躍期間は短いものであり、また外国語を学ぶ機会や留学を経験が無かったにも関わらず、江戸時代(封建時代)の弊害を次々と改革し、政府要人の汚職を徹底的に摘発してゆきます。


江藤には物事の原理・原則を本質的に理解する天性の才能があり、明治維新という変革に活動家として参加した人物が殆どを占める新政府の中で、その実務能力は重宝されることになります。

言い方を換えれば、多くの人物が維新におけるその功績によって地位を得たのと違い、江藤は純粋にその能力の高さを評価されたのです。


江藤は理論の信奉者であるがゆえに議論で負けることはなくとも、権謀術数が渦巻く幕末を生き抜いた大久保利通岩倉具視 といった海千山千の人物と比べてあまりにも純粋であり、政治工作やロビー活動には無頓着な一面がありました。


薩摩藩や長州藩といった維新の原動力となった主流派に対して常に対抗心を持っており、汚職事件の摘発で山形有朋井上馨をほとんど追放にまで追い詰めた江藤の立場は微妙なものでした。


その背景には対抗心の他にも貧しい境遇で育ってきた、江藤自身の正義を貫くといった気概を感じます。


やがて主流派の中にも政治方針に軋轢が生まれ、征韓論を唱える西郷隆盛に同調するようになった頃から江藤の運命も大きく動き出すことになります。

拳に賭けた男たち―日本ボクシング熱闘史

拳に賭けた男たち―日本ボクシング熱闘史

出版されたのが1996年と少し古いですが、明治から平成に至るまでの日本のボクシングの歴史を網羅した1冊です。

個々の名選手にスポットを当てた本はよく見かけますが、日本ボクシング界の通史として書かれた本書は大変貴重な存在です。


明治から大正にかけての時代は、ボクシング先進国である欧米に有色人種への偏見が根強く残っていた時代であり、日本ボクシング界の黎明期に渡米して果敢なチャレンジをする日本人たちの姿は、開拓民を彷彿とさせるものがあります。


やがて昭和に入り戦前の伝説的ボクサーの"ピストン堀口"についても詳しく書かれており、生涯に176戦を経験したその戦歴は驚異的な数字であり、まさしく「拳聖」に相応しい存在感があります。

第二次世界大戦を挟んで国民的ヒーローとなった白井義男については、引退試合が史上最高の96%という視聴率を叩き出していることから、敗戦の復興途上にある日本にとって、いかに巨大な希望の星だったかという雰囲気が伝わってきます。


それから時代は下って、ファイティング原田輪島功一ガッツ石松具志堅用高といった今でもお馴染みのボクサーたちを始め、悲劇の天才ボクサー大場政夫の活躍で日本のボクシング界は全盛を迎え、そして彼らの引退と共に衰退期を経て平成のボクサーたちによって、再生へのバトンが渡されてゆきます。


一方で日本のボクシング界における裏社会との繋がりや、繰り返す協会の分裂に対しても著者は痛烈な批判を加えていますが、そこには野球やサッカーのように効率的に組織化によって大成功した競技との""を感じずにはいられません。


現在は日本国内に同じ階級のチャンピオンが乱立するような状況は無くなりましたが、世界的に見てもWBAWBCを初めとした大小様々な団体のチャンピオンが存在し、統一王者の称号はあるものの混沌とした感は否めません。

ただし一方で本書のタイトルにある通りボクシングに賭けた男たちの情熱は本物であり、数限りない死闘の歴史が現在の日本人チャンピオンを輝かせている礎になっていることは間違いありませんし、ボクシングの魅力を再発見させてくれる1冊であるといえます。

勝負師と冒険家―常識にとらわれない「問題解決」のヒント

勝負師と冒険家―常識にとらわれない「問題解決」のヒント

ヨットレースで有名な日本を代表する海洋冒険家である白石康次郎氏と、同じく日本を代表する棋士である羽生善治氏の対談をまとめた1冊です。

白石はヨットによる無寄港での単独世界一周の世界最年少記録を樹立するなどの実績を残しており、一方で羽生は将棋という競争の厳しい世界の中で、長年に渡りNo1の勝率を誇っています。

本書は肉体派と頭脳派という異色の対談の中で、一見すると全く違う2つの勝負の世界から共通点を探るように展開されてゆきます。


2人とも順調に思える過去の道のりにおいては、何度も失敗を経験しており、若さや勢いに身を任せることが少なくなったという部分は理解し易いですが、本当に厳しい局面では、蓄積した知識と技術に基づく独自のノウハウよりも、自らの経験や勘を大切するというのは参考になります。


状況に応じて、自由自在に自分の引き出しを開ける能力は、単純にベテランであるからという理由ではなく、今の立場に安住すること無く、常に新しいチャレンジに挑戦してゆき、新しい経験を吸収する姿勢が必要になります。


それと同時に技術が日々進歩してゆき、新しいルールが生まれてゆく中で、自ら変化してゆく適応能力が求められます。


これは一般の社会人にも通じるところがあり、例えば会社や特定の業界の中で一定の地位を築きながらも、その立場に安住することなく、新しい可能性を模索し続ける姿勢は年齢に関係無く自分をより成長させる原動力になり得ることだと思います。


その一方で変わっていけないもの、苦しいときも自分を信じて進む姿勢初心の頃の素直さが土台に無いと、勝敗ギリギリの場面での粘り強さに欠けてしまうことも指摘しています。


本書は真剣な勝負論に終始することなく、雑談も交えながらリラックスした雰囲気の中で行われている対談ということもあり、気楽に読める1冊になっています。

生き方―人間として一番大切なこと

生き方―人間として一番大切なこと

京セラKDDIを創業したことで知られる、日本を代表する経営者である稲盛和夫氏による著書。

タイトルにある通りマネジメント本ではなく、広く社会人向けに書かれた自らの経験を元にした哲学本といった感じです。

ただし実際には誰にでも分かり易い表現で書いてあり、その内容を一言で表すと下記の言葉に集約されると思います。


「人生・仕事の結果 = 考え方 × 熱意 × 能力」


"熱意"は好きなことに没頭すれば誰にでも持つことがでる要素であり、"能力"は個人差が入る余地があります。
そこで著者は"考え方"こそが一番大事な要素だと主張しています。


なぜなら"考え方"の要素のみは、数字がマイナスに振れることがあり、"いい考え"があれば、"悪い考え"もあり、能力があっても間違った方向にそれを使えば、犯罪になりかねないというものです。


それだけに良い方向へ考え方を導くために心を磨く重要さに紙面を裂いて説明をしています。

最も成功した経営者の1人でありながら、「善行を行い他を利する」という考え方を最優先にし、会社経営の判断に迷ったときは、「人間として何が正しいのか」というシンプルなポイントを判断基準にしたという、若い経営者からは決して聞かれない内容ばかりです。

どんな形にせよ、「働く」ということは「生きる」ことの一部であるのは事実であり、巷には様々なマネジメント手法が生まれては消えてゆきますが、本当に大切なことは実にシンプルです。

ただシンプルが故に継続して実践するのは難しく、日々を「ただ何となく生きてゆく」でなく「いかに真剣に生きてゆく」ことが大切であるかと同時に、まだまだ自分が未熟なことに気付かせてくれます。


経営やビジネスの分野に限定しても、世の中にはネットや本を通じて多くの情報で溢れかえっていますが、そういった情報に流され、そして疲れたと感じているビジネスマンにじっくり読んでもらいたい1冊です。

著者は鹿児島県出身であり、同郷の西郷隆盛を尊敬する1人として挙げていますが、彼の座右の銘である「敬天愛人」にも通じる考え方は、時代や世代を超えた響きがあります。

渋谷ではたらく社長の告白

渋谷ではたらく社長の告白 (幻冬舎文庫)

サイバーエージェント社長の藤田晋氏の自伝。

発売されて間もない頃にも読んだのですが、久しぶりに読み返しました。

本書の発売当時には、ネットバブルの波に乗って急成長を遂げ上場したベンチャー企業の代表格であったサイバーエージェントも、ミクシィやグリーのような更に新しい会社が成長を遂たこともあり、ネット業界の中では決して新しい会社ではなくなってきました。

今でこそアメーバブログなどで有名なサイバーエージェントですが、創業当初はインターネットという軸はあったものの、明確に展開しゆくサービスがあったわけではありません。

「21世紀を代表する会社を作りたい」という夢を叶えるために起業家になり、惜しみなく努力を続ける日々の記録は、今読み返しても新鮮な感想を受けました。

会社を上場させるためにひたすら進み続けているその姿は一見順調に見えますが、その裏には経営者としての苦悩と葛藤に満ちています。

言い方を換えれば、売上げの推移と数字だけを見れば順調に成長してきたように見える同社にも過去には買収の危険に瀕した時期があり、本書には決して会社の沿革や数字だけでは分からない人間"藤田晋"の生々しい軌跡が描かれています。


今までも成功した起業家の自伝は何度か読んでいますが、中には押し付けがましい経営哲学にページを稼いでいる本も少なくない中で、ここまで赤裸々に書かれている作品は珍しく、"告白"というタイトルに相応しい内容となっています。



出版されて5年以上が経ちますが、今読んでもこれから起業を目指している若者や、成功を目指しているベンチャー企業経営者に勇気を与え、それと同時に成功するためには、どれほどの覚悟と努力が必要かについても教えてくれるます。


「21世紀を代表する会社を作りたい」という著者の目標は現在も進行形であり、この自伝の続きがどうなるかが楽しみです。

時が滲む朝

時が滲む朝 (文春文庫)

楊逸(やんい)氏が、日本語以外の言語を母語とする作家として初めて芥川賞を受賞した作品ということで読んでみました。


作品の舞台は、中国の学生運動が盛んにだった1980年代後半の中国。

主人公は地方の大学に通う若い2人の青年という、いかにも文学らしい設定です。

中国全土に広がった学生の民主化運動に巻き込まれていく2人の青年が何を思い、そしてどのような半生を辿ったかを淡々と綴っている作品です。

主人公たちは、当時の運動に参加した多くの学生たちが同じだったように、中国全土に広がる学生運動の中に進んで身を投じたというよりも、時代の大きな流れに巻き込まれることになります。

学生運動前には情熱はあってもごく普通の大学生だった2人からの視点を通してストーリーを進行してゆくことで、当時の時代風景が見えてきそうなリアル感があります。

結果として「文化大革命」は1989年6月4日の「天安門事件」で実質的な終止符となるわけですが、当時学生運動に参加していた学生たちが、その後どのようなトラウマを持ち、そして今の中国をどのように見ているかの描写は、中国出身の作者の手によるものだけに静かな迫力を感じます。


本作品でテレサ・テン尾崎豊の曲が何度も登場しますが、テレサ・テンが甘い青春を象徴するものだとすれば、尾崎豊は学生運動に挫折を味わい、行き場の無い孤独感を象徴したものであり、両者のコントラストが小説の場面に奥行きや臨場感を持たらせてくれます。

作者はあとがきで、この学生運動に関わった一部の指導者を除いた数億という無名の人々が、時代に翻弄され踏みにじられた姿を描きたかったというくだりがありますが、その雰囲気は充分に伝わってくる作品です。