本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

十字架

 

真田祐様。親友になってくれてありがとう。ユウちゃんの幸せな人生を祈っています。
三島武夫。根本晋哉。永遠にゆるさない。呪ってやる。地獄に落ちろ。
中川小百合さん。ご迷惑をおかけして、ごめんなさい。誕生日おめでとうございます。幸せになってください。

これは本作品に登場する地方のとある中学校で起こったいじめを苦にして自殺した生徒の遺書に書かれていた言葉です。

しかもこの遺書はマスコミによって公開され、世間に大きな波紋を起こすことになります。

ただしこの作品のテーマは、学校のいじめ問題がメインではありません。

この遺書に名前を書かれた生徒たち、亡くなった生徒の両親や兄弟、それを報道したマスコミ記者、担任の教諭など....自殺した生徒に色々な立場で関わった人たちの姿を描いてゆくこと自体がテーマになっています。

いじめを受けた人が自殺するまで追い詰められてしまったという場面を経験をしている読者は圧倒的に少数であると思います。

しかし小説の素晴らしい点は、読む人の想像力によってそれを追体験できるという点です。

もし、いじめが原因で自殺した人と自分との関係が友人だったら、いじめた側の人間だったら、片思いされる関係だったら、自殺した生徒の親や兄弟だったら、その事件を報じるマスコミ側の立場だったら....とこの作品を読み進めてゆくと、グルグルと自分の立場を当てはめて考えさせられる作品になっています。

本書の主人公は遺書で親友と名指しされていた真田祐です。

しかし彼はいじめに加わることは無かったものの、クラスで行われているいじめを止める行動は起こしませんでした。

加えて小学生の頃は一緒に遊んことがあるものの、中学生になってからは部活で忙しいこともあり、仲の良い親友という関係ではなくなったと自覚していました。

つまり遺書に自分の名前が書かれていること自体、主人公にとっては意外だったのです。

そんな彼を「親友を見殺しにした」と攻める人もあり、自身もその罪悪感と後悔を十字架にように背負って生きてゆくことになり、それがそのまま小説のタイトルになっています。

もちろん十字架を背負っているのは主人公だけでなく、この出来事に関わったすべての人が、それぞれの十字架を背負って生きてゆくことになるのです。

一方で背負っている十字架の大きさも人によって違い、時間が経過することでその重さが軽くなり事件の記憶が薄れてゆく人、逆に年を経るごとに背負っている十字架が重くなる人もいます。

本書の扱うテーマがテーマだけに、ストーリー自体は重苦しい展開が続きますが、それだけに目を離すことの出来ない作品になっています。

正直に言えばドキュメンタリーと思わせるほどの綿密さは感じられないものの、鋭角に切り込んで書かれているストーリーだからこそ読者に訴える力を持っていると言えます。

太宰と安吾



タイトルにある太宰治坂口安吾といえば昭和を代表する作家という共通点はすぐに分かりますが、2人とも昭和の文豪らしく傍から見ると自己破滅的な生き方を選んだという点でも共通しています。

もちろん有名無名に関わらず他にも同じような人生を送った作家はいますが、著者である檀一雄とこの2人の間には生前深い交流があり、かつ多大な影響を受けた存在でした。

前半では太宰治、後半では坂口安吾との思い出や作品の評価を書き綴るという構成になっています。

掲載されているのは本書専用に書き下ろした文章ではなく、檀氏がかつて文芸雑誌や新聞、作品全集等へ向けて執筆したものであり、内容はかなり重複している部分がありますが、そこからは2人の文豪の性格や逸話、また等身大の姿が浮かび上がってきます。

まず太宰治については檀が戦争で招集されるまでの数年間、毎日のように飲み歩いた仲であり、太宰がガスの元栓を開いて2人で自殺未遂のようなことをした経験さえあります。

またある時は家族からの依頼で熱海に逗留している太宰を連れ戻しに出かけた檀が、ミイラ取りがミイラになりそのまま2人で放蕩三昧を続けてしまうということがありました。

しかも東京へ金を無心に出かけた太宰がいつになっても戻ってこず、1人残された檀は未払い金のために半分人質のような形で旅館に軟禁されますが、とにかく見張り役付きで東京へ戻ってみると太宰が何食わぬ顔で井伏鱒二と将棋を指していたという、檀自身はこれを「熱海事件」と名付けています。

普通に考えれば親友として絶交に値する出来事ですが、檀は彼の個性、そして何よりもその才能を愛していたのです。

それだけに本書には檀でなければ書けない太宰のエピソード、その心内にあるもの、作品評価などを読むことが出来ます。

そして本書の後半に登場する坂口安吾と壇との本格的な交流が始まったのは戦後からのようです。

もちろん互いに痛飲し合う間柄でありつつも太宰のように親友同士というよりは、仲の良い先輩(安吾)・後輩(檀)といった関係だったようです。

戦後間もなく「堕落論」によって流行作家になった安吾ですが、その時ですら金は左から右へ流れるように使い、ドテラと浴衣、あとはフトンとナベとお皿1枚さえあれば三畳の貸間で充分という考えの持ち主でした。

酒は強いを通り越して異常な飲みっぷりであり、つねに酩酊していなければ気が済まないといった様子で、現代であれば確実にアルコール中毒者と診断されるような状態でした。

また周期的な躁鬱による度を越した言動で周囲を困らせるとった、やはりこちらも出来れば付き合いたくない先輩です。

檀はそんな安吾を真の自由な精神をもった人間として尊敬し、また思いやりの深い潔癖な一面もあり、そこから生み出される明確、かつザックバランで自由自在な文章へ敬意を抱いていました。

また何よりも檀は安吾を歴史上の偉人(たとえば信長、秀吉、家康)と肩を並べられるほどの人物だと考えていた節があります。

この1冊を丸々と読んでみると、2人がなぜ優れた作品を生み出すためには自己犠牲を伴うと考えていたのか、また戦争という大きな時代の流れに迎合したりせず、普遍的な真実をどこに求め続けたのかが分かってくるような気がします。

閑な老人



普段からジャンルを問わず読書をしていますが、たまに純粋な小説を読みたくなります。

それも刺激のあるものではなく、ゆったりとした気分で読める小説といえば本ブログでも何度か紹介している尾崎一雄氏の作品がおすすめです。

本書は1930年代から1980年まで、つまり約半世紀にわたる作品22編が収録されています。

尾崎一雄といえば一見するとエッセイなのか私小説か見分けがつかないほど自然な文体、そして過度な装飾を省いたシンプルな文章で書かれているのが特徴です。

尾崎の同世代の作家が執筆するエッセイといえば文学論を語ったり、ほかの作家を批評したりするものが多く、一方で私小説であれば破滅へ向かって放蕩三昧の日々の送る内容が典型でしたが、尾崎の作品はそのいずれにも属していません。

彼の作品は身近にある花鳥石草木を題材にしてみたり、妻や知り合いとの何気ない会話、日常の心境などを吐露してみたりと身近なものを題材にしていることが多いようです。

本書はエッセイスト萩原魚雷氏が編纂しており、尾崎一雄がさまざまな困難を乗り越え、楽しげな老後を迎えるまでの軌跡が分かるようなテーマを持っています。

たしかに本書では60代、70代に入り、足腰が衰え、耳も遠くなった時期の作品が多いのですが、老いた我が身を嘆くというより自然に受け入れるという姿勢で一貫しています。

それは若い頃に2度に渡って大病を患い、奇跡的に2度とも生還できたという経験から老後そのものが"生き得"という心境から来るものであり、著者はこの世に生きていることが楽しいと綴っています。

見方を変えると人間が永遠に死なないと仮想すると背すじが寒くなるとも語っています。
その理由は「始めがあったのだから終わりがある。安心である。」ということのようです。

そんな尾崎氏ですが、彼が二十歳のときに父親が亡くなり、実家に母親と3人の弟たちがいるにも関わらず東京における学生生活で放蕩の限りを尽くし、卒業後も定職に就かず執筆活動もしないという自堕落な生活を続けた時期があります。

結果として家から金を持ち出し、さらに株券や債権、土地、挙句の果てには家屋敷まで借金で差し押さえられたといいます。

昭和の文豪らしい凄まじいエピソードと実際の作品内容とのギャップに戸惑いを覚えますが、戦前・戦中・戦後と作家活動を続けてきた古強者である著者にとっては、それもまた人生のスパイスとして作品の味付けに一役買っているに違いありません。

旅のつばくろ



沢木耕太郎氏がJR東日本の車内誌「トランヴェール」で連載している旅に関するエッセイを1冊の本にまとめたものです。

「トランヴェール」に連載されていたことはあとがきで知ったのですが、たしかにエッセイで紹介されているのはJR東日本の管轄区域である東北から関東甲信越地方、北陸といった地域がメインになっています。

そこで自分と交流があった人、あるいは作品に思いれのある作家や芸術家のゆかりの地などを訪れた経験などが描かれています。

本書を読み始めてまず驚いたのは、"普通の旅"のエッセイだという点です。

"普通の旅"とは文字どおり目的地を決めてあらかじめチケットを購入し、旅先の宿泊施設で寝泊まりすることを指しています。

私にとっては著者のイメージは「深夜特急」が強すぎて、"沢木耕太郎"と"旅"といえば、バックパッカーたちのバイブルと言われた同書に書かれているような"普通でない旅"の方がしっくりと来るのです。

しかし冷静に考えれば「深夜特急」は1947年生まれの著者が26歳の頃に経験した旅であり、70歳を超えて同じようなスタイルで旅を続けることなどあり得ないとすぐに納得したりもします。

長く作家活動を続けてきた著者だけに、その交流範囲は広く鬼籍に入ってしまった人たちも少なくありません。

旅先でそうした人たちとの思い出を回想するシーンなどは若い作家では書けない味わいがあり、しっとりと読めます。
また旅先での風景、グルメ、市井の人たちの交流などを描いた場面では旅情を誘います。

「深夜特急」は読者の好奇心を刺激するページをめくる手が止まらなくなるような作品でしたが、本書は落ち着いた気分でゆっくりとページをめくりながら読むのが相応しい1冊です。

宮本武蔵



宮本武蔵といえば吉川英治の作品が国民的人気を得たこともあり、この作品により武蔵のイメージが定着したと言っても過言ではありません。

それは私にとっても当てはまり、史実は別として叉八やお通、沢庵和尚、宝蔵院流槍術の創始者・胤栄(いんえい)や柳生石舟斎などといった吉川作品での登場人物も印象に残っています。

本作品は剣豪小説の第一人者である津本陽氏による宮本武蔵であり、本ブログでも津本氏の本を30冊以上紹介していることからも分かる通り、私は彼の作品のファンでもあります。

津本氏の作品の特徴として、著者自身が剣道や抜刀術の有段者であるためその描写から非常にリアリティが感じられることです。

また装飾的な文章を極力用いず、淡々とした力強い描写も特徴であり、いかにも武道に通じた人が執筆する文章という感じに個人的には好感が持てます。

いずれにせよ吉川作品を意識しながら本書を読むことになりますが、当然のように作品中には又八もお通も登場せず、武蔵が胤栄や石舟斎の元で修行をするといった場面もありません。

一方で著者は柳生兵庫助を主人公にした大作を発表しており、本作品との両方に二人が出会う場面がクロスオーバーして描かれており、これは逆に吉川作品にはなかった要素です。

両作品に共通するのは、武蔵が剣の道を極めるために悩み葛藤し、それを克服してゆく姿が描かれている点ですが、その過程や性格には違いが見られます。

吉川作品での武蔵は修行に専念するために煩悩を振り払おうと苦しむ描写が多いですが、津本作品の武蔵はどちらかというと自らの剣術を上達させる過程、つまり命のやり取りをする立会いで勝利得るために工夫する描写に重きが置かれていると感じました。

またいずれ自身が世間から最強の剣豪として認められたあかつきには、有名な大名にそれ相応の身分で召し抱えられたいという世俗的な願望も抱いています。

まさに剽悍という言葉がぴったりと当てはまるのが津本作品の武蔵であり、それが殺伐とした戦国時代を生き抜く一介の剣士の姿として実にマッチしています。

この2人の作品が発表された間隔は半世紀近くもあり、当然のように津本氏は吉川英治の作品を読んだ上で執筆しているはずですが、吉川作品の武蔵像を否定するのではなく、自分なら武蔵をこう書くといった気概が作品から感じられます。

吉川英治氏の作品が文庫本で8巻で出版されているのに対して津本氏の武蔵は文庫本1冊で出版されていますが、分量は400ページ以上あり充分な読み応えがあります。

是非とも津本陽版「宮本武蔵」がもっと多くの人に読まれ、吉川作品同様に世間に広まってほしいと思わずにはいられない作品の出来だと思います。