本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

ジェイソン流お金の増やし方



お笑い、IT企業の役員、コメンテーターなど多彩なフィールドで活躍するアメリカ人芸人・厚切りジェイソンが資産運用、投資法を解説した1冊です。

私自身も株式投資や投資信託の経験がありますが、性格的にはまったく向いていません。

それは毎日株価の推移をチェックするのが億劫であり、指南書にあるような新聞の経済に関する記事や会社四季報の中から将来有望な企業を見つけ出すような作業が苦痛にしか感じられないからです。

一方で金融庁が老後30年間で約2000万円が不足するといった有名な試算(国の財政状況や年金制度、さらには現在進行系のインフレを考えるとまったく充分とは思えませんが)がありますが、とにかく平均寿命まで生きると仮定した場合、ある程度の老後資金が必要なことは確実に訪れる現実です。

しかし住宅ローン返済や子どもの教育費の支出を考えると悠長に投資を考える余裕がないといった人も多いと思いますし、まさしく私も該当する1人です。

こうした理由で今まで殆ど手にとってこなかった分野の本ですが、立ち寄った本屋でオリコン年間BOOKランキング2022で1位となったベストセラーという宣伝から興味本位で手にとってみました。

本書は小説ではなく投資法に関するノウハウ本であり、ベストセラーだけあって誰にでも理解できる言葉で解説しようとしている努力が感じられ、この分野の素人である私にとっては"広く浅い"内容であることがメリットになっています。

実際に内容を読んでゆくと個別の銘柄には一切手を出さない投資法が紹介されており、書かれていることはとてもシンプルでその根拠も要領を得た説明がされています。

つまり資産運用に関しては"ずぼらな"人でも実践できる内容であり、2時間もあれば読み終えられる分量であることから、ベストセラーになった理由がよく分かります。

もちろん投資に絶対の成功はありませんが、本書で紹介されている投資法はシンプルである一方で長期に渡る忍耐が求められます。

つまり失敗のリスクは低いが、短期間で資産が数倍になるような投資法ではありません。

私自身も参考になった部分は多いですし、投資に興味を持った人がはじめに手に取る本としては最適ではないでしょうか。

死刑囚の記録



著者の名前"加賀乙彦"は作家活動を開始してからのペンネーム(本名:小木貞孝)であり、かつて精神科医として東京拘置所(通称:小菅拘置所)へ勤務していた経歴を持っています。

著者はそこでゼロ番囚人(強盗殺人、強姦殺人などで死刑や無期の判決を受ける、あるいは受けた重犯罪者)、さらには死刑確定者無期受刑者の精神病患者が多いことに気付き、彼らに興味を持つようになります。

本書ではそこでの数多の囚人たちと面接、診療してきた経験と記録を元に執筆された本です。

私たちは日々の生活の中でさまざまなストレスを抱えており、こうしたストレスが時には精神的、身体的な不調となって表面化することはよく知られています。

一方で人間にとって最大のストレス状態、言い換えれば極限状態を想像すると、それは死刑囚の立場ではないかと思います。

いつかは分からないが近い将来、ある日不意に"おむかえ"が来るという恐怖の日々を狭い独房の中で過ごさなければならないからです。

ちなみに現在は死刑執行までの収容期間は平均14年という長さである一方、死刑執行の当日9時に本人への告知が行われ、その1、2時間後には執行されるようです。

また無期囚という立場を考えると、死ぬまで刑務所の中で多くの制約がある生活を強制される運命にあり、死刑囚とは違った意味で生きる目的を見い出すのが難しいことが想像できます。

私が同じ境遇に置かれたことを考えても、とても正常な精神状態を保ち続ける自信がありません。

死刑や無期という刑を受けるからには相応の罪を犯したから当然だという意見があるのも承知ですが、"死刑制度"を扱った本を何冊が読んできた経験から、個人的には死刑制度に反対の立場です。

それは世界の先進国の中で死刑制度が残っている国が圧倒的に少数であるという理由からではありません。

死刑制度に囚人を追い詰める効果はあっても犯罪抑止に効果があるという科学的・統計的なデータが存在しないこと、冤罪の可能性がある囚人へ対して取り返しのつかない刑であること、国家権力といえども人の命を奪う行為に正当性を見いだせないといった理由からです。

本書では囚人たちに見られる拘禁ノイローゼ、もう少し詳細に分類すると爆発反応(強烈な感情の爆発)、レッケの昏迷(精神の原始的な退化)、妄想被害躁鬱などの様子が、実際に面接・記録した著者が医学者という立場から詳細に記録に残しているのが特徴であるといえます。

一方で少数ではあるものの、宗教的な信仰や帰依によって精神的な平穏を手に入れた死刑囚の例も紹介されています。

人間の精神が持つ奥深さや神秘性、あるいは脆さや強靭さについて、さらには死刑制度そのものについても色々と考えさせられる良書となっています。

花渡る海



"漂流"といえば、吉村昭氏の小説でたびたび扱われるテーマです。

舵や帆柱を失った船が潮の流れに身を任せるままに大海を漂い、飢えと渇きに苦しみながらどこかに漂着、または他の船に救助される確約もない乗組員たち。

吉村氏は、こうした極限の状態に置かれた人間を描写するのを得意としています。

その文章には大げさな表現や長いセリフがなく、簡潔かつ俯瞰的に彼らの置かれた状況を説明し、人物の心理描写も最低限にして淡々と物語を進めてゆきます。

当人たちにとっては突然訪れた生死に関わる大きな不幸であっても、大自然の中ではいかに人間が無力であるかという"現実"を感じさせるのです。

本書の主人公である久蔵は、広島県川尻町(現在は呉市に編入)に生まれ、1810年(文化7年)に船乗りとして大阪から江戸へむかう千石船に乗り込みますが、荒天で破船し、カムチャッカ半島まで漂流、ロシアにより3年後に蝦夷に送還され、さらに翌年故郷に戻っています。

なぜこれほど詳細に彼の足跡が分かるかといえば、久蔵自身がこのときの体験を「川尻浦久蔵 魯斉亜国漂流聞書」という記録に残していたからです。

彼は船乗りになる前に禅寺で修行していた時期がある一風変わった経歴を持ち、農民の出自でありながら文章を書くことが出来たのです。

また同時に彼が日本へ初めて西洋式種痘法をもたらしたことがその記録から明らかになり、いわば郷土の歴史に埋もれた江戸時代の人物を作者が偶然に耳にしたことから本作品が生まれました。

教科書に載っているような歴史上の有名人を主人公にした歴史小説と対極に位置する作品ですが、ストーリーの濃厚さでは決して引けを取りません。

前述したように久蔵たちの載った観亀丸は漂流ののちカムチャッカ半島に漂着しますが、そこは北海道よりはるかに北に位置する土地であり、厳冬の時期にそこへ足を踏み入れた彼らはさらに過酷な状況に陥ることになります。

多くの仲間を失いながらもロシア人に救出された久蔵は、そこで異文化と接触することになり、ロシア人医師に凍傷にかかった足を手術してもらうことになります。

やがて帰国の夢が叶う久蔵ですが、当時たとえ漂流といえども鎖国政策を続けていたた日本では、異国人と接触した経歴をもつ者は罪人に等しい扱いを受けることになります。

江戸時代の農民出身の久蔵が体験した数々の苦難は波瀾万丈なものであり、読者はその物語に引き込まれてゆくのです。

真景累ケ淵



三遊亭円朝の代表作を2つ挙げるとすれば、前回紹介した「牡丹燈籠」と今回紹介する「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」と答える人が多いのではないでしょうか。

こちらも牡丹燈籠同様に大ネタ中の大ネタのため、現代では全編を寄席で聴く機会はまず無いと言っていいでしょう。

それでも「宗悦殺し」、「豊志賀の死」といった有名な場面は今でも高座で演じられる機会が多く、部分的に知っている人も多いと思います。

物語の展開も牡丹燈籠と似ていて前半は怪談話、そして後半は敵討ちという流れですが、物語自体は牡丹燈籠よりもさらに長く、登場人物の数も多いことから、1度読んだだけではその人物同士の相関図を完全に頭に入れるのは難しいかも知れません。

怪談、そして敵討ちに共通するのは"因果、因縁"といったキーワードです。

たとえば皆川宗悦とその娘たちお園豊志賀は、深見新左衛門とその息子である新五郎新吉にそれぞれ全く違った要因で殺害されることになりますが、、その怨念は殺害した当人のみならず周辺の人間までを巻き込んだ悲劇へと発展してゆきます。

そしてこの果てしなく続くような因果応報を最終的に断ち切り精算するのが、敵討ちです。

この敵討ちも簡単に果たされるものではなく、ある者は返り討ちによって倒れ、その意志をまた別の者が継いでゆくといった壮大なものになります。

娯楽の少なかった時代に寄席でこの「真景累ケ淵」を聴くことは、今で言えばテレビでの大河ドラマや映画でスターウォーズシリーズを見るようなものであり、当時の観客を夢中にさせたことは容易に想像がつきます。

ちなみに文明開化と言われる明治時代に入り、江戸時代のように幽霊を信じて疑わない人が減ってしまったこともあり、寄席での"怪談はなし"が廃れてしまったといいます。

つまり幽霊が見える人は神経病という言葉で片付けられるようになった時代に創られた噺であるため、この噺には"神経"に"真景(観光の名所などを指す言葉)"をかけた噺家らしい皮肉の効いた題名が付けられているのです。