本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上)

ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)

約10年ぶりに再読する作品です。

文庫本にして43巻に及ぶ大長編であり、またそれ以上にローマ帝国が持つ歴史の壮大さに圧倒された印象があります。

イタリアに長く在住している作家・塩野七生氏のライフワークを集大成させた作品であり、のちのち20世紀を代表する名著として評価される可能性が充分にある、時代を超えた普遍性を感じさせる作品です。

累計1000万部を超えていることもあり、本書を手にとった人も多いのではないでしょうか。

第1巻の副題は有名な「ローマは一日にして成らず」です。

神話と歴史が交差する紀元前8世紀に、狼によって拾われ育てられたロムルスによる建国、それから続く6人の王たちは、わずかな領土しか持たないローマの勢力範囲を少しずつ広げてゆきます。

また戦争だけでなく、ローマの町を干拓して下水道を整備したりする公共事業にも熱心であり、荒野だった土地を町として発展させてゆくことにも余念がありませんでした。

何もなかったローマの7つの丘に人々が住み始めて発展してゆく様子は、"国造り"というより"町造り"といった表現が相応しく、周りにはギリシア人の植民地やエトルリア人といった、ローマよりも遥かに強大な力を持った国家が存在していました。

しかし誰に気にかけないほど小さな国家であるローマが、1歩1歩着実に成長してゆく大きな要因が既にこの頃から表れていました。

それは戦争によって勝利し、敗者となった敵国の住民たちを奴隷とはせずに市民として迎えたことです。

さらに彼らが信じていた神さえも容認し、自分たちの神に加えていった結果、ローマには30万という数の神々が存在したと言われています。

世界史では皇帝の名前を暗記するのが苦痛だったローマ史ですが、塩野氏の描くローマ人の物語は、その楽しさを気付かせてくれる1冊です。

このブログではしばらく「ローマ人の物語」をレビューする日々が続きそうですが、マイペースで紹介してゆきたいと思います。

すき・やき

すき・やき (新潮文庫)

本作の主人公は、日本へ留学している中国人女性・梅虹智(ばいこうち)。

彼女は、日本人と結婚した姉の家に下宿しながら、日本語学校から日本の大学へ進学することになります。

そして大学生となった虹智が大学やアルバイト先で文化や風習の違いに戸惑いながらも、若者らしくさまざまな経験を通じて成長してゆく過程を描いた物語です。

ストーリー自体は普通の女子留学生の日常を描いており、同じような経験をしている留学生が実在してもまったく違和感が無いほどに普通です。

しかし案外と何気ない日常を小説にするのは、大きなテーマやメッセージ性のある小説を書くよりも難しいものですが、本作はそれを自然体で実現しているように思えます。

それはやはり作者である楊逸(やん いー)氏が中国出身の小説家であり、本書が自らの体験を重ねた"私小説"としての要素を持っていることが大きいと思えます。

かなり以前紹介した楊氏のデビュー作「時が滲む朝」が、文化大革命天安門事件をテーマにしたメッセージ性の強い作品だったことを考えると対照的に見えますが、実は本作品の根底にも大きなテーマが横たわっているのかも知れません。

たとえば本書に登場するのは主人公をはじめとした中国人、そして大部分を占める日本人、さらに虹智へ想いを寄せる韓国人留学生が登場します。

いずれも日本にもっとも近い国の人々であり、そこからはグローバリズムというよりも、東アジア内の文化交流、近隣諸国との友好関係といったメッセージを汲み取ることが出来ます。

もっとも読者がそこまで肩肘張る必要はなく、ごく普通の小説として読み、ごく普通に楽しむことのできる作品です。

殉教

殉教 (新潮文庫)

今回で3回連続となる三島由紀夫氏の作品レビューになります。

1回目は長編小説、次に戯曲、そして今回は短篇集です。

三島由紀夫の魅力の1つとして、その幅広い作風が挙げられます。

もちろんその根底には一貫した"何か"が流れているのでしょうが、たとえば三島由紀夫を尊敬している作家・浅田次郎氏も作品ごとに色々な作風を使い分けているのもやはりその影響でしょうか。

本作品に収められているのは以下の9作品です。

  • 軽王子と衣通姫
  • 殉教
  • 獅子
  • 毒薬の社会的効用について
  • 急停車
  • スタア
  • 三熊野詣
  • 孔雀
  • 仲間

もともと三島氏に明るくハッピーエンドになる作品は少ないのですが、一方で救いようのないほどの陰鬱としたイメージでもなく、どの作品にも共通の雰囲気が漂っています。

三島氏自身の死により自注は残っていませんが、あとがきで触れらているようにメモ書き程度のノートは残っており、そこからは"貴種"、"孤独"、"異類"といったキーワードを拾うことが出来ます。

一見して難解そうにみえる作品でも三島氏の自注は常に明確であり、それが例えキーワード程度のものでも、やはりそこから作品のテーマが見えてきます。

先ほど挙げた「貴種、孤独、異類」を反対の言葉「卑俗、集団、同類」と対比させてみると、どれも似たようなニュアンスを含んでいることに気付きます。

つまり本作品に登場する主人公たちは、常人と同じ地上に生きながらも、日常や大衆から隔離された原理の世界にいる人間と定義することができます。

そのため大多数の読者にとって、本作品の主人公たちへ感情移入することは難しいでしょう。

よって本作品は個人の嗜好で読むのではなく、形而上的に読んでみると楽しめます。

私自身、疑いようのない"俗物"であることを認めますが、それ故に作品から現実世界との鮮やかな対比が浮かび上がってくるのです。

これは子どもの頃にやはり現実世界とはかけ離れた童話を読むことによって、実際の人間社会を少しずつ認識してゆくのと似ている気がします。

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (新潮文庫)

三島由紀夫氏による代表的な戯曲「サド侯爵夫人」、「わが友ヒットラー」が収められている1冊です。

簡単に説明すると戯曲は、演劇の脚本そのものを指します。

「サド侯爵夫人」に登場するのは女性のみの6人であり、それと対照的に「わが友ヒットラー」では男性のみ4人という配役です。

その中でもやはり特筆すべきは、日本国外で高い評価を受け、現在に至るまでも公演され続けている「サド侯爵夫人」になるでしょう。

"サド侯爵"は実在の人物ですが、本作で描かれるサド侯爵をひと言で表現すると"変態"という身も蓋もない表現になります。

もう少し深い表現をすれば、あらゆる宗教的、道徳的概念から自由な立場で快楽を追求し続けた"愛の求道者"ということになるでしょうか。

しかしこの作品にとってポイントになるのは、サド侯爵本人が登場人物に含まれていない点です。

あくまでも登場する女性たちの目を通して、サド侯爵の性格、思想、哲学、そしてその行為が語られるのみであり、彼女たちはいずれも観客にとっての代弁者を象徴的に演じているのです。

それを三島氏自身は次のように語っています。

サド夫人は貞淑を、夫人の母親モントルイユ夫人は法・社会・道徳を、シミアーヌ夫人は神を、サン・フォン夫人は肉欲を、サド夫人の妹アンヌは女の無邪気さと無節操を、召使シャルロットは民衆を代表して、これらが惑星の運行のように、交錯しつつ廻転してゆかねばならぬ。

まさしく本作品はこの意図通りに書かれています。

登場する6人の女性たちは、いずれも個性的でその性格も分かり易く、複雑な内面を持つ小説の主人公とは明らかに違い、観客たちは短い時間で"演劇"の世界へ入ってゆくことができます。

つまり彼女たちによって交わされる会話は、それが社交上のものであろうと本音であろうと、観客たちを演劇に夢中にせずにはいられないのです。

これは彼女たちの立場や信念によって発せられているセリフを精密かつ大胆に計算し尽くした、三島氏の才能がそうさせているのは言うまでもありません。


「わが友ヒットラー」は体育会系であり政治的でもある男性的なストーリーとなっており、世間一般的に考えられている"三島由紀夫の世界観の断片"を感じられる作品に仕上がっています。

私にはむしろ後半の「わが友ヒットラー」があるからこそ、前半の「サド侯爵夫人」がより一層際立っているように思え、そこに三島由紀夫の作家としての幅の広さを感じました。


セリフを中心に展開してゆく戯曲は誰によっても読みやすく、はじめて三島由紀夫の作品に触れるのなら是非本作品から読んでみることをお薦めします。

盗賊

盗賊 (新潮文庫)

三島由紀夫氏が22歳の頃に発表した長編小説です。

彼は若い頃よりその才能を認められていた作家ですが、物語の組み立てからその描写力に至るまで、とても22歳が書いたとは思われない小説です。

ただ無駄のない筋肉質で鋭い表現の中に、作者の若さが僅かに垣間見れる程度です。


子爵の一人息子として生まれ育ち、あまり感情を表に出すことのない大人しい性格の藤村明秀、そして男爵家の令嬢の内山清子が本作の2人の主人公といえるでしょう。

2人には、ある共通点がありました。

それは奔放な異性と交際し翻弄された挙句に失恋した経験、そして若くして静かに""を決意しているという点です。

この2人の出会いが、自らに欠けていたパズルのピースをお互いの中に見つけ出すといった結果にはならず、自分の姿を鏡で写したかのような幻影を互いに見出すのです。

いわゆる若いカップルの心中物語と言ってしまえばそれまでですが、本作品で描かれる日常の風景はあくまで静かであり、燃えるような恋、絶望的な悲哀といった場面がいっさい登場しません。

2人は共謀した""への用意周到な日々を淡々と送る一方で、友人、そして家族さえもその"陰謀"に気付く者は誰1人として現れず、それどころか傍目から仲睦まじい恋人同士としか映らないのです。

それは三島氏自身がはじめからこの作品で""をテーマにすることを決めており、その形をより浮かび出せるために"自殺"という手段を作品の中へ取り入れたに過ぎず、本質的なテーマを邪魔する存在そのものをストーリーから排除しているのだから当然とも言えます。

この三島氏の意志は作品を通じてかなり明確であり、たとえば次のような文章の中からも読み取ることが出来ます。

少しばかり悪ふざけに類する物言いをゆるしていただきたい。「死の意志」というこの徒ごとのおかげを以って、彼はいよいよ死ぬところへ行くまで生きていることができるのだ。彼を今即刻死なせないでいるものは、他ならぬ「死の意志」だ。作者も亦それに感謝しなくてはならない。なぜなら物語が終わるまで主人公を生かしてくれるのは、彼自身の「死の意志」の力に他ならないのだから。

"若いカップルの心中"は文学における伝統的なテーマですが、現在ではそれほど取り上げられる機会は多くはありません。

道徳や既成概念といったものを超えた世界を味わえるのも、文学の奥深さであるといえます。

99・9%は仮説

99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)

副題に"思いこみで判断しないための考え方"とありますが、我々が常識だと思い込んでいることが実は"仮説"にしか過ぎないことを、読者へ科学的な視点から立証してゆくのが本書の主な内容です。

著者の竹内薫氏には科学を題材とした著書が多数ありますが、最先端の科学を分かり易く解説してくれるため、私のような専門的な知識が無い人でも手軽に読むことができます。

例えば多くの人が利用する飛行機は、最先端の科学でも"飛ぶ仕組み"を完全には説明できないそうです。

さらに"地球温暖化"、"地震"についても、その理由を完全に証明できていないのが、現在の科学だそうです。

つまり原因と説明れているものはすべて"仮説"に過ぎず、実際に検証されて"定説"となったものは1つもないのです。

これは将来的に、地球温暖化の主要な原因とされる「人間による二酸化炭素の輩出」が、180度くつがえる可能性があることを示しています。

地動説」を打ち立てたコペルニクスも生きているうちにその理論や功績が認められなかったように、歴史上こうした例は枚挙にいとまがなく、新しい発見のために科学者として"常識を疑う姿勢"がいかに大切かを教えてくれます。

本書は科学の一般教養書として、そして何よりも科学への知的好奇心を刺激する本として充分な役割を果たしおり、一気に読み終えてしまうような魅力のある1冊でした。

それだけに本書の「科学者に限らず、何でも"思いこみ"せずに常識を疑う姿勢が必要」という主張は理解できますが、これは少々蛇足だったかも知れません。

それよりも科学の分野にこれから進む人、現在従事している人にとって、その基本的な心構えを学ぶために是非読んで欲しい本です。

一刀斎夢録 下

一刀斎夢録 下 (文春文庫)

引き続き、浅田次郎氏の「一刀斎夢録」下巻をレビューしてゆきます。

本書の面白いところは、老剣士である斎藤一が、明治末期に新選組の三番隊組長の時代を振り返りながら語るというところにあります。

話相手である梶原稔は20代の若き軍人であり、明治維新どころか西南戦争の時代にも生まれていません。

大正時代を迎えつつある"東京"は、電車や街灯の灯るハイカラな都市になりつつありました。
若者たちにとって、わずか45年前には二本差しの丁髷の侍たちが"江戸"を闊歩していたのがまったく想像できないほど変貌していたのです。

私自身、第二次大戦から30年以上が経過した時代に生まれましたが、戦争の傷跡はどこにも見当たらず、戦争の話を聞いても随分と昔の話を聞いているような気がしたものです。

日本は明治維新後、積極的に西洋文化を取り入れ、日中日露戦争と勝利してわずかな間に近代国家の仲間入りを果たしましたが、急激な成長を遂げれば遂げるほど、時代の変化も急激になるのです。

老剣士こと斎藤一の話は、坂本龍馬暗殺の張本人が自分であるところからはじまり、鳥羽伏見の戦い白河・会津への転戦、警察官たちによって組織された抜刀隊の一員として西南戦争へ参加した話へと、長編小説の中で余すことなく語られてゆきます。

本書の中で、斎藤一は生涯で(数えてはいないものの)100人余りを斬ってきたと告白していますが、彼の歩んできた生涯を考えると、事実の数字と近いものであったと思えます。

明治維新という時代で100人を斬ったという所業は、動乱の時代といえども味方敵を問わず畏怖の念で見られたに違いありません。

しかし平和な時代に数人を斬り殺せばただちに"殺人鬼"、"狂人"と呼ばれ、社会から抹殺されてしまいます。

善悪の観点から見れば、その違いは曖昧なようにも思えます。

しかしそこには明らかな線引があります。

それは、斎藤一が、武士(侍)として時代を生きてきたからです。

新渡戸稲造の「武士道」を読むまでもなく、武士にとって「」や「」、「」などの徳目は大事なものです。

つまり立場が違えば、武士は自らの正義と責任を果たすために親子といえども戦いを辞さないという考えが不文律として存在していた時代だったのです。

さらに武士にとっての武勇は、最終的に敵を倒すといった目的に集約される以上、その強さは賞賛されるべき面もありました。

一方で武士が互いに名乗り合って正々堂々と戦う中世時代で無かったのは事実であり、斎藤一も生き残るためにあらゆる方法を使って白刃の下をくぐり抜けてきたのです。

それは宮本武蔵が一乗寺下り松で吉岡一門と決闘したときの場面を連想するかのような戦いであり、そうした意味で斎藤一は世渡りも下手で、武士よりも剣豪といったイメージに近いのかもしれません。

ただし本書はけっして"剣豪小説"ではなく、わずか150年前に実在した武士の人生として、生々しい現実味のある迫力として読者に迫ってきます。

一刀斎夢録 上

一刀斎夢録 上 (文春文庫)

今回の紹介するのは浅田次郎氏の「壬生義士伝」「輪違屋糸里」に続いて、新選組三部作の最後を飾る「一刀斎夢録」です。

本書の主人公は、新選組の副長助勤、三番隊組長を務めた"斎藤一"です。

本書のタイトルは、"斎藤一"を逆から音読みして"一刀斎"、そして斎藤一の口述を記録したものが「夢録」という書物で残っていると子母沢寛が伝えているところから、「一刀斎夢録」という凝った題名になっています。

近藤勇土方歳三沖田総司永倉新八原田左之助といった新選組の代表的なメンバーにはそれぞれ特徴的な個性がありますが、斎藤一は主要メンバーであるにも関わらず一見すると分かりずらい謎の多いイメージがあります。

新選組屈指の剣の遣い手であり、無口で冷静というクールなイメージがある一方で、残忍で容赦のない"人斬り"という暗いイメージもあります。

それを裏付けるかのように彼は武田観柳斎谷三十郎をはじめとした新選組内部での粛清を担当する機会が多く、彼の仕事人ぶりは土方歳三から絶大な信頼を得ていた感があります。

確かに同じ釜の飯を食った仲間の命を奪う役目は尋常な精神力では務まりません。

そうした意味では、新選組のもっとも暗い部分を歩んできた男だったのかも知れません。

時は明治天皇が崩御した明治の終わり。
陸軍中尉であり当時を代表する若き剣士である梶原稔が、ある老人を訪ねるところから物語が始まります。

そしてその老人こそが、かつて幕末の京都を震え上がらせた新選組三番隊組長の斎藤一なのです。


斎藤一の口述が記録されているとされる現在でも未発見の「夢録」。

それが実際に発見されたならば一体どのようなことが書かれいてるのか?

自らも新縁組ファンである浅田次郎氏が、作家としての立場でファンを代表してその夢を再現したのが本書です。

老人は若き剣士に剣の極意どころか、訓話らしいことを何一つ伝えず、次のような前置さえするのです。
「真剣勝負に名利は何もない。死にゆく者と生き残る者のあるだけじゃ。すなわち正々堂々の立ち合いなどあろうものか。おたがいひとつしか持たぬ命のやりとりじゃによって、卑怯を極めた者の勝ちじゃよ。わしのふるうた剣がそのようなものであったことを、言い忘れおった」

そして彼の口から語られる新選組での戦いの日々が語られようとするのです。

危機の宰相

危機の宰相 (文春文庫)

以前に岸信介の伝記をブログで紹介しましたが、今回は岸のあとを継いで総理大臣となった池田勇人を中心とした男たちの生涯を描いた1冊です。

著者はノンフィクション作家として有名な沢木耕太郎氏です。

岸信介がエリート中のエリート官僚として政治家へ転身し後に総理大臣となったのとは対照的に、池田勇人は出世コースから外れた"赤切符組"として大蔵省に入り、その後難病によって5年間もの間を闘病生活を送り、大蔵省を退職せざるを得ない状況に追い込まれてます。

しかし難病が完治してから運良く大蔵省へ復職することになりますが、その後は選挙に立候補して政界へ進出することになります。

岸信介が55年体制確立の立役者となり、安保改定という新しい安全保障の枠組みを構築しようとしたことは知られています。

つまり政治や政策、外交の安定化を進めることによって、戦後の日本復興に大きな影響を与えた政治家であったのです。

ここでも岸とは対照的に、池田は日本が敗戦から立ち直った後の発展期のバトンを受け取ることになります。

そこで池田内閣が掲げたもっとも有名なスローガンが「所得倍増」です。

この誰にでも分かり易いスローガンは多くの国民に支持され、政策も大成功を収めることになります。

しかし元大蔵省の官僚とはいえ、総理大臣という様々な課題を扱う立場にあって経済政策のみに注力することは出来ません。

本書では池田勇人、池田の(右腕を超えて)両腕とさえ評された田村敏雄、孤高の経済学者として「所得倍増計画」の立案を担った下村治の3人の人間ドラマに触れられています。

この3人のうち誰か1人が欠けても「所得倍増計画」が誕生するこはなく、結果として劇的な経済成長も無かったかも知れません。

3人はいずれも人生の中で過去に大きな挫折を味わっており、この敗者同士がスクラムを組んで志を実現した物語でもあるのです。

さらに立身出世だけでなく、彼ら3人の"人生の黄昏"までもを追求してゆくところが沢木耕太郎氏らしい切り口です。

3人の関係は決して"主従"ではなく、いずれも自立して夢を実現しようとした男たちであり、そのため軋轢さえも生じることがありました。

そこからは高杉晋作の「艱難をともにすべく、富貴をともにすべからず」という言葉を思い出させます。

日本が飛躍的な成長を遂げる時代に総理大臣を務めた池田勇人の名は後世に残ると思うのと同時に、私自身が生きている間にもう2度と「所得倍増」というスローガンを掲げた総理大臣が現れることはないだろうという寂しさも感じるのです。

十七歳の硫黄島

十七歳の硫黄島 (文春新書)

硫黄島の戦いでまず真っ先に思い浮かべるのは、総司令官の栗林忠道中将です。

彼は硫黄島に上陸してくる物量と兵力ともに圧倒的な有利な米軍へ対し、従来の玉砕戦法を禁止して"徹底的な持久戦"を立案しました。

その結果として米軍へ大打撃を与えたものの、絶望的な戦況の中で突撃を敢行して自決したその最期は、なかば悲劇の英雄であり、アメリカでも"日本の最も有能な指揮官"として評価されています。

そして映画で有名になったのをきっかけに、多くの栗林中将の伝記が出版されています。

しかし本書のように硫黄島で戦った一兵卒の体験記というのは貴重な存在です。

それは硫黄島の戦いに参加した21,000人以上の日本兵で中で、生き残ったのはわずか1,023人という理由からであり、多くの命が太平洋に浮かぶ孤島で失われていったのです。

著者の秋草鶴次氏は通信兵として17歳で硫黄島へ赴任し、そのままアメリカ軍との戦闘に参加しますが、秋草氏のような青年兵にとって栗林中将は遠目から見たことはあっても直接会話する機会などまずない雲の上の存在であり、そもそも彼らにとって将校たちは"お偉いさん連中"という程度の認識しか持っていませんでした。

この立場の違いは想像以上に大きいものです。

当時の栗林中将は50歳を過ぎた老練の将軍であり、優れた戦略眼を持っていました。
つまり硫黄島へ赴任してきた時点で、その部隊がアメリカ軍の本土侵攻までの時間を稼ぐ捨て石になることを充分に理解していたのです。

一方で17歳の青年兵がそんな事情を知るはずもなく、戦争の勝利と生きて帰国する希望を持って硫黄島にやってきたのです。

一見すると玉砕を禁止して持久戦を徹底する司令部の方針は人道的のような印象を持ちますが、制空権も制海権も失った硫黄島へ補給があるはずもなく、武器弾薬どころか水や食料といった物資が決定的に不足することによって、兵士たちは地獄の苦しみを長時間に渡って経験しなければならない状況下で戦闘を強いられたのです。

圧倒的な火力の前では、狭く遮蔽物のほとんど存在しない硫黄島の地上で戦闘するこは直ちに死を意味しました。
そこで兵士たちは地下壕に潜みつつ戦うことになりますが、そこは地熱による熱気と死臭が立ち込め、地獄のような空間です。

さらに焼夷弾や手榴弾、火炎放射器といったあらゆる兵器を使ってアメリカ軍が日本兵を殲滅しようとします。

もちろん勇敢な日本軍によってアメリカ軍にも大きな打撃を与えますが、歴然とした物資や火力の差はすぐに戦況にはっきりと現れます。

そこら中に死体が重なり、それは遺体といった印象にはほど遠い肉片や腐乱した遺骸であり、どんな映画でも硫黄島の戦いを再現することは不可能でしょう。

硫黄島からの手紙」、「父親たちの星条旗」といった硫黄島の戦いを舞台にした映画でも、その内容は本書に書かれているような地獄の風景とは遠くかけ離れたものでした。

次々と戦友たちが無残な最期を迎え、秋草青年兵も餓えと渇きで生死を彷徨うような壮絶な経験をします。

やはり本人の脳裏に焼き付いた記憶や映像から書き起こされた戦争体験記には有無を言わせない迫力と説得力があり、世代を超えて読み継がれるべき1冊だと思います。

古風堂々数学者

古風堂々数学者 (新潮文庫)

本ブログでは過去にも「祖国とは国語」、「数学者の休憩時間」、「父の威厳 数学者の意地」といった藤原正彦氏のエッセーを紹介していますが、本書が4冊目になります。

著者は戦後に育った世代ですが、日本の伝統や精神を重んじる骨太な主張を持っていることで知られています。

一方で理論による証明だけが唯一の価値を持つ数学者としての職業にあり、また時には軽妙なユーモアで読者を楽しませる振り幅の広いスタイルは、多くの読者の支持を得ています。

たとえば著者は、父(新田次郎氏)の口癖であった「弱者を守る時だけは、暴力も許される」といった家訓をそのまま自分の子どもにも受け継がせています。

凶悪な事件が起こるたびに「暴力は悪である」、「みんな仲良く」といった文句がTVに登場し、きっと教育現場でも同じようなものだと想像できます。

しかし戦争やテロの原因は常に大人にあり、暴力満載のマンガや映画を作るのも大人たちであり、周りを見ればまったく現実的でないことが分かります。

私個人にしても社会の中で誰とでも仲良くやっていける訳ではありません。

それよりも武士道精神としての卑怯を憎む心、もっと分かり易くいえば「自分よりも弱い人間へ暴力をふるうのは恥ずかしいこと」、「多数で少数を攻撃すのは恥ずかしいこと」といった価値観を幼い頃から養うべきという著者の教育方針は、私にとっても現実的で腑に落ちやすい主張です。

またこうした価値観は、自国の伝統や歴史、そして東西の名著といった本を通して養うことが重要であり、そのためには英語よりも徹底的に国語(日本語)を重要視した教育カリキュラムに改めるべきだと主張しており、それは「祖国とは国語」にも詳しく書かれています。

つまり美辞麗句を並べたような標語を信じて疑わない人間ではなく、自分の頭で考えられる人間でなければ"真の国際人"として日本が世界から認められることもありません。

そんな著者は、大学のゼミで学生と次のようなやり取りをする少し意地悪な一面があります。

「暴力は絶対に許されない」という学生には、「それではすべての革命は許されないのですね」と問う。

「一人の命は地球より重い」と唱える学生には「自分以外の人々を救うために一命を投げ出すことは気高い行為ではないのですか」と問う。

「個人の自由だけは譲れない」と息巻く学生には「各人が自由を貫くと、家族は崩壊します。するとあなたへ仕送りもなくなり、自分で学資を作らねばならず、多くの自由をあなたは失いますがいいのですね」と問う。

どこか半分楽しみながら学生とこうしたやり取りをしている著者の姿を思い浮かべると微笑ましくもあり、この学生たちが少し羨ましいと感じてしまいます。