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一刀斎夢録 下

一刀斎夢録 下 (文春文庫)

引き続き、浅田次郎氏の「一刀斎夢録」下巻をレビューしてゆきます。

本書の面白いところは、老剣士である斎藤一が、明治末期に新選組の三番隊組長の時代を振り返りながら語るというところにあります。

話相手である梶原稔は20代の若き軍人であり、明治維新どころか西南戦争の時代にも生まれていません。

大正時代を迎えつつある"東京"は、電車や街灯の灯るハイカラな都市になりつつありました。
若者たちにとって、わずか45年前には二本差しの丁髷の侍たちが"江戸"を闊歩していたのがまったく想像できないほど変貌していたのです。

私自身、第二次大戦から30年以上が経過した時代に生まれましたが、戦争の傷跡はどこにも見当たらず、戦争の話を聞いても随分と昔の話を聞いているような気がしたものです。

日本は明治維新後、積極的に西洋文化を取り入れ、日中日露戦争と勝利してわずかな間に近代国家の仲間入りを果たしましたが、急激な成長を遂げれば遂げるほど、時代の変化も急激になるのです。

老剣士こと斎藤一の話は、坂本龍馬暗殺の張本人が自分であるところからはじまり、鳥羽伏見の戦い白河・会津への転戦、警察官たちによって組織された抜刀隊の一員として西南戦争へ参加した話へと、長編小説の中で余すことなく語られてゆきます。

本書の中で、斎藤一は生涯で(数えてはいないものの)100人余りを斬ってきたと告白していますが、彼の歩んできた生涯を考えると、事実の数字と近いものであったと思えます。

明治維新という時代で100人を斬ったという所業は、動乱の時代といえども味方敵を問わず畏怖の念で見られたに違いありません。

しかし平和な時代に数人を斬り殺せばただちに"殺人鬼"、"狂人"と呼ばれ、社会から抹殺されてしまいます。

善悪の観点から見れば、その違いは曖昧なようにも思えます。

しかしそこには明らかな線引があります。

それは、斎藤一が、武士(侍)として時代を生きてきたからです。

新渡戸稲造の「武士道」を読むまでもなく、武士にとって「」や「」、「」などの徳目は大事なものです。

つまり立場が違えば、武士は自らの正義と責任を果たすために親子といえども戦いを辞さないという考えが不文律として存在していた時代だったのです。

さらに武士にとっての武勇は、最終的に敵を倒すといった目的に集約される以上、その強さは賞賛されるべき面もありました。

一方で武士が互いに名乗り合って正々堂々と戦う中世時代で無かったのは事実であり、斎藤一も生き残るためにあらゆる方法を使って白刃の下をくぐり抜けてきたのです。

それは宮本武蔵が一乗寺下り松で吉岡一門と決闘したときの場面を連想するかのような戦いであり、そうした意味で斎藤一は世渡りも下手で、武士よりも剣豪といったイメージに近いのかもしれません。

ただし本書はけっして"剣豪小説"ではなく、わずか150年前に実在した武士の人生として、生々しい現実味のある迫力として読者に迫ってきます。