本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

獅子の系譜

獅子の系譜 (文春文庫)

戦国の世に終止符を打った徳川家康

その偉業は多くの家臣たちの活躍によって成し遂げられたことは言うまでもありませんが、その中でも特に功績のあった側近たちは「徳川四天王」と呼ばれ、次の4人が名を連ねています。

  • 酒井忠次
  • 本多忠勝
  • 榊原康政
  • 井伊直政

まず酒井忠次はその活躍もさることながら、家康との血縁関係、また家臣団のなかでもっとも年長で宿老という立場であったことから、四天王の1人に当然入るべき人物です。
ちなみに石川数正もほぼ同等の立場でしたが、のちに出奔して秀吉に仕えたことから評価から漏れています。

続いて本多忠勝榊原康政は家康とほぼ同年代であり、少年の頃より家康に仕えて数々の戦功を挙げた武将として知られています。その他にも本多正信本多重次鳥居元忠など、多くの功績のあった同年代の武将たちがいます。

この中で異彩を放つのが、本多忠勝たちより更に一回りは年下でありながら四天王の1人として加えられている井伊直政です。

家康によって見出された当時の直政はまだ少年であり、秀吉にとっての加藤清正福島正則石田三成らと同様の子飼い武将として活躍しました。

前置きが長くなりましたが、本書は津本陽氏による井伊直政を主人公にした歴史小説です。

津本氏がたまに用いる手法ですが、本書では井伊直政の生涯を淡々と時系列で綴っています。

作品中で著者が感情移入を行うことは殆どありませんが、直政のみならず彼の周辺で起こった出来事を含めて詳細に描いています。

歴史小説に物語性を求める読者にとっては不満が残るかも知れませんが、直政が戦国時代にどのような活躍をしたのか、またその逸話を知りたい読者にとっては充分に満足できる内容です。

つまり歴史小説と歴史専門書の中間に位置するような作品です。

そこから浮かび上がってくる井伊直政像は、戦国武将の申し子のようなその生涯です。

幼い頃に今川家などによって一族を次々と殺害され、自身も命を狙われたため寺に匿われて育ちますが、家康に仕えてからは命知らずの勇猛な武将として活躍します。

直政といえば「井伊の赤備え」が有名ですが、これはかつて家康自身が大敗を喫した武田信玄(なかでもとくに山県昌景)の朱色に統一された軍装を、のちに甲斐と信濃を平定した時に武田遺臣とともに取り入れたものです。

武田信玄亡き後もそのブランド力は戦国随一であり、元服して間もない直政がそれを一手に引き継ぐことになったこと、そしてそれを叩き上げの武将たちが嫉妬したことからも家康がいかに直政を寵愛し、また評価していたかが分かります。

ちなみに「井伊の赤備え」は形骸化しつつも幕末まで伝統を残しますが、少なくとも井伊直政は"赤備え"の名誉に相応しく、(時には残忍なほどに)勇猛に活躍する一方で政治面では配慮深く、秀吉からも高く評価される器量を持ちあわせていました。

知っているようで知らない井伊直政の生涯を充分に堪能することのできる1冊です。

夕映え天使

夕映え天使 (新潮文庫)

浅田次郎
氏は長編小説から歴史小説、エッセーに至るまで多くの作風を持っていますが、個人的には浅田氏の手掛ける短編集がもっとも好みです。

そんな短編集の中の1冊が本書であり、6作品が収められています。

  • 夕映え天使
  • 切符
  • 特別な一日
  • 琥珀
  • 丘の上の白い家
  • 樹海の人

当然のように期待に胸を膨らませながらページを開きますが、その期待を満足させてくれる作品ばかりです。

個人的には、期待しながら読み始めたベストセラー作品にがっかりしてしまう経験が少なくありません。

その点「浅田次郎+短編小説」という組み合わせは鉄板の面白さです。

この短編集で私の感じたテーマは、ずばり"オヤジ"です。

団塊世代を筆頭とするだけに中年から初老に差し掛かった男性の姿は街中に溢れており、彼らはバブルを頂点とする高度経済成長期の担い手でありましたが、一方でファッションや音楽シーンの最先端からは程遠く、インターネットに代表される情報化社会にもうまく適応できていない傾向があるため、私のように団塊ジュニア以降の世代から見ると、(失礼ながら)"時代遅れ"になりつつ世代といった印象があります。

このような世代間のギャップは大昔から繰り返されたきたことであり、人生の先輩から後輩へ言いたいことも同じくらいあるということも充分に認識していますが、本書にはそんなオヤジたちの物語が綴らています。

夕映え天使」、「特別な一日」、「琥珀」にはオヤジたちが今の時代を生きる姿が、ときおり悲哀を垣間見せつつも、そこには充実した半生を過ごしてきた円熟さと共に描かれています。

一方で「切符」、「丘の上の白い家」、「樹海の人」には、オヤジたちの少年、青年期の過去が綴らています。とくに「樹海の人」には浅田氏が自衛隊に所属していた若い頃の経験が綴られており、興味深い作品です。

そんな"オヤジ"たち世代の特徴は、(個人的な状況は別として)戦後の貧しい時代、そしてバブルの絶頂期という"底辺"と"頂点"両方の時代の空気を経験してきているということです。

浅田氏自身も幼少期は裕福な家庭で育つものの、やがて破産し親族の家に預けられて育つことになります。その後も大学受験に失敗して自衛隊に入隊し、除隊後は自ら会社を経営そして倒産するという起伏の多い人生を過ごしています。

そのため小説家として初の著書が刊行されたのが40歳過ぎという遅咲きの作家として知られています。

経済的にはパッとせずとも経済大国となって久しい日本に育った私から見ると、それはある意味羨ましく感じる部分でもあり、世代を超えて共感せずにはいられないのです。

狭山事件 - 石川一雄、四十一年目の真実

狭山事件 ― 石川一雄、四十一年目の真実

1963(昭和38)年、埼玉県狭山市で1人の女子高生が何者かによって殺害される事件が発生します。

この事件は猟奇的な連続殺人事件、あるいはテロリズムによる殺人といった特別な事件ではなく、多くの類似事例がある誘拐殺人事件でした。
にも関わらずこの「狭山事件」が戦後の代表的な事件として取り上げられるのは幾つかの特徴的な性格があるからです。

それを要約すれば以下のようになるでしょう。

  • 容疑者が被差別部落出身だった。
  • 容疑者は充分な教育を受けておらず、文字の読み書きが不自由だった。
  • 根強い冤罪説がありながら、未だに事件の真相が究明されていない。

本書はルポライターである鎌田慧氏が、狭山事件の真相へ迫ろうとした1冊です。

本事件で逮捕された石川一雄氏は1994年に仮釈放されるまで、実に31年間に渡って刑務所に拘置されることになり、本書が発行された2004年時点では狭山事件が発生してから41年もの月日が流れています。

事件の舞台となった狭山市は、今でこそ都心のベッドタウンとして開発されていますが、当時は散在する人家の周りを雑木林と畑が取り囲む凶悪事件に似つかわしくない牧歌的な農村でした。

事件発生から20日間というスピード逮捕に至ったのは、警察が脅迫文の筆跡タオルやスコップといった遺留品、そして事件当日のアリバイを証拠として取り上げたからですが、実際には4人もの容疑者を別々に逮捕しており、疑わしい可能性のある人物を片っ端から捕らえる当時の荒っぽい捜査が伺われます。

しかも警察は遺体発見地点からもっとも近い被差別部落を重点的に捜査し、作成された百数十人の容疑者リストの大部分が部落居住者だったと言われています。

その逮捕時にも新聞は「環境のゆがみが生んだ犯罪、いまだに残る"夜ばい"用意された悪の温床」という記事の中で「石川の住む"特殊地域"には毎年学校からも放任されている生徒が十人くらいいるという」と書かれ、その近辺に住む住人のみならずマスコミまでもが差別問題に無配慮だったことに驚かされます。

八畳一間に親子7人が暮らす環境で育った石川氏は、当然のように家庭は貧しく、少年期から家計を助けるため働いていた少年には教科書や鉛筆を買う余裕もなく、本人は「学校でノートに字を書いた記憶はない」と振り返っています。

当時は、貧しい家庭の子どもが学校に行かず子守りや農業の手伝いで働くのは全国的に見ても決して珍しい時代ではなく、石川少年だけが特別ではなかったのです。

この無学ゆえの生い立ちが逮捕後の取り調べや裁判へ多大な影響を与え、ずっと後に獄中で文字を学ぶまでの間、石川氏の立場を不利にする大きな要因となります。

取り調べで警察の誘導に迎合して犯罪を認め一審で"死刑判決"を言い渡さるまでの経過、上告後に発言を撤回し無罪を主張する過程は、こうした石川氏の生い立ちが深く関わっているのです。

本書ではその詳細な過程を丹念に追っていますが、鎌田氏は一貫して「狭山事件」を冤罪事件として断定しています。

検察側にも相応の証拠があると思いますが、鎌田氏の指摘する矛盾には説得力があり、何よりもその捜査や取り調べ手法に問題があったのは明白のように思えます。

少なくとも「疑わしきは罰せず」、「疑わしきは被告人の利益」という刑事裁判の原則に照らし合わせれば、24歳から55歳までという、取り返しのつかない期間を刑務所で過ごすことになった石川氏への扱いは行き過ぎです。

仮釈放で出所した時には両親は既に亡く、自分を逮捕した警察官の多くも鬼籍に入っており、生まれ育った故郷も開発によって大きく風景を変えていました。
まるで石川氏は不幸な浦島太郎です。

本書は次の言葉で締めくくられています。

貧困と無知、そして非識字が、冤罪を押しつけさせた。その恨みを、石川一雄は、奪われた文字を獲得し、刑事や検察や判事の論理を批判することによって果した。それをわたしは、学ぶことの勝利と考えている。それがこの本でいちばんいいたかったことである。

一私小説書きの日乗 野性の章

一私小説書きの日乗 野性の章

私小説家である西村賢太氏の日記を単行本として刊行した1冊です。

どうやらこの日記はシリーズ化されており、本書には平成25年5月21日~平成26年6月19日までの出来事が記録されています。

"まえがき"や"あとがき"もなく、唐突に始まりそして終わっています。

ただの日記という以上に説明のしようがありませんが、ともかく私小説が自らの体験を元に創作された物語であることを考えると、必然的に私小説家と日記は相性が良いのかも知れません。

かつて明治から昭和前半に活躍した文豪たちが多くの私小説を残していますが、現代ではやや廃れてしまった印象があり、西村氏はこの伝統的(古風)なスタイルで執筆し続ける代表的な作家であるといえます。

西村氏の著書を約4年ぶりに読んだきっかけは単純で、あまりテレビを見ない私がたまたま西村氏の出演している番組を目にしてその存在を思い出したからです。

ただ実際に日記を読んでいると著者は頻繁にテレビ出演しており、とくにバラエティ番組への出演機会が多いのは意外でした。

とはいえ作家の仕事は文章を書くことであり、昼に起きて朝方に寝るという生活サイクルが基本である著者の日常のそれは決して起伏に富んだものではなく、彼にとっての日常が綴られているに過ぎません。

酒好き、大食漢であり、風俗にも定期的に通い、交友関係においても有名人であれば実名で好き嫌いをはっきりと書いている点、藤澤清造という世間ではほぼ無名の大正期の小説家を敬愛し、命日のみならずその月命日も必ず記録する姿勢からは、この日記が書籍として発行されることをまったく意に介していません。

さらにこの流れでいえば、自らを"五流作家"、"ゴミ私小説書き"と日記中に書いている点も、卑下や謙遜でもなく著者自身の偽らざる本音とうことになります。

小説と違い簡潔で明瞭な文体で書かれており、西村氏の代わり映えしない日常がリズムとして読者の中に入ってくる不思議な感覚に陥ります。

1ページ1ページごとに刮目して読む類の本ではなく、横になって片ひじをつきながらパラパラとめくりながら読むのが相応しいでしょう。

こんな作品が本棚の中に1冊くらいあってもいいと思わせる1冊です。

人生賭けて

人生賭けて―苦しみの後には必ず成長があった

2012年に現役を引退し、今シーズンから阪神タイガースの監督に就任した金本知憲氏の自伝です。

2015年の流行語大賞にもなった「トリプルスリー」を2000年に達成しており、強打者としてすばらしい記録を残しましたが、もっとも注目すべきは1492試合連続フルイニング出場という世界記録であり、未来永劫この記録を塗り替える選手は出てこないと思えるほど圧倒的な記録です。

しかし金本氏自身が一番誇りとしている記録は、どんな時にも手を抜かず一生懸命プレーしてきた証である1002打席連続無併殺記録であり、こうした野球へ対する真摯な姿勢が本書のタイトルにも現れています。

チームや熱心なタイガースファンからは「アニキ」の愛称で親しまれ、ここにも長年に渡り信頼される選手であり続けた証を垣間見ることができます。

そんなスター選手として活躍した金本氏ですが、本書では21年間にわたるプロ野球生活をずっと苦しかったと振り返っています。

現役時代から妥協を許さないストイックな選手として知られていましたが、シーズン中はもちろんオフシーズンのトレーニング、日常の食生活、骨折しながら試合に出場し続けた姿を知っているだけに説得力のある言葉です。

長年に渡りヤクルトスワローズの名遊撃手として活躍した宮本慎也氏も引退時に「今まで楽しく野球をやったことはありませんでした。」と発言したことからも分かる通り、プロ野球の厳しさを物語るエピソードでもあります。

本書の副題である"~苦しみの後には必ず成長があった~"から推測できる通り、金本氏はアマチュア時代には注目を集める選手ではありませんでした。
むしろ学生時代に何度も挫折を味わい、浪人時代を経て大学へ進学した経歴は、プロ野球選手として珍しいほどの苦労人であることが分かります。

後輩である鳥谷選手新井(貴浩)選手へ対してもトレーニングの重要性はもちろん、常にチームのために全力でプレーすることをアドバイスする姿からは、チームの勝利への執念が感じられます。

そんな金本氏が憧れ、そして自らの引退時に花束を贈呈されたのが清原和博氏であり、多くの野球人が憧れた清原氏の更生を願わずにはいられません。

最後の方に「今後の阪神に期待すること」という章がありますが、引退しても古巣への愛着を持ち続けた金本氏が阪神タイガースの指揮を執るのは偶然ではなく必然だといえるでしょう。

古田式・ワンランク上のプロ野球観戦術

古田式・ワンランク上のプロ野球観戦術 (朝日新書)

3月に入り、各地でオープン戦が開催され、月末にはいよいよ2016年のプロ野球シーズンが開幕します。

本書では元プロ野球選手であり、野球解説者である古田敦也氏が、プロ野球というエンターテイメントの魅力をワンランク上の観方で楽しむ方法を紹介してくれます。

プロ野球ファンへ向けての啓蒙書と捉えることもできるでしょう。

古田氏は現役時代にヤクルトスワローズの正捕手として長く活躍し、ID野球を提唱した野村克也監督の一番弟子としても知られています。

キャッチャーは野球の全ポジションの中でもっとも守備の負担が大きいと言われていますが、日本では捕手が投手へサインを出すことが一般的であり、しゃがんで投手のボールを受け続けなければなりません。そして盗塁の阻止、時にはチーム守備の支持を出すなど、その役割は多岐に渡ります。

そのためには対戦する打者の癖、味方ピッチャーの特徴などの情報を頭に入れて置かなければなりませんし、ゲーム全体の状況を把握しなければならないもっとも頭脳を必要とされるポジションなのです。

それだけに「キャッチャー出身には名監督が多い」と言われていますが、キャッチャーとしての経験豊かな古田氏の解説だけに説得力があるのではないでしょうか。

まずはピッチャーの観方から入り、投球フォームの違いによる特徴、球種、そして田中将大ダルビッシュ有など一流ピッチャーの条件について言及しています。

続いてバッター、守備、最後に監督の戦術についてまで幅広く解説してくれます。

なぜカーブを投げる投手が少なくなったのか?」、「イチロー、青木のインコース打ちの技術」、「遊撃手の動き」、「プロとアマチュアの監督の違い」などなど、野球ファンであれば興味をそそること間違いなしの解説が並んでいます。

ただし新書という形式のため、野球観戦の魅力を伝えきるためには圧倒的に紙面が足りないと感じるたのは読者だけでなく、古田氏も同じだったはずです。

古田氏が言及していない観戦術を1つ加えるとするならば、野球へ対する考えは選手、解説者であっても個性が現れるということです。

本書などを通じて解説者の特徴が分かってくると、野球中継の解説にもその個性が反映され、選手やプレーへの評価や指摘するポイントにも微妙な差が出てくるため、個性的な解説の雰囲気を楽しむことができます。

野球の魅力を伝えてくれる本は他にも数多くありますが、キャッチャーとして、バッターとしても2000安打を達成するなど一流選手だった古田氏のファンであれば必読の書であるといえます。

橋の上の「殺意」

橋の上の「殺意」 <畠山鈴香はどう裁かれたか> (講談社文庫)

ニュースやワイドショーでは連日のように殺人事件を報道していますが、私のように散発的にしかテレビを見ない人間にとっては、殆ど断片的にしか記憶に残りません。

仮にニュースやワイドショーをじっくり見たとしても、取材の様子、専門家やコメンテーターたちの発言が限られた時間の中で放送されるだけであり、事件の本質を理解することはできないのではないでしょうか。

本書はルポライターとして活躍する鎌田慧氏が、約3年に渡って1つの事件を追い続け、1冊の本にまとめたものです。

手にとった文庫本は400ページ以上の分量があり、多くの人たちへの取材、裁判の様子、そして著者自身が被告やその家族のプライバシーに踏みこみすぎたかも知れないと振り返るほど、生い立ちから判決が出るまでの過程を詳細に追っています。

著者が取材したのは2006年秋田県藤里町で二人の男女児童の遺体が相次いで発見されたことに端を発する事件です。

最終的に逮捕されたのは、亡くなった女児のシングルマザーである畠山鈴香容疑者(当時)ということもあり、ショッキングなニュースとして報じられました。
加えて彼女は、逮捕以前から重要参考人としてマスコミから注目され、その独特の立ち振舞いもあって連日テレビで報道されていました。

覚えている人も多いと思いますが、私にとっては記憶の片隅で容疑者の印象をかろうじて覚えている程度で、細かい事件の経過はまったく覚えていませんでした。

世界遺産となった白神山地のふもとにある小さな町で起こった悲惨な事件ということもあり、容疑者が逮捕されるまでの間、住民たちに恐怖に怯え、逮捕されて以降もPTSD(心的外傷後ストレス障害)といった後遺症をもたらしました。

鎌田氏は本書を通じて事件の詳細な事実を伝えたかったことはもちろんですが、その先にさらに大きなテーマを投げかけています。

それをあからさまに表現してしまえば、畠山被告へ対する裁判の過程、そして結果としての判決へ対する疑問であり、ひいては死刑制度そのものに疑問を投げかけているということです。

そのキーワードは、タイトルにある「殺意」に表されています。

警察や検察官による取り調べの過程が問題に取り上げれることが多く、佐藤優氏の著書「国家の罠」にあるように、筋書きの決まったストーリーに沿って調書が作成されていゆく過程は交渉のプロである佐藤氏でさえ苦しめるものだったのですから、精神科へ通院し生活保護を受けていた鈴木容疑者にとっては、取調中に倒れこむほどのショックを受けることになります。

統合失調症質人格障害」と鑑定された鈴木容疑者は、娘の死へ繋がった自らの動機、行動を健忘しており、その真相が明らかにされないまま判決で"殺意"を認定されます。その背景には、マスコミをはじめとした世論に判決そのもが後押しされてしまった可能性があることを著者は危惧しています。

(考えたくもないことですが)私自身が取り調べを受ける立場になった時、事実に基づいた内容で調書が作成され、正義の名の元に裁判を受けることができるか甚だ不安になります。

本裁判で検察が主張した死刑求刑についてもやはり考えさせられます。

被害者遺族が受けた深い悲しみ、そして怒りを想像すると簡単な問題ではありませんが、それでも真相究明が不十分なまま死刑によって犯罪者をあの世に送ることが、遺族たちの心の傷を癒やし、犯罪者を後悔させる方法となり得るのかは疑問を持ちます。

かつて遠藤周作氏が、日本人は命の尊さに重きをおく人道的な立場で反戦主義を貫くのであれば、死刑制度は矛盾していると批判していますが、最近の日本がこうした考えに逆行しているようで不安を覚えるのは私だけではないはずです。

中華思想と現代中国

中華思想と現代中国 (集英社新書)

日本の領海に限らず中国の領海侵犯がニュースとして報じられる機会が多くなりましたが、経済成長を遂げた巨大な隣国に脅威、恐怖、そして怒りを覚える日本人は多いはずです。

ニュースやワイドショーを見ても、そこに出演しているコメンテーターが「中国は身勝手」、「なぜこんな嫌がらせをするのか?」、「反日国家だから」といった表面的な発言をしていることも日本人の心理へ大きく影響していると思います。

中国は社会主義国家であり、中国共産党による一党独裁によって支配されているのは紛れもない事実ですが、それは中国の本質ではなく、その根底には今なお厳として生き続ける伝統思想を理解する必要があるとしたのが本書であり、中国を専門とした政治学者である横山宏章氏が執筆しています。

本書の初版は2002年のため、時事的な話題がやや古いのは致し方ありませんが、本質的な論点が中国の歴史的な背景における伝統思想となっているため2016年現在でも充分に読む価値があります。

まず最初に中国には人治・徳治主義の政治理念、つまり徳を備えた賢人が政治を執り行うことが理想という伝統が色濃く残っており、近代的な法治主義のための構造改革が追いついていないと指摘しています。

言うまでもなく孔子・孟子の儒教的価値観が中華思想へ与えた影響は大きく、孫文毛沢東も例外でなかったことをその発言から、また彼らが民衆から英雄、聖人君主として個人崇拝されることを否定しなかった背景から説明しています。

つまり賄賂や横領といった中国政治家たちの汚職には政治的・構造的腐敗という認識が弱く、堕落した個人の責任に帰する傾向が強いのです。

たしかに毛沢東鄧小平に代表される指導者たちから感じるのは、強烈なリーダーシップとそれを発揮できるだけの権力を有している印象があります。

胡錦濤習近平といった世代からは絶対的な権力者というイメージがやや薄れてきましたが、それは中国共産党が改革に成功したからではなく、党内で世代間の権力闘争が続いているためと理解する方が正しいでしょう。


続いて中国における人権・自由について言及していますが、著者は天安門事件に代表される民主化運動弾圧の背景は、中華世界の伝統的な観点から理解しなければならないと主張しています。

中国で人権を語る場合、生存権、つまり経済的な豊かさが強調され、近年の社会主義と相反する資本主義経済の導入もその延長線上にあるのです。

また中国の人権とは「共産党支配のもとにおける中国の国民としての権利」であり、普遍的な人間の自由、つまり個人主義を徹底的に批判し、嫌悪しているところに特徴があります。

中国の指導者たちは、個人の自由を許せば国家、民族としての自由が阻害され、団結力を失った「一握りのバラバラな砂」になってしまうと考えています。

個人の自由を尊重 = 個人のワガママ・身勝手を許す」の図式で例えると分かり易いかも知れません。

一方でこうした人権政策が国際的な摩擦を生み出し、ひいては経済的な損失に繋がりかねないのも事実であり、中国がもっとも慎重な舵取りを迫られている問題であると著者は指摘しています。

2016年現在、中国ではインターネット普及率が50%を越えていますが、そこにはグレートファイアウォール(金盾)と呼ばれる巨大な検閲システムが存在し、本書が出版されて10年以上経過した今も本質的な状況は変わっていないことがわかります。

次に本書では大中華世界、つまり「中華」と周辺の「夷狄」によって構成される世界観に基いて、「以夷制夷(狄をもって狄を攻める)」という伝統的な戦略が現代も生きていることを指摘しています。

それは鄧小平の有名な「黒猫であろうが白猫であろうが、鼠を捕まえさえすれば良い猫である」という言葉にも現れています。

つまりアメリカ、ロシア、日本、そして北朝鮮であっても中国にとって有用でさえあれば、同盟や提携をためらわないのです。

近代に入ってからもソ連と険悪な関係に陥れば日米と友好関係を築き、経済的成長を遂げて台湾を巡っての問題でアメリカと対立するとロシア、北朝鮮に近づき、歴史問題で日本と衝突すれば韓国と連携するなど、実に目まぐるしく立場を変えています。

中国が核実験を行った北朝鮮へ対して継続的に経済援助を行ってきた真意は、間違っても社会主義国家同士としての友好的な感情からではなく、日米韓に代表される西側陣営を牽制し、軍事的バランスを取るための戦略であることは明白です。

続いて漢族を中心した「大統一」思想から見る彼らの少民族政策、日中の歴史認識問題などと続いてゆきますが、ここから先は本書を読んでのお楽しみです。

中国の近代は、西洋列強による干渉や侵略、続いて旧日本帝国軍の侵略による国土の荒廃といった不幸な幕開けによってスタートしたこと、そこから起きた中国革命の延長線上に現政権があることを忘れてはならず、さらにその背景に伝統的な中華帝国の思想が横たわっていることを認識すべきだと感じさせてくれます。

そして隣人としてお互いを理解するように努め、何よりも双方が2度と全面対決を繰り返すといった歴史を繰り返してはなりません。

大人の見識

大人の見識 (新潮新書)

阿川弘之氏が晩年に執筆した著書です。

文壇的には安岡章太郎吉行淳之介遠藤周作らと共に「第三の新人」に分類される代表的な作家であり、戦中派の旧帝国海軍に在籍した経歴を持つほとんど最後の世代といっていい作家です。

残念ながら阿川氏は2015年に94歳で亡くなっていますが、学生時代に東条英機の演説を生で聞き、軍部によって統制されてゆく戦前の日本、そして戦争体験、荒廃した戦後の日本を見てきた著者が、現代に日本人へ叡智を育てる参考となればと筆を執ったのが本書です。

まず本書のタイトルにもなっている「大人の見識」ですが、これを私なりに解釈すると、TVやインターネットといったマスコミや世論に流されない芯を持った考えを持つことだと思います。

特に戦中派の世代に感じるのは、彼らが戦争を体験することによって世の中の価値観が一変した経験を持っていることです。
たとえば今やハリウッド映画や音楽が高く評価され、政治的にも日米同盟が健在ですが、戦中は"鬼蓄米英"であり、英語は適性国語として使用することさえ禁じられていました。

つまり時代の流れの中で変化してゆく価値観がある中で、昔から"変わらない大事なもの"を実感として持っているのです。

本書を読んで感じるのは、三つ子の魂百までではないですが、著者が旧帝国海軍の伝統によって受けた影響を色濃く残していることです。

日本の海軍がイギリスを、陸軍がドイツを模範としたことは広く知られていますが、本書はイギリスの持つ成熟した見識へ言及しています。

かつては大英帝国として栄えた国ですが、自らが体験した栄枯盛衰を吸収し、常に一歩引いた客観的な立場で見ることの重要性、そして人生を楽しむ術としてのユーモアを持ち合わせています。

日米開戦といった「やるべからざるいくさ」へ向かってルビコン川を渡ってしまったのは、当時の愚かな指導者の責任が大きいが、当時にも「大人の見識」を持った人間がいたことを旧海軍の指導者を中心に紹介しています。

もちろん旧陸軍や政治家にも見識を持っていた人物がいたと思いますが、旧海軍の空気を吸っていた著者の言葉には説得力があります。

ただし大東亜戦争の緒戦で勝利を上げた日本は、軍人のみならず民間人、そして著者が師事した志賀直哉をはじめ、武者小路実篤谷崎潤一郎吉川英治斎藤茂吉といったそうそうたる文士たちさえ感激し、それを文章として残したことを忘れてはなりません。

つまり当時は、冷静に大局的な状況を俯瞰できた人物はごく少数に過ぎなかったのです。

続いて日本人がもっとも伝統的に重んじてきた思想が神教でも仏教でもなく、孔子の教えだったと主張しています。

儒教の中核をなす四書五経のうちでもとくに論語の中に江戸時代、明治維新後の日本人一般の倫理基準が置かれていたとあります。

本ブログで「孔子」や「孟子」に関する本も紹介していますが、私含めて現代日本人には脈々と受け継がれてきた孔子(論語)に関する素養が足りないのかも知れません。

日本人が「一億総白痴化」となることを憂いた著者が、老文士の個人的懐古談として書き残したのが本書ですが、我々はそこから学ぶべき事が多いように思えます。