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狭山事件 - 石川一雄、四十一年目の真実

狭山事件 ― 石川一雄、四十一年目の真実

1963(昭和38)年、埼玉県狭山市で1人の女子高生が何者かによって殺害される事件が発生します。

この事件は猟奇的な連続殺人事件、あるいはテロリズムによる殺人といった特別な事件ではなく、多くの類似事例がある誘拐殺人事件でした。
にも関わらずこの「狭山事件」が戦後の代表的な事件として取り上げられるのは幾つかの特徴的な性格があるからです。

それを要約すれば以下のようになるでしょう。

  • 容疑者が被差別部落出身だった。
  • 容疑者は充分な教育を受けておらず、文字の読み書きが不自由だった。
  • 根強い冤罪説がありながら、未だに事件の真相が究明されていない。

本書はルポライターである鎌田慧氏が、狭山事件の真相へ迫ろうとした1冊です。

本事件で逮捕された石川一雄氏は1994年に仮釈放されるまで、実に31年間に渡って刑務所に拘置されることになり、本書が発行された2004年時点では狭山事件が発生してから41年もの月日が流れています。

事件の舞台となった狭山市は、今でこそ都心のベッドタウンとして開発されていますが、当時は散在する人家の周りを雑木林と畑が取り囲む凶悪事件に似つかわしくない牧歌的な農村でした。

事件発生から20日間というスピード逮捕に至ったのは、警察が脅迫文の筆跡タオルやスコップといった遺留品、そして事件当日のアリバイを証拠として取り上げたからですが、実際には4人もの容疑者を別々に逮捕しており、疑わしい可能性のある人物を片っ端から捕らえる当時の荒っぽい捜査が伺われます。

しかも警察は遺体発見地点からもっとも近い被差別部落を重点的に捜査し、作成された百数十人の容疑者リストの大部分が部落居住者だったと言われています。

その逮捕時にも新聞は「環境のゆがみが生んだ犯罪、いまだに残る"夜ばい"用意された悪の温床」という記事の中で「石川の住む"特殊地域"には毎年学校からも放任されている生徒が十人くらいいるという」と書かれ、その近辺に住む住人のみならずマスコミまでもが差別問題に無配慮だったことに驚かされます。

八畳一間に親子7人が暮らす環境で育った石川氏は、当然のように家庭は貧しく、少年期から家計を助けるため働いていた少年には教科書や鉛筆を買う余裕もなく、本人は「学校でノートに字を書いた記憶はない」と振り返っています。

当時は、貧しい家庭の子どもが学校に行かず子守りや農業の手伝いで働くのは全国的に見ても決して珍しい時代ではなく、石川少年だけが特別ではなかったのです。

この無学ゆえの生い立ちが逮捕後の取り調べや裁判へ多大な影響を与え、ずっと後に獄中で文字を学ぶまでの間、石川氏の立場を不利にする大きな要因となります。

取り調べで警察の誘導に迎合して犯罪を認め一審で"死刑判決"を言い渡さるまでの経過、上告後に発言を撤回し無罪を主張する過程は、こうした石川氏の生い立ちが深く関わっているのです。

本書ではその詳細な過程を丹念に追っていますが、鎌田氏は一貫して「狭山事件」を冤罪事件として断定しています。

検察側にも相応の証拠があると思いますが、鎌田氏の指摘する矛盾には説得力があり、何よりもその捜査や取り調べ手法に問題があったのは明白のように思えます。

少なくとも「疑わしきは罰せず」、「疑わしきは被告人の利益」という刑事裁判の原則に照らし合わせれば、24歳から55歳までという、取り返しのつかない期間を刑務所で過ごすことになった石川氏への扱いは行き過ぎです。

仮釈放で出所した時には両親は既に亡く、自分を逮捕した警察官の多くも鬼籍に入っており、生まれ育った故郷も開発によって大きく風景を変えていました。
まるで石川氏は不幸な浦島太郎です。

本書は次の言葉で締めくくられています。

貧困と無知、そして非識字が、冤罪を押しつけさせた。その恨みを、石川一雄は、奪われた文字を獲得し、刑事や検察や判事の論理を批判することによって果した。それをわたしは、学ぶことの勝利と考えている。それがこの本でいちばんいいたかったことである。