本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

孔子

孔子 (岩波新書 青版 65)

前回紹介した「毛沢東伝」に続いて、貝塚茂樹氏による著書です。

本書の冒頭には次のように書かれています。

わが国をふくめて、およそ中国を中心とする極東の世界において、孔子の言葉を書き残した「論語」という本ほど長い期間にわたって、広い範囲の読者をもった書物はないであろう。

著者が指摘するように孔子の没後2500年が経過しているにも関わらず、未だに自己啓発書や経営書に「論語」を引用した箇所を多く見かけますし、江戸や明治においても武士や学者のもっとも基本的な素養は「論語」によって培われたといっても過言ではありません。

いわば東洋において「論語」は(広く読まれているという意味で)西洋の「新約聖書」にもっとも近い存在ではないでしょうか。

一方で、春秋時代後期に生きた孔子の生涯を知っている人は殆どいないのではないでしょうか。

つまり「論語」を引用する本を現代でもやたらに見かけますが、当時の時代背景や孔子自身の意図から飛躍して、完成された金言集として無条件に用いられることが多いように思えます。

私にとって本書は、そうした孔子や儒教へ対する先入観や誤解に気付かせてくれた1冊です。

まず"孔子=聖人"といったイメージは彼の死後に後世の弟子たちが作り上げたものであり、生涯に幾度もの苦汁をなめ、晩年に至っても一番弟子である顔回の夭逝を嘆き、""の実践が自身においても容易ではないということを正直に告白している姿からは、等身大の人間像が浮かび上がってきます。

孔子が神の使いでもなければ、悟りを得た現世からの解脱者でもないことは、弟子の子路から""の意味を尋ねられた時の、次の言葉に集約されているのではないでしょうか。

いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。

つまり「いまだに生きることすら分からないのに、死のことが分かるはずないよ」ということであり、どこまでも謙虚であり、つねに生の中での実践を重視し続けた孔子らしい言葉でもあります。


また孔子の教えである儒教は為政者による帝王学であり、庶民が学ぶべき学問ではないという理解は間違っているということです。

これはしばしば論語に「君子は~」と書かれていることから誤解されることが多いのですが、著者によれば論語で用いられている"君子"は、そのほとんどが"道徳的な修養を続ける未完成の人間"の意味で用いられており、何よりも孔子自身が貴族といった出自ではありませんでした。

自らの追い求める最高の形を神や真理の中に追い求めたのではなく、といった過去の王朝に理想を追い求めたとい点も特筆すべき点です。

著者は孔子への敬意は失わずに、学者としての立場から冷静で客観的な視点で孔子の生涯を描いています。

孔子について書かれた本は数多くありますが、本書が半世紀以上前に書かれた本にも関わらず、屈指の良書であることは間違いありません。

毛沢東伝

毛沢東伝 (1956年) (岩波新書)

中国史学者である貝塚茂樹氏が毛沢東の前半生を研究して執筆した本です。

毛沢東への興味よりも貝塚氏の著書を読んでみたいという気持があり、たまたま最初に入手したのが本書だったというのが正直なところです。

貝塚氏は中国史(特に専門は古代史)の学者であり、のちに京都大学で名誉教授となりました。

すでに昭和63年に故人となっている方ですが、中国史の分野で後世の学者や作家に大きな影響を与えています。

本書が執筆された昭和32年時点では日本において毛沢東を歴史的に考察するという作業が殆ど行われていませんでした。

その先鞭をつけたという意味で価値のある1冊です。

具体的に本書で言及されている期間は、毛沢東の誕生した1893年から長征を終えて日中戦争に突入する1937年までです。

毛沢東の前半生は革命家として、後半生は独裁者としての顔を持っています。

つまり本書では毛沢東の革命家時代を言及しており、本書が発表された当時は百花斉放百家争鳴が開始されたばかりで、のちに批判の的となった大躍進政策は姿形もありませんでした。

列強諸国による侵略、中国を新しく支配しつあった国民党が存在する中にあって第三の勢力として登場した中国共産党ですが、その歴史は苦難の連続であったといえます。

蒋介石率いる国民党軍に包囲され立てこもった井崗山(せいこうざん)、劣勢の中で包囲網をくぐり抜けて敢行した長征は、毛沢東にとって薄氷を踏む思いの日々であり、その中にあって揺るぎない信念と絶望することを知らない強靭な精神力、そして大胆な戦略眼は英雄としての資質があったと評価するしかありません。

常に民衆と共に活動し続けた姿を言及する本書を読むと、どこか西郷隆盛と重なるイメージがあり、未だに中国人たちが敬意を抱く存在であることも納得できます。

少なくとも本書に書かれている範囲では、後に独裁者としての顔をもたげることになる彼の姿を感じることはできません。

それだけに留まらず毛沢東には、学者思想家教育者軍人詩人としての一面を持っており、その人物像はあまりにも巨大です。

世界的に見ても20世紀を代表する歴史的人物の1人であり、今後の中国史において秦の始皇帝漢の高祖と比肩しうる重要な人物となることは間違いありません。

日中戦争という過去や現在の両国関係の冷え込みを考慮すると、特に日本人にとって現時点で歴史上の評価が難しい人物なのではないでしょうか。

ビタミンF

ビタミンF (新潮文庫)

重松清氏の短篇集です。

本作に登場する主人公は、いずれも40歳前後の妻子のいるサラリーマンという設定です。

つまり平凡な人生を送っていると考えられている成人男性であり、著者の重松氏がもっとも本書を読んで欲しいと願う読者層でもあるのです。

私が子供の頃の40歳男性といえば完全な"オジサン"であり、"冴えない中年"という漠然としたマイナスのイメージしか持っていませんでした。

しかし自分が同じ年代になってみると、子どもの頃に抱いていた印象とはだいぶ違うことに気付きます。

学生時代のような体力こそありませんが、まだまだ老けこむ年ではありません。

自分より一回りは若い部下がいる一方、上の世代の人間も星の数ほどいます。

つまり典型的な中管理職の立場であり、勢いに身を任せられるほど若くもなければ、老練の策士にもなりきれない中途半端な時期なのです。

しかし本書に登場するような妻子ある中年サラリーマンであれば、仕事の最前線でそれなりの責任を任せられている立場であり、子育て真っ最中の時期だけにやがて訪れる受験や進路を考えなければいけませんし、教育費や家のローン含めた経済的な不安、そして老年に差し掛かった両親に健康上の問題があれば、それも心配の種になります。

そんな中年男がふと立ち止まり過ぎ去った若い時代や、何となく見えてきた人生のゴールに思いを巡らすとき、すべてを投げ出したくなる衝動が出てきても不思議ではありません。

本書に登場する主人公たちは決して"カッコいいヒーロー"のような存在ではありませんが、直面した問題に正面から向き合い、時には家族や同僚の力を借りながら泥臭く乗り越えてゆく物語が収められています。

見方を1つ変えれば、人生でもっとも忙しくプレッシャーを感じる日々は、もっとも充実した日々であり、それを"青春"と表現しても間違いではありません。

架空の栄養素"ビタミンF"を物語というカプセルに詰め込んで日本の中年男性に届けたい。

そんな作者の想いが充分に伝わってくる1冊です。

影法師

影法師 (講談社文庫)

永遠の0」、「BOX!」によって一躍国民的作家となった百田尚樹氏の長編小説です。

舞台は江戸時代の8万石の茅島(かやしま)藩

そこで筆頭国家老を務める名倉彰三は、下士の身分から異例の抜擢を受け、干拓事業と藩財政の立て直しの功により、揺るぎない地位を築きました。

初老に差し掛かった彰三には、少年の頃よりの竹馬の友として、また尊敬する憧れの存在として磯貝彦四郎という人物がいつも心の片隅を占め続けていたのです。

その彦四郎は20年以上も前に不始末により藩を逐電し、つい最近になって困窮の中で労咳のために亡くなったという噂を聞きます。

そこから今まで彰三が知ることのなかった彦四郎の過去が明らかになってくるのです。。

ちなみに"茅島藩"というのは、物語の内容から日本海に面した近畿地方から北陸地方のいずかに存在する架空の藩という設定です。


本書には「永遠の0」との共通点があります。

それを一言で表すと"自己犠牲"であるといえます。

零戦に特攻隊として乗り込んだパイロットたちは、国家や家族のために自らの命を捧げました。

また誤解を恐れずに言えば、武士たちもまた国(藩)や名誉のためには、自らの命を断つことを躊躇しませんでした。

自身の成功や幸福を追求する啓蒙書が溢れる現代において、他人に自身の夢を託し、そのために自らの人生を犠牲にする生き方は考えられません。

百田氏は打算的で効率よく生きることが"賢い人生"とされる風潮に疑問を投げかけ、かつての日本人が持っていた価値観を再認識し、自らを犠牲にする生き方が多くの人びとを感動させるという事実を作品を通じて証明したかったのではないでしょうか。

タイトルの「影法師」は、それを象徴的に表しているといえます。

大きな伏線で構成されている物語のため詳しい内容は書きませんが、大胆なストーリー構成、そして初の時代小説という試みには、小説作家として円熟しつつある百田氏の勢いが伝わってきます。

個人的には少しストーリーを綺麗にまとめ過ぎている印象を持ちましたが、これは読者の好みの問題かも知れません。

今もっとも多くの読者に受け入れられている作家であり、「永遠の0」に共感した読者であれば是非本書も抑えておきたいところです。

病牀六尺

病牀六尺 (岩波文庫)

病床六尺、これが我世界である。
しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。

有名な書き出しではじまる正岡子規の随筆です。

結核による長年の闘病生活で殆ど寝たきりになった子規は、死の二日前までこの随筆を書き続けました。

すでに7年近くにわたり闘病を続けてきた連載開始の時点で、彼は自分が死の床にあることを悟っていました。

本書には壮絶な闘病の日々が記されていると思えば、実際には"絶望"という雰囲気は微塵も漂っていません。

それは何となく漂う"諦め"のようですが、実際には静かに"死を受け入れた心境"だったように思えます。

自身が苦痛により絶叫や号泣する姿、そして看病する母や妹への愚痴さえも風景を描くかのように綴っており、そこには強がりも恐怖も感じさせない自然な文章として表現されてゆきます。

俳人として、また文章家として写実(写生)を取り入れ、近代日本文学へ多大な影響を与えたといわれる正岡子規は、その最晩年の随筆に至ってそのスタイルを完成させたのかも知れません。

話題は闘病の日々、俳句の批評、新聞で読んだ時事に関すること、絵画の感想や食事の内容等々多岐に渡り、そのまったく衰えない好奇心に、その背景を知る後世の読者は驚かずにはいられません。

病魔により肉体は衰弱しても、その精神は最後まで衰えませんでした。

これは正岡子規の強靭な精神力と努力が成し遂げたものではなく、彼が持って生まれた性格や才能によるものだと考えるしかないのではないでしょうか。

本作品は青空文庫としても公開されているため、気軽に手にとってみてはいかがでしょうか。

サロメの乳母の話

サロメの乳母の話 (新潮文庫)

本書は塩野七生氏による歴史フィクション短篇集です。

歴史上の人物を近い位置で見ていた人(あるいは動物)が回顧して語るという面白い設定で書かれています。

本書に収録されている短編の題名からその設定が分かります。
(カッコ)は補足のために付け足してあります。

  • (オデュッセウスの)貞女の言い分
  • (新約聖書に登場する)サロメの乳母の話
  • ダンテの妻の嘆き
  • 聖フランチェスコの母
  • ユダの母親
  • カリグラ帝の馬
  • (アレキサンダー)大王の奴隷の話
  • 師から見たブルータス
  • キリストの弟
  • ネロ皇帝の双子の兄

そして最後には「饗宴・地獄篇」という短編が収められており、歴史上"悪女"と評された女性たちが、地獄で開催される夜会で一堂に会するというユニークな設定で書かれています。

歴史上の人物を主体的に描くのではなく、別の視点から描くことでユーモラスを取り入れ、歴史を敬遠してしまう人でも読みやすい内容になっています。

もっとも著者自身にはそういった意図はなく、単に遊び心で試みただけかも知れません。

ローマ人の物語」に代表される壮大なスケールの歴史小説で有名な塩野氏ですが、案外こうした短編作品の中にこそ自身の人物評や歴史観を率直に表現しているのかも知れません。

歴史を楽しむ秘訣は想像力であることを再認識させてくれた1冊です。

アフリカの蹄

アフリカの蹄 (講談社文庫)

帚木蓬生氏のサスペンス作品です。

主人公はアフリカ最大の医療研究所へ心臓外科医として勤務している日本人医師・作田信。

ある日、近くの黒人居住区の間で突如奇妙な発疹が流行り出す。

その正体は絶滅したはずの天然痘であり、その裏には巨大な陰謀が存在するのであった。。。

そして日本人医師・作田はその陰謀へ立ち向かうことを決意するのであった。

導入部のあらすじは大体こんな感じですが、著者が本書で取り上げているテーマは明確です。

それは南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)であり、白人優位の社会政策によって虐げられる黒人たちに焦点を当てています。

そこにジェノサイドホロコーストといった要素を入れることによって、スケールの大きなサスペンス作品としての背景を構成しています。

本来であれば、こうした巨大な陰謀に立ち向かうのは特殊な戦闘訓練を受けた兵士やスパイといった主人公が相応しいのですが、武器すら持たない"一介の日本人医師"であるというのが、箒木氏らしい設定です。

もちろん著者自身の職業が"医師"であることも関係していますが、そこには"暴力"へ対しては"非暴力"で抗議するといったメッセージも込められています。

本作品が発表されたのたは1992年であり、著者が意欲的に長編サスペンス作品を描き続けた時期であることから"勢い"を感じます。

それでも安易にスリルを求めず、世界中に根強く残る人種差別といった重く深いテーマを掘り下げてる部分は、著者個人の道徳観、そして自身の職業である医師としての良心が垣間見ることができます。

風花病棟

風花病棟 (新潮文庫)

本ブログで何度か紹介している箒木蓬生(ははきぎ ほうせい)氏の作品です。

本書には短篇が10本収められていますが、おもに長編を発表することが多い著者の作品の中では珍しい1冊です。

箒木氏自身が精神科の開業医であることをから医療をテーマに扱った作品が多く、それは本書にも当てはまります。

客観的に見れば、医師は患者の病気や怪我を治す立場であり、患者は治療を受ける立場です。

また私を含めた大部分の人が当てはまる患者の主観からすると、医師はどこか距離感を感じる存在でもあります。

それは医師が治療に対する専門知識や技術を持っており、状況によっては自分たちの生命を委ねざるを得ない"特別な力"を持った人間という意識がそうさせてしまうのではないでしょうか。

彼らの素顔が"普通の人間"であることを頭では理解していても、いざ自分が患者になったときのこうした感覚は拭うことができません。

分かり易くいえば、医師と患者との間に横たわる明確な上下関係を感じてしまうのです。

一方で医師にとって患者は「お客様」であるという考えも、医療の中に商業主義が入り込んでいるような気がしてイマイチしっくり来ません。

本編に収められた作品は、どれも患者と向き合う医師をテーマに書かれおり、そんな私の迷いを感動と共に少しずつ氷解させてくれるような作品が並んでいます。

著者はあとがきで次のように述べています。
病気は即苦悩と直結する。
患者は悩み、苦しみ、それでも生きていかなかればならない。
医師が心打たれるのは、そうした患者の懸命な生き方なのである。百の患者がいれば百の悩みがあり、それぞれに課せられた問題に懸命に立ち向かう姿を、医師は見せつけられる。

私は、まさにここにこそ、<患者こそが教科書>という言葉の本当の価値があるのだと思う。
医師は患者によって病の何たるかを教えられるのではなく、人生の生き方を教えられるのである。良医は患者の生き方によって養成されるのだ。

箒木氏の優れたところは、自らが信念として持っている患者との向き合い方を優れた小説として表現できるところです。

本書に収められている作品は、スーパードクターが難病を手術によって治療するようなストーリーは1つも収録されておらず、どこまでも地に足を着けて医療現場を描こうとしている姿勢にも共感が持てます。

すべては一杯のコーヒーから

すべては一杯のコーヒーから (新潮文庫)

著者の松田公太氏による起業ノンフィクションです。

内容については本書の紹介文をそのまま引用させていただきます。
27歳で起業を志し大手銀行を退職した青年は、体当たりの交渉でスペシャルティコーヒーの日本での販売権を得た。
銀剤に待望の1号店を開業した後は、店内に寝袋を持込み泊まりこみで大奮闘。
ビジネスにかける夢と情熱は、コーヒーチェーンを全国規模にまで大成長させた。
金なし、コネなし、普通のサラリーマンだった男になぜできたのか?
感動のタリーズコーヒージャパン起業物語。
本書ではじめて"スペシャルティコーヒー"という単語を知りましたが、簡単に説明すると高品質なコーヒー豆を使用し、焙煎から抽出までを高いレベルで実現したコーヒーのことを指します。

価格も品質に比例するため、300円~500円くらいのメニューが一般的ではないでしょうか。

"スペシャルティコーヒー"の分野では、スターバックスが有名なチェーン店ですが、同社が豊富な会社資金で日本上陸を果たしたのとは対照的に、タリーズは少ない個人資本によって日本出店を実現しました。

つまり信用度が低いため金融機関や不動産会社との取引は厳しく、失敗したときのリスクも高いことを意味します。

一方で組織の意思決定が迅速で柔軟であること、そして何よりも成功したときのリターンが大きいといったメリットもあります。


創業者であり代表取締役社長であった松田氏の生い立ちや起業に至るまでの経緯は、これから起業を目指す人のみならず多くのサラリーマンに勇気と感動を与えてくれます。

起業家が執筆した本の中でも高いレベルの作品だと思います。


ただし個人が起業した会社が急激に成長してゆく過程で社内意見の食い違いや同業者たちとの対立は避けて通ることは出来ず、決してキレイ事だけでは成功できません。

本書で紹介されている内容以外にも多くのキレイ事では片付けるのできない出来事があったことは間違なく、起業家の本を読むときに気をつけて欲しい点です。

ちなみに松田氏は2006年にタリーズの代表取締役を退任し、現在は参議院議員として活動しています。

またタリーズコーヒージャパンは、飲料メーカ・伊藤園のグループ会社として現在も順調な成長を続けているようです。

もちろん私がその心境の変化を知る由もありませんが、松田氏にはタリーズ起業の時と同じ情熱を持って政治に取り組んでもらいたいと願うばかりです。