本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

さらば! サラリーマン 脱サラ40人の成功例



本書の著者である溝口敦氏といえばヤクザをはじめとした反社会組織を題材としたノンフィクションの第一人者というイメージです。

実際、本ブログでも今までに5冊のタイトルを紹介していますが、いずれも社会の裏側をテーマとした作品です。

本書はこうした作品とテーマが似ても似つかない脱サラリーマンを題材にしています。

もともと月刊誌「ウェッジ」での連載を新書化したもので、ひたすら脱サラリーマンに成功した40人の体験談が掲載されています。

少なくとも私が社会人として働き出した20年ほど前には山一證券に代表される大企業が倒産する例もあり、有名大企業に就職しても生涯安泰という保障はないと言われ始めた時期でした。

私自身が積極的に脱サラリーマンを考えている訳ではなく、前述のように毛色の違った作品を溝口氏が出していると知って好奇心で手にとった1冊です。

本書で取材を受けている脱サラリーマンを選んだ人たちの40人の進路は多種多様であり、男女問わず年齢にも色々なパターンが存在します。

そのためこれから真剣に脱サラリーマンを考えている人にとっては、似たような境遇、または分野で挑戦している人たちの例が1つや2つは見つかるはずです。

例えば新卒社会人として入社するも1年で辞表を出して独立する例もあれば、60歳近くまで会社に勤め、早期退職募集制度に応募して会社を辞めた人も登場します。

もう1つ脱サリーマンの動機を5つのカテゴリーに分けて、章立てされているのも特徴的です。

  • 第一章 起業の夢を実現する
  • 第二章 故郷で第二の人生を
  • 第三章 職人として生きる
  • 第四章 趣味を活かす
  • 第五章 人の役に立ちたい

最後に野暮かも知れませんが、本書に登場する人たちはいずれも脱サラリーマンで成功した例です。

安易に計画的に進めるべきとか、リスクヘッジをしましょうと言うつもりはありませんが、少なくとも失敗を恐れずに挑戦する人たちを妬むよりも、応援する気持ちで読み進めた方が読了感は良いはずです。

ロミオとジュリエット(松岡和子 訳)



現代のエンターテインメント、テレビや映画においても恋愛ロマンスは欠かせない要素ですが、それは演劇の時代から続いてきた伝統です。

そして世界中でもっとも有名な恋愛劇といえばシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」であることは間違いなく、言い方を変えれば恋愛ロマンスのあらゆるエッセンスがこの作品の中に詰まっています。

日本では豊臣秀吉が存命の頃にイギリスで発表された作品ですが、今も世界中で定番の恋愛劇として上演され続けていることがそれを裏付けています。

作品や舞台を見た経験がない人でも大まかなあらすじを知っている人は多いと思いますし、私もその中の1人でした。

舞台はイタリアのヴェローナで、その町の有力者であり宿敵同士でもあるモンタギュー家キュピュレット家の息子(ロミオ)と娘(ジュリエット)が禁断の恋に落ちるというストーリーです。

実際に劇の中で繰り広げられる2人の間のやり取りは、歯の浮くようなセリフが並んでおり、現実的ではないものの、シェイクスピアが演劇を盛り上げるための演出として読めばそれなりに楽しめます。

また作品が制作された時代背景からギリシャやローマ神話の中から比喩を持ってくる頻度が多く、原作に忠実な演劇の場合、楽しむためにはそうした素養も必要になってきそうです。

ただし本書には丁寧な注釈が付いているため、読者が戸惑うことはありません。
また巻末にまとめて注釈の解釈を掲載するのではなく、ページ下部に専用のスペースが設けられているレイアウトにも好感が持てます。

一方で劇の見せ場になるであろう決闘シーンは、台本ではセリフがほとんど無い部分ということもあり、一瞬で終わってしまうことから物足りなさを感じるかも知れません。

これまで紹介してきた「アントニーとクレオパトラ」、「ハムレット」と比べると、ストーリーは単純明快なものの密度は濃く、名作落語のように何度見聞きしても飽きない内容になっているのではないでしょうか。

ハムレット(松岡和子 訳)



夜な夜な現れる先王の亡霊。

ハムレット王子は亡霊(父親)から自分の死は毒蛇に噛まれたことによる事故死ではなく、ハムレットにとって叔父にあたる人物によって毒殺されたことを告げ、復讐を果たすようにと言い残して消えます。

ちなみに叔父はデンマーク王となり、先王の妻(つまりハムレットの母親)はその叔父と再婚し、現在も王妃という地位にいます。

有り体に言えば、どの王宮にもありがちなお家騒動というのがハムレットの舞台になります。

先王が毒殺されたという事実は、ハムレットを除けば実行犯である叔父しか知らない真実であり、証拠もないことから、宰相のポローニアスをはじめ多くの家臣は王と王妃の味方をします。

いわば孤立無援といった形のハムレットですが、彼は赤穂義士のような一途なタイプではなく、王子という恵まれた環境に育った人物にありがちな皮肉屋で気分屋といった性格を持っており、たとえば厳粛な場面でも軽快な冗談を飛ばしてしまうタイプです。

しかしシェイクスピアは、ハムレットをこうした自由奔放なキャラクターに仕立てることで、舞台映えする名台詞を生み出します。

訳者によって多少の違いがありますが、簡単に抜き出しただけでもハムレットには次のような後世に残る名セリフが登場しています。
血のつながりは濃くなったが、心のつながりは薄まった。
この世の関節がはずれてしまった。ああ、何の因果だ。それを正すために生まれてきたのか。
生きてこうあるか、消えてなくなるか、それが問題だ。
習慣という怪物は、悪い行いに対する感覚を喰らい尽くします。

先述のようにハムレットは気分屋ではあっても頭は切れ、実行力も兼ね備えた若者です。
そこで彼は相手を油断させるために、狂人のフリをするという作戦を思いつきます。

もちろん単純な復讐劇の物語で終わるはずもなく、王の右腕ともいうべき宰相ボローニアスの娘オフィーリアがハムレットの恋人という、復讐の障壁になりそうな設定も用意されています。

他にもハムレットや王へ二枚舌を使う政治的な動きするを友人が現れたりと、さぞ賑やかな演劇になるだろうという感じでストーリーが進んでゆきます。

やはりハムレットで圧巻なのは、終盤で怒涛のように押し寄せる急展開であり、観客は舞台から目を離せない釘付けの場面となるはずです。

ストーリーのテンポや流れはもちろん、登場人物たちの個性が豊かに表現されており、観客を魅了する演劇としてシェイクスピアの真髄が見られる作品ではないかと思います。

アントニーとクレオパトラ(松岡和子 訳)



16世紀後半から17世紀後半にかけてイギリスの劇作家として活躍したシェイクスピアは、後世へ大きな影響を与えました。

そのジャンルは演劇に留まらず、小説や音楽、映画など、多くの芸能に及びます。

中には大まかなあらすじを知っている作品もありますが、演劇として鑑賞したことも作品として読んだこともありませんでした。

理由としては単純に、シェイクスピアの作品は小説ではなく、舞台の上で役者が演じることを前提とした脚本であるため、どこか抵抗を感じていたためです。

1冊目として本書「アントニーとクレオパトラ」を手にとった理由は、私自身が知っているローマ帝国建国にあたっての内乱を舞台にしており、タイトルだけで作品の内容が推測できるからです。

アントニウス(アントニー)はカエサル亡き後、その実績からローマ帝国の統治者にもっとも近い位置にいた人物ですが、エジプト(プトレマイオス朝)の女王である女王クレオパトラと出会ってからは、絶世の美女といわれた彼女と酒に溺れ、手にしていた権力と幸運を手放してしまった人物です。

一方のクレオパトラもアントニウスの心を自分へ引き寄せることに熱心であり、アントニウスを政治的にもうまく利用しようとしましたが、大きな時代の流れを読むことはできませんでした。

歴史上の評価としてはいまいち一流になれなかった人物ですが、権力の魔力に取り憑かれ、愛と酒に溺れて身を滅ぼしてしまう2人の人生は、演劇にはうってつけの人物だという見方もできます。

作品はエジプトで夢中になるアントニウスとクレオパトラの場面から始まり、セクストゥス・ポンペイウスとの戦い、アクティウムの海戦、そしてアントニウスとクレオパトラの最期(プトレマイオス朝の滅亡)までの約10年にも及ぶ期間が対象になっています。

一見すると悲劇のように思えますが、主人公の2人だけではなく、彼らを取り巻く部下たち、敵対関係にあるオクタウィアヌス(シーザー)陣営の思惑が交差する場面も多く、セリフには強い皮肉や揶揄が込められていることから、喜劇的な要素も入り混じっており、捉えどころのない作品です。

演劇の舞台を思い浮かべながら読んでいましたが、テンポ良く観客を飽きさせない良く出来た構成になっていることから、思いの他スムーズに読み進めることができました。

ちなみにアントニウスのライバルとなるオクタウィアヌスは、作品中でもアントニウスの凋落ぶりを冷静に把握し、クレオパトラには目もくれずに勝利をもぎ取ってゆく人物であり、やはり初代皇帝にふさわしい人格と能力を持っているものの、その完璧さゆえに演劇の主人公としては大衆の心を揺り動かす魅力には欠けているのかも知れません。

いきなり全集を読破する形ではなく、今後もシェイクスピアの作品を少しずつ紹介できればと考えています。

語彙力こそが教養である



主張したいことがシンプルに伝わってくるタイトルです。

著者の齋藤孝氏は、大学で教鞭をとる教育学者ですが、普段あまりテレビを見ない私でも何度か出演している姿を見かけたことがあります。

学生へ何よりも読書の重要性を一貫して訴えていますが、読書好きの私からすればまったく反対する理由はありません。

多くの学生を見てきた著者は、1分間でも学生のプレゼンを聞けば、その人が持っている語彙や言葉の密度が手に取るように分かると言います。

本書では語彙の豊富さは知性に直結するという確信を持っている著者が、語彙が貧困な学生や社会人が増えている現状を危惧し、語彙力を鍛えるためのインプットとアウトプットの方法を紹介した1冊です。

まず初めはインプットが重要になりますが、やはりその一番の近道は読書であるというのが著者の考えです。
その他にもテレビや映画、インターネットでも語彙のインプットが出来ると紹介している点は、読書離れしている人たちの敷居を少しでも下げようという作者なりの工夫が伺えます。

それでも総じて言えば、古典に属する名著を読むというのがもっとも効率的なようです。

本書に挙げられている一例として夏目漱石、幸田露伴、三遊亭圓朝、孔子、ドストエフスキー、シェイクスピアなどです。

たしかにここに挙げられている文章は格調が高かったり、表現が多様であったり、ことわざや有名な言葉の宝庫です。

私自身の経験からは、年配の人の方が語彙力が豊かな傾向がある気がしますが、確かにそこには人生経験のほかに読んできた本の数の差もあるような気がします。

そして著者のように1分間のプレゼンではとても無理ですが、私でも初対面の人とある程度会話することが出来れば、おおよそ相手の育ちが分かってしまうものです。

悪い意味に受け取って欲しくありませんが、ここで言う「育ち」とは、生まれた家庭環境や貧富の度合いを指すわけでなく、単純に教養のレベルのことです。

私も著者のように語彙力のもっとも効率的な鍛え方は読書であるという考えには賛成であり、図書館や古本屋で気軽に本を読むことのできる現代において、読書量と貧富の差は関係ありません。

ただ個人的に言わせてもらえれば、本書で紹介されている語彙力のアウトプット例については、多少フォーマルな場面でもない限り、さりげなくであっても会話の中に四文字熟語や故事を入れるのは少々難しい(=場違い)と感じた点です。

ちなみにビジネスの場面において横文字を多用する人がいますが、これは語彙力とは違う気がします。
なるべく多様な表現や例えなどを用いて相手に分りやすく伝えることが語彙力だと思うからです。

血の味



冒頭はいきなり次の1行から始まります。
中学三年の冬、私は人を殺した。ナイフで胸を一突きしたのだ。

沢木耕太郎氏の作品は何冊か読んできましたが、どれもノンフィクションであり、彼の小説作品は今回が始めてです。

少年犯罪を取り上げた作品、または犯罪者心理に鋭く切り込んだ作品、もしくはミステリー小説なのかと予想しながら読み進めていきましたが、結果から言えばそのいずれでもありませんでした。

冒頭で主人公は、20年前の自分が少年時代に起こしてしまった殺人事件をふり返っています。

そして主人公は殺人を犯すまでの2ヶ月の日々は克明に覚えていても、ナイフが相手の胸に吸い込まれてゆく手のひらの感覚を最後に、記憶がぷつりと途切れています。

つまり主人公は、過去の自分が「なぜ人を殺してしまったのか?」の動機を未だに見つけられずにいたのです。

作品では殺人を起こすまでの2ヶ月間の出来事や主人公の心理状況が克明に描かれており、テンポよく進んでゆきます。

それでも著者は作品の後記に次のように書いています。
この『血の味』という作品は、十五年前に書きはじめられ、十年前にはほぼ九割方書き終えていたものである。
しかし、自分で書いていながら、そこに書かれていることの意味が充分に理解できないため、最後の一割を残して放置されていた。

本書はノンフィクション風の小説ではなく、一人称視点でいかにも小説作品を意識して執筆されています。

それだけに主人公は単に刹那的、発作的に殺人を犯したというオチでは作品が締まりません。

そのためには、誰よりも作者自身が納得いく理由と結末が必要であり、それが見つかるまでは放置されていたのです。

決して衝撃の結末といった安易なものではなく、作者が導き出した必然性を読者が納得できるかどうかは読んでみての楽しみです。

読了後もは余韻を引きずるような作品であることは間違いありません。

深夜特急6―南ヨーロッパ・ロンドン―



いよいよ1年にも及ぶ長い旅を描いた紀行もいよいよ最終巻となります。

ギリシャからイタリアへ入った旅人(沢木耕太郎氏)は、サン・ピエトロ大聖堂でミケランジェロの「ビエタ」像に感動し、モナコからニースへ向かう途中のバスの中から見た地中海の美しさにに心を奪われます。

そこにはアジア各国をバックパッカーとして放浪していた著者の姿はなく、普通の観光客といった様子に見えます。

やがてマルセーユに着き、1日後にはパリへ着くという直行バスの時刻表を見ながら著者は、「ここが旅の終わりではない」という確信めいた思いを抱きます。

そこで行き先をパリではなく、スペインのマドリードへ変更することになるのです。

さらにそこからポルトガルのリスボンに到着しますが、そこでもここが最後の地になることに納得できない自分がいます。

そこでイベリア半島が大西洋と接する先端、つまりユーラシア大陸の最南西端であるサグレスを目指すことになります。

夜に到着し、また季節は冬ということもあり、観光シーズンを終えて閑散としたさい果ての街という雰囲気が漂っていました。

露頭に迷いそうになった著者は、運良くシーズンオフで閉まっていたペンションで宿泊することができます。

そしてそこで朝を迎えた著者は驚くことになります。
窓の真下に青い海があり、水平線上にはまさに昇ろうとする太陽が輝いていたのだ。
このペンションは、いやホテルは、海辺の斜面に建てられており、しかもここは、海を望む最上の部屋だったのだ。
眼の前には大西洋が迫り、ということは、その遥か彼方にはアフリカ大陸があるはずだった。

そしてとうとう、いくつもの偶然で訪れることになったサグレスの街で岩の上に寝そべり、崖に打ち寄せる大西洋の波音を聞きながら、旅の終わりを確信するのです。

普通の旅であれば目的地があり、そこで観光ないしは決まった日数を滞在すれば、その旅は終了となります。

しかし期限を定めず、バックパッカーとして旅を続けてきた著者には普通の旅とは違う、自身の内面的な旅の区切りが必要だったのです。

沢木耕太郎氏はこの旅を26歳のとき、1973年頃に経験します。
一方で深夜特急が世の中にはじめて発表されたのは1986年であり、この最終巻が発行されたのは1992年です。

つまり旅を終えてから20年近くが経過して完成した作品ということになります。
作家としてもっとも脂の乗った時期に若かりし頃の旅を振り返ったこともあり、作品前半の無軌道で刺激的な旅から、後半の感傷的で落ち着いた雰囲気の旅という、旅を人の一生になぞらえたようなシリーズ構成は素晴らしく、読者が作者と一緒に旅を疑似経験しているかのような臨場感があります。

これを見て刺激を受けた多くの若者が、著者と同じようにバックパッカーとして旅立って行ったに違いありません。

やはり若くて感受性の強い時期にこうした旅を経験することは素晴らしいことであり、逆に言えばある程度の社会経験を積み、家族や仕事を持った大人が決行する旅としては無謀過ぎるのかもしれません。

私自分身にバックパッカー旅行の経験はなく、今さら経験したいという願望もありませんが、それでも本書を読むと羨望のようなものは感じてしまうのです。

深夜特急5―トルコ・ギリシャ・地中海―



第5巻では、東アジア、南アジア、中東と旅してきた著者(沢木耕太郎氏)が、いよいよヨーロッパの玄関ともいうべきトルコへ入国することになります。

よくトルコは親日国と言われますが、著者が訪れた1970年代には「ロシアをやっつけた東郷元帥」を尊敬する老人がいたり、著者の観光ガイドを無償で買って出る若者がいるなど、今日以上の親日ぶりが伺えます。

さらに気さくに話かけてきてチャイやビールを奢ってくれるトルコ人も多く、長い旅に疲れ始めた著者には彼らの小さな親切が身にしみるようになってきます。

一方で理不尽に金銭を要求してくる輩も現れるため、やはり親日国といえども油断は禁物なことは今も昔も変わりません。

続いて入国したギリシャでは、いよいよ本格的なヨーロッパに入ったことを実感します。

著者はクロアチアなどを経由してオーストリア方面へ向かうルートはとらず、ヨーロッパの田舎と呼ばれるギリシャの中でさらに田舎と言われている南のペロポネソス半島を目指します。

田舎とはいえペロポネソス半島といえば、かつてヨーロッパで一番最初に文明が栄えた地域であり、遺跡の宝庫という点、寒いヨーロッパの冬を過ごす上で温暖な地中海沿いの方が快適に旅することができるといった点では悪い考えではありません。

ギリシャの旅ではアジアの国々で経験したような想定外のハプニングが起こることもなく、旅慣れてきた著者にとってそれは"安心"ではなく、"物足りなさ"となって感じてしまう点は興味深い心理です。

たしかに旅の性質が、バックパッカーの放浪という内容から目的地を目指す旅へと変わっったこともあり、旅の様子が落ち着いてきた印象を受けます。

多くの国でさまざまなことを経験するということは、自分自身へのインプットとなるはずですが、ギリシャから船でイタリアへ向かう著者の心にあったのは、自身が空っぽになってしまったかのような深い喪失感であったといいます。
旅がもし本当に人生に似ているなら、旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。
人の一生に幼年期があり、少年期があり、青年期があり、壮年期があり、老年期があるように、長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。
私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。何を経験しても新鮮で、どんな些細なことでも心を震わせていた時期はすでに終わっていたのだ。
そのかわりに、辿ってきた土地の記憶だけが鮮明になってくる。
つまり長い旅の終わりを考えるべき時期を迎えていたのです。