本と戯れる日々


もうすぐブログで紹介してきた本も1000冊になろうとしています。
ジャンルを問わず気の向くままに読書しています。

バナナと日本人

バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ (岩波新書)

どこか文学的な匂いを感じるタイトルですが、まったく題名通りの内容の本です。

本書は今から30年以上も前に出版されていますが、バナナが日本人にもっとも身近な果物になったのは今から約40年ほど前のようです。

私が小さい頃からバナナはすでに一般的な存在であり、今でもスーパーで売られているバナナは、四季を通じてもっとも価格が安定し、かつ手軽に購入できる果物です。

バナナが日本で流通し始めた頃は、エクアドルそして台湾が主な輸入先でしたが、1970年台半ばからフィリピン産のバナナが急速にシェアを伸ばし、1981年には9割以上のバナナがフィリピン産に置き換わりました。

ちなみに最近の情報を知りたくて農林水産省のページを見てみましたが、2010年時点での国別輸入量においてもフィリピン産が95%を占めており、30年が経過した現在の状況もほとんど変わっていないようです。

フィリピン産バナナが日本へ大量に輸出されるようになった背景は明確で、それは日本が有望な市場になることを予測し、アメリカ資本の大企業がフィリピン(ミンダナオ島)に進出したからです。またシェアは低いながらも住友商事も同じくフィリピン進出を果たしています。

具体的な企業は以下の4社です。
誰もが知っているブランド名が含まれているのではないでしょうか。

  • ユナイテッド・ブランズ社(ブランド名:チキータ)
  • デルモンテ社(ブランド名:デルモンテ)
  • キャッスク&クック社(ブランド名:ドール)
  • 住友商事(ブランド名:バナンボ)

本書は決して日本のバナナ文化を論じた本ではなく、学者である鶴見良行氏によって執筆されていることから分かる通り、日本とフィリピンの歴史的な関わりあいから始まり、バナナ栽培の歴史、そして日本に輸出されるバナナの生産現場を具体的なデータと共に丁寧に調べ上げています。

そしてそこから見えてくる現実、すなわち日本から遠く離れたフィリピンの生産現場は、けっして明るいものではないことが分かります。

今から30年以上も前に発表されたため、そのデータをもって現状を語るのは相応しくありませんが、それでも過去のものと片付けられるほど劇的に改善されたとも思えません。

本書(バナナ)を通して、大資本の多国籍企業が途上国へ進出した際に、どんな問題が起こるのかをきわめて具体的に知ることが出来るのです。

本書のあとがきには次のように書かれています。

ダバオの生産の現場では、二つのことが起っている。その一つは、いうまでもなく、農家、労働者が搾取され、貧しくなっていることだ。もう一つは、クリスチャン・フィリピノ、モロ族、バゴボ族など、どのような集団であれ、その自立性・能動的な主体としての成長が、麻農園からバナナ農園へという外国企業の進出によってぼろぼろに傷つけられていることだ。かれらの自己主張は、さまざまな暴力装置によって、封じ込められている。
~ 中略 ~
だとすれば、つましく生きようとする日本人が、食物を作っている人びとの苦しみに対して多少なりとも思いをはせるのが、消費者としてのまっとうなあり方ではあるまいか。

この著者の言葉はとても重いと感じずにはいられません。

たとえば私たちの中には、小さい時に「ご飯粒を残すと目が潰れる」、「一粒のお米に 七人の神様がいる」、つまり食べ物を残すと罰が当たると親から言われた人も少なくないはずです。

しかし現実に目を向ければ、日本のコメ農家よりはるかに過酷な状況下で働く人々たちの存在があり、日本人の大部分がその現実を知らないのです。

ちなみにバナナのプランテーション労働者たちは、日本向けに輸出される品種のバナナが趣向に合わないため、自分たちでは消費しません。

もっとも土地すらも外国企業が所有しているのですから、彼らに生産する農作物の選択肢があるはずもありません。

本書はバナナを通して飽食の日本人、そして日本農業の未来へ警鐘を鳴らしているのではないでしょうか。

蛍の航跡: 軍医たちの黙示録

蛍の航跡: 軍医たちの黙示録 (新潮文庫)

太平洋戦争、日中戦争に従軍した軍医たちの手記を小説家した軍医たちの黙示録シリーズの2冊目の作品です。

1作目の蝿の帝国は、15人の軍医の体験を書かれていましたが、今回もまったく同じスタイル(15作品)で構成されています。

「前作と代わり映えのしない続編か?」と言われるとその通りなのですが、逆に前作とまったく同じスタイルで執筆し続けた著者の帚木蓬生氏の執念、そして責任感を感じる1冊です。

箒木氏は医師という職業の傍らで作家としても活動していることで知られていますが、著者の恩人である中尾弘之氏から引き継いだ大きなダンボール箱一杯の資料が本書を執筆するきっかけになったようです。

やはり前回の感想と重複する部分がありますが、兵士たちの任務は敵を倒すことであり、軍医のそれは味方を救うという性質を持っています。

一方で、彼らにとってもっとも脅威だったのは敵の弾丸ではなく、とくに太平洋の島々で戦った南方方面で最大の敵となったのは病魔と飢餓でした。

そして補給を絶たれ食料も医薬品も尽きている状況下で、万全の治療など望むべくもなくものでした。

マラリア、デング熱、アメーバ赤痢、腸チフスなどにかかった兵士たちに薬品どころか、必要最小限の栄養さえ与えることが出来ない中で、体力を消耗しきった人間からどんどん脱落してゆくのです。

病にかかった兵士たちの予後は次のようなものだったと言われています。

<立つことのできる者、三十日。身を起こして坐れる者、三週間。寝たきり起きられぬ者、一週間。寝たきり小便する者、三日間。返事をしなくなった者、二日。まばたきしなくなった者、明日。>
それでも軍医や看護師、衛生兵たちは懸命の看病を試みますが、太平洋戦争も末期になると手の施しようのない、以下のような光景が本書の中に幾度となく登場します。
深いジャングルの山道は急坂であり、前を行く兵士の尻を目の前にして黙々と登る。あたりには戦病兵の屍体が散乱しており、強烈な屍臭がする。中にはまだ息をしている兵もいるのに、耳、鼻、口に蛆がうごめいている。患者たちにとっては、この付近の山は地獄の針の山同然だったのだ。骨と皮ばかりになった彼らはやっと麓まで辿り着き、そして最後の力をふりしぼりながらこの坂道を登る途中で力尽きていた。

ただしどの短編集もけっして凄惨なものばかりではなく、戦友との絆、戦場となった国の現地人たちの交流といった心温まるエピソードもあり、さまざまな角度から軍医たちの体験を収めた本シリーズは、一流の戦争文学であることは間違いありません。

日本人と天皇

日本人と天皇 - 昭和天皇までの二千年を追う

副題に「昭和天皇までの二千年を追う」とある通り、今や日本でもっとも著名なジャーナリストの1人である田原総一朗氏が、歴代天皇を中心に約2000年に及ぶ日本の歴史を1冊の本にまとめたものです。

400ページ以上になる単行本ですが、それでも「日本書紀」に記されている神話時代から続く天皇の系譜を網羅するためには紙面が圧倒的に足りないため、「通史」というよりも「年表」と呼ぶ方が相応しいかも知れません。

太平洋戦争の終戦を迎えたとき、著者の田原氏は小学5年生だったそうです。

それまで学校の教師から、天皇は絶対的な存在、つまり現人神であり、「天皇陛下のお顔を見ると目がつぶれる」とさえ言われていたそうですが、終戦を挟んで2学期に入ると、教師たちの言葉が180度転換し、今度の戦争は正しくなかった、アメリカ、イギリスをはじめとした連合国の言っていることが本当は正しいと言われるようになりました。

わずかな時間で大人たちの言葉が白から黒に変わったという体験は、田原少年にとって大変ショックだったようで、それ以来、大人たちの言うことが信用できなくなったことを告白しています。

団塊ジュニア世代の私は、当然のように"天皇=現人神"という感覚は持ったことがなく、戦後の「日本国の象徴としての天皇」しか知りません。

熱心な皇室ファンでもない私は皇居へ一般参賀した経験もなく、天皇を間近で見てみたいという欲求さえ起こりません。

そもそも"象徴"という単語自体に形を実感できない、ぼんやりしとしたイメージしか持っていない日本人は多いのではないでしょうか。

それでも本書を読み進めてゆくと天皇の歴史を紐解くことが、そのまま日本の歴史を紐解くことに直結することを少しずつ実感してゆくことができます。

つまり天皇の歴史を知ることが、「なぜ天皇が日本国の象徴なのか?」という疑問を解決するのにもっとも近道なのです。

戦前には史実とされた「日本書紀」や「古事記」では、天皇は天照大御神の子孫として位置付けられていることは広く知られていますが、古代には"天皇"という言葉すらなく、ともかく神話と歴史が並行する混在する、史実がはっきりとしない時代が長く続き、実在がはじめて確認できるのは、5世紀後半に登場する第21代・雄略天皇からだといわれています。

「日本書紀」をはじめとした書物自体が天皇を中心とした一族によって編纂されたものである以上、天皇が正当な統治者と定義されるのは当然ですが、日本で最初に国家と呼べる程度の実力を持った一族の系譜が、そのまま現在の皇室にまで続くという考え方はかなり有力です。

古代において天皇は権威と権力を兼ね備えた強力な存在でしたが、その地位は必ずしも安泰ではなく、権謀術数により兄弟・肉親の間で多くの血が流されました。

その後、朝廷内の争いを平定し、安定した中央集権体制を築いたのが7世紀の天智・天武天皇でした。

いわば2000年の歴史の中で、この両天皇の時代に天皇の権力が絶頂期を迎えたことになりますが、藤原氏を筆頭とした貴族たちの摂政・関白政治によって、その権力が緩やかに下降してゆくことになります。

やがて10世紀に入り、下級貴族であった源氏、平氏が台頭するようになり、天皇権力の失墜は決定的になります。つまり武士の時代が幕を開けるのです。

源平両氏は天皇の地位を強奪することはしませんでしたが、摂政・関白の地位を得るだけでは満足しませんでした。

領地と配下の武士たち、いわば武力を背景にして実質的な支配力を手に入れたのです。

源頼朝は平氏との争いに勝利し、武家政権の象徴ともいえる幕府を鎌倉に開きましたが、この慣習がそれ以降、室町時代から江戸時代に至るまで続くのです。

この長い中世から近代に至るまでの間、露骨な言い方をすれば、武士(時の権力者)は都合の良い時だけ天皇の権威を利用し、とくに利用価値が無ければ織田信長のように天皇の存在をほとんど無視したり、自分に対して批判的な天皇の場合には、その首をすげ替えることさえ躊躇せず実行しました。

それは維新により明治政府を作り上げた首脳陣たちさえ例外ではなく、長く続いた武士政権を葬るために、天皇という権威を"大義名分"として利用したのです。

明治から昭和の終戦に至るまで、憲法上では天皇は国家の大権を有していましたが、実質的には近代的な議会・官僚政治、ないしは軍部による政治が続きました。

つまり憲法上では軍の統帥権をもっていた天皇が、現実にその権限を発動することは出来なかったのです。
明治天皇は日中・日露戦争に反対であり、昭和天皇も日中、太平洋戦争に反対したにも関わらず、戦争を止めることが出来なかったです。

いわば田原少年のように国民たちが現人神として崇めた天皇は、近代に入ってからも「象徴」であり続けたのです。

やがて日本がポツダム宣言を受け入れ敗戦を迎えた時にも、マッカサーは天皇を戦犯として裁くことなく、「天皇制」を維持し続ける方を選択しました。

著者はそれを次のように書いています。

占領軍は占領政策をスムーズに進めるために天皇を利用することにしたのである。
確かに、もしも天皇を裁判にかけ、天皇制をなくしていたら、日本国内は混乱し、収拾のつかない事態となっていたのではないか。その意味で、マッカーサーたちは、日本人というものを非常によく掴んでいたといえる。

これはマッカサーさえも、源頼朝や織田信長といった歴史上の権力者と同じ手段を選択したといえます。

本書を読み終えても、2000年にもわたり君臨しつづけた「天皇」の存在を明確に定義することは難しいというのが結論です。

もしかして「2000年にわたり君臨しつづけた」という事実そのものが、「象徴」たるに相応しい何よりの理由なのかもしれません。

著者の田原氏は歴史の専門家ではなく、ジャーナリストです。

ジャーナリストの本質は情報を伝達することであり、本書はかなりのボリュームであるに関わらず、一般読者が充分に理解できる分かり易い内容で書かれています。

そのため天皇を中心に据えた日本の歴史を把握し、さらにより深く理解する手がかかりとして非常に有用な1冊といえます。

震災裁判傍聴記

震災裁判傍聴記 (扶桑社新書)

本書の副題には"~3.11で罪を犯したバカヤローたち~"とあり、東日本大震災につけこんだ犯罪の裁判、つまり"震災裁判"の傍聴記録をまとめた1冊です。

著者の長嶺超輝(ながみね・まさき)氏は以前から足繁く法定へ通い、数多くの裁判を傍聴してきた経験があります。

以前本ブログでも紹介した長嶺氏の著書「裁判官の爆笑お言葉集 」はベストセラーにもなっています。

本書の冒頭に以下のように書かれています。

今回の一連の法定取材では、とても厳しい表現による非難が、繰り返し聞かれました。
それは「人間として、絶対にやってはいけない罪」、あるいは「人として許されない犯行」といった、極めて強烈な非難の言葉です。
~中略~~
もちろん、窃盗や詐欺も厳しく非難されるべき犯罪ではありますが、「人間として絶対にやってはいけない」などという最大限の厳しい非難は、殺人犯の裁判ですら滅多に聞かれません。

これは多くの命が失われ、家財や家族を失った被災者たちがお互いに助け合わなければならない時に「火事場ドロボー」「人の善意につけこむ」という卑劣な犯罪行為に走ったというところに理由があることは容易に想像できます。

少々長いですが、本書で紹介されている震災裁判を紹介します。

  • CASE1:石巻ニセ医者ボランティア
  • CASE2:「被災地まで帰りたい」詐欺
  • CASE3:学校を狙う発電機窃盗団
  • CASE4:警備員による金庫荒らし
  • CASE5:飲料水買い占めパニック便乗詐欺
  • CASE6:親指一つで騙した義捐金詐欺
  • CASE7:被災地コンビニのATM窃盗
  • CASE8:放射能パニック便乗商法
  • CASE9:職を失った被災者を狙う就職あっせん詐欺
  • CASE10:被災住宅への侵入盗
  • CASE11:役所を騙す被災者偽装
  • CASE12:もう1つの「ニセ医者」事件
  • CASE13:避難所で強制わいせつ
  • CASE14:復興予算と贈収賄
  • CASE15:原発職員が犯した詐欺行為
  • CASE16:原発警戒区域内で窃盗
  • CASE17:通行書偽造によるペット救出作戦
  • CASE18:津波被災した兄弟の虚偽申請

著者が指摘しているように、本書を読む意義は大きく3つの意義があると思います。

1つめはメディアが大々的に報道したように、前代未聞の大震災であったにも関わらず、日本人の秩序を重んじる精神、高い倫理観によって被災地の混乱が最小限であったことを世界中のメディアが賞賛したというニュースの裏側にある真実を知ることです。

もちろん"まったくの嘘"ではありませんが、本書から分かる通り、確実に被災地では犯罪は発生していたのです。

日本中が重苦しい雰囲気に包まれる中では緊急性の高い情報、そして明るいニュースが優先され、被災地における犯罪が報道される機会が極めて少なかったのが事実ですが、それでも我々は"知られざる現実"を直面して後世に活かす必要があるのです。

本書で紹介されている犯罪では、当事者の他に傍聴しているのは著者1人といった裁判もあったようであり、こうした意味で本書の役割は少なくありません。


2つめは我々自身もこうした犯罪に無縁であるとは断言できないことです。

しかもそれは"被害者"としてではなく、"加害者"という意味を含んでいます。

大部分の人間は、「災害によって失われた治安のどさくさに紛れて犯罪に走るような卑劣な行為は絶対にしない」と思うでしょうし、私自身もそうでした。

たとえば私自身が被災者してすべての家財を失う境遇になった時、周りに誰もいないシチュエーションで持主不明の金庫が口を開けて横たわっていたとしたら、、、金庫でなくとも泥まみれになった現金入りの財布を目の前にしたとしたら。。。

これを自分のものにしたら立派な横領罪、場合によっては窃盗罪になりますが、本書を読み進めるにつれ、それでも自分は絶対に罪を犯さないと断言できる自信が弱くなってきたのも事実です。

つまり我々は他人の行為に対しては厳しい批判を加えがちですが、自分自身の道徳心を今一度見つめ直す必要性を問いかけてくれるのです。


最後3つめは、未曾有の自然災害である東日本大震災において、どのような犯罪が起きたのかを知ることは、自分自身や家族を守ることにもつながるという点です。

誰にとっても自然災害から無縁ではなく、本書の伝える内容は単なる裁判傍聴記ではないのです。