本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

エンブリオ (下)

エンブリオ (下) (集英社文庫)

前回紹介したように、本作品では胎児(エンブリオ)を題材にした最先端医療が内在する倫理的道徳的な問題をテーマにしています。

人為的に流産させた胎児を培養することで拒絶反応のリスクを極めて低くした臓器移植が実現し、これが本作の舞台となるサンビーチ病院で日常的に行われている医療行為なのです。

流産させられた死亡胎児は"組織の移植元としての道具"と見なされる一方で、"難病の治療に大きな効果をもたらす"のも事実であり、実際の法律においても"グレーゾーン"として手が付けられていないのが現実のようです。

こうした前回紹介した内容の他に、下巻ではもう1つの大きな問題を取り上げています。

本作の舞台となるサンビーチ病院は地方にある私立病院であり、その秘密裏で胎児に関する最先端医療が行われているという設定です。

言うまでもなく最先端医療は、今まで治療が困難だった病気へ大きな成果を上げる可能性がある以上、そこへ患者のニーズが集中するという結果は容易に想像できることです。

つまり大きな医療マーケットを創造する有望株となる訳ですから、巨大な医療関連企業がそうした病院の持つ最新技術へ関心を持ったとしたら、裏でどのような駆け引きが行われるかをテーマに取り上げています。

院長の岸川は、倫理的道徳的な問題は第二義として、とにかく自らの経営する病院において先端医療を研究・実現することを目的にしています。

一方でそうしたノウハウを特許化し、莫大な利益を得ようする金銭的な欲望は少ない人物でもありました。

そんなサンビーチ病院へ大資本を持ったアメリカ企業があの手この手で迫り来る中、岸川はどのように対抗してゆくのか?

本作品には、いわゆる"正義の味方"や"悪の化身"といった二元論で割り切れるような人物は殆ど登場しません。

最先端医療の虜になった人間、カネに目をくらました人間、そして手段を選ばずに健康な体を取り戻したい、子どもを授かりたいといったさまざまな欲望と葛藤が渦巻く世界なのです。

本作品には医療、さらに人類にとってきわめて現実的な近未来が描かれているような気がします。

エンブリオ (上)

エンブリオ (上) (集英社文庫)

タイトルの"エンブリオ"とは、受精後8週目までの胎児を意味する専門用語であり、本書によれば広義には出産するまでの胎児全般を指す場合にも用いられるようです。

言うまでもなく日本人の平均寿命は世界でも最高水準にあり、それに裏付けされる医療技術も高く評価されています。

一方で日本では毎年約100万人の新生児が誕生していますが、その裏では同じく毎年約30万件もの人工妊娠中絶が行われているのです。

最近では妊婦の出生前診断(血液検査)によりほぼ確実にダウン症の診断ができる検査が国内の病院に導入されるニュースが話題になりましたが、「命の選別」という反論も根強くあり、倫理的道徳的にはまだ議論の余地があり、法律の整備もまだ充分ではありません。

本書は2002年に発表されながらも、こうした人工中絶をはじめとした"胎児"の問題にいち早く真正面から切り込んだ作品です。

著者の箒木蓬生氏は医療を題材にした小説を多く手掛けていますが、本作品からは最先端医療技術へ言及する意欲が特に強く感じられます。


よく練られたストーリーというよりは、胎児へ対する、または胎児を利用した(近い将来実現する可能性のあるものを含めた)最先端の医療行為が実現した結果、どのような事態が現実に起こりえるのかをシュミレーションしたものが本作のストーリーを構成しているといえるでしょう。

主人公である岸川が経営する私立病院(サンビーチ病院)の中では、倫理を無視した医療行為が行われているという設定です。

皮肉にも「倫理を無視した医療=最先端の医療」という図式が成り立つわけであり、こうした技術の発達が人類の脅威になり得る現実は、原子力や軍事技術の発展にも共通するのではないでしょうか。

医療の発展が人類にとっての福音であることを疑わない岸川の自信は、次のセリフに集約されています。

「サンビーチ病院でやっていることは、すべて正解だ。誤答はひとつもない」

しかし内心では、自らの医療行為が世間に波紋を巻き起こすことを充分に自覚しており、

「ある先駆的な医療行為が宗教的、哲学的、倫理的、法律的、社会的な波紋を起こすのは、医学の歴史を振り返れば明白です」

という演説を学会で発言しています。

つまり岸川の目指す"先駆的な医療行為"は、地方のサンビーチ病院の中でのみ行われいるのであり、この閉鎖的な空間で濃密に繰り広げられるストーリーの中には、医療全般のあり方を問うような壮大なテーマを含んでいる問題作なのです。

安楽病棟

安楽病棟 (新潮文庫)

多くの医療ミステリー作品を手がける箒木蓬生氏の作品です。

タイトルから分かる通り、本書のテーマは"安楽死"です。

倫理的な意味合いで"尊厳死"が用いられることがありますが、いずれにしても終末医療で議論になるテーマです。

物語は、老人たちが入院している痴呆病棟が舞台になります。

前半では9人の老人たちが痴呆病棟に入院するまでの経緯を、その過ごしてきた人生ともに淡々とエピソード風に紹介してゆきます。

そして中盤から後半にかけては新人看護婦(城野)の視点から、看護や介護の風景、そして痴呆症にかかりながらも個性的な老人たちの素顔や病棟の日常をきめ細やかに描いています。

重篤な痴呆症になると自らの過去や家族の名前すら思い出せなくなり、加えて老衰によって体が不自由になるにつれ、食事や排便にも支障をきたすようになってきます。

(当たり前ですが)それでも、彼(彼女)たちには今まで歩んできた個性豊かな人生があり、数々の喜びや悲しみと共に多くの人生の時間を過ごしてきた先輩であることを気付かされるのです。


ようやく終盤になって本格的な医療ミステリーへと変わってゆくのですが、小説の場面々々ではっきりとメリハリをつけて書き分けられている印象を受けました。

しかし医療ミステリーとしての"安楽死"は本書の核となる部分ではありません。

あくまでも痴呆症老人たちの日常をなるべく医療現場に近い形で読者へ伝え、そして問題提起してゆくのが箒木氏の狙いだと思います。


私たちは"痴呆老人"を一括りにしてイメージしがちですが、実際の痴呆症の人たちには十人十色の個性がはっきりと出ます。

つまり若い頃の経験や習性などは、失われつつある思考能力や判断力の中でもしっかりと残るのです。

読者の中には、自らの名前さえ思い出せない重度の痴呆症になった時点で安楽死を望む人は結構いるのではないでしょうか。

しかしながらそれは健常者から見た視点であり、実際に痴呆症患者になった時点で"安楽死"の意思を伝えることは困難になりますし、仮に「死にたい」と言ったところで"老人のぼやき"としてしか受け取られないでしょう。

そこで主治医の判断により患者へ安楽死をもたらすという行為は果たして正当化されるのでしょうか?

もちろん現在の日本では一切認められないどころか殺人罪となりますが、一方で回復の見込みがない中で心臓が止まる瞬間まで全力で治療を続けるという行為は患者にとって過酷であり、高齢化社会を迎える日本にとって医療費の負担も大きな問題となってきます。

さらに(息子や娘といった)家族の意思が加わると、そもそも本人の(安楽死の)意思がねじ曲げられてしまうことも容易に想像できます。

本作を読み進めると多くの問題を突きつけられますが、それは"正義"や""といった二元論では解決できないテーマなのです。


昔の日本には、自らの死期を悟った時点で食を絶って静かに衰弱死してゆく老人が多くいたようですが、栄養点滴といった医療技術が確立している現在では、おそらくこうした死に方は出来ないだろうと思います。

今の私には、痴呆や老衰によって不自由になる自分自身を実感を持って想像することは出来ませんが、客観的に考えれば本作品に出てくる多くの老人たちの姿が将来の私自身の姿である可能性は充分に現実的なのです。

行き過ぎた医療技術の進歩が果たして人類へ幸福をもたらすのか?」、「医療技術の進歩に人間の倫理観が追いついていない」といったテーマは、箒木氏のすべての医療ミステリーに共通しているのです。

史記の風景

史記の風景 (新潮文庫)

史記」は前漢の時代に司馬遷によって書かれた歴史書であり、ジャンルを超えて世界で最も著名な本の1冊です。

2000年にもわたる古代中国の歴史を52万以上の文字で綴り、単に歴史上の事件を記録するにとどまらず、その内容は文化や風習、人物伝にまで渡り、後世に多くの影響を与えました。

史記から生まれたことわざや故事には枚挙にいとまがなく、日本でも奈良時代から「史記」は読み続けられ、その影響力は計り知れないものがあります。

たとえば現在使われている"平成"の年号1つとってみても「史記」にその由来を求めることができます。

著者の宮城谷昌光氏は、「史記」に登場する周や春秋戦国時代の人物を題材に多くの歴史小説を発表しており、「史記」の魅力を誰よりも知っている作家といえます。

一方で専門家でない私たちが漢文で書かれている「史記」を原文で読むのはきわめて困難なのも事実です。

本書はそんな「史記」を専門的に解説するのではなく、小説家ならではの自由な発想と解釈でその魅力を分かり易く伝えてくれる1冊です。

元々は新聞や雑誌で企画ものの連載として掲載されたものであり、基本的に1話完結の100章からなるエッセー風の文章で書かれています。

そのため気軽に読みながら新しい発見に出会う頻度も多く、いつの間にか「史記」の魅力に引き込まれてしまいます。

まさに教養と娯楽の2つの要素を満たしてくれる良書ではないでしょうか。

本書の中には太公望晏子孫臏といった小説の題材となった人物も数多く登場するため、宮城谷氏の作品を幾つか読んいるとより一層楽しめるでしょう。

のんのんばあとオレ

のんのんばあとオレ (ちくま文庫)

漫画家・水木しげるの自伝3部作ともいえる「のんのんばあとオレ」、「ねぼけ人生」、「ほんまにオレはアホやろか」。

水木氏の自伝はどれもクオリティが高く、世にある数多の自伝の中でも最高レベルだと思います。


本作「のんのんばあとオレ」は3部作の記念すべき最初の作品であり、水木氏の幼少期から(出兵するまでの)青年期の自伝となります。

タイトルにある"のんのんばあ"とは、幼い頃の水木氏に多くの伝承や民話、そして怪談を聞かせてくれた近所に住む神仏に使える祈祷師の老婆のことです。

"のんのんばあ"から受けた影響がのちの「ゲゲゲの鬼太郎」を始めとした妖怪マンガを書くきかっけになったことは、水木ファンの間では広く知られています。

今年92歳になった水木氏は今も健在であり、まさしく「三つ子の魂百まで」を形作った強い影響を当時の水木少年に与えたのです。

"のんのんばあ"は民族学的な表現をすれば"シャーマン"であり、大正終わりから昭和のはじめ頃までが、人々の日常の中にこうした種類の人々がいた最後の時代だったのかも知れません。

なぜ水木氏が特別にのんのんばあに可愛がられ、妖怪に興味を持ったかということを簡潔に説明しています。

オレは、生まれつきともいえるほど、葬式とか死とかに興味を持っていた。
茶わんとなべのふたで、チンチンジャンジャンと、葬式坊主のありさまを再現することが得意で、母によくしかられていたものだった。
だから、死とはわれわれの知らない別の世界へ行くことだとのんのんばあに聞かされていたこともあって、すこし気持は悪いが、どのようにして霊界に行くのか見たくてしかたがない。

水木少年は、ガキ大将をはじめとした子どもたちの社会の中でさまざまな遊び(イタズラ)に夢中になる一方で、"人間の住む世界とは別の世界"の存在も疑うことなく肌身に感じながら少年時代を過ごしたのです。

日常の中で水木少年は、のんのんばあからさまざまな話を聞かされて多感な時期を過ごします。
本作に出てくるほんの一部ですが、次のような水木少年とのんのんばあのやり取りが各所に散りばめられています。

うす暗い台所の天井のしみを見ては、あれは、夜、寝静まってから「天井なめ」というお化けが来てつけるのだ、とまじめな顔をしていう。
天井をよくみると、なるほど、それらしいシミがある。疑う余地はない。

「だれもいないのに鐘がなるのは、人の住まぬ荒れ寺に、どこからともなく野寺坊というのが来て鐘をならすのだ」

どうしてそんなに(フロ場)掃除をするのかとオレが聞くと、この腐った木にたまるあかを食べに「あかなめ」という妖怪が来るといけないからだと、のんのんばあは真剣に答えた。

もちろん本作品の主題は水木しげるの少年期の自伝であり、決して怪談ばかりを収録した本ではありません。

戦争の影が確実に忍び寄りつつある暗雲たちこめた昭和初期という時代でしたが、水木しげる氏をはじめとした子どもたちの無邪気でかけがえのない少年時代があふれる躍動感で書かれており、現在の我々が読んでも眩しいくらいに輝いています。

日本史の謎は「地形」で解ける

日本史の謎は「地形」で解ける (PHP文庫)

著者の竹村公太郎氏は、国土交通省の官僚として全国各地のダム建設、河川整備事業に関わってきた経歴を持っています。

よって竹村氏は地理や気象に造詣が深く、それを自身が好きな歴史という分野に紐付けて執筆したのが本書です。

本書の概要は序文にある次の言葉に集約されています。

何しろ地形や気象から見る歴史は、今まで定説と言われてきた歴史とは異なる。
このような説を発表すれば、素人が何を言うか、と歴史の専門家たちからの叱責を覚悟しなければならない。
しかし、地形と気象は動かない事実である。そのぶれない地形と気象の事象をどう解釈して、どう表現するかは各自の自由である。その解釈の根拠としてぶれない地形と気象を共有していれば、議論は拡大せず、客観的にある方向に向かっていく。

なぜ信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたか」、「なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたか」、「元寇が失敗した本当の理由とは何か」といった出来事にはどれも諸説ありますが、著者はこうした疑問に大胆にも地形を用いて迫ってゆきます。

著者は歴史好きですが、いわゆる歴史学者ではありません。
それゆえ先入観を持たず、自らが得意とするアプローチで大胆に歴史の謎に迫る姿勢は新鮮であると同時に、説得力を持って読者へ語りかけてきます。

そもそも"歴史学者"という存在が曖昧なのかも知れません。

彼らが専門的、かつ体系的な知識を持っていることは認めますが、彼らの間でも歴史上の出来事へ対する解釈が異なる事例は多々ありますし、根拠となる文献が存在しない場合などは、永遠に正しさが証明されないこともあるでしょう。

一方で国民的歴史小説家であった司馬遼太郎氏のように学者並みの知識量を持った人がいたり、郷土の歴史に精通した玄人顔負けのアマチュア研究家の人がいるのも事実です。

もちろん歴史の謎すべてが地形で解けることは思いませんが、本書を読み進めながら、歴史が持つ魅力である"ひとぞれぞれの解釈の自由"を改めて気付かせてくれる良書だと思います。

遠野物語・山の人生

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)
遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

民俗学の開祖である柳田国男氏の代表作である「遠野物語」、そして山にまつわる民間伝承などを研究、考察した「山の人生」、学会での講演内容を収録した「山人考」の3編が収録されています。

「遠野物語」で語られる"河童"や"座敷わらし"はあまりにも有名であり、作品の舞台となった岩手県遠野市では"遠野民話"を活用して観光にも力を入れているようです。

「遠野物語」は柳田氏自身が遠野で民話を直接収集したわけではありません。

知人となった遠野出身の佐々木喜善氏の知っている地元の民話を柳田氏がインタビューして書き留めたものが「遠野物語」となったのです。

そこには119編もの民話が納めらていますがどれも簡潔で短いものであり、2時間もあれば全編を読み終えてしまう分量です。

そして「遠野物語」に納められている物語には2つの特徴があります。

1つめは桃太郎のような昔話のような説話じみた要素がなく、また怪談のよう恐怖を強調する演出がほとんど殆どない点です。

飾り気のない素朴な伝承そのものといった描写には、柳田氏が主観を排除して正確に物語の"筋(すじ)"を書き残そうとした、後に大成する民俗学者としての冷静な態度が見て取れます。

実際に佐々木氏は訛りの強い方言で語ったようですが、本書に収録されている話はすべて標準語の文体で書かれています。

2つめの特徴は物語の新鮮さです。

中には古くから続く伝承に言及したものもありますが、多くは数十年からつい数年前の体験や出来事に言及した物語が多いということです。

よって当事者となった人名が正確に伝わっていたり、本書が執筆された時点で存命だった人物も存在します。

山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛という人は今も七十余にて生存せり。この翁若かりしころ猟をして山奥に入りしに・・・・(略)

のように若い頃の体験を語る老人の話もあれば、

昨年のことなり。土淵村の里の子十四五人にて早池峰に遊びに行き、はからずも夕方近くになりたれば、・・・・(略)

といったつい最近の出来事も収録しています。

これも柳田氏が時期や地名、名前などが判然としない大昔のエピソードよりは、怪奇な体験であろうともなるべく信憑性の高い内容を重視した結果だといえます。

江戸から明治に時代が移り変わり、急速な科学や経済の発展により便利になってゆく一方で、自然や神々へ対する畏敬の念が失われてゆく世の中へ警鐘を鳴らすといった着眼点は素晴らしいの一言に尽きます。

大げさに言えば柳田国男は、平野の都市部ではとっくに失われてしまい、山深い里でかろうじて語り継がれていた"伝説"を救いだした功労者なのかも知れません。

柳田氏の必死の努力にも関わらず、それでも失われた伝承があることを柳田氏は"遠野物語・第12話"に書き留め惜しんでいます。

土淵村山口に新田乙蔵という老人あり。村の人は乙爺という。今は九十に近く病みてまさに死なんとす。
年頃遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖のようにいえど、あまに臭ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。
処々の館の主の伝記、家々の盛衰、昔よりこの郷に行われし歌の数々を始めとして、深山の伝説またはその奥に住める人々の物語など、この老人最もよく知れり。
○惜しむべし、乙爺は明治四十二年の夏の始めになくなりたり。

ちなみに「遠野物語」が明治43年に発表されています。

つまりほんの僅かな差で、多くの伝承、すなわちそこに隠れている先人たちの知恵が失われたことを意味するからです。

臓器農場

臓器農場 (新潮文庫)

本ブログではすっかりお馴染みになるつつある帚木蓬生氏の作品です。

箒木氏の比較的初期の作品ということもあり、この頃多く執筆していた医療サスペンスです。

出だしのストーリーを簡単にまとめると次のような感じです。


作品の舞台は、九州のとある港町にある最先端医療を行う民間総合病院。

この聖礼病院に新人看護婦として赴任した天岸規子は、本人の希望通り小児科に配属されることになる。

規子は看護婦として現場の経験を積む毎日を送るが、ある日奇妙なウワサを耳にする。

それはごく限られた医師や看護婦のみが立ち入ることの出来る特別病棟に"裏の産婦人科"が存在し、聖礼病院が実績を上げている臓器移植手術に深く関わっているというものだった。。。


著者の箒木氏は現役の医師であり、そこへ優れた作家としての力量が加わることで、作品内で描写される医療現場の風景が臨場感と説得力を持って読者へ迫ってきます。

新人看護婦が正義感と責任感を背負い命をかけて巨大な病院の闇を暴くという設定には少し無理を感じますが、それでも圧倒的な迫力に押されて思わずストーリーに引きずり込まれてしまいます。

箒木氏は常に世界の最先端医療にアンテナを張り、そこへ自らの医学的知見を加えることによって他の作家にはなかなか真似の出来ない小説の分野を切り開いているのではないでしょうか。


また本作品では「臓器移植」、「奇形児」、そして何よりも「救われる命と犠牲になる命」といった重いテーマを真正面から取り扱っています。

これらは殆どの人にとって関係のない事柄であり、できれば真剣に考えたくないテーマかも知れません。

本書を通じて普段向き合うことのない重いテーマと読者が自然と向き合うことの出来るというのが、著者の本当の狙いなのかも知れません。