本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

平常心のレッスン



貧困、差別、ひきこもり、いじめ、学校や会社、家族間の人間関係...。
"生きづらい現代"はこうした要因と結びつけられ、繰り返しメディアに取り上げられています。

私自身は、どの時代や場所にも特有の生きづらさは常に存在し続けたはずであり、現代だけが特別に行きづらいとは思いません。

逆に言えば、生きる上での苦しみはいつの時代の人間にも存在し続けるものだといえます。

本書はこうした生きる上での苦しみの原因、そしてその苦しみを和らげる方法として平常心を身につけ、穏やかな日々を過ごす方法を指南しています。

まず最初に重要なのは、著者の小池龍之介氏は浄土真宗の僧侶であるという点です。
つまり仏教からの視点でアプローチを行っているため、元から仏教の考えが合わない人、もっと狭義にいえば宗派が合わない人は本書から得るものがないかも知れません。

私のように神道や仏教、キリスト教やイスラム教の違いにこだわらず乱読するタイプの人間にとっては抵抗なく読み進められると思いますし、私のようなスタンスの日本人は決して少なくないはずです。

タイトルにある平常心とは、本書によれば”あるのままを受け入れる”ということです。

自分や他人に期待し過ぎる、または何かに執着心を持つということは、周りの状況をつねに「いい、悪い」と判断することであり、心に浮き沈みを生じさせます。

こうした判断を捨て、いいも悪いもありのままを受け入れるという姿勢が平常心を保つ、または取り戻すための秘訣であると著者は述べています。

これを最終的には、生老病死に平常心で臨むというレベルで応用するのが本書の目指すところです。

老いや病はもちろんんですが、人間も生物である以上、誰一人としてやがておとずれる""から逃れることはできません。つまり、どうあがいても手に入れられない達成不可能な欲望であるといえます。

だからといって人生を虚しいものと捉えてしまうと、肉体的にも精神的にも活力が失われていまいます。

やはりここでも「そういうものである」と受け入れる姿勢が大切になってきます。

かいつまんだ内容になってしまいましたが、本書では順序立てて理論的に説明されているため納得できる点も多いはずです。

本書を位置づけるとするならば、宗教や哲学書というより一般向けの啓蒙書ではないでしょうか。

ただし本書には、「分相応以上の成功を目指すから疲れる」という項があるように立身出世を目指す生き方を推奨していません。

いわばビジネスで成功する秘訣を説いた啓蒙書とは対極的な位置にある本といえます。

桜田門外ノ変(下)



前回は桜田門外の変や水戸藩主・徳川斉昭のことばかりに言及して作品の内容をほとんど紹介していませんでした。

明治維新を大きく前進させた歴史的な事件である桜田門外の変ですが、これを成し遂げた水戸藩士が称賛の嵐を受けることはありませんでした。

それどころか現実はまったく逆であり、首謀者や実行に関わった元藩士たちは幕府のみならず水戸藩内部からも厳しい追求を受けることになります。

下巻では井伊直弼の暗殺に成功した元藩士たちが潜伏、そして逃亡を続ける記録がひたすら続くといってもよいくらいです。
本作品では、現場指揮者であった関鉄之介を主人公にしていますが、その理由は事件の計画段階から参加し、かつその逃亡記録がもっとも残っているといういかにも作者の吉村昭氏らしい理由によるものです。

関は暗殺実行後、倒幕機運を盛り上げるために幕府の監視をかいくぐり日本各地を奔走しますが、井伊直弼を暗殺した英雄として扱われることはなく、とにかく世間の目から姿を隠すことに苦心します。
その姿は、まさに犯罪逃亡者そのものです。

井伊大老を襲った水戸脱藩士17名、薩摩藩士1名、合計18名のうち最終的に生き残ったといえるのは3名のみでした。
その3名も各地を転々とし潜伏し続けるという苦しい日々を送ることになります。

桜田門外の変は、尊王倒幕運動の機運を一気に盛り上げる潮目となった事件でしたが、皮肉にも維新の原動力となった水戸藩にとっては時代の流れに取り残されるきっかけとなった事件になりました。

水戸藩の尊王派藩士にとってカリスマ的存在であった徳川斉昭が井伊大老暗殺からわずか半年後に病没し、藩内の保守派(幕府支持派)が台頭することによって急速に求心力を失ってゆきます。
結果的に水戸藩が再び歴史上で輝くことはなく、凄惨な内部抗争によってひたすら混乱が続きます。

当事者にとって救いようのない結果に終わった桜田門外の変ですが、作者はあとがきでこの事件に関心を持った理由を次のように説明しています。

とりわけ幕末に起こった桜田門外の変と称される井伊大老暗殺事件が、二・二六事件ときわめて類似した出来事に思える。
この二つの暗殺事件は、共に内外情勢を一変させる性格をもち、前者は明治維新に、後者は戦争から敗戦に突き進んだ原動力にもなった、と考えられるのである。
偶然のことながら、両事件とも雪に縁がある。

雪の降りしきる中、井伊大老が供回りの徒士を従えて粛然と登城するのを、白い息を吐きながら緊張の面持ちで静かに待ち構える水戸脱藩士たち。
この映画のワンシーンにもよく似合いそうな場面から歴史は大きく動き出したことだけは事実なのです。

桜田門外ノ変(上)



桜田門外の変は、安政7年(1860年)に大老・井伊直弼が暗殺された維新史を代表する事件です。
本書は吉村昭氏が、その全貌を余すことなく書き上げた作品です。

とにかく有名な桜田門外の変ですが、この事件が歴史上に与えた影響はとてつもなく大きいといえるでしょう。

まず犠牲者となった井伊直弼安政の大獄の首謀者であり、吉田松陰、橋本左内、梅田雲浜といった当時の代表的な学者たちを死罪に追い込み、加えて多くの大名(藩主)が蟄居や謹慎を言い渡されました。

言わば江戸時代を通じても類を見ない規模で行われた弾圧であり、もっとも強力な政治的統制が行われていた時期でもありました。
しかし桜田門外の変からわずか7年7ヶ月後に大政奉還が行われ、江戸幕府が瓦解したことを考えると、この事件が歴史の動きを一気に早めたということが分かります。

大老は将軍の補佐役という名目ですが、実質的に政治執行の最高責任者という強力な権限を持つ役職であり、その地位にいる人間が暗殺されるという事件も江戸時代を通じて前代未聞の出来事でした。

この事件は17名の水戸藩士脱藩者と、1名の薩摩藩士の手によって実行されました。

維新といえば薩摩藩、長州藩、そして土佐藩にスポットが当たりがちですが、維新の原動力という意味では間違いなく水戸藩が果たした役割がもっとも大きかったといえます。

そしてその中心にいたのが、水戸藩主・徳川斉昭です。
幕末の四賢侯として島津斉彬や山内容堂を中心とした4人の藩主が取り上げられることが多いですが、斉昭はさらにその上に位置する別格の存在でした。

水戸藩といえば御三家の1つであり将軍家に次ぐ影響力を持った藩でしたが、斉昭は型破りな藩政改革を行い、将軍継承問題やアメリカとの修好通商条約では幕府の方針と真っ向から対立していました。

さらに斉昭は水戸藩においてカリスマ的な存在として家臣たちへ大きな影響を与えましたが、当然のように彼らは幕府側から見れば反体制の過激派として警戒されることになります。

斉昭・慶篤親子が揃って幕府(井伊直弼)から処分されるに及び、それに憤った家臣たちが主君へ迷惑をかけないように脱藩して引き起こしたのが桜田門外の変といえます。
角度を変えて見れば、当時大老を暗殺するような思想や実行力を持っていたのは水戸藩のみであったといえるでしょう。

つまり斉昭は、徳川一門そして藩主としてあまりにも聡明で激しい気性を持っていたのです。
ちなみに大政奉還を行った徳川慶喜は斉昭の七男であり、その背景に父の尊王思想が影響していたとことは容易に想像できます。

氷壁



井上靖氏の長編小説です。

文学といえば昔から自伝小説が定番であり、井上の作品においても同じ傾向があります。
しかし本作品には山岳小説しての側面、そしてサスペンスや恋愛といった要素も取り入れられており、とにかく読ませる小説として仕上がっている印象を受けます。

600ページに及ぶ作品ですが、じっくりと味わうというよりもページをめくる手が止まらなくなるタイプの作品です。

ネタばれしてしまうと面白さが半減してしまう作品のため、紹介できそうな部分のみをレビューしてみたいと思います。

舞台は昭和30年。
主人公・魚津恭太は新鋭登山家として知られており、普段は会社員として働いています。

魚津は学生時代からの親友である小坂乙彦と共に冬期の前穂高東壁攻略を目指しますが、命綱として使用していたナイロンザイルが突然切れてしまい小坂は転落死してしまいます。

ただ1人助かった魚津は、登山家にとってあってはならないザイル切断の真相を究明するために動き出します。
魚津は当初からナイロンザイルの構造上の欠陥が切断の原因であると確信していましたが、マスコミや世間の見方は必ずしもそうではありませんでした。

なぜなら当時の最先端技術で作られたナイロンザイルは、従来のマニラ麻ザイルよりも強度に優れ、さらに軽量で温度変化にも強いという触れ込みで多くの登山家が使用していたからであり、中には次のような可能性を指摘する人もいました。

  • 技術的なミスでザイルが解けてしまった可能性
  • 小坂がプライベートで問題を抱えており、自らザイルを故意に切断して自殺した可能性
  • 何らかの困難な事情により魚津が、自分が助かるために小坂のザイルを故意に切断した可能性

言わば世論を相手に戦うことになった魚津ですが、会社上司の常磐、亡くなった乙坂が恋していた美那子、そして乙坂の妹・かおるなど、魚津に協力する仲間が存在しつつも、そこには複雑な人間関係と感情が絡み合っていきます。

そこから生まれるストーリーは時には泥沼のように、そして時にはドラマチックに展開してゆき、作品を読む読者を釘付けにする魅力があります。

発表されてから60年以上が経過しているにも関わらず、今でも現代小説として楽しめることに驚きを覚える作品でもあります。

柳生十兵衛七番勝負



タイトル通り、本書の主人公は柳生三厳(みつよし)こと、柳生十兵衛です。

津本氏の長編剣豪小説「柳生兵庫助」を本編とするならば、本作品は外伝という位置付けになります。

兵庫助と十兵衛は、2人とも石舟斎の孫にあたります。
ただし十兵衛の父・宗矩(五男)が、兵庫助の父・厳勝(次男)と歳が離れた兄弟ということもあり、この2人も親子ほどの歳の差があります。

柳生兵庫助」では将軍家剣術師範である父は家光をかわいがり、子の十兵衛には辛く当たったこともあり、手の付けられない乱暴者として成長します。

そして十兵衛は父よりも兵庫助の方を頼りにするようになり、父に代わって兵庫助が十兵衛を鍛え上げるという逸話が登場します。

個人的には楽しみにしていたのですが、残念ながら本作品では兵庫助が登場するシーンはありません。
ストーリーとしては、十兵衛が父から将軍家に対して不穏な動きをする諸大名たちの動静を探る隠密のような命令を受け、そこで剣豪たちと対決するというものです。

本作品では父へ対して反抗的な態度を見せる十兵衛は影を潜め、素直に任務に付いているようです。

たしかに文庫本で250ページ程度の分量ということもあり、細かいディテールに触れられないという事情があります。

よってタイトルに"七番勝負"とある通り、十兵衛と敵役との決闘シーンが各章のクライマックスとなり、テンポの良いストーリー運びと共に手軽に楽しめる作品になっています。

「柳生兵庫助」でも登場した "鳥飼い"、"無拍子"、"合撃(がっしうち)"、"活人剣"、"人中路" などの柳生新陰流独自の言い回しは健在であり、やはり合わせて読みたい作品であることは間違いありません。

風林火山



NHK大河ドラマの原作にもなった井上靖氏の歴史小説です。

大河ドラマは見ないため原作と比べてどのような内容なのかはまったく知りませんが、少なくとも"風林火山=武田信玄"というイメージです。

しかし本作の主人公は信玄ではなく、山本勘助です。

山本勘助といえば実在そのものが定かではなく、仮に実在したとしてどのような役割を果たしたのかよく分かっていない人物です。

つまり"歴史"に重点を置いて歴史小説を書こうとすれば山本勘助は適しませんが、"小説"に重点を置くならば作者の想像を挿入しやすい点で扱いやすい題材といえるでしょう。
実際、武田信玄を主人公した歴史小説でありながら、山本勘助が一切登場しない作品もあるくらいです。

ともかく本作品では、江戸時代初期に成立した「甲陽軍鑑」を元にした、もっとも知られた武田信玄の軍師としての山本勘助を描いています。

軍師といえば三国志をはじめとした中国のイメージが強く、君主にとってある種の先生・師匠のような存在であり、戦争においては敵の裏をかく作戦を考え出し、外交においても策略(計略)を練って相手を陥れるある種の天才というイメージがあります。

また軍師は冷静沈着である必要があるためか、色白で目元が涼しい美男子が似合います。

一方で勘助は背が低くて色黒、さらに容貌醜く、隻眼、足が不自由で、指も不揃いだったと伝えられています。
さらに信玄に仕えた時点で50歳を過ぎている当時でいえば老人であり、外見上では何一つ褒めるべき箇所がありません。

ただしこうした容貌が、人知れず死線をくぐり抜けてきた凄みのようなものを放っていたのかも知れません。

もう1つ軍師には、自らの才能を発揮できる場所さえあれば、出世や名誉とにはそれほど関心がないという浮世離れした部分がありがちですが、これは勘助にも共通しています。

ありきたりの出世には無関心でしたが、本作品では勘助がどうしても実現したい夢が2つだけありました。

1つめは戦略を駆使して大軍を手足のごとく動かして思う存分戦ってみたいという野望です。
これは信玄にとって生涯のライバルとなる長尾景虎(上杉謙信)が出現することによって実現します。

そしてもう1つは、由布姫(諏訪御料人)、そして息子である四郎勝頼をもり立てて、世継ぎにするという野望です。
なぜなら勘助は、由布姫へ対して密かに思慕の念を抱いていたからです。

戦国の世に自由に人生を選択できる女性はごく限られていました。
由布姫も例に漏れず、父・諏訪頼重を死へ追いやり、一家を滅ぼした張本人(信玄)との政略結婚を強制させられた立場でした。

もちろん勘助には自らを重用してくれる信玄へ対する恩義もあり、その板挟みになる場面が何度となく描かれます。
そこには嫉妬も絡むため、さすがに勘助も冷静沈着という訳には行きませんが、ともかく四苦八苦しながら乗り越えてゆきます。

不気味さを漂わせる外見からは想像のつかない、人間らしい軍師・山本勘助の活躍が描かれている歴史小説といってよいでしょう。

あすなろ物語



一般的には井上靖氏の自伝的小説とされている作品です。

200ページ程度の分量であり、長編小説としては比較的短いながらも主人公(鮎太)の少年から青年、そして壮年に至るまでの過程を描いています。

まず主人公は天城山南麓の村で、軍医として各地を転々とする父、そして母とは離れて血のつながっていない祖母(おりょう)と2人で暮らしていました。
そこへ祖母の血縁である冴子がやってきて一緒に暮らすところから物語が始まります。

この小説は、豊かな感受性を持つ鮎太少年が個性豊かな人びとと出会い成長してゆく物語といえますが、傍から見ると必ずしも順調とはいえないかも知れません。

何度も挫折と自問自答を繰り返しながら歳を重ねていくという表現が正しいと思いますが、ひとつひとつの壁を乗り越えるたびに鮎太の内面が少しずつ変わってゆきます。

そのキーマンとなるが、冴子とはじめとした鮎太の前に現れる女性たちです。
それは祖母にはじまり、姉、教師、憧れの異性、恋人といったように、さまざまや役割や性格をもって鮎太の前に現れては去ってゆくのです。

そして彼女たちも鮎太と同じく、色々な屈折を経験してきたことが作品の中から伝わってくるのです。

人間誰しも夢や目標のような明確な形でなくとも、将来へ対してある種の"希望"を持ちながら生きてゆくものです。
同時にその希望を100%実現できる人間などこの世界に存在しないという宿命を持っているのです。

この誰もが願いながらも叶わわない象徴が、タイトルにある"あすなろ"なのです。

"あすなろ"とはヒノキ科の樹木のことであり、見た目は檜(ヒノキ)に似ていますが、その"あすなろ"に主人公の鮎太を初めとした登場人物たちの姿を重ね合わせる場面が登場します。

「あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木よ。でも、永久に檜にはなれないんだって!それであすなろうと言うのよ」

「だって、貴方は翌檜(あすなろ)でさえもないじゃありませんか。翌檜は、一生懸命に明日は檜になろうと思っているでしょう。貴方は何もなろうとも思っていらっしゃらない」

鮎太にとって身近な人間が戦死するといった悲劇もあり、作品のテーマを考えると暗いイメージを抱きがちですが、不思議なほど作品中に悲壮感は漂っていません。

それは"あすなろ"は挫折の象徴ではなく、もがきながらも前を進んでゆこうとする青春の象徴であり、人間の運命を前向きにとらえようとする著者の姿勢がはっきりと伝わる作品になっているからです。

妄想銀行



長編小説やノンフィクション、難しいビジネス書などを立て続けに読むと頭が少し疲れてきます。

そんなときに読んでほしいのが、「ショートショートの神様」こと星新一氏の作品です。
マンガで例えれるなら、横山光輝三国志を読んだあとに4コママンガで気分転換をするようなものです。

1冊の文庫本に32編もの作品が収録されていますが、これでも平均的な収録数より若干少ない気がします。

1つ1つの作品が独立した設定とストーリーのため、まず同じ主人公は登場しません。
さらに登場人物に固有名詞もなく、短くて1分以内、長くても5分以内に読み終えてしまうため、そもそも長編小説のようにあらすじを記憶に留めておく必要さえありません。

そのせいか1冊を読み終えた直後にも関わらず、印象に残っているのは2~3作品程度しかありません。
より正確に表現すると、2~3作品以外のストーリーは思い出すことさえ出来ないのです。

にも関わらず、読み終わった後は妙に頭がスッキリした気がします。
ショートショート作品には、暇つぶし以上の医学的な効果があるのではないかと思ってしまいます。

ただしショートショートでさえあれば何でも良いわけではなく、読者を引き込む魅力がなければ暇つぶしにさえなりません。

もう1つ実感するのが、これだけの数のショートショートを読んでゆくと、自分にも同じような作品を執筆できるのではないかと思ってしまうことです。
しかしいざ試しにアイデアをひねり出そうとしても、星新一のような魅力あるストーリーを短い文章で書ける気がしないのです。

つまりショートショートは一見簡単そうに見えて、最低限の文字数で起承転結をわかり易くまとめ、かつ読者を楽しませなければいけない難易度の高いジャンルだと気づくのです。

ちなみに私が本書の中で印象(記憶)に残っている作品は、「信念」、「ねらった弱み」、「人間的」です。