本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

壬申の乱



本屋で"中公新書 日本の大乱 4冊合計60万部突破"という帯に惹かれて購入した1冊です。

ちなみに4冊で扱っている大乱は以下の通りです。

  • 壬申の乱
  • 承久の乱
  • 観応の擾乱
  • 応仁の乱

日本史に限らず反乱は歴史の定番ですが、この4つを挙げた理由は、地方の有力者が中央政権へ対して起こした反乱ではなく、直接的に王朝や幕府といった国家レベル権力の奪取を目論んだ反乱だからだと思われます。

ただし勝者の視点から語られるのが歴史である以上、"乱"は常に正統な中央政権へ対する反対勢力という位置付けであることが多いのも事実です。

例えば新田義貞が鎌倉幕府を、織田信長が室町幕府を、そして薩長同盟が江戸幕府を滅ぼした出来事は"乱"とは呼ばれません。

つまり鎮圧された武力蜂起へ対して後世になってから""と名付けられるケースが殆どですが、この壬申の乱は中央政権へ対する反乱勢力が勝利するという珍しいパターンです。

壬申の乱を簡単に説明すると、次期大王(天皇)の座を巡って、天智天皇の息子(大友皇子)と弟(大海人皇子)が争った出来事です。

実績や慣例に照らし合わせれば、天智天皇のあとは大海人皇子が天皇へ即位するのが当然と思われていましたが、天智天皇が愛する我が子を次期天皇として指名したことで、大海人皇子は出家を決意し実行に移します。

しかし天智天皇が亡くなるやいなや、出家したとはいえ大海人皇子の影響力を恐れた大友皇子が殺害を企てたため、やむなく大海人皇子が立ち上がり勝利したというのが通説です。

個人的には天智天皇が中大兄皇子だった時代、つまり大化の改新の頃より中臣鎌足とともに兄を支えてきた大海人皇子の実力は本物であり、若く実績にも乏しい大友皇子にとっては相手が悪かったという印象があります。

本書では歴史学者である遠山美都男氏が、通説となっている壬申の乱を否定し、新しい視点で捉え直そうとした1冊です。

"新しい視点"とは、大海人皇子による乱が単なる正当防衛ではなく、周到に準備された上で大友皇子との間で繰り広げられた戦いだったという視点です。

詳しい内容は省略しますが、本書では大友、大海人各陣営に属した豪族たちの素性を明らかにしつつ、古代最大の内乱を再検証してゆくといった手法をとっています。

最近読んだ井上靖氏の「額田王」にも壬申の乱の経緯が詳しく触れられているため、気軽に読める歴史小説で壬申の乱が知りたい人にはこちらがおすすめです。

残り3冊についても近々読んでみたいと思います。

帰郷



正確には分かりませんが、どうやら戦後70年を意識して出版された浅田次郎氏の短編集のようです。

本書の収録に合わせて執筆された作品もあれば、以前の作品も混じっていますが、いずれにしても戦争をテーマにした短編が6編収録されています。

  • 帰郷(2015年)
  • 鉄の沈黙(2002年)
  • 夜の遊園地(2016年)
  • 不寝番(2016年)
  • 金鵄のもとに(2002年)
  • 無言歌(2016年)

1つの分類方法として戦争文学には、戦争経験世代、戦後第一世代、戦後第二世代と作家を年代ごとに区分する方法があります。

浅田氏は両親が戦争経験者であるため戦後第一世代、いわゆる団塊世代の作家ですが、戦争の傷跡が残る風景を眺め、乏しい食糧で空腹に耐えた幼少時代を過ごした世代です。
つまり間接的に戦争を体験している世代であるといえます。

戦争文学へのアプローチという点では、事実を忠実に伝えることを重視する方法、ストーリーを重視する方法がありますが、著者の作風は完全に後者であるといえるでしょう。

たとえば「鉄の沈黙」は、孤立無援となったニューギニアの小さな岬を守備する小隊を舞台にした作品ですが、たった1基の八八式高射砲で連日に渡り飛来してくるB24爆撃機を迎撃するという絶望的な状況下にあります。

この状況ではアメリカへ投降する以外に生き残る術はありませんが、彼らはあくまでも最期まで戦い抜く選択をします。
つまり彼らが生還する可能性はゼロですが、事実(体験談)を重視するならば生き残った兵士がいない戦場を舞台にした小説は書けません。

またストーリーテラーとして知られる浅田氏の作品には、読者の感情を揺さぶる魅力があり、本書では戦争をテーマにしているだけに切なさや哀しさを感じる作品が多いようです。

絶体絶命の場面で奇跡の生還を果たすといった都合のよい展開はありませんが、浅田氏の作品に絶望のまま終焉を迎える作品というのは似つかわしくありません。

どこか作品を読み終わった後の気分は悪くなく、何ともいえない余韻が残ります。
それは戦争の悲惨だけを強調するだけでなく、そこで懸命に生きてきた人間たちのドラマを描き出そうとしているからだと思います。

本書に限らず浅田氏にはもともと戦争を題材とした作品が多く、ファンであればテーマを意識せずとも充分に本書を楽しむことができるでしょう。

北海タイムス物語



1990年。
早稲田大学を卒業した主人公・野々村巡洋は、北海道の新聞社である北海タイムスに新卒として入社します。

地方紙とはいえ新聞社といえばエリートという印象がありますが、この北海タイムスは違いしました。

苛酷な労働環境、安い給料、という今でいえば完全なブラック企業だったことを野々村は入社してからはじめて知ることになるのです。

全国紙の影響で部数を減らし経営が悪化しつつある北海タイムスの社員は、他紙の倍の仕事をこなしながらも給料は7分の1という悲惨な待遇でした。

北海タイムスはかつて実在していた新聞社(現在は倒産)でしたが、著者の増田俊也氏自身がかつて在籍していた会社でもあり、いわば私小説という側面も持っています。

そのため当時の本社ビルのレイアウトから、新聞が製作されるまでの怒号が飛び交う現場の緊迫感が作品から伝わってきます。

主人公の野々村を見ていると、自分が新入社員だった頃を思い出さずにはいられません。

右も左も分からない中で戸惑う様子、先輩や同僚たちの個性的な性格を少しずつ理解してゆく過程、おまけに給料日前に懐が寂しくなって空腹に耐えた過去など私自身と主人公の経験に共通するものもあり、自然と感情移入してしまいます。

更に加えると、今では少なくなった連日の酒席という思い出も主人公と共通する部分があります。

主人公の他にも登場する社員たちはどれも個性的であり、それぞれの葛藤を抱えながら北海タイムスで働いています。

彼らの小さな物語が一見するとバラバラに同時進行しているようで、最終的には調和しながら本作品を構成しています。

誤解して欲しくないのは、本作品はブラック企業の内情を告発した内容でもなければ、逆に称賛する意図がある訳でもありません。

北海タイムスという会社で働く人たちの喜怒哀楽と著者自身が経験した濃い経験の日々を、振り返って小説化したに過ぎません。

著者の学生時代を舞台にした七帝柔道記を読んだ時にも感じたことですが、著者の描く主人公がさまざまな挫折を繰り返しながら成長してゆく青春小説は、多くの読者を夢中にさせることは間違いありません。

法然と親鸞



法然親鸞の名前を並べると、真っ先に思い浮かぶのは師弟関係です。
本書の内容もまさにその通りで、宗教学者である山折哲雄氏が2人の師弟関係について考察した本になります。

法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗が誕生した背景には、当時の末法思想が深く関係しています。

末法思想を簡単に説明すると、釈迦の入滅後に正法、像法、末法という3つの段階を経て、しだいに仏教が衰退の道をたどるという歴史観です。

日本では平安時代末期から鎌倉時代前半がそれにあたり、源平合戦の戦乱と重なったこともあり、当時の人びとの精神に末法が深く根ざしていました。

つまり「この世の終わり」、「世も末」という雰囲気であり、多くの人びとが現世に絶望または悲観していたといえば分かりやすいでしょうか。

よって2人の教えは、死生観でいえば""よりも""に重点を置いたものであり、信者たちにとっては現世のご利益よりも極楽浄土への往生が重要であったといえるでしょう。

後の戦国時代に織田信長をもっとも苦しめたのは武田や毛利、浅井・朝倉連合でもなく、浄土真宗の門徒であった一向一揆の武力蜂起でした。

彼らが手強かったのは、「死んだら極楽浄土へ行ける」と考える死を恐れない戦闘集団だったからであり、門徒の大部分が農民で構成されながらも各地の大名がその鎮圧に手を焼くことになります。

少し話がそれましたが、本書は2人の唱えた細かい教義の違いを論じたものではなく、あくまでも師弟関係にテーマを絞った内容になっています。

法然は200人以上の弟子を持っていたと言われますが、意外にも弟子の中で親鸞が特別な位置を占めていたわけではなく、むしろ多くの弟子の1人であったに過ぎませんでした。

一説には、親鸞は法然の87番目の弟子であったとされ、会社でいえば弟子全体の数から考えて係長、もしくはせいぜい課長といったところでしょうか。

法然上人の高弟であったとはいえない親鸞でしたが、こうした表面的な見方が結論であったら本書の意義が無くなってしまいます。

重要なのは弟子として何を考え成したかであり、こうした点について著者は自らの師弟関係を振り返りながら、内面的な視点で2人の関係を語っています。

詳しい内容は本書に譲りますが、私のように念仏を唱えた経験すらない人にとっても、日本の宗教史において大きな役割を果たした2人の関係を点ではなく線として捉える考えは無駄ではないように思えます。

移民の経済学



国際連合の資料によると日本に住む移民は250万人、外国人労働者は10年間で約3倍の146万人にまで増えているそうです。
また2019年の訪日外国人数は3188万人であり、10年間で約5倍に増えています。

街で見かける外国人が増えたことを実感していますが、改めて数字で見ると驚きよりも納得という印象を受けます。

本書では経済学者である友原章典氏が"移民受け入れ"にテーマを絞り、道義的、思想的なフィルターを排除して経済学的に検証された結果を紹介してゆくというスタイルをとっています。

政府が積極的な移民受け入れ政策を進めた場合、何となく漠然とした不安を抱く人も多いのではないでしょうか。

本書で取り上げられているテーマは以下のようにかなり具体的であり、移民を受け入れたケースにおける経済的な関心事をほぼ網羅しているといってよいでしょう。

  • 雇用環境が悪化するのか
  • 経済成長の救世主なのか
  • 人手不足を救い、女性活躍を促進するのか
  • 住宅・税・社会保障が崩壊するのか
  • イノベーションの起爆剤になるのか
  • 治安が悪化し、社会不安を招くのか

まず日本よりも長い期間に渡りかつ多数の移民を受け入れてきたアメリカやヨーロッパの研究が参考になりますが、日本固有の事情を加味した分析も行っており、かなり具体的な数字が提示されています。

ただし著者は、こうした分析結果はあくまでもいろいろな仮説を設けた試算であり、参考に過ぎないことにも留意する必要があると主張しています。
たとえ経済という分野に絞ったとしても分析によって未来を確実に予測することは不可能であり、万能ではないことを読者も認識しておく必要がありそうです。

戦争含めた世界情勢や世界経済の景気の変化、異常気象や天災などの要素によって、移民政策の受ける影響はかなり変わってくることは容易に想像がつきます。

また面白いのは、研究者や対象とする前提条件、分析方法によってまったく逆の結果が出るという点です。

たとえば移民の受け入れによる市民の賃金への影響については、研究者の間でも意見が大きく異なってくるテーマのようです。
これも労働者を学歴、もしくは職種で分類するか、また特定の地域もしくは国全体を対象にするかといったアプローチ方法によって結果が変わってくるのは当然であり、一概にいずれか一方が誤った結果であるとは片付けられません。

見方によっては研究結果を淡々と示しているだけの内容ですが、その数値は具体的であり、これをどう捉えるかの最終判断は読者に委ねられているといってよいでしょう。

また冒頭にあったように、本書で示されているのは移民受け入れに伴う経済的な検証のみです。
実際に政策へ移す際には、さらに多角的な面から検討を行い、それぞれのメリットとデメリットを把握した上で判断することが大切になってきます。

逃亡



軍用機をバラせ・・・・その男の言葉に若い整備兵は青ざめた。
昭和19年、戦況の悪化にともない、切迫した空気の張りつめる霞ヶ浦海軍航空隊で、苛酷な日々を送る彼は、見知らぬ男の好意を受け入れがばかりに、飛行機を爆破して脱走するという運命を背負う。
戦争に圧しつぶされた人間の苦悩を描き切った傑作。

背表紙にある作品紹介を引用しましたが、本書の執筆は、未知の男からの「或る男に会え」という指示の電話がきっかけだったと著者の吉村昭氏は振り返っています。

この或る男こそがかつての若い整備兵であり、自らの経歴を隠すように暮らしていた本人を著者が直接取材して書き上げたのが本作品です。

吉村昭氏の作家としてのすごみは、歴史上の大事件を題材にするときも、そして人知れず歴史の闇へ葬り去られるような小さな事件も同じスタンス、手法で執筆し続けるという点です。

この整備兵(作品中では幸四郎)は、特別な反戦思想も何も持たない、ありふれた19歳の青年でした。

幸四郎はちょっとしたボタンの掛け違いから、冒頭のように飛行機を爆破して脱走するとう、とんでもない行為に走ることになります。

旧日本軍の軍律の厳しさを考えたとき、幸四郎が軍法会議、または私的制裁によって生命の危機に陥る可能性は充分にあり、脱走そのものは決して不自然ではありませんでした。

しかし当時の時代背景を重ねて見ると、幸四郎の犯した行為は非国民そのものであり、国家権力や世間の目から逃亡し続けなければならない日々の始まりを意味していました。

繰り返しになりますが、この幸四郎はどこにでもいる普通の青年であり、それこそが重要な意味を持ちます。
著者は作品の冒頭で次のような感想を述べています。

かれは十九歳で、歳を繰ってみると当時の私は十七歳だった。
もしも私が彼の立場に身を置いていたとしたら、私はかれとほとんど大差のない行動をとったにちがいない。
戦時という時間の流れは、停止させることのできぬ巨大な歯車の回転に似た重苦しさがある。十九歳であったかれの行動は、その巨大な歯車にまきこまれた自然の成行きにほかならない。

つまり歴史上における事件の重要性は皆無といってよい出来事ですが、時代を象徴する性格を持っているという点です。

当時の幸四郎青年が戦後も長らく誰にも話すことが出来なかった真実が、200ページの文庫本に詰まっているのです。