本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

彰義隊



吉村昭氏の幕末歴史小説です。

タイトルから彰義隊の結成から新政府軍によって壊滅させられまでの過程を追った歴史小説だと思っていましたが、実際の構成は違っていました。

それは彰義隊に参加した武士たちの視点からではなく、上野寛永寺の山主・輪王寺宮能久親王(りんのうじのみやよしひさしんのう)の視点から彰義隊を描いている点です。

輪王寺宮門跡は、比叡山、日光、上野にある寺院を統べる立場にあり、この門跡は皇族が勤めることが慣例となっていました。

徳川慶喜が新政府へ恭順の姿勢を示すために江戸城から退去して寛永寺に蟄居したことは知られていますが、能久はその慶喜の謝罪の使者として東征大総督の地位で江戸へ攻め上る途中の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の元へ赴きます。

同じ皇族同士の話し合いにも関わらず交渉は不調に終わり、やがて徳川家へ忠誠を誓う過激派たちの武士たちで結成された彰義隊の旗印として担ぎ上げられてしまいます。

ここから能久親王の数奇な運命が始まることになります。
それを一言で表せば、本来であれば勤王攘夷論を唱える新政府軍(薩長派閥)側の人間であるはずの能久親王が、皇族の中で唯一旧幕府軍の中に身を投じてしまうのです。

しかも能久親王は江戸の町や庶民、そして幕府側の要人たちに親しみの感情を持っており、本気で新政府軍と闘う気概を持っていました。
結果として上野戦争後は江戸から脱出し、奥羽越列藩同盟の盟主の地位に就きます。

もちろん新政府側の盟主は明治天皇ですが、能久は明治天皇の叔父という血縁関係にあり、反明治政府軍の精神的支柱として君臨したのです。

多くの幕末小説を読んできた私もこの視点は新鮮であり、作者の着眼点に脱帽しながら最後まで楽しく読むことができました。

ちなみに上野戦争から敗走する彰義隊の生き残りや能久親王が脱出のために辿った日暮里から根岸、三河島周辺は著者の生まれ育った地域でもあり、寛永寺境内から上野公園一帯は少年時代の遊び場所でもあったことから、著者の思い入れを作品から感じられます。

山怪 参



山にまつわる怪奇現象のエピソードを紹介してゆく田中康弘氏の「山怪」シリーズ第3弾です。

遠野物語の現代版ともいえる本シリーズですが、決定的に異なるのは岩手県の遠野地方だけでなく、取材範囲を日本全体にまで広げているという部分でしょうか。

過疎化と高齢化が進み、山を生活の場として暮らす人々が昔と比べて減ってゆく中で、先祖代々語り継がれてきた独自の(禁忌のような)ルールや風習が失われつつあります。

それだけに著者が現在進行系で収集している民話は、民俗学的にも貴重な財産となっていることは疑いようがありません。

本書も全2作と同じく、ひたすら取材の中で収集した山にまつわる不思議な話を掲載してゆくという形をとっています。言い方を変えれば、どのシリーズから読んでも同じように楽しむことができます。

読む人によってはその構成を単調と感じる人がいるかも知れませんが、私は取材した内容を誇張せず淡々と掲載してゆくこのスタイルが好きで、本シリーズのファンなのです。


多くのエピソードに触れてゆくと、民族や地域ごとに山で起こる怪奇の系統(?)が異なってくる点は興味深いです。

例えば北海道では山で不思議な体験をしたエピソードを聞ける確率が低いようです。
また原住民であるアイヌ人は山や森を神の住む領域であると考え、そこに(悪霊や妖怪のような)悪意を持ったや未知の何かが存在するとは考えず、不思議な出来事はすべて神が授けてくれたものだと解釈するようです。

一方で海峡を1つ隔てた東北地方の北部は、狐火や人魂、大蛇などの目撃談の多い、いわば日本でもっとも山怪エピソードを収集できる濃厚な地域だというから不思議です。

また動物にまつわる怪奇譚は、東北地方では狐の独壇場であり、狸が人を化かすという逸話は西日本ほど多くなる傾向があるようです。


著者にはいつか収集したエピソードの集大成として、さまざまな方向からエピソードを再検証していただき、地域ごとの特色などを統計的に分析した本を出版してもらいたいと期待しています。
たとえば狩猟方法も地域ごとに特徴があるそうですが、そこからは山の民(マタギ集団)の系統も見えてくるはずです。


最初の方にも書いた通り、日本国土の7割は森林でありながらも、森林とともに生活する人々が減少傾向にあります。
これは我々日本人の先祖が代々受け継いできた自然へ対する"知恵"や"畏敬の念"を失いつつあることをも意味しています。

本シリーズがベストセラーになることで、登山とは違った観点で自然への興味が集まることは決して悪いことではないはずです。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(下)



引き続き史上最強と言われた柔道家、木村政彦の実像に迫ったノンフィクション作品のレビューです。

まず本書を読んで印象に残るのは、著者である増田俊也氏の"執念"を感じるという点です。

その"執念"とは、柔道界で15年間無敗を誇りながらも、柔道団体、戦争、さらにはプロレス興行を仕切る裏社会やメディアの思惑といった時代の流れに翻弄され、失意の中で亡くなり世間から忘れられつつある木村政彦の名誉を回復させることに他なりません。

優れたノンフィクション作品には、作者の取材対象へ対する"執念"は欠かせない要素であり、その意味では申し分のない作品になっています。

木村の名誉回復のために避けて通れないのが、日本のプロレスを作り上げ国民的人気を誇っていた"力道山"との対決、そして敗北を避けて通ることはできません。

毎日10時間以上にも及ぶ想像を絶する稽古によって超人的ともいえる強さを身に着けた木村でしたが、著者はその木村が人生を転がり落ちていった理由にも言及しています。

それを一言で表せば、彼の剛毅さとは裏表の関係にある脇の甘さです。

大酒飲みで女好き、伝統的な権威を歯牙にもかけないという、まるで戦国武将のような豪快さは多くの人を惹きつけましたが、同時に政治的な駆け引きは一切せず、思想を持たずに生きた点が彼の人生を狂わせたと著者は分析しています。

例えば木村の師匠である牛島辰熊は、強さと同時に維新志士のような風格があり、決して世渡り上手ではなかったものの、他人に振り回され続ける人生は送りませんでした。

戦後混乱の中で家族を養うために闇市で商売をするようになった木村は、かつての猛練習から遠ざかり呑んだくれて荒んだ生活を送るようになります。

それでもかつて打ち込んだ柔道の貯金だけで国内では無敵であり続け、さらにブラジリアン柔術最強の使い手であるエリオ・グレイシーを相手に完勝するだけに全盛期の強さがどれだけのものだったか想像もつかないものでした。

しかし転向したプロレスの世界では、かつての名声を食いつぶすかのように試合では勝ったり負けたりを繰り返し、力道山の"引き立て役"に甘んじることになります。

これはエンターテイメントであるプロレスにおいてスター(主人公)は力道山であって、木村は脇役に過ぎないというシナリオに基づいたものでしたが、プロレス界における水面下(=政治的な)の綱引きにおいて、木村が力道山に敗れたことを意味していました。

戦後の日本で1から這い上がろうとあらゆる手段を駆使した力道山と、すでに戦前の柔道界においてあらゆる名誉を手にし新たな目標を見出すことの出来なかった木村政彦との違いが出てしまったと言い換えることもできます。

木村自身はプロレス界を失意のうちに引退する形となり、母校の拓殖大学で柔道指導を行う表面上は静かな後半生を送りますが、彼の心の中で暗い炎がくすぶり続けていたと考えると何とも言えない切ない気持ちになります。

ただし講道館柔道が柔道界を支配してゆく流れに逆らった多くの柔道家たちも木村同様に日の目を見ることなく亡くなってゆきます。
また力道山自身も破滅的な人生を送り、若くしてヤクザとの喧嘩で刺殺される運命を辿ります。


本書は第34回大宅壮一ノンフィクション賞を獲得しており、かつて最強と言われながらも講道館柔道の歴史から抹殺され、世間から忘れられつつあった"木村政彦"の名前を世の中に知らしめる、つまり彼の名誉を回復するという著者の願いは半ば果たしたのではないでしょうか。

私自身も本書から得られたことは新鮮なことばかりで、そこに著者の膨大な取材の苦労と執念が感じられる文句なしの作品だと思います。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上)



全日本選手権を13連覇し、15年間無敗だった柔道家・木村政彦の実像に迫った1冊です。

「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」

これは木村を評する際に使われた言葉ですが、幾多の名選手がオリンピック柔道で金メダルを獲得しても今だに生き続けている言葉です。

木村政彦をはじめて知ったのは、かなり昔に読んだ「空手バカ一代」ですが、前田光世(コンデ・コマ)がブラジルへ伝えたグレイシー柔術の使い手であり、日本人柔道家を次々と撃破していったエリオ・グレイシーを腕絡みで破った動画はYoutubeでも見ていただけにずっと気になっていた柔道家でした。
(この時の腕絡みは、"キムラロック"として今でも世界中で使われています。)

団塊世代より上の世代の人たちにとって木村政彦は、力道山のタッグパートナーであると同時に、巌流島決戦において力道山とのプロレス対決で敗北した柔道家として記憶している人も多いかもしれません。

よく"「プロレスは八百長か?」"という議論がされることがありますが、これは議論そのものが的外れです。

プロレスは観客を熱狂させ楽しませることが目的のエンターテイメントです。
つまり筋書き(シナリオ)があるのは当然で、プロレスが八百長であれば、映画やドラマ、演劇でさえも八百長という図式が成り立ちます。

鍛え抜いた肉体同士がぶつかり合うという点でスポーツ競技と混同されがちですが、アスリートたちが繰り広げる迫力満点のエンターテイメントと捉えれば適切かも知れません。

しかし力道山と木村政彦の一戦は、セメントマッチ(プロレス用語でいう真剣勝負)であったという説もあり、その真相は本書の中で明らかにされてゆきます。


上巻となる本書では、木村が柔道家として全盛期を迎える時期をメインに扱っています。

木村が猛稽古をしたことは知られていますが、本書で明かされる当時の稽古の様子は1日10時間以上にも及び、師匠である牛島辰熊の厳しい指導も相まって想像を絶する内容になっています。

素質はもちろんですが、人の3倍練習する努力の積み重ねが、"柔道の鬼"と言われた木村を作り上げたことがよく分かると同時に、立ち技中心の講道館ルールでも、寝技中心の高専柔道ルールいずれにおいても圧倒的な強さを誇り、異種格闘技を想定して空手まで習っていたというのだから驚きです。

全盛期の木村は身長170cm、体重85Kgだったと言われ、(体格に恵まれていたものの)当時としても決して巨漢とはいえないサイズでありながら、相手の身長や体重がどれだけ自分より勝っていても圧倒的な強さで勝ち続けてきました。


また本作品を語る上で欠かせないのが、木村を取り巻く柔道界の歴史にもかなりの紙面を割いて言及しており、この時代の流れには無敗の木村でさえ無縁ではいられなかったのです。

本書を通じて、かつては講道館武徳会高専柔道と三団体が存在していたこと、そして戦後の占領政策によって柔道の一流派に過ぎなかった講道館が柔道界を支配してゆく過程がよく分かります。

具体的なルールや技についてもかなり詳しく説明されていますが、それは著者の増田俊也氏自身が、かつて北海道大学で高専柔道の流れを組む"七帝柔道"の競技者であったことが関係しており、それだけに読み始めから作者の本気度が伝わってくる優れたノンフィクションになっています。

還るべき場所



笹本稜平氏の長編山岳小説です。

彼の山岳小説は、未踏峰ルート登頂や過酷な条件下におけるサバイバルだけに主眼を置くのではなく、大自然を舞台にした人間ドラマに力を入れているという点が特徴です。

世界の名だたる山や絶壁に挑戦するクライマーたちにとって困難や危険を克服することは、何よりの名誉と生きがいを与えてくれるのです。

同時にその挑戦は常と死と隣合わせであることを意味しています。

主人公の翔平は世界的に名の知れたクライマーでしたが、世界第2位の高さを誇るK2の東壁において恋人であり登山パートナーであった聖美を事故で失い、4年間もの間、山から遠ざかり家に引きこもる生活を続けていました。

そんな翔平を見かねて、かつて登山仲間であり聖美の従兄弟でもあった亮太が、自らが経営する登山ツアー会社・コンコルディアツアーズのガイド役を依頼するところから物語が始まります。

翔平はかつて次のように登山を考えていました。

生命を失うことが暗黙のルールとして組み込まれているスポーツが登山以外にあるだろうか。登山における死はアクシデントではなく、ゲームのルールに基づく敗北なのだ。

しかしツアーは商業目的で組まれたものであり、かつて翔平の経験してきた登山とは異なり参加者全員の"安全"を守ることが何よりも重要な任務となります。

8000メートル級のブロード・ピーク登頂がツアーの目的ですが、そのツアー客の中には、心臓病というハンディキャップを抱えながら登頂を目指す会社経営者・神津も参加します。

彼もまた社会のさまざまなしがらみを抱えながら、今回のツアーに参加してきたのです。

著者の描き出す人間模様は、過酷で美しい大自然だけがあるヒマラヤだからこそ読者に鮮やかに伝わるのかも知れません。

またそれは都会の喧騒を離れて自然の中で人生を見つめ直すという感覚を極限まで突き詰めたパターンなのかも知れません。

本書はかなりの長編ですが、山岳小説としても読み応え充分です。
大自然の厳しさと人間ドラマがしっかりと交差している点でもおすすめできます。

仮釈放



本書は吉村昭氏の作品としては比較的めずらしい完全なフィクション作品です。

主人公は妻と2人暮らしの元教師。
真面目な性格で趣味といえば釣りくらいで平和に暮らしていましたが、ある日妻と釣り仲間の不倫現場を目撃し殺人を犯してしまいます。

そのため無期懲役の判決を受けますが、男は模範囚として16年間を刑務所で過ごし、50歳を過ぎて仮釈放となります。

刑務所での単調で変わり映えのない生活と比べ、男にとって久しぶりの世の中は大きく変貌を遂げていました。


ここまでは小説の序盤ですが、この作品は多くの作家が試みてきた"罪と罰"をテーマに扱っています。

吉村氏は本作品を実在した脱獄囚を扱ったフィクション小説「破獄」から着想を得たと語っていますが、刑務所の風景が描かれている点を除いては案外共通点は多くありません。

「破獄」ではなるべく事実に基づいた描写がメインでしたが、本作品では過去に犯罪を犯した男の複雑な心理が描写されています。

""とは、倫理的または法的な犯罪を指すとともに、自己の良心に照らし合わせた心理的(時には宗教的)なものに大別されます。

人を殺めたという点では、男は間違いなく法的な罪を犯しています。
一方で、自分の信頼を裏切り不倫を行った元妻の殺害、そしてその不倫相手の男へ傷を負わせた点については後悔どころか必然であったと考えています。

つまり男にとって内面的には罪を認めていないのです。
しかし間違いなく16年間もの懲役により肉体的・精神的な"罰"を受けていますが、それは男へ何をもたらしたのでしょうか。

主人公の男は真面目で教養もあります。
社交性にはやや欠ける部分があるかも知れませんが、せいぜい控えめな性格と見られる程度です。
恩義を受けた人の助言は素直に聞き入れますし、職場の上司の指示にも忠実に従います。

つまり短気で荒っぽい性格の人間ではなく、外見上はどこにでもいそうな人間をあえて主人公にすることで"罪と罰"といったテーマがはっきりと浮かび上がってくるのです。

一見すると仮釈放された(平凡に見える)男の日常を描いているだけのように見えますが、その内面の変化を丹精に描くことで作品に起伏をもたせ、いつの間にか読者もその挙動に目を離せなくなるのだから不思議です。

ぜひ最後まで読んでその余韻に浸ってもらいたい作品です。