本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

ヴェニスの商人(松岡和子 訳)



ちくま文庫のシェイクスピア全集を気の向いた時に読んでいますが、今回紹介する「ヴェニスの商人」で4作品目です。

本シリーズは注釈が最後にまとめて掲載されている形式ではなく、各ページの下部に注釈欄が設けられているため、分からない言い回しや著者(シェイクスピア)の意図がその場ですぐに確認できるという利点があります。

作品名のヴェニスの商人とは、主人公であるアントーニオのことを指します。

彼は散財を続け懐が苦しくなった親友・バサーニオのために保証人となり、ユダヤ人商人シャイロックからお金を借りることになります。

さらにバサーニオは金持ちの相続人であるポーシャに恋心を抱いており、この恋を成就させるためにもお金が必要だったのです。

バサーニオは遊び人風であり、シャイロックは当時(16世紀)のユダヤ人のイメージがそうであったように計算高く欲深い商人であり、友情のためとはいえ、この頼みを快く引き受けるアントーニオはどう見てもお人好しが過ぎます。

しかし利害を超えた友情や恋、そしてその両方を天秤にかけるといった選択は本作品のテーマにもなっており、アントーニオのような天真爛漫な主人公があってこそ、演劇にふさわしいストーリーが生み出されるのです。

キリスト教徒、もっと言えば善意で利子をとらずに金を貸すアントーニオへ対してシャイロックは深い憎しみを抱いており、彼は借金の保証としてアントーニオの心臓付近の肉1ポンド(約0.454kg)、つまり間接的に彼の命を要求します。

そしてもちろんアントーニオの身にはシャイロックから借りた金を返せない不幸が降りかかり、親友のために命の危機を迎えることになるのですが、ここからが本作品の見せ所となります。

本作品は主人公が活躍するというより、彼の周辺にいる人物たちが動き回ることで物語が進んでゆきます。

とくにアントーニオの影からの援助のおかげでバサーニオの恋人となったポーシャ、そして敵役のシャイロックの演技力が重要となる脚本になっています。

ヴェニス(ヴェネツィア)といえば、15世紀に全盛期を迎えた世界一の商業都市国家であり、作品中に商業用語や当時の解放的な時代を反映して性的な隠喩も多く用いられており、時代の最先端を走る売れっ子脚本家シェイクスピアならではの演出を充分に味わうことのできる作品になっています。

エスキモーになった日本人



以前本ブログで「極夜行」を紹介しましたが、著者の角幡唯介氏が極地探検の拠点にしたグリーンランドのシオラパルクを訪れた時に、この村で42年間も猟師として暮らす大島郁雄氏の元を訪れるシーンが出てきます。

彼はイヌイットの女性と結婚し、息子が1人と娘が4人、そして孫が10人いると紹介されていますが、さらに彼には著書があることにも触れられており、本書を手にとってみました。

大島氏は1972年に日大山岳部として北極探検のためにこの地を訪れましたが、長期滞在するうちにイヌイットの狩猟文化に魅力を覚え、この地に永住することを選んだという経歴を持っています。

ちなみにシオラパルクは世界最北の村と言われ、冬季になると4ヶ月も太陽が昇らない極北地です。

本書は1989年に出版されており、この時点で大島氏がシオラパルクで暮らし始めて16年の歳月が経過しています。

この地にはじめて降り立ったときの新鮮な驚き、この村で伝説的な冒険家・植村直己氏と共に暮らした日々、戸惑いを覚えた独自の食文化やイヌイット語を習得していゆく苦労などが時系列で書かれており、イヌイットの住む土地を訪れた紀行文のように読むことができます。

やがてこの地で猟師として暮らしてゆくこと選択し、見習い猟師としての経験、そしてほぼなりゆきに身を任せて村の長老に勧められるがままに結婚に至った経緯が紹介されています。

彼らの主要な移動手段である犬ぞり、狩りに使われる道具についても図解で紹介されており、異国の地で暮らし始めた著者の戸惑いを読者も共有しながら楽しむことができます。

さらにここから先は完全にイヌイットの一員となった著者が、シオラパルクでの暮らしの様子や文化をガイドしてくれます。

長老から聞いたイヌイットの昔話や伝説、冬季の激しい嵐の経験、季節ごとの過ごし方や猟のやり方、村の生活のルールや設備の紹介、経済や流通に関する言及、極めつけはシオラパルクの猟師仲間のプロフィール紹介までしてくれます。

今では異国の地で結婚して家庭を築き暮らしている人は珍しくなく、私の周りにもそういった人たちがいます。

その中でも娯楽はおろか、医療設備や交通網、電気さえも整備されていない異国の地で満ち足りて暮らす大島氏の姿には特別な魅力を感じるのです。

イヌイット



タイトルにあるイヌイットとは、シベリア極東部、アラスカ、カナダ北部、そしてグリーンランドの極北地で昔から狩猟・漁撈を生業にして暮らしてきた民族のことを指します。

角幡唯介氏の「極夜行」を読んでイヌイットの生活に興味を持ったため本書を手にとってみました。

著者の岸上伸啓氏は文化人類学者であり、40年近くにわたり現地でイヌイットの研究を続けているという経歴があります。

ちなみに日本ではイヌイットよりもエスキモーの呼称の方が有名ですが、侮蔑的な意味合いが含まれていることから使用を避けているようです。

本書では著者が研究のフィールドワークとしているカナダ北部、その中でも特にヌナヴィク準州にあるアクリヴィク村を中心にイヌイットを紹介しています。

かつてのイヌイットは定住地を持たず、獲物を求めて犬ぞりで移動を続ける狩猟民族でしたが、今はすべてのイヌイットが定住する生活を送っているようです。

また今でも犬ぞりを生活や狩猟の手段として使っているのはグリーンランドのイヌイットのみであり、本書に登場するカナダのイヌイットはスノーモービルを主な移動手段としています。

まず本書ではイヌイットが住む自然環境とその歴史を紹介しています。

ここでは昔より極地で狩猟や漁労を生業としてきたイヌイットが西洋人と出会い、そして資本主義経済システムに組み込まれるまでの流れが簡単に紹介されています。

続いて現代イヌイットの生活様式、文化、狩猟と漁撈の方式、彼らの人間関係などを詳しく解説しています。

イヌイットは伝統的な生肉や生魚中心の食文化、獲物から得た革から衣類などの製作を続けている一方で、日本と同じようにピザやハンバーガーなどのファーストフードなども普及しており、食生活の西洋化とともに生活習慣病が問題になっているようです。

また今ではイヌイットの中に専業のハンターは殆どいなくなり、大半が賃金労働に従事してるため副業ハンターが一般的になっています。

さらに社会的な特徴として親族同士の結びつきが強く、獲得した食料を村人間で分配する習慣が今でも残っています。

一方で養子という制度が昔から頻繁であり、1986年に著者が行った調査では人口の15%が養子であり、その割当は今でもそれほど変わらないという部分は驚きでした。

いずれにしても厳しい自然の極北の地で生き抜く知恵が社会の中に残っているのが印象的です。

教育や医療が普及し、近代化した生活を送るイヌイットたちの中には生まれ育った村を出て、都市で暮らすことを選択したイヌイットたちも多くいるようです。

そこでは高収入を得るイヌイットがいる一方で、無職者となりホームレスとなるイヌイットも増えつつあり深刻な問題となっています。

最後に書かれているのはイヌイットが暮らす極北地域の深刻な環境問題が紹介されています。

気候変動(地球規模の温暖化)は極地ほど影響を受けやすいと言われており、こちらも自然と調和して暮らしてきたイヌイットを直撃する深刻な問題になっています。

時代の急激な変化の中で社会問題、環境問題に直面したイヌイットの暮らしが今後も変わり続けてゆくことは間違いありません。

一方で彼らの伝統的な文化や暮らしをどのように守ってゆくのかは、彼らが住む国や地域だけの問題ではなく、地球規模で考えなければならない課題でもあるのです。

長年にわたってカナダで研究を継続してきた著者ならではの内容であり、イヌイットの歴史、そして現代を知ることのできる有意義な1冊になっています。

極夜行



本書は著者の角幡唯介氏の行った北極圏における極夜(太陽の昇らない季節)の探検を記録したノンフィクションです。

まだ本書を読んでいない人は、この探検のためだけに3年間もの準備に日々を費やした記録「極夜行前」から読むことをおすすめします。

そこには著者がGPSを持たずに暗闇の極地を探検するための努力や工夫、そしてこの長い極夜行の中で食料や燃料を補給するためのデポを設置するまでの苦労の過程が描かれており、間違いなく本作品をより楽しむことができるからです。

冒険(探検)には危険がつきものです。
むしろ冒険家という人種にとって命の危険性がゼロであれば、それは冒険という名に値しないと言っていいほどです。

一方で下調べ、必要な技術の習得、装備や物資の準備など入念な準備がなければ、それは単なる無謀な挑戦ということになり、これも冒険家にとっては屈辱的な言葉になります。

本ブログでは作品をまだ読んでいない人を考慮して、ネタバレしない程度に内容を紹介するように心がけていますが、なかなか難しい部分もあります。

それでも言えることは、著者もプロの冒険家の例に漏れず入念な準備を行ったにも関わらず、最初から最後まで計画通りに行かないことの連続になります。

すべてが計画通りに進み順調に探検を終えることが出来れば良いのですが、探検に限らず私も仕事においてすべてが順調に終わることの方が珍しく、何かしら予定外の出来事、つまりトラブルが発生するものです。

著者の身に起きたことは、ことごとく想定外の出来事の連続であり、読んでいて気の毒になるほどです。

しかもそれは人間の生活圏から外れた極地での厳しい自然の中で発生したトラブルであり、そこでの対処を間違えば命を落とす可能性も大いにある性質のものなのです。

皮肉なことにそれをノンフィクション作品化する場合、計画通りに物事が進むよりも、数々の想定外の障害を乗り越えてゆくストーリーの方が読者を興奮させることは間違いないのです。

マイナス40度を下回ることもある極寒、ホッキョクグマやオオカミなど野生動物による襲撃、クレパスに落ちるなど命の危険は幾つもありますが、GPSを持たずに極夜の探検を続ける著者にとって最も命を失う可能性が高いのが、自分のいる位置を見失い徘徊を続けるうちに訪れる餓死です。

冬季の極地を歩き続ける場合、1日500キロカロリーを接種しても充分とは言えず、徐々に体力は削られていくほど過酷な環境です。

しかし何ヶ月も太陽が昇らない暗闇の大地を歩き続け、その探検の終わりに地平線から昇る太陽を見たとき人間は何を感じるのか、決して現代人が日常生活の中で体験することのない行為に挑戦することに、この冒険の本質的な意味があるのです。

一方で起伏のない土地をひたすら歩き続ける行為は本質的には単調な作業であり、冒険小説として見せ所が難しい部分がありますが、極限の状況における著者の心理的描写が飾り気なく描かれており、その余白を補って余りあるほど読ませてくれる作品になっています。

極夜行前



角幡唯介氏の作品を本ブログでも何冊か紹介していますが、彼の作品を読み続けているのは私と同年代で冒険家として活躍している点と、やはり彼の作家としての作品が魅力的だからです。

冒険家という人種は人類未踏の地を目指したり、誰も発見を証明できていない生物や遺跡などを探索したりする人たちです。

そして冒険を敢行する理由は歴史に名を残す名誉を得るためだったりしますが、本当のところは命の危険を犯してまでも衝動的な好奇心を抑えられない点にあるように思えます。

名誉を得るという目的で冒険という手段を取るのはリスクを考えると割に合わない(=非効率)な気がしますし、冒険する本質的な理由を理論的に説明するのは難しいのではないでしょうか。

角幡氏は冒険家、そして同時に作家として活動しているため、なぜ自分がそのような冒険を行うのかを作品の中で書かざるを得ない立場にあります。

タイトルにある"極夜"とは太陽の沈まない"白夜"の対義語であり、つまり1日中太陽が昇らない日を指します。

つまり著者は北極圏における数ヶ月の極夜の中を橇を引いて冒険することを決意します。

それは何ヶ月も太陽が昇らない暗闇の中を歩き続けることを意味しますが、私でも客観的に極夜というものは容易に想像できます。

しかし毎日陽が昇るのが当たり前である地域に住む人が実際に極夜を体験するとことで、身体と精神がどのような反応を見せるかは経験してみないと分かりません。

つまり極夜を主観的に知ろうとする好奇心が今回の冒険の動機になったと言えます。

とはいえ著者は極夜を知るためには、ただそこに居るだけではなく、極地を肌で感じるために何百キロという距離を1人で歩き、さらには自分が今いる位置を知るための手段としてGPSを使わずに百年前の冒険家がやっていたように六分儀による天測を用いるといったルールを自らに課します。

なぜあえて不便で困難な方法を選ぶかという点については、私たちにも経験があるはずです。

代表的な例であれば快適なホテルに泊まるよりも、キャンプ泊で自炊する方がより自然を身近に体験できるはずです。

本書は「極夜行前」というタイトルから推測できるように、本格的な極夜探検を始める前に天測の技術を身に付けたり、冒険に必要な食料をあらかじめデポしておくための準備期間の体験を1冊の本をまとめたものです。

発行された日付を見ると、実際の極地冒険である「極夜行」の方が先で、本書「極夜行前」が後に発表されたようです。

私は本屋でこの2冊を同時に購入したのですが、ストーリーの時系列を重視して本書を先に読んでみました。

著者は極夜探検を実行するにあたり3年もの期間を準備に費やしていますが、この"準備"という期間が単調な作業だったかというとまったく違います。

グリーンランドにあるイヌイットの子孫が暮らすシオラパルクは北極圏に位置し、昔から人が暮らす集落としてはほぼ世界最北に位置します。

そこを冒険の拠点にすることを決めて降り立った著者が冒険の準備を進めるためには、必然的にイヌイットたちが持つ知識や文化を理解して知る必要があります。

こうした過程も大部分の日本人にとって馴染みのないものであり、著者の持つ好奇心に読者も引き込まれてしまい夢中で読み進めてしまうのです。