本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

坂の上の雲〈7〉

坂の上の雲〈7〉 (文春文庫)

前回のレビューで紹介した秋山好古に引き続き、弟の"秋山真之"に今回はスポットを当ててみようと思います。

兄の"好古"が真っ直ぐに軍人の道を歩んだのとは対象的に、弟の"真之"は典型的な書生として登場し、作品で度々描かれるように正岡子規の友人であったことで知られています。

それは当時の軍人の中で文才豊かな点からも見てとれます。
豪傑型の多い当時の日本軍人には珍しい、豊かな感性を持った人物でした。

豪快な兄と繊細な弟といった感じで兄弟の性格は異なりますが、真之が軍人を志した理由には少なからず兄の影響を受けたのは間違いなく、兄と同じように海外(アメリカ)へ留学し、米西戦争を実際に視察しています。

また留学に留まらず、数百年前に行われた古今東西の海戦を研究して独自の戦術論を確立してゆく姿は、個人的には軍人というよりも難解な法則を確立しようとする数学者に近いイメージを持ちました。

日露戦争においては連合艦隊艦長である東郷平八郎の右腕として作戦立案を殆ど1人でこなし、その実績から日本最大の名参謀としての名声を得るに至ります。


真之は天才であったかも知れませんが、そうした人間にありがちな独特の癖(分かり易くいえば奇行)も多い人物であり、戦争中、戦艦の中で靴も脱がずにベッドで横になり天井をにらみながら瞑想するかのように作戦を練ってゆきます。


理論が体系化されて発展した数学においても難解な公式を証明するためには、従来とは違った角度でのモノの見方が重要であることは知られていますが、そうした視点に必要なものは単純な学問の力ではなく、感性であったりします。


彼の上官であった東郷平八郎は、(変わり者の)真之を受け入れて使いこなすだけの器量の大きさを持った人物であり、また真之にとっても東郷は尊敬に値する人格を持った人間でした。

この絶妙なコンビが存在したらこそ、強力なロシアの海軍を圧倒的に撃破する結果へつながったと思います。


当時の日本海軍の勝利は海外からも奇跡と評される程あざやかなものでしたが、実際には紙一重の作戦勝ちであり、もう1度戦えば、この立場が簡単に逆転してしまってもおかしくない内容でした。

自ら考案した作戦に誤りがあれば、日本そのものを滅ぼしかねない世紀の大海戦において、そのプレッシャーを正面から受け止めて立ち向かう姿は、形は違えども兄譲りの芯の強さを感じさせます。

坂の上の雲〈6〉

坂の上の雲〈6〉 (文春文庫)

本作品の主人公の1人である秋山兄弟の兄"秋山好古"。
日本騎兵の父」として知られている人物です。

日露戦争当時はライフル銃のみならず機関砲や手榴弾といった近代兵器が使用され始めた時代であり、戦国時代のように騎馬武者が戦場の花だった時代は既に遠い過去となっていた時代でした。


ただ飛行機やジープといった乗り物が登場していない日露戦争当時は、機動力を生かした偵察や奇襲といった活動に騎兵が重宝されていました。

すでに陸軍においては、歩兵が主力であり、騎兵は補助戦力としての位置付け程度の評価が日本においては一般的であり、使い方を1つ間違えれば(火器へ対する)防御力の無さから、簡単に全滅してしまう脆い存在でした。

ただし主力(歩兵)が膠着、もしくは不利な状況にあって、機動力に優れた騎兵が戦況を打破する可能性を秘めたものであることは、好古自身が誰よりも自覚していたことでした。


その好古にとって不幸だったのは、当時のロシアは世界一の精強騎兵団(コサック騎兵隊)を有している国であり、まともに正面から日本騎兵が戦える相手ではありませんでした。

もっとも陸軍の兵力や海軍の軍艦にしても数字の上でロシアに勝てるものが殆ど無い状態であり、好古に関しては日本騎兵を充分に訓練しつつも重火器を伴った機関砲隊を一緒に配備することで、貧弱な攻撃力(兵力)を補強する手段を考えました。


重火器を引きずりながら騎兵を扱うというのは、局面においては騎兵の最も優れた機動力を犠牲にするものであり、この一面を見ても当時の騎兵の扱いの難しさが想像できます。


実際の好古は、最前線であろうと悠々と闊歩する馬上で水筒に入れた酒を常に飲んでいるような指揮官であり、身なりに頓着せず、江戸時代の礼儀作法を重んじた武士というよりも戦国武将に近い雰囲気を持っていました。


若くて経済的な余裕の無い頃から自費でフランスに留学して、全くノウハウの無かった近代戦争における騎兵のノウハウを1から学んだ好古は「日本騎兵の父」としての重責を背負いながら沙河会戦からはじまり、黒溝台会戦奉天会戦で活躍し、世界最強のコサック騎兵隊を相手に優勢に戦いを進めてゆき、事実上の勝利を手にします。


男子は生涯、一事をなせば足る」といった好古らしく、シンプルで一途で、それがゆえに濃厚な人生を送った明治時代の軍人の姿がそこにはあります。


この作品を読み進めると日露戦争において好古のような人物は特別ではなく、たまたまスポットライトが当たったのが秋山好古であったと思わせるあたりが、当時の軍人の層の厚さを感じさせます。

坂の上の雲〈5〉

坂の上の雲〈5〉 (文春文庫)

日露戦争においては、海陸いずれにおいてもロシアとの激戦が繰り広げられることになります。

その中で最大のものが、日本、ロシア双方で10万人近くの死傷者を出した「旅順攻囲戦」といえるでしょう。


当時の欧米にも経験の無かった近代要塞を巡っての攻防は、当事者のみならず世界中が注目した一戦でもありました。

「旅順攻囲戦」の総司令官となったのは、日本の第三軍を率いる乃木希典(のぎまれすけ)です。


彼は掛け軸に漢詩と共に描かれそうな古風な武将といった、風情のある軍人でした。


もっとも彼は江戸時代の武士教育を受けた最期の世代であり、その時代の最も厳格な教育者であった(長州藩の)玉木文之進に教えを受けた経歴のあることから、同じく教えを受けた吉田松蔭がそうだったように、一挙一動に隙が無く、品格のある人物だったことは容易に想像できます。


同時に多くの戦歴を持ちながらも、決して戦闘的な猛将タイプの性格ではなく、凡庸な将軍としてしか評価されていなかった乃木が日本の歴史上もっとも多くの血を流すことになる戦場の司令官になるというのは、彼自身が望んだものかは分かりませんが、薩長派閥が幅を利かす陸海の首脳陣の影響力が強く働いていました。


本作品に書かれているように、乃木の能力や決断力が不足していたといった評価や、旅順要塞をあれだけの犠牲を払って攻略するに足る戦略的な価値があったかについては、私自身の知識不足もあり明確な答えを持っている訳ではありませんが、その答え無くして乃木希典という人物に対して軽々しく評価を行うのは難しい思います。


作品の中からも日露多くの兵士が累々と屍を築いてゆく凄惨な風景を読み取ることができ、作者自身が戦争を体験していることを考えると、近代要塞に対して正面突破を試みる乃木の命令が無謀な姿に写ることも理解できる気がします。


しかしながら、乃木希典が日露戦争で戦死した兵士たちへ対して精神的な重荷を背負って生涯を過ごしたというエピソードは、彼自身が人格者であっただけに事実だと思います。


旅順要塞攻略の司令官だった名声と共に、明治天皇の死に殉じたという余りにも詩的な生涯を送った乃木希典を神格化したというのは、長所や短所をも受け入れて八百万の神として祭る日本文化を考えると、一方的に批判する気にもなれませんが、彼の一面だけを見て軍人の鑑(かがみ)とする日露戦争後の教育には強い違和感を覚えます。


一方で太平洋戦争(大東亜戦争)における敗戦の反動で、当時の行き過ぎた国家主義的教育を象徴する人物の1人であったため、教科書に載ることもなくなりましたが、当時の世界が注目する日露戦争において大きな役割を果たし、明治期の典型的な軍人であった乃木希典は、日本人として記憶しておくべき歴史上の人物の1人だといえます。

坂の上の雲〈4〉

坂の上の雲〈4〉 (文春文庫)

日清戦争で勝利した後に帝政ロシアとの国交悪化が明確になってゆき、ついに日露戦争に至ることになります。

広大な領土と強大な軍事力を持つロシアとの戦争は、誰の目から見ても無謀といえるものでした。

しかし日本の指導者たちは、一旦はロシアとの戦いを回避したとしても、やがてロシアが朝鮮半島を支配下に置き、更に強大となった後には絶望的な戦況となり、日本も朝鮮半島と同じ運命に陥ってしまうという危機感を強く持っていました。

確かに列強各国(先進国)が清や東南アジアなどを次々と侵食している世界情勢にあり、まして国連などといった組織が存在すらしていない時代の世論に期待など持てるはずもなく、当時の後進国である日本が他国の征服対象になった場合には、甘んじて征服を受け入れるか、もしくは国運を賭けて抗戦するしかないといった切迫感がありました。


海軍では西郷従道山本権兵衛、陸軍では山形有朋大山巌といった人物が中心となり、日清戦争終結直後から10年以上をかけて対ロシアを想定した準備を着実に進めてきました。


外交では、小村寿太郎林董を中心とした人物が、対ロシアを完全に見据えた日英同盟の締結を行い、一方で伊藤博文井上馨といった重鎮たちがロシアとの戦争を回避すべく働きかけるなど、意見の衝突はあったものの、国難を目の前にして日本は皇帝の独裁が続くロシアと比べれば驚くほどの団結力を発揮します。

また政府の外にあって財政界からも渋沢栄一をはじめとした経済人のバックアップがあったことも大きく影響しています。


しかし国の財政が破綻しかねないほどの軍備増強を行い、外交において日英同盟を結んだとしても大国ロシアとの戦争の勝算は極めて薄く、「僅差の判定勝利で優位な和平へ持ち込む」という、現実的な路線での決着を開戦前から想定していました。


内閣と軍部が対立して外交との連携も取れない状態で、戦争後の青写真も見い出さないまま太平洋戦争前に突入してしまった後世から考えると、戦力の不利を大和魂といった精神論で煙に巻くことなく、どこまでも冷静だった判断力に驚かされます。

坂の上の雲〈3〉

坂の上の雲〈3〉 (文春文庫)

2巻のレビューで登場した正岡子規は、作品の中盤にも至らないうちに早くもその生涯を終えてしまいます。

子規の弟子ともいえる高浜虚子の視点から見ると、子規の晩年は体を病に蝕まれて殆ど寝たきりの状態であり、さらに経済的な余裕が無い中、看病疲れの家族(母親と妹)に囲まれた暗い風景として写ります。


一方で子規本人を中心として晩年を見ると、自らの死期を悟りつつも花鳥風月を慈しみ、一方でもはや筆をとることも叶わない病身にありながらも口述を通して新聞へ「病牀六尺」を発表し続け、常に世間への好奇心を失わない姿は、強靭な精神力というよりも天性の前向きな姿勢を見て取れます。


これは決して楽天家ということではなく、教養や知識といったものを一旦脇へ置き、俳句を通じて自然を愛することで培われた豊かで柔軟な心があったからであり、""を楽しむとを知っていた人間だったと思います。

坂の上の雲〈2〉

坂の上の雲〈2〉 (文春文庫)
本小説は、この小説の主人公たちでである秋山兄弟正岡子規の書生(学生)時代より始まります。

この3人の共通点は愛媛県松山市(伊予松山藩)の出身であることであり、かつては幕府方に所属していため薩長派閥が幅を利かす明治政府においては、冷遇された地域であることを意味していました。

著者はこの3人を主人公した理由の1つに、こうした地域から巣立った人材が新しい時代を背負っていく姿が象徴的であると考えたかも知れません。


正岡子規の場合、その生涯が短かったこともあり少年~青年時代にかけてを丹念に描かれています。

恥ずかしながら子規については国語の教科書に出てくる"明治時代の俳人"という程度の認識しかなく、彼の友人である夏目漱石と同じように、どこか陰気な教養人といった印象を勝手に持っていました。


しかし本書に登場する子規は病身でありながら、その精力的な行動力には目を見張るものがあります。


外国に留学している秋山兄弟は軍人として着実に成長しつつあり、もはや田舎出身の書生といった雰囲気や立場では無くなってきますが、それと対照的にパッとしない新聞社で安月給の社員として働きながらも前向きで無邪気な子規の姿は対照的に描かれています。


大国を相手に始めた日清戦争において当時の普通の国民と同様に戦況に対して一喜一憂する姿は、後世において近代俳句の巨匠と評されるイメージとは違った、どこか微笑ましい印象さえ受けます。


言い方をかえれば子規は決して俗世間から隠遁した風流のみに没頭した人物ではなく、彼の姿を通じて当時の日本国民の雰囲気がよく伝わってくる生き生きとした血の通った存在であるといえます。

坂の上の雲〈1〉

坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)

司馬遼太郎氏の数多くの作品の中でも、代表作の1つと言われる長編歴史小説です。

日本の近代史の中でも明治という時代に焦点を当て、とくに日清戦争~日露戦争を舞台とした明治の中盤~後期を中心に描かれています。

幕末から明治にかけては、徳川家による封建制度と鎖国といった中世的な価値観を壊すための革命の期期なのに対し、明治時代の中期に入ると、開国し文明化した日本が欧米を中心とした世界の先進国に追いつくための富国強兵の時代だったといえます。


伊藤博文山形有朋といった何人かの明治維新の元勲も健在でしたが、新時代の担い手たちへ意識してスポットを当てた物語構成となっています。


その中でも特に代表的な存在として、日本騎兵を創設した秋山好古、その弟であり海軍の参謀として活躍した秋山真之の兄弟、そして真之の友人であり、近代俳句の創始者といわれた正岡子規を取り上げています。


著者の他の作品と比べるとノスタルジックな描写が目立ちますが、司馬氏の生まれ育った時代を考えると無理がないかもしれません。


しかしそれだけ著者とって思い入れのある時代ということであり、時代の躍動感や雰囲気が読者に濃厚に伝わってくる正真正銘の大作です。