本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

修羅の剣(下)

修羅の剣(下) (PHP文庫)

上巻に引き続き仏生寺弥助を主人公にした剣豪小説「修羅の剣」の下巻です。

貧しい農民の出身ながらも剣の才能を見出され、数多いる江戸の剣士たちの中でも屈指の腕前を持つまでに至った仏生寺弥助ですが、農民出身で読み書きが出来ないという理由で師匠や師範代から遠ざけられる日々を過ごします。

ひょっとして身分や学問の問題ではなく、師匠をも凌ぐ剣術の実力こそが遠ざけられた本当の理由だったかも知れません。

また愛した女性と相次いで死に別れるという悲劇も追い打ちをかけるように彼の心を暗くし、屈折させてゆくきっかけになります。

しかし酒に溺れ、道場へ向かう足が遠のいたのちにも天賦の才能を持つ弥助の腕前が鈍ることはありませんでした。

気晴らしに江戸を離れ武州や上州への剣術修行に出かけますが、どの道場でも弥助に敵う剣士は現れません。

それもそのはずで練兵館で師匠や師範代たちが苦戦する腕に覚えのある道場破りの剣士たちを相手にしても弥助は無敗であり続けたのです。

この小説全編を通して最強の敵として弥助と対決したのが、剣術修行中に深谷宿で遭遇したやくざの用心棒として登場した剣士です。

死ぬ間際に「北辰一刀流、名は権兵衛と申す」とだけ名乗った無名の剣士は、この作品を象徴する存在でもあるのです。

天下に名を轟かせる高名な剣士がいる一方で、彼らを凌ぐほどの凄腕でありながら器用に生きられなかった故に後世に名を残すこともなく野垂れ死んでゆく剣士の姿は、未来の弥助自身なのかも知れないのです。

ありきたりの表現でいえば、弥助にとって武士という身分が確立し剣術と同様に道徳や学問が重んじられた江戸時代はあまりにも窮屈で息苦しく、裸一貫、己の腕力だけで成り上がれた戦国時代に生まれていれば一国一城の主になれたのかも知れません。

練兵館には長州藩士の有名な志士(桂小五郎、高杉晋作、井上聞多、伊藤博文、品川弥二郎など)が所属していましが、彼らの先輩であった弥助に歴史のスポットライトが当たることはありませんでした。

正統派の歴史小説が表舞台で華々しく活躍する風雲急を告げる嵐のような物語だとすれば、この作品は誰もいない荒野に吹く一陣の乾いた風といった趣があり、津本陽氏の作風とぴたりと合う名作に仕上がっています。

修羅の剣(上)

修羅の剣(上) (PHP文庫)

津本陽氏のもっとも得意とする剣豪小説です。

主人公は幕末に実在した天才剣士・仏生寺弥助ですが、その実力の割にはあまり有名ではありません。

幕末の有名な剣士といえば坂本龍馬桂小五郎に代表されるように志士として活躍する人物といった印象が強く、幕府側で活動した新選組でさえ相当に政治的な性格を帯びていました。

さらに人斬りといわれた中村半次郎田中新兵衛といった剣士たちも政治的な任務を帯びて暗躍することが殆どでした。

その中にあって越中氷見仏生寺村の貧しい農家出身であった弥助は、当然のように苗字帯刀を許された身分ではありませんでした。

もちろん幕末に武士でなくとも活躍した人物は沢山いましたが、弥助はひたすら剣術を極めるための日々を送ります。

彼の名字も出身地からそのまま拝借したに過ぎなく、たまたま天賦の才能を見出され、同郷の縁で江戸四大道場の1つ斎藤弥九郎練兵館に入塾することになります。

実在したとはいえ残された史料の少ない弥助ですが、剣豪小説の第一人者である津本氏によって見事に肉付けされた重厚感のある作品となっています。

下働きや使役へ駆り出され虫けら同然のように扱われる弥助に一筋の光明をもたらしたのが剣術でした。

やがて江戸に出て練兵館で本格的な修行を行うようになってからも読み書きが出来ない弥助は、攘夷論開国論で沸騰する同僚たちを横目に、消えない劣等感を抱きつつより一層剣術に打ち込むことになります。

彼は出世して名を挙げるという大きな野望を抱かず、自らの境遇と似た女性へ恋をして小さな幸せを築ければそれで充分だったのです。

一方で他流試合や真剣での戦いにおいても無類の強さを誇った弥助は、いつの間にか師匠(斎藤弥九郎)や若師匠(新太郎・歓之助)の腕前さえも凌駕しつつある自分に気付きます。

慕ってくれる若い道場生がいる一方で、学問がないことを理由に軽蔑の視線を向けてくる同輩や先輩がいることで弥助は居心地の悪さを感じるようになります。

剣術を足掛かりに栄達しようという野望を持たなかった一方で、心の奥底にある武士階級への嫌悪を暗い炎のように抱きつ続けた仏生寺弥助の生涯からは剣豪が持つ一種の凄みが伝わってくるのです。

五郎治殿御始末

五郎治殿御始末 (新潮文庫)

浅田次郎氏の時代小説が6篇収められた短編集です。

  • 椿寺まで
  • 函館証文
  • 西を向く侍
  • 遠い砲音
  • 柘榴坂の仇討
  • 五郎治殿御始末

本を開く前から浅田次郎の短編集が鉄板の面白さであることを分かっていることもあり、今回はどのようなテーマで短編集がまとめられているかを楽しみにできる心の余裕がありました。

そのテーマはズバリ"御一新後の武士"です。

つまり江戸から明治へ世の中が移り変わり、表面上消滅してしまった"武士"のその後の物語が描かれています。

浅田氏は生まれも育ちも江戸っ子ということもあり、勝者となった薩長の志士よりも、やはり敗者となってしまった幕府側の武士を描く方が似合っており、作品に登場するのはいずれもそうした立場にいた武士たちです。

有史以降、大きな時代の転換期を経験した人間はそう多くはありません。

腰に差す大小の両刀から丁髷、そして仕えるべき主君といった価値観、そして生活してゆくための禄高に至るまでをほとんど一瞬にして失った江戸から明治を迎えた武士たちは、まさに時代の大きな転換期を迎えた日本人でした。

椿寺まで」では、自らの過去を隠して商人へ転向した武士が主人公であり、「函館証文」では維新前に残した証文を巡って四人の武士が登場し、「西を向く侍」はかつての天文方に出仕していた主人公が明治改暦(太陰暦から太陽暦への改暦)に遭遇する物語が書かれています。

その他の作品も同様ですが、自分たちを時代の波に乗り遅れた人間だと認識した彼らから漂う悲哀が読者を惹きつける魅力になっています。

そしてこうした作品に惹きつけられるのは若者ではなく、やはり中年以降の読者ではないでしょうか。

程度の差こそあれ、時代の流行りについてゆけない人間というのはいつの時代にも存在するものです。

例えばインターネットやスマートフォンといった急速に普及したテクノロジーに馴染めない、最新の流行曲や芸能界に疎い、その他にもグルメやファッションなど分野は多岐にわたりますが、少なからずそうした自覚がある私にとって本書は主人公たちの悲哀が伝わってくるとともに、心温まる作品でもあるのです。

さおだけ屋はなぜ潰れないのか?

さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学 (光文社新書)

約10年前にベストセラーになった本です。

もちろん内容はさおだけ屋の経営ノウハウに迫った本ではなく、会計士である著者の山田真哉氏がその仕組みを分かり易く解説した本です。

これから会計士を目指す人だけでなく、会計に何となく興味を持つ人まで幅広い読者層を対象に書かれています。

そこで難しい専門用語の解説からではなく、身近な例で会計の仕組みを実感できるように工夫されているのは目次を見るだけでも分かります。

  • さおだけ屋はなぜ潰れないのか?
  • → 利益の出し方
  • ベッドタウンに高級フランス料理点の謎
  • → 連結経営
  • 在庫だらけの自然食品店
  • → 在庫と資金繰
  • 完売したのに怒られた!
  • → 機会損失と決算書
  • トップを逃して満足するギャンブラー
  • → 回転率
  • あの人はなぜいつもワリカンの支払い役になるのか?
  • → キャッシュ・フロー
  • 数字に弱くても「数字のセンス」があればいい
  • → 数字のセンス

会計の入門書の前の入門書といった位置付けがしっかりしており、多くの人へ会計への興味を持たせたという点でベストセラーになったのも頷けます。

数学者の言葉では

数学者の言葉では (新潮文庫)

若き数学者のアメリカ」、「遥かなるケンブリッジ」と並ぶ藤原正彦氏初期の作品です。

他の2冊がアメリカやイギリスへの留学体験を描いたものである一方、本書に収められているのは留学時代を振り返ったものから、父親(新田次郎)との思い出、そして数学者としての日常など多岐にわたるエッセーで構成されています。

著者は数学の研究者という顔の他に、講師として大学生徒への授業も受け持っており、教育者としての立場からも鋭い指摘をしています。

この教育論はのちのエッセーや評論において大きな比重を占めるようになりますが、その原型となる主張が本書の中に垣間見れます。

40歳という気力体力ともに充実している著者は、研究だけではなく教育の現場へ対しても大きな関心を示し、学者にありがちな冷静で客観的な態度ではなく、多少短気でせっかちで何より情熱が文章から伝わってくるのが特徴で、それが多くの読者が惹きつける理由ではないでしょうか。

また数学という難解な学問を万人に興味深く紹介するのにも長けており、私がもし著者から授業を教わっていたら、学生時代の散々だった数学テストの点数は違った結果になっていたハズです。

ちなみに本書で一番印象に残ったエッセーを上げるなら「父を想う」になります。

私は父の本を余り読んでいない。肉親の書いた本を読むのが、なぜか気恥ずかしいのである。父も私が読むことを敢えて勧めたりはしなかった。それでも何冊かは読んでいる。読んだ後には必ず父に感想を述べたものだか、それはおおむね猛烈なる批判であった。秀れた点、感心した点などは、いくらあっても照れ臭くてめったに口に出さなかった。

私の減らず口に、父は大した反論もせず聞き流すのが普通だった。
「そんなにひどいなら、どうしてベストセラーになるのかな」
とニヤニヤしながら言うくらいのものだった。

私が父の本をそれほど読まなかったのに反し、父は私の原稿を全て読んでくれた。清書が出来ると、先ず父の許へ持っていくのが習慣になっていた。父の感想は、私の父に対する悪口雑言とは打って変わって、好意的なものばかりだった。

父が亡くなりわずか三週間後に書かれたエッセーですが、著者が数学者としての傍らで本を執筆するとき、常にその道の大先輩である父親を意識せざるを得なかった著者の素直な心情が綴られています。

そしてこの親子両方の著書を愛読する私にとっては微笑ましいエピソードになるのです。

佐藤優の沖縄評論

佐藤優の沖縄評論 (光文社知恵の森文庫)

著者の母親が久米島出身であり、沖縄人と日本人の複合アイデンティティを持っていると告白する佐藤優氏が沖縄をテーマにした執筆した評論です。

琉球新報に連載された記事を1冊にまとめたものですが、文庫版のまえがきは印象的な書き出しで始まっています。

東京を中心とする情報空間で伝えられる沖縄情勢と、実際に沖縄で起きている出来事の乖離がかつてなく拡大している。このままの状態が続くと、沖縄の日本からの分離が始まる。国際基準で見た場合、現在、沖縄で進行している事態は、民族問題の初期段階だ。しかし、大多数の日本人には、このことが皮膚感覚としてわからない。

本ブログでも沖縄の抱える問題を扱った本を何冊か紹介していますが、米軍基地や失業、独自の文化や家族の絆を大切にする伝統が壊れつつあるなど、もっとも深刻で大きな問題を抱えている都道府県の1つです。

過疎化によって人口が激減し、経済的な低迷、伝統が消えつつある問題を抱える地域はほかにもありますが、何と言っても沖縄の場合は安全保障という大きな政治上の焦点を抱えているという点で大きく異なっています。

著者は日本の安全保障にとって日米同盟は必要という現実的な立場をとりつつ、沖縄への不公平な負担を軽減させる方法を模索し提言しています。

話題は沖縄の歴史や伝統、そして思想にまで及ぶものの、著者がもっとも力を入れているのは政治力学という視点からの評論です。

これは「沖縄の地方自治体 VS 東京の政府・中央官庁」という図式であり、民主主義がより多数の民意によって運営される国家であれば、日本の全人口のわずか1%を占めるに過ぎない沖縄の声は届きにくいという現実があります。

そこで役立つのが外務省官僚としてインテリジェンス活動に携わった著者の経験や知識であり、沖縄に影響すると思われる時事的な出来事をタイムリーに分析しています。

本書が連載された2008~2010年の間に民主党政権が誕生し、沖縄の普天間基地を県内移転するか県外移設かという点が政治的焦点になっていました。

著者は当然のように後者の意見でしたが、周知のように辺野古への県内移転が着々と進められている2017年の現実から見ると、残念ながら沖縄県民の声が踏みにじられたと言わざるを得ません。

つまりアメリカとの同盟によって安全保障を推進するという政府の方針はより強固になってゆき、それはマイノリティである沖縄の犠牲の上に成り立っているという構図がより鮮明になっているのです。

原発を押し付けられ犠牲となった福島の例とまったく同じ状態であり、政治の構造的な差別によって虐げられた人々の声を政治家のみならず、1人1人の国民が耳を傾けてこそ、本当の近代的民主国家といえるのではないでしょうか。

冒頭の言葉に重ねると沖縄県民の民族問題がより深刻な状態へ推移しつつあるということになり、憂慮せずにはいられません。

残るは食欲

残るは食欲 (新潮文庫)

女性向け雑誌「クロワッサン」に連載されていた阿川佐和子氏の"食に関するエッセイ"を文庫本にまとめたものです。

(失礼ながら)50代半ばで独身の阿川氏自身が、自嘲気味に名付けたタイトルもなかなか秀逸です。

雑誌クロワッサンの存在は知っていたましたが、それを手にとる機会のない私にとって文庫本であれば手軽に読むことができます。

とにかく""にこだわった内容ですが、著者自身の手料理の成功談や失敗談、記憶に残る母親の手料理や貰い物の食材にまつわるエピソードなどなど、その旺盛な食欲は伝わってくるものの、決して最高のグルメを追求する高尚な内容ではないため、とにかく肩の力を抜いて読めます。

テーマは何であれ、こうした日常を描いたエッセーを読むコツは一気に読破してしまうと後半に飽きてしまうため、気が向いた時に手にとって少しずつ読み進める手法をお勧めします。

日常的に読書をする習慣のある人であれば、あえて他の本と並行して読み進めるのも悪くありません。

誰にとっても美味しいものではなく、あくまで著者の好み(主観)が前面に主張されているため、読者自身がそれに同意できるかどうかを想像しながら読んでゆくと一層楽しめます。

「泡のないビールなんて、ビールじゃない!」
心の中で叫ぶのだが、泡問題に関してはあまり賛同を得られない。皆様は、どう思われますが?
たしかにビールにとって泡が必要不可欠という部分には同意できるが、グラス全体量の三分の一を泡で満たす阿川氏の注ぎ方はさすがに多すぎる。

カレーもハヤシライスもレモンライスも、ソースは熱々、しかしご飯は一晩寝かせて冷めきった冷やご飯のほうが、炊きたてご飯よりずっと味わい深くなると、ひそかに信じている。
酢飯でもない限り、ご飯はつねに炊きたて熱々の方が好ましいので、この意見は受け入れられない。

しかし安ワインの道は思いの外、深かった。
ワインの階段を上っていくシアワセは、同時に後戻りできない不幸の始まりでもある。
~ 中略 ~
安いワインにどんな掘り出し物があるのか。高級ワインの味と価格の恐怖を知ればこそ味わえる、得難きシアワセではないか。
ワインの味には詳しくないが、確かに安いワインでも充分に美味しい。
著者はオーストラリア産をお薦めしているが、個人的にはカルフォニア産もお薦め。

こんな感じでとりとめもなく食に関するエッセーを楽しめるのですが、空腹時に読むのは控えた方がよいかも知れません。

会社蘇生

会社蘇生 (新潮文庫)

高杉良氏のビジネス小説です。

タイトルの会社蘇生から想像が付くと思いますが、文庫本の裏表紙にある紹介文を引用します。

宝石、カメラ、ゴルフ用品などの高級ファッション、レジャー商品の輸出入で知られる老舗の総合商社=小川商会が総額千百億円もの負債を抱え、東京地裁民事八部に会社更生法の適用を申請してきた。千百人にのぼる従業員とその家族を守るため、保全管理人とともに商社再建に賭けた男たちを描く感動の長編。

ワンマン経営を続けてきた総合商社が倒産の危機に陥り、それを回避すべく主人公の弁護士・宮野英一郎が保全管理人にとして文字通り企業の蘇生に挑む物語です。

幸いにも私自身は所属する会社が倒産した経験はありませんが、取引先が倒産してしまうという事象は見てきました。

そこで倒産の危機に瀕した企業に起こりうることを簡単に挙げてみます。

  • 優秀な社員から辞めてゆく(=転職してゆく)
  • 給料が減額され、残った社員の士気も萎えてしまう
  • 経営陣と社員の感情的な溝が深くなる
  • 債権者や取引先からの督促対応に追われる
  • 信用を失い、順調だった事業までも売上が低迷する

要するに倒産して1つも良いことは無いのですが、この作品の舞台となる小川商会でもまったく同じことが起こります。

多くの企業を題材にした高杉氏の作品だけあって、その描写にも現実味があり最初から作品には不穏な雰囲気が漂っています。

会社更生法が適用されるものの、一般的に商社の更生は難しく、倒産は免れないというのが(取引先含めた)大方の予想であり、こうした風聞により低下した信用度も小川商会にとって逆風になりました。

そんな中、法律の専門家ではあっても経営の門外漢である宮野が情熱と行動力を持って、痛みを伴う会社更生を牽引してゆきます。

一度はやる気を失った社員たちを鼓舞し、宮野たちに賛同してゆく社内外の協力者を増やしてく過程などは、途中からビジネス小説でありながらも半ば青春小説の様相を呈してゆきます。

会社にとって本当に大切なものは優れた製品やサービス、特許や技術力ではなく、人材であることを最初から宮野は確信していたのです。

高杉氏の作品だけに小説のモデルとなった実在の会社や人物が存在するようです。
崩壊しかけている大組織を再生するのは至難の技ですが、それを見事に成し遂げた人物の物語によって勇気付けられる読者がきっといるはずです。