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修羅の剣(下)


上巻に引き続き仏生寺弥助を主人公にした剣豪小説「修羅の剣」の下巻です。

貧しい農民の出身ながらも剣の才能を見出され、数多いる江戸の剣士たちの中でも屈指の腕前を持つまでに至った仏生寺弥助ですが、農民出身で読み書きが出来ないという理由で師匠や師範代から遠ざけられる日々を過ごします。

ひょっとして身分や学問の問題ではなく、師匠をも凌ぐ剣術の実力こそが遠ざけられた本当の理由だったかも知れません。

また愛した女性と相次いで死に別れるという悲劇も追い打ちをかけるように彼の心を暗くし、屈折させてゆくきっかけになります。

しかし酒に溺れ、道場へ向かう足が遠のいたのちにも天賦の才能を持つ弥助の腕前が鈍ることはありませんでした。

気晴らしに江戸を離れ武州や上州への剣術修行に出かけますが、どの道場でも弥助に敵う剣士は現れません。

それもそのはずで練兵館で師匠や師範代たちが苦戦する腕に覚えのある道場破りの剣士たちを相手にしても弥助は無敗であり続けたのです。

この小説全編を通して最強の敵として弥助と対決したのが、剣術修行中に深谷宿で遭遇したやくざの用心棒として登場した剣士です。

死ぬ間際に「北辰一刀流、名は権兵衛と申す」とだけ名乗った無名の剣士は、この作品を象徴する存在でもあるのです。

天下に名を轟かせる高名な剣士がいる一方で、彼らを凌ぐほどの凄腕でありながら器用に生きられなかった故に後世に名を残すこともなく野垂れ死んでゆく剣士の姿は、未来の弥助自身なのかも知れないのです。

ありきたりの表現でいえば、弥助にとって武士という身分が確立し剣術と同様に道徳や学問が重んじられた江戸時代はあまりにも窮屈で息苦しく、裸一貫、己の腕力だけで成り上がれた戦国時代に生まれていれば一国一城の主になれたのかも知れません。

練兵館には長州藩士の有名な志士(桂小五郎、高杉晋作、井上聞多、伊藤博文、品川弥二郎など)が所属していましが、彼らの先輩であった弥助に歴史のスポットライトが当たることはありませんでした。

正統派の歴史小説が表舞台で華々しく活躍する風雲急を告げる嵐のような物語だとすれば、この作品は誰もいない荒野に吹く一陣の乾いた風といった趣があり、津本陽氏の作風とぴたりと合う名作に仕上がっています。