本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

十字架

 

真田祐様。親友になってくれてありがとう。ユウちゃんの幸せな人生を祈っています。
三島武夫。根本晋哉。永遠にゆるさない。呪ってやる。地獄に落ちろ。
中川小百合さん。ご迷惑をおかけして、ごめんなさい。誕生日おめでとうございます。幸せになってください。

これは本作品に登場する地方のとある中学校で起こったいじめを苦にして自殺した生徒の遺書に書かれていた言葉です。

しかもこの遺書はマスコミによって公開され、世間に大きな波紋を起こすことになります。

ただしこの作品のテーマは、学校のいじめ問題がメインではありません。

この遺書に名前を書かれた生徒たち、亡くなった生徒の両親や兄弟、それを報道したマスコミ記者、担任の教諭など....自殺した生徒に色々な立場で関わった人たちの姿を描いてゆくこと自体がテーマになっています。

いじめを受けた人が自殺するまで追い詰められてしまったという場面を経験をしている読者は圧倒的に少数であると思います。

しかし小説の素晴らしい点は、読む人の想像力によってそれを追体験できるという点です。

もし、いじめが原因で自殺した人と自分との関係が友人だったら、いじめた側の人間だったら、片思いされる関係だったら、自殺した生徒の親や兄弟だったら、その事件を報じるマスコミ側の立場だったら....とこの作品を読み進めてゆくと、グルグルと自分の立場を当てはめて考えさせられる作品になっています。

本書の主人公は遺書で親友と名指しされていた真田祐です。

しかし彼はいじめに加わることは無かったものの、クラスで行われているいじめを止める行動は起こしませんでした。

加えて小学生の頃は一緒に遊んことがあるものの、中学生になってからは部活で忙しいこともあり、仲の良い親友という関係ではなくなったと自覚していました。

つまり遺書に自分の名前が書かれていること自体、主人公にとっては意外だったのです。

そんな彼を「親友を見殺しにした」と攻める人もあり、自身もその罪悪感と後悔を十字架にように背負って生きてゆくことになり、それがそのまま小説のタイトルになっています。

もちろん十字架を背負っているのは主人公だけでなく、この出来事に関わったすべての人が、それぞれの十字架を背負って生きてゆくことになるのです。

一方で背負っている十字架の大きさも人によって違い、時間が経過することでその重さが軽くなり事件の記憶が薄れてゆく人、逆に年を経るごとに背負っている十字架が重くなる人もいます。

本書の扱うテーマがテーマだけに、ストーリー自体は重苦しい展開が続きますが、それだけに目を離すことの出来ない作品になっています。

正直に言えばドキュメンタリーと思わせるほどの綿密さは感じられないものの、鋭角に切り込んで書かれているストーリーだからこそ読者に訴える力を持っていると言えます。

太宰と安吾



タイトルにある太宰治坂口安吾といえば昭和を代表する作家という共通点はすぐに分かりますが、2人とも昭和の文豪らしく傍から見ると自己破滅的な生き方を選んだという点でも共通しています。

もちろん有名無名に関わらず他にも同じような人生を送った作家はいますが、著者である檀一雄とこの2人の間には生前深い交流があり、かつ多大な影響を受けた存在でした。

前半では太宰治、後半では坂口安吾との思い出や作品の評価を書き綴るという構成になっています。

掲載されているのは本書専用に書き下ろした文章ではなく、檀氏がかつて文芸雑誌や新聞、作品全集等へ向けて執筆したものであり、内容はかなり重複している部分がありますが、そこからは2人の文豪の性格や逸話、また等身大の姿が浮かび上がってきます。

まず太宰治については檀が戦争で招集されるまでの数年間、毎日のように飲み歩いた仲であり、太宰がガスの元栓を開いて2人で自殺未遂のようなことをした経験さえあります。

またある時は家族からの依頼で熱海に逗留している太宰を連れ戻しに出かけた檀が、ミイラ取りがミイラになりそのまま2人で放蕩三昧を続けてしまうということがありました。

しかも東京へ金を無心に出かけた太宰がいつになっても戻ってこず、1人残された檀は未払い金のために半分人質のような形で旅館に軟禁されますが、とにかく見張り役付きで東京へ戻ってみると太宰が何食わぬ顔で井伏鱒二と将棋を指していたという、檀自身はこれを「熱海事件」と名付けています。

普通に考えれば親友として絶交に値する出来事ですが、檀は彼の個性、そして何よりもその才能を愛していたのです。

それだけに本書には檀でなければ書けない太宰のエピソード、その心内にあるもの、作品評価などを読むことが出来ます。

そして本書の後半に登場する坂口安吾と壇との本格的な交流が始まったのは戦後からのようです。

もちろん互いに痛飲し合う間柄でありつつも太宰のように親友同士というよりは、仲の良い先輩(安吾)・後輩(檀)といった関係だったようです。

戦後間もなく「堕落論」によって流行作家になった安吾ですが、その時ですら金は左から右へ流れるように使い、ドテラと浴衣、あとはフトンとナベとお皿1枚さえあれば三畳の貸間で充分という考えの持ち主でした。

酒は強いを通り越して異常な飲みっぷりであり、つねに酩酊していなければ気が済まないといった様子で、現代であれば確実にアルコール中毒者と診断されるような状態でした。

また周期的な躁鬱による度を越した言動で周囲を困らせるとった、やはりこちらも出来れば付き合いたくない先輩です。

檀はそんな安吾を真の自由な精神をもった人間として尊敬し、また思いやりの深い潔癖な一面もあり、そこから生み出される明確、かつザックバランで自由自在な文章へ敬意を抱いていました。

また何よりも檀は安吾を歴史上の偉人(たとえば信長、秀吉、家康)と肩を並べられるほどの人物だと考えていた節があります。

この1冊を丸々と読んでみると、2人がなぜ優れた作品を生み出すためには自己犠牲を伴うと考えていたのか、また戦争という大きな時代の流れに迎合したりせず、普遍的な真実をどこに求め続けたのかが分かってくるような気がします。

閑な老人



普段からジャンルを問わず読書をしていますが、たまに純粋な小説を読みたくなります。

それも刺激のあるものではなく、ゆったりとした気分で読める小説といえば本ブログでも何度か紹介している尾崎一雄氏の作品がおすすめです。

本書は1930年代から1980年まで、つまり約半世紀にわたる作品22編が収録されています。

尾崎一雄といえば一見するとエッセイなのか私小説か見分けがつかないほど自然な文体、そして過度な装飾を省いたシンプルな文章で書かれているのが特徴です。

尾崎の同世代の作家が執筆するエッセイといえば文学論を語ったり、ほかの作家を批評したりするものが多く、一方で私小説であれば破滅へ向かって放蕩三昧の日々の送る内容が典型でしたが、尾崎の作品はそのいずれにも属していません。

彼の作品は身近にある花鳥石草木を題材にしてみたり、妻や知り合いとの何気ない会話、日常の心境などを吐露してみたりと身近なものを題材にしていることが多いようです。

本書はエッセイスト萩原魚雷氏が編纂しており、尾崎一雄がさまざまな困難を乗り越え、楽しげな老後を迎えるまでの軌跡が分かるようなテーマを持っています。

たしかに本書では60代、70代に入り、足腰が衰え、耳も遠くなった時期の作品が多いのですが、老いた我が身を嘆くというより自然に受け入れるという姿勢で一貫しています。

それは若い頃に2度に渡って大病を患い、奇跡的に2度とも生還できたという経験から老後そのものが"生き得"という心境から来るものであり、著者はこの世に生きていることが楽しいと綴っています。

見方を変えると人間が永遠に死なないと仮想すると背すじが寒くなるとも語っています。
その理由は「始めがあったのだから終わりがある。安心である。」ということのようです。

そんな尾崎氏ですが、彼が二十歳のときに父親が亡くなり、実家に母親と3人の弟たちがいるにも関わらず東京における学生生活で放蕩の限りを尽くし、卒業後も定職に就かず執筆活動もしないという自堕落な生活を続けた時期があります。

結果として家から金を持ち出し、さらに株券や債権、土地、挙句の果てには家屋敷まで借金で差し押さえられたといいます。

昭和の文豪らしい凄まじいエピソードと実際の作品内容とのギャップに戸惑いを覚えますが、戦前・戦中・戦後と作家活動を続けてきた古強者である著者にとっては、それもまた人生のスパイスとして作品の味付けに一役買っているに違いありません。

旅のつばくろ



沢木耕太郎氏がJR東日本の車内誌「トランヴェール」で連載している旅に関するエッセイを1冊の本にまとめたものです。

「トランヴェール」に連載されていたことはあとがきで知ったのですが、たしかにエッセイで紹介されているのはJR東日本の管轄区域である東北から関東甲信越地方、北陸といった地域がメインになっています。

そこで自分と交流があった人、あるいは作品に思いれのある作家や芸術家のゆかりの地などを訪れた経験などが描かれています。

本書を読み始めてまず驚いたのは、"普通の旅"のエッセイだという点です。

"普通の旅"とは文字どおり目的地を決めてあらかじめチケットを購入し、旅先の宿泊施設で寝泊まりすることを指しています。

私にとっては著者のイメージは「深夜特急」が強すぎて、"沢木耕太郎"と"旅"といえば、バックパッカーたちのバイブルと言われた同書に書かれているような"普通でない旅"の方がしっくりと来るのです。

しかし冷静に考えれば「深夜特急」は1947年生まれの著者が26歳の頃に経験した旅であり、70歳を超えて同じようなスタイルで旅を続けることなどあり得ないとすぐに納得したりもします。

長く作家活動を続けてきた著者だけに、その交流範囲は広く鬼籍に入ってしまった人たちも少なくありません。

旅先でそうした人たちとの思い出を回想するシーンなどは若い作家では書けない味わいがあり、しっとりと読めます。
また旅先での風景、グルメ、市井の人たちの交流などを描いた場面では旅情を誘います。

「深夜特急」は読者の好奇心を刺激するページをめくる手が止まらなくなるような作品でしたが、本書は落ち着いた気分でゆっくりとページをめくりながら読むのが相応しい1冊です。

宮本武蔵



宮本武蔵といえば吉川英治の作品が国民的人気を得たこともあり、この作品により武蔵のイメージが定着したと言っても過言ではありません。

それは私にとっても当てはまり、史実は別として叉八やお通、沢庵和尚、宝蔵院流槍術の創始者・胤栄(いんえい)や柳生石舟斎などといった吉川作品での登場人物も印象に残っています。

本作品は剣豪小説の第一人者である津本陽氏による宮本武蔵であり、本ブログでも津本氏の本を30冊以上紹介していることからも分かる通り、私は彼の作品のファンでもあります。

津本氏の作品の特徴として、著者自身が剣道や抜刀術の有段者であるためその描写から非常にリアリティが感じられることです。

また装飾的な文章を極力用いず、淡々とした力強い描写も特徴であり、いかにも武道に通じた人が執筆する文章という感じに個人的には好感が持てます。

いずれにせよ吉川作品を意識しながら本書を読むことになりますが、当然のように作品中には又八もお通も登場せず、武蔵が胤栄や石舟斎の元で修行をするといった場面もありません。

一方で著者は柳生兵庫助を主人公にした大作を発表しており、本作品との両方に二人が出会う場面がクロスオーバーして描かれており、これは逆に吉川作品にはなかった要素です。

両作品に共通するのは、武蔵が剣の道を極めるために悩み葛藤し、それを克服してゆく姿が描かれている点ですが、その過程や性格には違いが見られます。

吉川作品での武蔵は修行に専念するために煩悩を振り払おうと苦しむ描写が多いですが、津本作品の武蔵はどちらかというと自らの剣術を上達させる過程、つまり命のやり取りをする立会いで勝利得るために工夫する描写に重きが置かれていると感じました。

またいずれ自身が世間から最強の剣豪として認められたあかつきには、有名な大名にそれ相応の身分で召し抱えられたいという世俗的な願望も抱いています。

まさに剽悍という言葉がぴったりと当てはまるのが津本作品の武蔵であり、それが殺伐とした戦国時代を生き抜く一介の剣士の姿として実にマッチしています。

この2人の作品が発表された間隔は半世紀近くもあり、当然のように津本氏は吉川英治の作品を読んだ上で執筆しているはずですが、吉川作品の武蔵像を否定するのではなく、自分なら武蔵をこう書くといった気概が作品から感じられます。

吉川英治氏の作品が文庫本で8巻で出版されているのに対して津本氏の武蔵は文庫本1冊で出版されていますが、分量は400ページ以上あり充分な読み応えがあります。

是非とも津本陽版「宮本武蔵」がもっと多くの人に読まれ、吉川作品同様に世間に広まってほしいと思わずにはいられない作品の出来だと思います。

自分のことは話すな


 


著者の吉原珠央氏は、イメージコンサルタントというプレゼンテーションやコミュニケーションを対象としたコンサルティング活動をされています。

タイトルにある「自分のこと」とは、例えば今日の天気に代表される雑談、オチのない会話全般を指しています。

私自身、営業職の方が初対面の人との距離を縮めるために次のような発言をしているのを聞いたことがあります。

  • 軽い雑談から入って緊張を解きほぐす
  • なるべく沈黙の時間を作らないように会話を続ける
  • 自分のことを相手に覚えてもらうために自己紹介を行う
  • 政治や宗教の話題は避ける

    • しかし著者によればこれらの行為はすべてNGであり、次のように厳しく指摘されています。

      • 「自分を分かってほしい」と思うほど傲慢なことはない
      • 雑談が多い人ほど自分に甘い
      • 雑談好きの人は大事な場面で選ばれない
      • 「信仰・政治・病気の話題」を避けるな

        • まず本書の前提として、家族や気の合う友人との会話ではなく、具体的に達成したい目的があり相手と会話する場面を想定しています。

          こうした前提の場合、すぐに本題を切り出すのが望ましいと書かれています。

          たしかに私自身の経験からも、仕事中はタスクに追われていることも多く、よって時間に余裕がないという状況は日常茶飯事です。

          こういうタイミングで開催された打ち合わせにおいて雑談が長いとうんざりしますし、仮に時間的に余裕があったとしても雑談は最小限にしてくれた方が有り難いと感じてしまいます。

          また本書の後半では具体的な会話内容を引用しつつ、効果的なフレーズ、ポイントなどが実践的な内容で紹介されています。

          ただし中には男性でこのフレーズは使いづらいという内容も含まれているため、自分なりにすこし工夫する必要がありそうです。

          全体的には随所に新しい発見やなるほどと思わせる内容があり、どれも意識を変えるだけですぐに実践できるという点もポイントです。

          プレゼンやコミュニケーション能力、もっと言えば営業力を高めたいと思っている人であれば是非一読してみることをおすすめできる1冊です。

三千円の使いかた



今まで原田ひ香氏の作品は読んだことがありませんが、何年か前にベストセラー作品として本屋の目立つ場所に陳列されていた記憶がありタイトルは覚えていました。

作品の内容はずばり"お金をテーマにした小説"です。

お金といっても大企業や投資家たちのマネーゲームではなく、どこにもありそうな普通の家庭にとっての"お金"を扱っています。

本書には年代別、ファイナンシャルプランナー(通称:FP)風に言えば人生のステージ別に4人の主人公が登場します。

1人目は大学を卒業して一人暮らしを始めて数年がたつ26歳の美帆です。

彼女は適度に一人暮らしを楽しみつつ漠然と結婚を考え始めている一方で、贅沢をしているつもりはないものの貯蓄には無頓着で貯金は30万円ほどです。

2人目は美帆の祖母にあたる73歳の琴子です。

彼女には貯金が一千万円あるものの、夫との死別で年金の支給額が減っています。
今すぐに生活資金に困る心配はないものの、将来の介護などを考えると漠然とした不安を抱いています。

3人目は美帆の姉で、消防士の夫、娘と3人で都内の賃貸物件に住んでいる真帆です。

子育てのため夫の給料だけで家計をやりくりしつつ、将来的にマイホームや娘の教育資金を貯めるため計画的に節約や貯蓄に取り組み、600万円の貯金があります。

そして4人目は美帆と真帆の母であり、琴子から見ると義理の娘にあたる智子です。

子育てに一段落着いた50代の夫婦ですが、娘2人分の大学での授業料、そして結婚式費用の援助やらで気づけば貯金が100万円でしかないことに気付き愕然としています。

見て分ける通り、4人とも特別に裕福でも貧乏なわけでもなく、どこにでもいそうな人たちです。

作品中には30代のフリーターや学生時代の友人などさまざまな人物が登場しますが、経済事情も人それぞれです。

多くの読者は作品中の中に今の自分と近い立場の登場人物を見つけることができるのではないでしょうか。

ストーリーが大きく飛躍したり、大どんでん返しがあるタイプの作品ではありませんが、お金という現実的な課題に正面から向き合いつつ、地に足の着いた自分なりの幸せを実現するための日常を丁寧に描いている点には好感を持てます。

自分よりよい給料をもらっている、大きい家に住んでいる、高い車に乗っているなど、他人と自分を比べればキリがありません。

もし無意識にお金の面で他人と自分を比べてしまい、悶々としているようであれば是非本作品を読んでみることをおすすめします。

本作品は小説であると同時に、具体的かつ優しくマネープランを教えてくれる本でもあり、本書がベストセラーとなった要因になっているのかもしれません。

ガリバルディ - イタリア建国の英雄



イタリアと言えば誰もがヨーロッパにある長靴形の半島にある国を思い浮かべると思います。

一方でローマ帝国が滅んだ中世以降、長い期間にわたって現代の私たちが思い浮かべるイタリアが1つの国家としてまとまることはありませんでした。

つまり中世の人びとにとって"イタリア"とは、イタリア半島の地理的な名称に過ぎず、幾つもの国が群雄割拠のように存在し続ける地域だったのです。

このイタリアの独立と統一を果たした英雄が本書で紹介されている"ガリバルディ"です。

最終的なイタリア統一が完成するのは1871年であり、これは日本での明治維新とほぼ時期が一致します。

こうした要因から当時の日本においてガリバルディは、同じく維新の元勲として人気のあった西郷隆盛と比較して紹介されることが多かったようです。

またガリバルディの経歴には信ぴょう性の低い神話のようなエピソードも付け加えられており、これはイタリアの英雄としての人気が高かった故に当然のことなのかもしれません。

本書ではイタリア近代史の専門家である藤澤房俊氏が、神話と実像を腑分けして等身大のガリバルディの生涯を描いています。

ここでは詳しくは触れませんが、実際に本書を読み進めてゆくとガリバルディの生涯は英雄にふさわしい起伏に富んだものであることが分かります。

現代のフランスの南東部にあるニースにおいてごく普通の家庭に生まれ、船乗りとしてキャリアをスタートしたガリバルディは南米に渡り、再びイタリアに戻り戦いに明け暮れた人生を送ることになります。

成功と挫折を繰り返しながらも頭角を表してゆくガリバルディは、やがてイタリア統一の英雄となりますが、その後は政治の舞台から離れカプレーラ島で隠遁生活を送ったという点も西郷隆盛との共通点を感じさせます。

もちろんイタリア統一を果たしたのは彼1人の力ではなく、思想面でイタリア統一の気運を作り出したマッツィーニ、政治や外交面で卓越した能力を発揮してのちに初代イタリア王国首相となったカヴールらの活躍も大きな要因です。

見方を変えれば、理想を追い求め妥協を許さなかったマッツィーニ、現実主義者でときには名を捨て実を取ることも辞さなかったカヴール、理想や現実を難しく語るよりも、とにかく勇気を持って実行あるのみというガリバルディたち3人が奇跡的な相乗効果を発揮した結果がイタリア統一へつながったのです。

イタリアの歴史家・哲学者であるベネデット・クローチェはイタリアの誕生を次のように評しています。
「もし芸術作品につかう傑作という言葉を、政治的事象にも使うとすれば、イタリアの独立と統一はまさに傑作と言うに値する」

ガリバルディはカエサルのようにすべてを兼ね備えた天才ではなく、おもに""の面でイタリア統一に功績のあった人物というこになります。

あとがきで著者がガリバルディの特質を上げているので紹介してみたいと思います。
心が熱く、邪気がない、単純で一面的な考え方しかできない、直感が熟慮をはるかに上回り、直情径行で、熱情にかられて行動に走る、向こう見ずで、意味もなく勇敢で、無謀な行動主義者で、非常時型の人間であった。
また、私利私欲や地位声望を求めず、清廉潔白で、天真爛漫な、大きな駄々っ子的特質は、民衆を惹きつけてやまない魅力となった。

長所、そして短所も持っているがゆえに人びとにとって身近に感じられる愛すべき人物であったことがよく分かります。

思考の整理学


  • 刊行から37年読み続けられる「知のバイブル」
  • 時代を超えたベスト&ロングセラー 270万部
  • 全国の大学生協 文庫ランキング1位獲得
  • 歴代の東大生・京大生も根強く支持

読みたい本や興味のある本を手にとることが多いですが、文庫分の帯にあるこうした宣伝文句に目が止まって購入した1冊です。

本書のテーマはずばり「考えることの本質」です。

人生において大きな目標、または課題をクリアするためには自分の力(考え)で乗り越える必要があります。

こうした問題を解決するためのヒントは本やネットに転がっていても、答えそのものがそこにあることはありません。

なぜなら状況は個人の環境や立場によって違うものであり、解決のためには考える力を持つ必要があり、また創造的な仕事を成し遂げるためにも自ら考え出す力が求められます。

著者の外山滋比古氏は英文学者、文学博士であり、まさに"考える"ことを生業にしている自身の経験や試行錯誤からそのヒントを読書へ与えてくれるのです。

著者はまず学校教育の弊害を指摘しています。

それは学校学習が教師にひっぱられ勉強する仕組みであり、いわば受動的に知識を詰め込むだけの教育では考える力が育たないということです。

こうした問題は昔から言われ続けてきましたが、さらに本書は1983年というインターネットが登場するかなり前に発表された本でありながら、将来的に高度な情報化社会が訪れ、AIという言葉自体が使われていない時代からコンピュータによって(考えることをしない)人間が負かされる時代が到来することをはっきりと見通しています。

昔は「知恵袋」という言葉があったように、頭の中に多くの知識を蓄えた人間が優秀とされてきましたが、今や情報の記憶量と再生の早さ、正確性という面においてはコンピュータの方がはるかに優れており、もはや知識を蓄えているだけでは優秀な人間とは言えない時代が訪れて久しい状況です。

最後に本書で紹介されている考え方のヒントを紹介しておきます。

  • 知的活動に適した時間帯
  • 考えそのものをいったん寝かせて時間をかける
  • 異質なものを結合させて考えることの重要性
  • 考えを整理するための手帳とノートの使い方と整理方法
  • ときには知識を捨てるための重要性
  • 垣根を超えての交流の重要性(同じ専門家同士のインブリーディングは避ける)
  • 良い考えが生まれやすいシチュエーション

実際に本書を読めば納得のできる理由も書かれており、考えがまとまりにくい、途中で思考を投げ出すことが多いと感じている人は是非手にとってみてはいかがでしょうか。

ヴェニスの商人(松岡和子 訳)



ちくま文庫のシェイクスピア全集を気の向いた時に読んでいますが、今回紹介する「ヴェニスの商人」で4作品目です。

本シリーズは注釈が最後にまとめて掲載されている形式ではなく、各ページの下部に注釈欄が設けられているため、分からない言い回しや著者(シェイクスピア)の意図がその場ですぐに確認できるという利点があります。

作品名のヴェニスの商人とは、主人公であるアントーニオのことを指します。

彼は散財を続け懐が苦しくなった親友・バサーニオのために保証人となり、ユダヤ人商人シャイロックからお金を借りることになります。

さらにバサーニオは金持ちの相続人であるポーシャに恋心を抱いており、この恋を成就させるためにもお金が必要だったのです。

バサーニオは遊び人風であり、シャイロックは当時(16世紀)のユダヤ人のイメージがそうであったように計算高く欲深い商人であり、友情のためとはいえ、この頼みを快く引き受けるアントーニオはどう見てもお人好しが過ぎます。

しかし利害を超えた友情や恋、そしてその両方を天秤にかけるといった選択は本作品のテーマにもなっており、アントーニオのような天真爛漫な主人公があってこそ、演劇にふさわしいストーリーが生み出されるのです。

キリスト教徒、もっと言えば善意で利子をとらずに金を貸すアントーニオへ対してシャイロックは深い憎しみを抱いており、彼は借金の保証としてアントーニオの心臓付近の肉1ポンド(約0.454kg)、つまり間接的に彼の命を要求します。

そしてもちろんアントーニオの身にはシャイロックから借りた金を返せない不幸が降りかかり、親友のために命の危機を迎えることになるのですが、ここからが本作品の見せ所となります。

本作品は主人公が活躍するというより、彼の周辺にいる人物たちが動き回ることで物語が進んでゆきます。

とくにアントーニオの影からの援助のおかげでバサーニオの恋人となったポーシャ、そして敵役のシャイロックの演技力が重要となる脚本になっています。

ヴェニス(ヴェネツィア)といえば、15世紀に全盛期を迎えた世界一の商業都市国家であり、作品中に商業用語や当時の解放的な時代を反映して性的な隠喩も多く用いられており、時代の最先端を走る売れっ子脚本家シェイクスピアならではの演出を充分に味わうことのできる作品になっています。

エスキモーになった日本人



以前本ブログで「極夜行」を紹介しましたが、著者の角幡唯介氏が極地探検の拠点にしたグリーンランドのシオラパルクを訪れた時に、この村で42年間も猟師として暮らす大島郁雄氏の元を訪れるシーンが出てきます。

彼はイヌイットの女性と結婚し、息子が1人と娘が4人、そして孫が10人いると紹介されていますが、さらに彼には著書があることにも触れられており、本書を手にとってみました。

大島氏は1972年に日大山岳部として北極探検のためにこの地を訪れましたが、長期滞在するうちにイヌイットの狩猟文化に魅力を覚え、この地に永住することを選んだという経歴を持っています。

ちなみにシオラパルクは世界最北の村と言われ、冬季になると4ヶ月も太陽が昇らない極北地です。

本書は1989年に出版されており、この時点で大島氏がシオラパルクで暮らし始めて16年の歳月が経過しています。

この地にはじめて降り立ったときの新鮮な驚き、この村で伝説的な冒険家・植村直己氏と共に暮らした日々、戸惑いを覚えた独自の食文化やイヌイット語を習得していゆく苦労などが時系列で書かれており、イヌイットの住む土地を訪れた紀行文のように読むことができます。

やがてこの地で猟師として暮らしてゆくこと選択し、見習い猟師としての経験、そしてほぼなりゆきに身を任せて村の長老に勧められるがままに結婚に至った経緯が紹介されています。

彼らの主要な移動手段である犬ぞり、狩りに使われる道具についても図解で紹介されており、異国の地で暮らし始めた著者の戸惑いを読者も共有しながら楽しむことができます。

さらにここから先は完全にイヌイットの一員となった著者が、シオラパルクでの暮らしの様子や文化をガイドしてくれます。

長老から聞いたイヌイットの昔話や伝説、冬季の激しい嵐の経験、季節ごとの過ごし方や猟のやり方、村の生活のルールや設備の紹介、経済や流通に関する言及、極めつけはシオラパルクの猟師仲間のプロフィール紹介までしてくれます。

今では異国の地で結婚して家庭を築き暮らしている人は珍しくなく、私の周りにもそういった人たちがいます。

その中でも娯楽はおろか、医療設備や交通網、電気さえも整備されていない異国の地で満ち足りて暮らす大島氏の姿には特別な魅力を感じるのです。

イヌイット



タイトルにあるイヌイットとは、シベリア極東部、アラスカ、カナダ北部、そしてグリーンランドの極北地で昔から狩猟・漁撈を生業にして暮らしてきた民族のことを指します。

角幡唯介氏の「極夜行」を読んでイヌイットの生活に興味を持ったため本書を手にとってみました。

著者の岸上伸啓氏は文化人類学者であり、40年近くにわたり現地でイヌイットの研究を続けているという経歴があります。

ちなみに日本ではイヌイットよりもエスキモーの呼称の方が有名ですが、侮蔑的な意味合いが含まれていることから使用を避けているようです。

本書では著者が研究のフィールドワークとしているカナダ北部、その中でも特にヌナヴィク準州にあるアクリヴィク村を中心にイヌイットを紹介しています。

かつてのイヌイットは定住地を持たず、獲物を求めて犬ぞりで移動を続ける狩猟民族でしたが、今はすべてのイヌイットが定住する生活を送っているようです。

また今でも犬ぞりを生活や狩猟の手段として使っているのはグリーンランドのイヌイットのみであり、本書に登場するカナダのイヌイットはスノーモービルを主な移動手段としています。

まず本書ではイヌイットが住む自然環境とその歴史を紹介しています。

ここでは昔より極地で狩猟や漁労を生業としてきたイヌイットが西洋人と出会い、そして資本主義経済システムに組み込まれるまでの流れが簡単に紹介されています。

続いて現代イヌイットの生活様式、文化、狩猟と漁撈の方式、彼らの人間関係などを詳しく解説しています。

イヌイットは伝統的な生肉や生魚中心の食文化、獲物から得た革から衣類などの製作を続けている一方で、日本と同じようにピザやハンバーガーなどのファーストフードなども普及しており、食生活の西洋化とともに生活習慣病が問題になっているようです。

また今ではイヌイットの中に専業のハンターは殆どいなくなり、大半が賃金労働に従事してるため副業ハンターが一般的になっています。

さらに社会的な特徴として親族同士の結びつきが強く、獲得した食料を村人間で分配する習慣が今でも残っています。

一方で養子という制度が昔から頻繁であり、1986年に著者が行った調査では人口の15%が養子であり、その割当は今でもそれほど変わらないという部分は驚きでした。

いずれにしても厳しい自然の極北の地で生き抜く知恵が社会の中に残っているのが印象的です。

教育や医療が普及し、近代化した生活を送るイヌイットたちの中には生まれ育った村を出て、都市で暮らすことを選択したイヌイットたちも多くいるようです。

そこでは高収入を得るイヌイットがいる一方で、無職者となりホームレスとなるイヌイットも増えつつあり深刻な問題となっています。

最後に書かれているのはイヌイットが暮らす極北地域の深刻な環境問題が紹介されています。

気候変動(地球規模の温暖化)は極地ほど影響を受けやすいと言われており、こちらも自然と調和して暮らしてきたイヌイットを直撃する深刻な問題になっています。

時代の急激な変化の中で社会問題、環境問題に直面したイヌイットの暮らしが今後も変わり続けてゆくことは間違いありません。

一方で彼らの伝統的な文化や暮らしをどのように守ってゆくのかは、彼らが住む国や地域だけの問題ではなく、地球規模で考えなければならない課題でもあるのです。

長年にわたってカナダで研究を継続してきた著者ならではの内容であり、イヌイットの歴史、そして現代を知ることのできる有意義な1冊になっています。

極夜行



本書は著者の角幡唯介氏の行った北極圏における極夜(太陽の昇らない季節)の探検を記録したノンフィクションです。

まだ本書を読んでいない人は、この探検のためだけに3年間もの準備に日々を費やした記録「極夜行前」から読むことをおすすめします。

そこには著者がGPSを持たずに暗闇の極地を探検するための努力や工夫、そしてこの長い極夜行の中で食料や燃料を補給するためのデポを設置するまでの苦労の過程が描かれており、間違いなく本作品をより楽しむことができるからです。

冒険(探検)には危険がつきものです。
むしろ冒険家という人種にとって命の危険性がゼロであれば、それは冒険という名に値しないと言っていいほどです。

一方で下調べ、必要な技術の習得、装備や物資の準備など入念な準備がなければ、それは単なる無謀な挑戦ということになり、これも冒険家にとっては屈辱的な言葉になります。

本ブログでは作品をまだ読んでいない人を考慮して、ネタバレしない程度に内容を紹介するように心がけていますが、なかなか難しい部分もあります。

それでも言えることは、著者もプロの冒険家の例に漏れず入念な準備を行ったにも関わらず、最初から最後まで計画通りに行かないことの連続になります。

すべてが計画通りに進み順調に探検を終えることが出来れば良いのですが、探検に限らず私も仕事においてすべてが順調に終わることの方が珍しく、何かしら予定外の出来事、つまりトラブルが発生するものです。

著者の身に起きたことは、ことごとく想定外の出来事の連続であり、読んでいて気の毒になるほどです。

しかもそれは人間の生活圏から外れた極地での厳しい自然の中で発生したトラブルであり、そこでの対処を間違えば命を落とす可能性も大いにある性質のものなのです。

皮肉なことにそれをノンフィクション作品化する場合、計画通りに物事が進むよりも、数々の想定外の障害を乗り越えてゆくストーリーの方が読者を興奮させることは間違いないのです。

マイナス40度を下回ることもある極寒、ホッキョクグマやオオカミなど野生動物による襲撃、クレパスに落ちるなど命の危険は幾つもありますが、GPSを持たずに極夜の探検を続ける著者にとって最も命を失う可能性が高いのが、自分のいる位置を見失い徘徊を続けるうちに訪れる餓死です。

冬季の極地を歩き続ける場合、1日500キロカロリーを接種しても充分とは言えず、徐々に体力は削られていくほど過酷な環境です。

しかし何ヶ月も太陽が昇らない暗闇の大地を歩き続け、その探検の終わりに地平線から昇る太陽を見たとき人間は何を感じるのか、決して現代人が日常生活の中で体験することのない行為に挑戦することに、この冒険の本質的な意味があるのです。

一方で起伏のない土地をひたすら歩き続ける行為は本質的には単調な作業であり、冒険小説として見せ所が難しい部分がありますが、極限の状況における著者の心理的描写が飾り気なく描かれており、その余白を補って余りあるほど読ませてくれる作品になっています。

極夜行前



角幡唯介氏の作品を本ブログでも何冊か紹介していますが、彼の作品を読み続けているのは私と同年代で冒険家として活躍している点と、やはり彼の作家としての作品が魅力的だからです。

冒険家という人種は人類未踏の地を目指したり、誰も発見を証明できていない生物や遺跡などを探索したりする人たちです。

そして冒険を敢行する理由は歴史に名を残す名誉を得るためだったりしますが、本当のところは命の危険を犯してまでも衝動的な好奇心を抑えられない点にあるように思えます。

名誉を得るという目的で冒険という手段を取るのはリスクを考えると割に合わない(=非効率)な気がしますし、冒険する本質的な理由を理論的に説明するのは難しいのではないでしょうか。

角幡氏は冒険家、そして同時に作家として活動しているため、なぜ自分がそのような冒険を行うのかを作品の中で書かざるを得ない立場にあります。

タイトルにある"極夜"とは太陽の沈まない"白夜"の対義語であり、つまり1日中太陽が昇らない日を指します。

つまり著者は北極圏における数ヶ月の極夜の中を橇を引いて冒険することを決意します。

それは何ヶ月も太陽が昇らない暗闇の中を歩き続けることを意味しますが、私でも客観的に極夜というものは容易に想像できます。

しかし毎日陽が昇るのが当たり前である地域に住む人が実際に極夜を体験するとことで、身体と精神がどのような反応を見せるかは経験してみないと分かりません。

つまり極夜を主観的に知ろうとする好奇心が今回の冒険の動機になったと言えます。

とはいえ著者は極夜を知るためには、ただそこに居るだけではなく、極地を肌で感じるために何百キロという距離を1人で歩き、さらには自分が今いる位置を知るための手段としてGPSを使わずに百年前の冒険家がやっていたように六分儀による天測を用いるといったルールを自らに課します。

なぜあえて不便で困難な方法を選ぶかという点については、私たちにも経験があるはずです。

代表的な例であれば快適なホテルに泊まるよりも、キャンプ泊で自炊する方がより自然を身近に体験できるはずです。

本書は「極夜行前」というタイトルから推測できるように、本格的な極夜探検を始める前に天測の技術を身に付けたり、冒険に必要な食料をあらかじめデポしておくための準備期間の体験を1冊の本をまとめたものです。

発行された日付を見ると、実際の極地冒険である「極夜行」の方が先で、本書「極夜行前」が後に発表されたようです。

私は本屋でこの2冊を同時に購入したのですが、ストーリーの時系列を重視して本書を先に読んでみました。

著者は極夜探検を実行するにあたり3年もの期間を準備に費やしていますが、この"準備"という期間が単調な作業だったかというとまったく違います。

グリーンランドにあるイヌイットの子孫が暮らすシオラパルクは北極圏に位置し、昔から人が暮らす集落としてはほぼ世界最北に位置します。

そこを冒険の拠点にすることを決めて降り立った著者が冒険の準備を進めるためには、必然的にイヌイットたちが持つ知識や文化を理解して知る必要があります。

こうした過程も大部分の日本人にとって馴染みのないものであり、著者の持つ好奇心に読者も引き込まれてしまい夢中で読み進めてしまうのです。

貧乏物語



タイトルに「貧乏物語」とありますが、自身の貧乏経験のエッセーでも誰かの貧乏生活を小説化した作品でもありません。

本書は1916年(大正5年)に大阪朝日新聞で連載された、「貧困」及び「格差社会」を取り上げ、その対策を経済学の見地から論じた記事であり、当時の社会に大きな影響を与えたと言われています。

日本に限らず資本主義による産業化、近代化の中で人びとの生活は便利になってゆきます。

一方で先進国と言われたヨーロッパやアメリカにおいていかに貧乏人の割合が多いかを統計的に紹介し、その状態は日本においても同じであると論じています。

本書で定義されている「貧乏」とは、現代でいえば「ワーキングプア」のことであり、労働に従事していながら必要最低限の健康な生活を送ることも難しい人びとを指しています。

この連載が始まる5年前に石川啄木
「はたらけど はたらけど猶(なお) わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」
という有名な歌を出していますが、まさしくこうした状況にある人びとが「貧乏」なのです。

今でも多くの「ワーキングプア」や「格差社会」を取り上げた本が出版され続けていますが、本書を読み進めると100年以上前の状況とほとんど変わっていないことが分かります。

たとえば現代では上位1%の富裕層が世界の個人資産の4割近くを保有していると言われますが、この時代のイギリスにおいても上位2%の富裕層が国内資産の72%を保有しているという数字が紹介されており、今も昔も驚くほどその数値が似ています。

著者のこの状況の原因を、無用のぜいたく品がどしどし生産されているため、生活必要品の生産力が不足し充分に供給されていなくなっている点にあるといしています。

そしてこの問題を根本的に解決するためには、金持ちが奢侈(しゃし)をやめて生活必要品が全員に行き渡るようにすることだとし、そのための政策や教育・啓蒙の必要性を訴えています。

現実的な方法ではないと当時から批判する人もいたようですが、たしかに私の目から見ても実現性に乏しいように思えます。

ただし巻末で解説されているように、本書の価値は日本の経済学においてはじめて貧困問題を真正面から取り扱ったという古典的な価値にあります。

新聞で連載されただけあり、経済学用語による難解な表現は少なく、多くの人が理解できるように書かれている努力がされていて、当時の新聞購読者の1人になったつもりで読んでゆくと当時の時代背景も見えてきて興味深い点がたくさん出てきます。

著者の河上肇はのちに日本共産党に入党して投獄されたり、そこから考えを転向させたりしていますが、その根底にあったのは学問的に貧困問題を解決するための方法を模索することにあったのではないでしょうか。

天地人 (下)



直江兼続を主人にした「天地人」下巻のレビューとなります。

前回は上杉景勝・直江兼続2人の主従関係が、戦国時代においていかにユニークであったかを紹介しましたが、戦乱の世にあって彼らが絶体絶命のピンチに陥ったのは2回あります。

1つ目は、跡継ぎを決めることなく急逝した謙信の後継者を巡る戦い(御館の乱)です。

家督を争った景勝と景虎はいずれも謙信の養子でしたが、景勝が謙信の姉である仙桃院の子であり、景虎は北条氏康の七男でした。

この2人の争いは謙信の家臣団、つまり越後の豪族たちが真っ二つに分かれて対立しますが、景虎には北条家、さらに北条家と同盟関係にある武田家の援護が期待できる立場にあり、実際にこの両家が景虎を援護するために越後へ侵攻してきます。

劣勢に回った景勝・兼続主従がどのようにしてピンチを乗り切ったのかは本作品を読んでの楽しみとなりますが、外から見ればこれは上杉家内で起きた大規模な内乱です。

つまり、ようやく勝利して正当な後継者となった上杉家の勢力は大きく衰退し、この内乱を好機と見た織田家をはじめとした周辺勢力によって領土も大きく失うことになりました。

戦いに勝利して2人は上杉家を率いることになりますが、謙信時代から比べて大きなマイナス地点からのスタートになってしまうのです。

2つ目は、関ヶ原の戦いの前夜に行われた徳川家康による会津征伐です。

豊臣秀吉、前田利家が立て続けに亡くなった後、五大老の1人という枠を超え徳川家康の存在が大きくなります。

それに対抗したのが秀吉の家臣であった石田三成でしたが、彼は政局に混乱を引き起こした責任をとって蟄居することになります。

兼続はその三成を盟友としていたため家康から詰問を受けることになりますが、それに真っ向から反論したのが有名な直江状です。

その結果、家康が会津討伐を決行し上杉家は10万以上の軍勢を迎え撃つことになります。

景勝にとってみれば兼続のとった方針で存亡の危機に陥ることになりますが、それでもその信頼が揺るぐことはありませんでした。

多くの大名家が自家の存在や利益を第一優先とし、より強大な勢力になびくのが自然という考えの中で、自身の信じる正義を貫き通した2人の姿は一陣の爽やかな風のような存在として印象に残ります。

また著者の火坂雅志氏が新潟出身というこもとあり、忍耐強くある意味で頑固な2人のルーツにあるのは雪国人の気質にあると示唆している部分からは郷土愛も感じられるのです。

天地人 (上)



2009年に同名の大河ドラマ「天地人」の原作になった火坂雅志氏による直江兼続を主人公とした歴史小説です。

直江兼続は多くの歴史小説に登場しますが、私個人は大河ドラマを見ておらず本作品を手に取るのも今回が初めてです。

上杉景勝、直江兼続の2人は、6歳の頃より雪深い越後上田庄(現在の南魚沼市)で主従関係であると同時に幼馴染として育ちました。

やがて御館の乱で勝利し、謙信の後継者となった景勝は、兼続を家老に任命するとともに間もなく単独執政体制として彼に上杉家の舵取りを一任します。

景勝は兼続の意見を退けることなくすべてを任せ続け、兼続は上杉家を私物化することなく景勝の忠実な家臣であり続けたのです。

この2人の主従関係は他の戦国大名には類を見ないユニークなものです。

たとえば信長は家臣を自分の道具として役に立つかどうかで判断する人物であり、秀吉や家康にも信頼する家臣はいましたが、特定の家臣にすべてを委ねるようなことはしませんでした。

大名として家臣にすべてを任せるだけでなく、たまには自分の意見を押し通したい場面も出てくるのが普通ですし、絶対的な権力を与えられている家臣の立場であれば、自分の能力を過信して主人をないがしろにする場面があってもおかしくありません。

ともかく決して切れない太い綱で結ばれたかのような2人の絆は生涯にわたって続くことになります。

ちなみに性格も正反対であり、景勝は寡黙で内向的な性格であり、兼続は弁が立ち他者とも積極に交わる外交的な性格だったというのも面白い点です。

2人が戦国時代の中で上杉家が生き残るために手本としたのが、先代の謙信です。

しかし2人には、自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、周囲の大名から"軍神"として恐れられた謙信のような戦の才能はありませんでした。

そこで2人がお手本にはしたのは、謙信が大切にした「」という理念であり、本作品では次のように解説されています。
義とは、儒学でいうところの仁義礼智忠信、いわゆる五常のうちのひとつである。
すなわち、私利私欲を捨て、人との信義を大切にし、公の心をもって事に当たるということにほかならない。

そして謙信は次のような言葉を残しています。
「依怙によって弓箭(きゅうせん)は取らぬ。筋目をもってどこにでも合力いたす」

つまり自身の好き嫌いで戦はせず、道理が通っているのであればどこにでも駆けつけて力を貸すというものであり、誰もが利を求めて戦を繰り広げている戦国時代において、その行動指針もユニークさが際立ちます。

それは私利私欲のため権謀術数を張り巡らせて世の中を渡るよりも、正しい考えに基づいて行動すれば大きく道を誤ることはない、もし万が一それによって上杉家が滅亡することになっても天下へ対してやましい気持ちや悔いが残ることはないという考えがあるような気がします。

ともかく本作品は、名コンビが戦乱の世を渡りぬいてゆく大スケールでダイナミックな物語なのです。

再び男たちへ



歴史小説家である塩野七生氏によるエッセーです。

塩野氏は多くのエッセーを出していますが、タイトルから推測できる通り「男たちへ」というエッセーの続編となります。

本作品は著者自身の日常を綴ったエッセーというより、時事問題、とりわけ政治や社会問題を扱ったテーマが多いのが特徴です。

やはり歴史小説化ということもあり、歴史から学ぶという視点から時事問題を切っており、特に著者が作品として扱っているローマ帝国ヴェネティア共和国を例として取り扱っている点が特徴です。

この2つの国はいずれも1000年以上に渡って繁栄したという共通点を持っており、その統治範囲も広範囲に及びました。

ただし本書が発売されたのは1991年であり、本書の内容は今から30年以上前の時事問題を扱っていることになりますが、当時の出来事と照らし合わせて読むことでより楽しめるのではないかと思います。

例えばこの頃から議論されるようになった日本への外国人労働者や移民の受け入れという問題がありますが、ヴェネティア共和国は異国民との交易で繁栄しながらも、ヴェネティア本国に住む住民以外、たとえ地理的に近い北イタリアの貴族であっても国会の議席すら与えず、本国の政治には一言も口を挟むことを許さず純血主義を守り抜いたといいます。

ただしこれは著者が外国人受け入れを否定している訳ではなく、開国路線、鎖国路線のいずれを選ぼうが、国家の延命にはほとんど関係のない分野の政策であると断じてます。

その他にも当時はまだソ連が健在だったため共産主義を論じてみたり、年功序列制から実力主義・能力主義へ切り替わってゆく流れの是非について、企業文化などさまざまな題材を取り上げています。

それでも世界の中における日本の在り方、さらには未来に向けての提言という点では共通しており、この本が発表されたときの日本はバブル最盛期の時代でした。

その中にあっても著者は当時の日本の経済力を称賛するというより、経済的な成長にのみ視点が行っていまい浮かれている当時の状況を憂いているかのような内容であり、このときの著者の懸念が現実となったことがよく分かります。

むしろ経済成長が終わりを告げ、経済大国の地位を失いつつある今の日本にとって示唆に富む1冊になっているように思えます。

ジェイソン流お金の増やし方



お笑い、IT企業の役員、コメンテーターなど多彩なフィールドで活躍するアメリカ人芸人・厚切りジェイソンが資産運用、投資法を解説した1冊です。

私自身も株式投資や投資信託の経験がありますが、性格的にはまったく向いていません。

それは毎日株価の推移をチェックするのが億劫であり、指南書にあるような新聞の経済に関する記事や会社四季報の中から将来有望な企業を見つけ出すような作業が苦痛にしか感じられないからです。

一方で金融庁が老後30年間で約2000万円が不足するといった有名な試算(国の財政状況や年金制度、さらには現在進行系のインフレを考えるとまったく充分とは思えませんが)がありますが、とにかく平均寿命まで生きると仮定した場合、ある程度の老後資金が必要なことは確実に訪れる現実です。

しかし住宅ローン返済や子どもの教育費の支出を考えると悠長に投資を考える余裕がないといった人も多いと思いますし、まさしく私も該当する1人です。

こうした理由で今まで殆ど手にとってこなかった分野の本ですが、立ち寄った本屋でオリコン年間BOOKランキング2022で1位となったベストセラーという宣伝から興味本位で手にとってみました。

本書は小説ではなく投資法に関するノウハウ本であり、ベストセラーだけあって誰にでも理解できる言葉で解説しようとしている努力が感じられ、この分野の素人である私にとっては"広く浅い"内容であることがメリットになっています。

実際に内容を読んでゆくと個別の銘柄には一切手を出さない投資法が紹介されており、書かれていることはとてもシンプルでその根拠も要領を得た説明がされています。

つまり資産運用に関しては"ずぼらな"人でも実践できる内容であり、2時間もあれば読み終えられる分量であることから、ベストセラーになった理由がよく分かります。

もちろん投資に絶対の成功はありませんが、本書で紹介されている投資法はシンプルである一方で長期に渡る忍耐が求められます。

つまり失敗のリスクは低いが、短期間で資産が数倍になるような投資法ではありません。

私自身も参考になった部分は多いですし、投資に興味を持った人がはじめに手に取る本としては最適ではないでしょうか。

死刑囚の記録



著者の名前"加賀乙彦"は作家活動を開始してからのペンネーム(本名:小木貞孝)であり、かつて精神科医として東京拘置所(通称:小菅拘置所)へ勤務していた経歴を持っています。

著者はそこでゼロ番囚人(強盗殺人、強姦殺人などで死刑や無期の判決を受ける、あるいは受けた重犯罪者)、さらには死刑確定者無期受刑者の精神病患者が多いことに気付き、彼らに興味を持つようになります。

本書ではそこでの数多の囚人たちと面接、診療してきた経験と記録を元に執筆された本です。

私たちは日々の生活の中でさまざまなストレスを抱えており、こうしたストレスが時には精神的、身体的な不調となって表面化することはよく知られています。

一方で人間にとって最大のストレス状態、言い換えれば極限状態を想像すると、それは死刑囚の立場ではないかと思います。

いつかは分からないが近い将来、ある日不意に"おむかえ"が来るという恐怖の日々を狭い独房の中で過ごさなければならないからです。

ちなみに現在は死刑執行までの収容期間は平均14年という長さである一方、死刑執行の当日9時に本人への告知が行われ、その1、2時間後には執行されるようです。

また無期囚という立場を考えると、死ぬまで刑務所の中で多くの制約がある生活を強制される運命にあり、死刑囚とは違った意味で生きる目的を見い出すのが難しいことが想像できます。

私が同じ境遇に置かれたことを考えても、とても正常な精神状態を保ち続ける自信がありません。

死刑や無期という刑を受けるからには相応の罪を犯したから当然だという意見があるのも承知ですが、"死刑制度"を扱った本を何冊が読んできた経験から、個人的には死刑制度に反対の立場です。

それは世界の先進国の中で死刑制度が残っている国が圧倒的に少数であるという理由からではありません。

死刑制度に囚人を追い詰める効果はあっても犯罪抑止に効果があるという科学的・統計的なデータが存在しないこと、冤罪の可能性がある囚人へ対して取り返しのつかない刑であること、国家権力といえども人の命を奪う行為に正当性を見いだせないといった理由からです。

本書では囚人たちに見られる拘禁ノイローゼ、もう少し詳細に分類すると爆発反応(強烈な感情の爆発)、レッケの昏迷(精神の原始的な退化)、妄想被害躁鬱などの様子が、実際に面接・記録した著者が医学者という立場から詳細に記録に残しているのが特徴であるといえます。

一方で少数ではあるものの、宗教的な信仰や帰依によって精神的な平穏を手に入れた死刑囚の例も紹介されています。

人間の精神が持つ奥深さや神秘性、あるいは脆さや強靭さについて、さらには死刑制度そのものについても色々と考えさせられる良書となっています。

花渡る海



"漂流"といえば、吉村昭氏の小説でたびたび扱われるテーマです。

舵や帆柱を失った船が潮の流れに身を任せるままに大海を漂い、飢えと渇きに苦しみながらどこかに漂着、または他の船に救助される確約もない乗組員たち。

吉村氏は、こうした極限の状態に置かれた人間を描写するのを得意としています。

その文章には大げさな表現や長いセリフがなく、簡潔かつ俯瞰的に彼らの置かれた状況を説明し、人物の心理描写も最低限にして淡々と物語を進めてゆきます。

当人たちにとっては突然訪れた生死に関わる大きな不幸であっても、大自然の中ではいかに人間が無力であるかという"現実"を感じさせるのです。

本書の主人公である久蔵は、広島県川尻町(現在は呉市に編入)に生まれ、1810年(文化7年)に船乗りとして大阪から江戸へむかう千石船に乗り込みますが、荒天で破船し、カムチャッカ半島まで漂流、ロシアにより3年後に蝦夷に送還され、さらに翌年故郷に戻っています。

なぜこれほど詳細に彼の足跡が分かるかといえば、久蔵自身がこのときの体験を「川尻浦久蔵 魯斉亜国漂流聞書」という記録に残していたからです。

彼は船乗りになる前に禅寺で修行していた時期がある一風変わった経歴を持ち、農民の出自でありながら文章を書くことが出来たのです。

また同時に彼が日本へ初めて西洋式種痘法をもたらしたことがその記録から明らかになり、いわば郷土の歴史に埋もれた江戸時代の人物を作者が偶然に耳にしたことから本作品が生まれました。

教科書に載っているような歴史上の有名人を主人公にした歴史小説と対極に位置する作品ですが、ストーリーの濃厚さでは決して引けを取りません。

前述したように久蔵たちの載った観亀丸は漂流ののちカムチャッカ半島に漂着しますが、そこは北海道よりはるかに北に位置する土地であり、厳冬の時期にそこへ足を踏み入れた彼らはさらに過酷な状況に陥ることになります。

多くの仲間を失いながらもロシア人に救出された久蔵は、そこで異文化と接触することになり、ロシア人医師に凍傷にかかった足を手術してもらうことになります。

やがて帰国の夢が叶う久蔵ですが、当時たとえ漂流といえども鎖国政策を続けていたた日本では、異国人と接触した経歴をもつ者は罪人に等しい扱いを受けることになります。

江戸時代の農民出身の久蔵が体験した数々の苦難は波瀾万丈なものであり、読者はその物語に引き込まれてゆくのです。

真景累ケ淵



三遊亭円朝の代表作を2つ挙げるとすれば、前回紹介した「牡丹燈籠」と今回紹介する「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」と答える人が多いのではないでしょうか。

こちらも牡丹燈籠同様に大ネタ中の大ネタのため、現代では全編を寄席で聴く機会はまず無いと言っていいでしょう。

それでも「宗悦殺し」、「豊志賀の死」といった有名な場面は今でも高座で演じられる機会が多く、部分的に知っている人も多いと思います。

物語の展開も牡丹燈籠と似ていて前半は怪談話、そして後半は敵討ちという流れですが、物語自体は牡丹燈籠よりもさらに長く、登場人物の数も多いことから、1度読んだだけではその人物同士の相関図を完全に頭に入れるのは難しいかも知れません。

怪談、そして敵討ちに共通するのは"因果、因縁"といったキーワードです。

たとえば皆川宗悦とその娘たちお園豊志賀は、深見新左衛門とその息子である新五郎新吉にそれぞれ全く違った要因で殺害されることになりますが、、その怨念は殺害した当人のみならず周辺の人間までを巻き込んだ悲劇へと発展してゆきます。

そしてこの果てしなく続くような因果応報を最終的に断ち切り精算するのが、敵討ちです。

この敵討ちも簡単に果たされるものではなく、ある者は返り討ちによって倒れ、その意志をまた別の者が継いでゆくといった壮大なものになります。

娯楽の少なかった時代に寄席でこの「真景累ケ淵」を聴くことは、今で言えばテレビでの大河ドラマや映画でスターウォーズシリーズを見るようなものであり、当時の観客を夢中にさせたことは容易に想像がつきます。

ちなみに文明開化と言われる明治時代に入り、江戸時代のように幽霊を信じて疑わない人が減ってしまったこともあり、寄席での"怪談はなし"が廃れてしまったといいます。

つまり幽霊が見える人は神経病という言葉で片付けられるようになった時代に創られた噺であるため、この噺には"神経"に"真景(観光の名所などを指す言葉)"をかけた噺家らしい皮肉の効いた題名が付けられているのです。

怪談 牡丹燈籠



三遊亭円朝の代表作の1つである牡丹燈籠

今でも牡丹燈籠を高座にかける噺家はいますが、大ネタ中の大ネタ、つまりとにかく話が長いため全編を寄席で聴くことは困難です。

昔は毎日のように寄席に通う文化がありましたが、現代では興行的に成立させるのが難しくなったのが一番の理由だと思われます。

本書は日本における速記術の先駆者である若林玵蔵(わかばやし かんそう)が、寄席で円朝演じる牡丹燈籠をそのまま書き留めて書籍化したものであり、明治期に活躍した円朝の肉声が現代に残されていないことを考えると大変貴重な1冊だと言えます。

もちろん寄席で聴いた方が臨場感などがまったく違うと思いますが、その機会が少ない中で牡丹燈籠のあらすじを知りたい人には最適な1冊であると言えます。

有名な怪談話ということで、かなり怖い幽霊が次々と出てくるのかなと思いましたが、怪談としてのピークは物語の前半に恋が成就することなく病気で果てたお露、そして侍女のお米が幽霊となり、生前恋い焦がれた浪人・萩原新三郎の元へ夜な夜な訪れるという場面です。

後半は主人である飯島平左衞門の金を持ち出し逃亡を続ける妾のお国、そして彼女の情夫である源次郎を主人の敵討ちとして追いかける孝助という構図が中心となり、怪談からは遠ざかってゆきます。

大ネタだけあって他にも多くの人物が登場しますが、その内容も怪談や人情噺、敵討ちなど多くの要素が物語の中に織り込まており、今のようにメディアが乏しかった時代において落語がまさに一大エンターテイメントであったことが分かります。

さらにこれだけドロドロした複雑な人間関係を題材にした物語を円朝は25歳の若さで書き上げたというから驚きです。

時代が時代ならば円朝は噺家としてだけでなく、脚本家、小説家、もしくは映画監督の巨匠として名を残していても不思議ではないと想像してしまいます。

米朝ばなし



以前、噺家(はなしか)には誰でもなれるという話をを聞いたことがあります。

これは落語家になるために学歴や資格が必要なく、自分で漫才ネタを創作する才能がなくとも古典落語を身に付ければ高座に上がれてしまうからです。

一方で噺家の中には、"名人"と呼ばれる人たちが存在します。

ただしスポーツとは違い、芸能である落語において名人の条件を数値化して表すことは不可能です。

名人の条件を表す1つの例として、立川談志の「江戸の風」という言葉があります。
これを一言で表せば、落語を聴く者をまるで江戸時代にタイムスリップしたかのように感じさせる話芸だと言えます。

これは古典落語を完璧に暗記しただけでは、決して身に付きません。

噺家自身に落語の背景にある当時の人びとの暮らし、文化や風景といった知識や素養が無ければ、その空気を伝えることができないからです。

本書の副題には"上方落語地図"とあり、3代目桂米朝が落語の舞台となった関西の各所を解説している本です。

毎日新聞大阪版で昭和53~56年に連載された記事を文庫化したものですが、大阪を中心に、京都、奈良、兵庫など実に120箇所もの土地を古典落語の舞台と重ね合わせて紹介しています。

有名な話、中には誰もやらなくなった滅びた話、さげの意味が不明になってしまった話なども紹介されている一方で、当時の風景や、どういった人がそこを訪れたのかといった解説も付け加えられていて、まるで歴史学者や民俗学者のような博学ぶりに驚かされます。

一時期は衰退した上方落語ですが、そもそも落語は上方で生まれ江戸へ伝わった芸能です。

そのため江戸を舞台にした有名な話でも、上方から輸入した話が原型になっているパターンはよくあります。

大戦後滅びかけていた上方落語を継承し復興させ、古い文献や落語界の古老から聴き取り調査をして一度滅んだ話を数多く数復活させた功績から無形文化財(人間国宝)にまで認定された桂米朝ならではの1冊といえます。

上方落語の舞台となった名所巡りをする気分で毎日少しずつ読み進めて楽しむことをおすすめします。

ルポ プーチンの破滅戦争



本の良いところは、専門家や当事者によって物事を体系的に知ることができるという点です。

つまりテレビの報道やネット記事を散発的に見るだけでは身に付かない知識や物の考え方を与えてくれるのです。

ロシアとウクライナの全面戦争が開始して1年以上が経過し、連日ニュースでその模様が報道されていますが、そもそもロシアとウクライナがどういった経緯て戦争へ突入したのかといった本質的な部分を説明できる人は少ないと思います。

たとえば領土的野心を持つプーチンの独裁国家であるロシアが、突如ウクライナへ侵略戦争を仕掛けたという見方だけでは不充分ということです。

今回の戦争は2014年に起こったロシアによるクリミア半島の編入、及び同年に起きた東部のドネツク、ルハンブルク両州がロシアが支援する親露派勢力によって占領されたことから端を発しています。

つまりウクライナとロシアは約10年に渡って武力衝突を続けていることになりますが、両国の関係を深掘りしていゆくと9世紀にまで遡ることができ、今でもウクライナにはロシア語を理解できる国民が多く存在するほどです。

本書は毎日新聞社の特派員の経験があり、ロシア、ウクライナの情勢に精通している真野森作氏がウクライナを現地取材した様子をまとめたルポです。

著者は両国の関係が悪化し、危機が高まりつつあるロシアの本格的な侵攻前からウクライナ入りし、一時的に国外退避したものの2ヶ月後に現地での取材を再開しました。

キーウ近郊の街でロシア軍が民間人へ対して虐殺を行ったとされるブチャを訪れての取材、また孤立したアゾフスタリ製鉄所に立て籠もりロシア軍と交戦を続けたことで有名になったマリウポリからの避難民を取材したりと、精力的な取材活動を行ったことが本書から伺えます。

ロシアの侵攻が始まるまで大部分のウクライナ国民が平和な暮らしを続け、危機が高まっている中でも首都キーウの住民たちは中心街の繁華街で陽気にワインを飲み交わしたり、ベンチで語り合うカップルがいたりして、その風景は日本のそれと大差はありませんでした。

しかしロシア軍の侵攻以降、多くのウクライナ国民が家族や財産を失い、戦争という現実に向き合うことになります。

ウクライナ国民の8割以上がロシアの侵攻へ対する抵抗を支持し、それはそのままゼレンスキー大統領の支持に直結しています。

一方で政治的な関心がなく、とにかく戦争から逃れることを望む人々、中にはロシアを支持する人々も一定数いることも事実です。

ある日突然、北海道や九州などに隣国の軍隊が突然攻め込んできて、首都である東京にもミサイルが飛来してくるような状況を、我々日本人が具体的なイメージとして捉えられることは難しいと思います。

しかし本書を通じてウクライナ国民のインタビューを読むことで、ある日突然、平和な日常生活に終わりが訪れるという状況を知ることができます。

本書は今年の1月に出版されていますが、その後も最近ではワグネル代表のプリゴジンの反乱そして撤回といったニュースが流れているように、情勢は刻一刻と変わっています。

ネットの普及とともに芸能ニュースなどでマスコミが叩かれる場面も多くなってきましたが、危険な戦場となった現地からニュースを発信し続けているのもまたマスコミです。

知らぬが仏」という日本のことわざがありますが、確かにウクライナで起きている戦争は悲惨な出来事であり、それを知ることで心の平静が失われることもあるでしょう。

一方で、ソクラテスは「唯一の善は知識であり、唯一の悪は無知である」と言っているように、遠い異国の地で行われている戦争の現状を知り、それを自分なりにどう考え今後の人生に活かしてゆくのかはとても大切なことのように思えるのです。

ひきこもりの真実



"ひきこもり"が社会問題になって久しいですが、その実体を知っている人は少ないのではないでしょうか。

例えばテレビなどに取り上げられる典型的なパターンとして、若い男性が部屋に引きこもり外へ一歩も出ないでゲームばかりしているイメージがあります。

しかしそれはステレオタイプのひきこもりイメージであり、中高年の引きこもり(ひきもりの高齢化)が多く、調査によっては女性のひきもり率の方が多いというデータも出ているのです。

さらに”ひきこもり=部屋に閉じこもっている"という定義ではなく、9割の人は趣味の用事やコンビニなどには出かけるといいます。

ひきもりの定義とは、生きづらさを抱え、生きる希望を見いだせず、1日1日をやっと過ごしていると「自認」している人であり、現実には家事手伝い、主婦といった人たちがひきもりであることも珍しくありません。

つまりひきもりの原因は多様であり、それぞれ固有の複雑な事情が絡み合っているのです。

著者の林恭子氏は、高校2年生で不登校になり、それから30代になるまで断続的にひきこもった経験があり、現在は一般社団法人ひきこもりUX会議の代表を務めています。

本書では著者自身のひきもりの経験を細かく紹介していますが、転勤を繰り返す家庭事情の中で教師や親との間に距離が開き、ひどい肩こりと頭痛という身体的症状が出たのがひきもりの始まりだったようです。

継続的な治療を受けながらも結局は高校や大学を中退し、アルバイトをしていた時期もありましたが、それも辞めざるを得ない状態となったり、改善や悪化を繰り返しながら20年もの長い間に渡って苦しんできたことがよく分かります。

また自身の妹へ対しても著者自身がインタビューという形式で、ひきもりの当事者を持つ家族からの目線を紹介する部分もひきもりを理解する手助けになります。

さらにひきこもり当事者にとって家族にどのようにしてほしいのかといった点にも触れています。

とりわけひきこもり当事者の親であれば、叱咤激励や説得などさまざまな手を使ってひきこもりから救い出そうとするはずです。

しかし"ひきこもり"とは本人にとって命を守るための避難行為であり、良かれと思った周りの人の言動が、彼らを無理やりシェルターから追い出すような結果になる危険性があるのです。

著者はひきこもり状態を「ガソリンの入っていない車のようなもの」と例えていますが、当事者にとってネガティブな出来事や声掛けがあると、せっかく溜まったエネルギーが一気にゼロになってしまうと言います。

本書はひきこもり当事者、そして当事者の家族をはじめとした周囲の人両方に有益であるばかりでなく、ひきもりと関わっていない人にとっても当事者たちの理解を深める手助けになってくれます。

少なくとも本書を読むことで、ひきこもり当事者たちを安易に「怠け者」、「甘えている」と批判することが、いかに無知で心ない言葉なのかを知ることができます。

YOUR TIME



4063の科学データで導き出した、あなたの人生を変える最後の時間術
これが副タイトルです。

つまりすこし大きめの書店へ行けば必ず何種類かは置いてある、仕事の効率を高めるためのタイムマネジメントの本です。

現在はインターネットの普及と技術の向上により、膨大な量の情報へ手軽にアクセスできるようになりました。

一方で我々の生活を効率的にして豊かにしてくれるはずのテクノロジーの進化は、私たちに余暇をもたらすどころか、ますます時間の流れを早く感じさせ、以前よりもより忙しくなっているような気さえします。

私もその1人であり、仕事では時間を無駄にせず合理的かつ効率的にタスクをこなすよう意識しながらToDoリストなどを駆使しています。

そしてより良い方法があるかも知れないと思い、わずかな望みを抱きながら一番目立つ場所にあった本書を手に取ったのです。

しかし本書では冒頭で時間術(タイムマネジメント)に関する3つの真実を提示しています。

  • 真実1 時間術を駆使しても仕事のパフォーマンスはさほど上がらない
  • 真実2 時間の効率を意識するほど作業の効率は下がってしまう
  • 真実3 時間をマネジメントするという発想の根本に無理がある

私自身は自分の使っているタイムマネジメントの方法で効果が出ていると実感していたため、そんな馬鹿なとは思いましたが、多くの科学実験の統計により明らかになっている事実であるということです。

そして本書では、その理由を人間の脳の仕組みや実験データから明らかにしています。

つまり万人に効果のある時間術はこの世には存在しなということを前提に、以下2つの要素から個人差に合った時間術を適用することを提唱しています。

  • 未来=いまの状態の次に起きる確率が高い変化を、脳が「予期」したもの
  • 過去=いまの状態の前に発生した確率が高い変化を、脳が「想起」したもの

こう書くと少し分かりにくいですが、要は個人によって未来と過去の解釈の程度には違い(ズレ)があるため、その傾向によって最適な時間術を選択するためのフレームワークを提唱しています。

さらには本書の後半では、「効率化から解き放たれる」、「退屈を追い求める」といった時間術とは一見矛盾するような内容を紹介しています。

つまり時間術を駆使すればするほど新たなタスクが発生し、それによって常に時間に追われる焦燥感を抱き、結果的に人生にとって大切なものを失いかねないと警告しているのです。

結論を言えば本書は「○○○という方法を使えば、仕事の効率が2倍になる」といった類の本ではありません。

一方で時間に対する現代人の捉え方とその問題点を指摘する部分は示唆に富み、効率を求め過ぎるがゆえに陥りやすいワナに気づかせてくれる1冊なのです。

真田三代 下



昌幸は真田家が武田家に従属する証しとして信玄の元へ人質として送られましたが、その子である幸村は最初は織田家の滝川一益の元へ、のちに上杉景勝の元へ人質として送られて青年時代を過ごします。

それは強大な大名に囲まれた弱小勢力である真田家が生き残るために必要な手段でもありました。

昌幸は状況に応じて武田・北条・織田・徳川・上杉・豊臣という実に6人もの大名に仕えることになりますが、それは彼の幼少期からの体験から身に付けた知恵がそうさせたのです。

次々と主君を変える昌幸は当時から油断のならない人物として評価されていたようですが、個人的にはむしろ小気味よい印象さえ受けます。

これを現代に当てはめると、より良い条件の会社へ次々と転職を繰り返すようなものです。

そして昌幸が次々と主君を変えることができたのも、それだけの能力が彼に備わっていたからに他なりません。

しかし最終的には関ヶ原の戦いで西軍(豊臣家)に味方し、上田城に迫る3万8千の徳川秀忠率いる東軍をわずか3千の軍勢で守り切りますが、結果的に次男・幸村とともに高野山の麓にある九度山へ流刑となります。

やがて昌幸は流刑の地で失意のうちに病没することなります。

昌幸の意志を継ぐ形となった幸村ですが、彼には祖父の幸隆や父・昌幸とは違い、守るべき領土も仕えるべき主君さえ持っていませんでした。

ちなみに実質的な真田家の当主は、関ヶ原の戦いの際に昌幸・幸村らと袂を分かち家康に仕えていた幸村の兄・信幸でした。

しかし幸村には、祖父や父、そして兄とは違った別の野心を持っていました。

それは表現欲とも言えるもので、物欲とは違い、芸術家が持つような表現へ対する情熱とも言えるものでした。

そしてその結晶となるのが大阪城から不自然なほどに突出した真田丸であり、そこで自らが積極的に徳川の大軍を引き受けることで、己の持つ能力を試すという手段を取ります。

そこで彼が表現したかったものは、祖父や父から受け継いだ知恵(智謀)であり、それは弱小勢力として戦国時代を生き抜かざるを得なかった真田家の集大成といえるものでした。

これを現代に例えれば大企業のような資本力は持たないが、ニッチな分野で最先端の技術を持つベンチャー企業であり、幸村の生き様はこれからチャレンジしようとする若者たちへ今も共感を与える続ける存在なのではないかと思ったりしました。

真田三代 上



戦国時代を生きた真田幸隆・昌幸・幸村を中心とした真田一族を取り上げた火坂雅志氏による長編歴史小説です。

昌幸・幸村父子を取り上げた小説は数多くありますが、個人的に興味を持ったのは真田幸隆を最初の主人公として取り上げている点です。

幸隆は長男の信綱とともに武田二十四将に数えられる武将ですが、もともと真田家は信濃国東部の小県郡(ちいさがたぐん)を地盤とした豪族であり、甲斐を本拠地とする武田家譜代の家臣ではありませんでした。

つまり真田家は武田家に仕えながらも、独立心旺盛な気風がありました。

真田家は山間の弱小勢力でしたが、戦国時代は下剋上に代表される勢力の小さな者が大きな者に取って代わる時代でもありました。

しかし真田家の周辺を取り囲むのは武田・上杉・北条といった戦国時代を代表する大名たちであり、この状況下において自力だけで勢力を伸ばすのは難しいと判断して武田家の勢力下に入ったのです。

幸隆は武田信玄より10歳近く年上ですが、若い頃に合戦に負けてすべての所領を失った経験を持っています。

彼の人生は1つの城を奪うために数々の策謀を巡らし、わずかな土地を巡って命懸けの戦いを繰り広げる日々であり、まさに戦国武将そのものです。

結果として幸隆は武田家の家臣として活躍して旧領を取り戻し、さらに真田家の勢力を伸ばすことに成功します。

一方で武田家に仕える弱小勢力の悲しさで、武田家に忠誠の証しを示すために人質を差し出す必要がありました。

そしてその人質となり、同時に信玄の近習として仕えたのが幸隆の三男である昌幸です。

彼はいわば真田家の家督を継ぐ必要のない立場であったため人質として選ばれましたが、戦国時代は昨日の勝者が今日の敗者となる目まぐるしい時代でした。

信玄と幸隆が相次いで病死し、やがて信玄の後を継いだ勝頼が長篠の戦いに敗れ、その戦いで真田家の家督を継いだ長男の信綱、さらに次男の昌輝までもが戦死してしまいます。

思いがけず真田家の当主となった昌幸ですが、彼は戦国最強と謳われた武田家の滅亡を間近に見てきたこともあり、その生涯において武田・北条・織田・徳川・上杉・豊臣と目まぐるしく主君を変えることになります。

それゆえ昌幸は秀吉に表裏比興の者(油断のならない者)と評されるまでになりますが、決して優柔不断ないわゆる日和見な人物ではありませんでした。

その証拠に一次・二次上田合戦において遥かに数に勝る徳川軍を2度にわたり撃破し、底知れぬ智謀を持った武将としての確固たる評価を得ることになります。

真田家の地盤を築き上げた幸隆、その地盤を活かして戦国の荒波を泳いでゆく昌幸の生き様は小さき者の誇りと意地であり、それは昌幸の次男である幸村にも受け継がれてゆくことになります。

忙しすぎるリーダーの9割が知らない チームを動かす すごい仕組み



会社員を続けていれば早かれ遅かれマネージャーや課長といった肩書が付き、部下を持つ人も多いと思います。

部下を持つということは当然のように自身のタスクだけでなく、部下たちの面倒を見ながら成果を出すことが求められます。

最近では給料が上がったとしても仕事量や責任がそれに見合わないことから、出世をしたがらない人も多いと聞きます。

本書はそんな部下を持ちチームを率いることになったリーダーたちへ向けた1冊です。
しかも本書のコンセプトは「頑張らなくても成果が出る仕組み」です。

著者の山本真司氏は若い頃に外資経営系コンサルティング会社で勤務し、そこで成果を出して出世してゆきます。

しかし部下を持つようになってからも
チームメンバーは、自分の力で勝手に立ち上がれば良い
という方針で、放し飼いのノーマネジメントですべてを自分でやろうとした結果、
「山本は、1人で働かせると史上最強の兵士。しかし、誰かと働かせると史上最凶の指揮官
と上司から評されるようになります。

要はうまくメンバーを使うことができなかった訳ですが、こうした苦労をしているリーダーたちは多いように思えます。

本書は著者が尊敬する上司からのアドバイスや自らの経験を生かして紆余曲折しながら辿り着いたチームマネジメントの手法を解説しています。

しかも今やZ世代(1990年代後半から2010年代に生まれた世代)も社会に出ていることから、昭和や平成の価値観ではなく新しい時代に順応したスタイルが必要になってきます。

タイトルに"仕組み"とあるように、部品を組み合わせて動かしていくことで、その場その場で考えたりしなくても、ストレスなく自然に、自動的に仕事が回るようになると著者は言います。

本書で紹介されている仕組みは以下の3つに分類されています。

  • 時間をかけずに結果を出す「チームを引っ張る9つの仕組み」
  • 頑張らずに組織が回る「メンバーが自ら動き出す17の仕組み」
  • ぶれないマインドを生み出す「8つの行動原則」

そもそもチームに所属して仕事をする醍醐味は、自分1人の力では成し遂げられない大きな仕事を成功させることであり、その成果と喜びをチーム全員で分かち合うことにあります。

それに加えてリーダーの醍醐味は、その過程でチームメンバーの成長を感じる時ではないでしょうか。

本書で紹介されている仕組みは、難しい理論や専門用語が使われていないという点で誰にでも理解できる内容で書かれています。

一方で本書に記載されている実例は、いずれも著者のコンサルティングという業務を基本にしているため、仕事の内容やチーム規模によって内容をカスタマイズする必要も出てくると思います。

著者は1960年代生まれですが、現在は大学の専任教授として経営戦略を教えていることもあり、過去の自分の経験だけでなく、今の時代を研究して内容をアップデートしている点に好感が持てます。

何と言っても本の素晴らしいところは、高額で足を運ばなければいけないセミナーとは違って手軽に読めるという点ですから、リーダーとして何らかの悩みを持っている人であればとりあえず目を通してみてはいかがでしょうか。

遠い日の戦争



以前、吉村昭氏の「逃亡」をレビューしましたが、この作品では戦時中に不本意ながら軍律を犯して逃亡する青年が主人公でした。

本作品の主人公は、日本が連合国軍に無条件降伏をしたのちにGHQや警察から戦犯として罪に問われることを避けるために逃亡を続けた元軍人です。

主人公・清原琢也はかつて米兵捕虜を自らの手で処刑した経験を持ちます。

主人公が処刑した米兵は都市(福岡)へ無差別爆撃を行ったB29の乗組員であり、兵士ばかりでなく多くの市民を殺した敵兵であることから、当時は軍人だけでなく多くの民間人の感情として捕虜となった米兵は殺しても飽き足らないという気分がまん延していたのです。

ところが日本が敗戦国となった瞬間から、捕虜虐待を行った日本兵は戦争犯罪者として裁かれることになったのです。

しかも今度は日本人全体の感情が悲惨な戦争を引き起こした犯罪者は当然裁かれるべきだという真逆の方向へ傾き、主人公は身を隠して追及の手を逃れることを決意します。

極東裁判のために巣鴨プリズンに収容されたかつての司令官や将軍たちの中には、互いに罪をなすりつけあったり、捕虜の処刑をする命令を下した記憶はなく、部下が勝手にやったことだと供述したりと、かつての帝国軍人の威厳が微塵も残っていないような、刑務所の中でひたすら死刑を恐れて怯えるばかりの老人となった人物も多くいました。

若かった主人公は負けたとはいえ敵国の捕虜のようになり一方的に裁かれてたまるかという、半ば元日本帝国軍人の意地としてから逃亡を始めますが、やがてその心境にも変化が起こってきます。

それは警察に察知されぬよう故郷の家族と連絡を絶って偽名を使って逃亡生活を続けるうちに、すれ違う人がどれも自分を捕まえるために来た警察官だと思えるようになり、元軍人としてのプライドが消え失せてしまい、ひたすら怯えながら日々を過ごすようになるのです。

迫りくる国家権力や世間からの圧力を避けながらの生活は、ゆっくりと時間をかけて人間の精神を蝕んてゆくのです。

果たして主人公は追求の手を逃れられるのか、そしてどのような結末を迎えるのか?

善悪の基準は時代によって簡単に変わってしまうという事実、それに伴い周囲の自分に対する視線も態度も変わってしまうという不条理さ、そして逃亡を続ける人間の孤独感と緊張感が伝わってくる作品であり、戦争犯罪という言葉についても考えさせられる1冊です。

日本のいちばん長い夏



著者の半藤一利氏には「日本のいちばん長い日」という、終戦(1945年8月15日)の前後を描いたノンフィクション作品があり、2度の映画化、マンガ作品も出版されていることから分かる通り、名著として知られています。

本書は「日本のいちばん長い日」の別冊のような位置付けであり、作品の目玉は分量の3分の2を占める昭和38年6月20日に料亭「なだ万」で行われた座談会の収録です。

座談会には30人もの大人数が参加していますが、一斉に発言すると収集がつかなくなるため、会食しながら著者が司会進行を務める形で開催されたようです。

座談会に参加したメンバー以下の通りです。
カッコ内は終戦当時の肩書や終戦を迎えた場所などです。

  • 迫水 久常(内閣書記長官 ※現在の官房長官)
  • 吉竹 信(朝日新聞記者)
  • 有馬 頼義(作家)
  • 篠田 英之助(海軍兵学校生徒)
  • 富岡 定俊(奮励部作戦部長 少将)
  • 松本 俊一(外務次官)
  • 今村 均(陸軍大将)
  • 佐藤 尚武(駐ソ連大使)
  • 荒尾 興功(陸軍省課長)
  • 酒巻 和男(海軍少尉 アメリカで捕虜)
  • ルイス・ブッシュ(イギリス軍人 大森の収容所)
  • 大岡 昇平(レイテ島で捕虜)
  • 鈴木 一(鈴木貫太郎の秘書官)
  • 館野 守男(日米開戦を伝えたアナウンサー)
  • 池田 純久(関東軍参謀副長)
  • 江上 波夫(考古学者)
  • 扇谷 正造(陸軍一等兵・在中支)
  • 岡部 冬彦(新兵・セブ島)
  • 岡本 季正(外交官・スウェーデン公使)
  • 徳川 夢声(作家)
  • 南部 伸清(海軍少佐 潜水艦艦長)
  • 入江 相政(天皇侍從)
  • 吉田 茂(待命大使)
  • 町村 金五(警視総監)
  • 会田 雄次(一等兵 ビルマで捕虜)
  • 池部 良(少尉 ハルマヘラ島)
  • 上山 春平(人間魚雷・回天生き残り)
  • 村上 兵衛(陸軍士官学校教官)
  • 楠 政子(白梅隊 沖縄)
  • 志賀 義雄(共産党員として獄中)

陸軍大将から天皇側近、特攻隊員や異国の地へ送られた一兵卒、さらに市井の人や収容所にいた人など、よくこれだけ多彩で豪華なメンバーを集めることができたなというのが感想です。

それぞれの立場から戦争そして敗戦をどのように感じたのか、当然のように違った視点が見えてきます。

戦中であれば決して交わらなかったであろう人たちが、終戦から15年以上を経て一同に会して当時を振り返るという貴重な場面を文章を通じて知ることができるのは、読書の醍醐味であるといえます。

新徴組



著者の佐藤賢一氏はヨーロッパを舞台にした歴史小説を得意とする作家として知られていますが、本作品は日本の幕末を舞台とした歴史小説です。

文久3年(1863年)、将軍家茂警護を目的として清河八郎に率いられた浪士組が上京します。

しかし上京早々に清川が浪士組の結成目的が将軍警護ではなく、実は尊皇攘夷であることを宣言すると浪士組は分裂し、芹沢鴨や近藤勇を中心としたメンバーが清川から離反して京都に残り、のちの新選組となります。

そしてもう1つの集団が清川と一緒に江戸へ引き返し、のちの新徴組となるのです。

間もなく清川が暗殺されて新選組は会津藩預りとなり京都の治安維持の任務につき、新徴組は庄内藩預かりとなって江戸の治安維持にあたるため、この2つの組織は兄弟関係にあるといえます。

著者の佐藤氏は山形県鶴岡市の出身であり、まさに庄内藩にゆかりのある題材として本作品を手掛けたことが分かります。

また著者はフランス革命を描いた長編小説を発表していますが、明治維新は日本にとってのフランス革命に位置付けることもできます。

本作品には2人の主人公が登場します。

1人は庄内藩家老の酒井玄蕃であり、新徴組を実質的に率いてのちの戊辰戦争で新政府軍相手に連戦連勝したことから「鬼玄蕃」と恐れられた人物です。

もう1人は沖田林太郎であり、一回り以上年齢が離れているものの新選組で有名な沖田総司の義兄にあたる人物です。

また当然のように剣術も天然理心流を学んでおり、近藤や土方にとって林太郎は兄弟子になります。

本作品はおもにこの林太郎の視点から進行してゆきますが、その性格がかなりユニークに描かれています。

彼には近藤のように時勢を語るでもなく、土方のように目的のためなら手段を選ばない尖った一面もありません。

新徴組に参加した時点で40歳近い年齢だったこともあり、醒めた目線で時代の流れや自分自身を見ており、自分の将来の出世よりも義弟にあたる総司や息子の芳次郎といった身内の心配ばかりしている人物です。

ただし年下であるものの上司にあたる酒井玄蕃のことは信頼というより、心酔しているといってもいいかもしれません。

それでも彼らは時代の流れの中で薩長を中心とした新政府軍と戦うことになり、戦乱に巻き込まれてゆくのです。

新徴組という偶然生まれたような組織が大きな時代のうねりの中でどのような顛末を迎えることになるのか、文庫本で700ページ近い作品を通じてたっぷりと楽しませてくれます。

世界ケンカ旅



極真空手の創始者・大山倍達が、空手こそが最強であることを証明するべく世界中を飛び回り各国の強敵たちと真剣勝負を繰り広げた自伝です。

私にとって大山倍達といえばマンガ「空手バカ一代」であり、プロレスラーやボクサーなどと勝負を繰り広げる場面はもっとも印象に残っています。

私とは世代は違いますが、空手バカ一代に影響を受けて習い始めた人も多かったようです。

つい懐かしくなり、久しぶりに本棚にある「空手バカ一代」を引っ張り出して全巻読んでしまいました。

その後に本書を手に取ったわけですが、やはりマンガと自伝では大筋のストーリーは同じものの違っている点がありました。

まずマンガ「空手バカ一代」の主人公として描かれる大山倍達はとにかく宮本武蔵を尊敬し、純粋で禁欲的な修行者といったイメージで描かれています。

マンガではこの内容がノンフィクションであると解説されていますが、少年誌に連載されることを意識した原作者・梶原一騎の演出が多分に含まれています。

一方で自伝の中の大山倍達はもう少し世俗的です。

強さを求めるという点では一致しているものの、世界中で空手を効果的にプロモーションするための視覚効果としてビン切りやレンガ割などを工夫する姿が描かれています。

つまり大山は単純な空手バカではなく、のちに世界中に極真空手の支部を1000近く設立した実績から分かる通り、有能なプロデューサーであったことが分かります。

実際、世界中で強敵と対戦するのは空手の世界最強を証明する目的もありましたが、立派な道場を設立するための軍資金を得るという目的も同じくらい重要でした。

このあたりの一面はマンガでは殆ど描かれていなかった部分です。

そしてもう1つは大山倍達はかなりの女性好きだったということであり、世界各国の美女と恋に落ちるシーンが登場します。

日本に妻がいるにも関わらず行きずりの女性とニューヨークで同棲するなど、奥さんがこの自伝を読んだらどう思うのだろうかと勝手に心配してしまうほどです。

マンガでは女性の誘惑を振り切るために、武蔵とお通のようなプラトニックな関係が例に出されていましたが、実際はほぼ真逆であり、強敵との対決に勝利した副賞として美女をゲットするという衝撃的なシーンが登場したりします。

先ほど実際の大山倍達は世俗的だったと書きましたが、言い方を変えれば現実的であったといえます。

現実問題としてバックパッカーのように世界を放浪しながら各国の有名な格闘家と対戦要求をしてもまず相手にされませんし、空手を広めるために軍資金が必要なのも当然です。

異国の地での孤独を癒やすために異性に惹かれてしまうのも人間らしい一面であるといえ、少年の頃に読んでいたら幻滅してしまったであろう内容でも、大人になった今なら楽しく読めるのです。

ゾルゲ事件―尾崎秀実の理想と挫折



半年近く前に古本市で購入した本です。

ゾルゲ事件」といえば戦中に起きたコミンテルン(国際共産主義運動の指導組織)のスパイ組織が日本国内で摘発された事件として有名ですが、あまり詳しい内容を知らなかったため何となく購入しておいた1冊です。

首謀者であるリファルト・ゾルゲと共にスパイとして中心的な役割を果たした日本人が尾崎秀実(おざきはつみ)でした。

親子ほど年齢が離れていますが、著者の尾崎秀樹(おざきはつき)は事件によって摘発され処刑された秀実の弟にあたる人物です。

秀樹の本業は文芸評論家であり、事件当時は未成年であった著者は当然のようにゾルゲ事件に無関係でしたが、兄が深く関わったこの事件の真相を明らかにすることが彼のライフワークになっていたようです。

本書ではまず兄である尾崎秀実の経歴を辿ってゆき、どのようにマルキスト、共産主義者、社会主義者など色々な言い方がありますが、とにかく左翼の立場になったのかを紹介・分析しています。

続いてリファルト・ゾルゲについても同じように彼の経歴を紹介しています。

とにかくこの2人はさまざまな経歴を辿り、上海で運命的な出会いを果たすのです。

当時の中国は中国国民党中国共産党が協力や敵対を繰り返す内戦状態であり、そこへ大日本帝国が国民党の蒋介石へ宣戦布告を行い、日中戦争の火ぶたが切って落とされるという混沌とした状態でした。

もちろんこの2人は中国共産党を支援する活動をするのですが、やがて彼らの活躍の舞台は、日米開戦が噂される日本へと移ってゆくのです。

彼らの活動はテロといった過激なものではなくインテリジェンス活動だったようですが、著者によれば仲間の裏切りにより検挙されたと主張しています。

やがて獄中の様子、さらにはそこで書かれた書簡などから浮かび上がってくる尾崎の描いたユートピアについて触れてゆきます。

本書を読めばゾルゲ事件がどのような経過を辿って起きたのか、また事件関係者たち(諜報団)の人間関係、さらにはその中心にいたゾルゲや尾崎の目指す政治的思想が分かってきます。

当時は「国際諜報団事件」としてセンセーショナルに取り上げられた事件だったようですが、国体を揺るがしかねない共産主義を危険な思想とみなし、必要以上に神経質になっていた時代背景もあり、死刑という判決は重すぎるという印象を受けます。

そうした意味では、ゾルゲ事件の関係者は国家権力による行き過ぎた言論統制の犠牲者といえます。

それでも2人に共通するのは確固たる信念を持って行動したことであり、極刑という判決に際しても毅然とそれを受け入れたということです。

運動脳



本屋でこの「運動脳」を見かけたとき、タイトルから運動でパフォーマンスを発揮するための脳の使い方を解説した本だと思いました。

しかし実際はまったく違い、人間の持つ器官の中でもっとも複雑でそれゆえ科学的に解明されていない部分が多い、「」の可能性を引き出すためには「運動」がもっとも優れているという主旨の本です。

本書の目次は以下の通りです。
  • 第1章 現代人はほとんど原始人
  • 第2章 脳から「ストレス」を取り払う
  • 第3章 「集中力」を取り戻せ!
  • 第4章 うつ・モチベーションの科学
  • 第5章 「記憶力」を極限まで高める
  • 第6章 頭のなかから「アイデア」を取り出す
  • 第7章 「学力」を伸ばす
  • 第8章 健康脳
  • 第9章 最も動く祖先が生き残った
  • 第10章 運動能マニュアル

運動をするこでストレスに強くなり、うつ病を改善し、集中力や記憶力、さらには創造力を高め、認知症や老化を防ぐといった驚くべき内容になっています。

運動といってもアスリートのような激しいメニューではなく、30分の軽いランニングやウォーキングといった内容です。
(むしろトライアスロンにような苛酷な運動はマイナス面のほうが多い)

本書に書かれていることが事実であれば、睡眠薬、抗うつ薬、抗認知症薬などの医療品、さらには脳トレなどの商材なども不要になってしまいます。

著者はそれを「まさにその通り」であると断言し、世界中にこの考えが広まらない理由は「お金」の問題だとしています。

たとえば新薬の開発には莫大な費用がかかり、その他の商材でも同様に宣伝やマーケティングへ多くのコストが投下されています。

コストがまったくかからない運動、たとえば「うつ病には薬よりも運動が効果的」といったような企業へ利益をもたらさない宣伝へコストを投下する企業は現れません。

つまり本書に書かれていることは多くの企業にとって「不都合な真実」なのです。

そこで読者が興味を持つのは、「なぜ運動が脳に良いのか?」、「どのくらい効果があるのか?」といった点だと思いますが、本書ではほぼ全編に渡って世界中で行われたさまざまな実験データと共に、その根拠と仕組みが解説されいます。

一般的に運動が健康によいと思っている人が大多数だと思います。

一方で運動がもたらす恩恵はダイエットだけでなく、お金では買えないほど貴重なものであることを本書は示唆しており、運動不足を実感している人がいればまずは本書を手にとってみてモチベーションを高めてみてはいかがでしょうか。

江戸五人男



子母澤寛が昭和12年に講談社の雑誌「キング」に連載した時代小説です。

普段は歴史小説は読んでも時代小説はあまり読みませんが、子母澤寛の作品が好きなので手に取ってみました。

タイトルの五人男として登場するのは次の5人です。

  • 500石の旗本(いわゆる直参)の此村大吉
  • 小間物屋とは仮の姿で正体は名だたる盗賊・天竺小僧として知られている半次郎
  • 釣り鐘盗っ人としてこれまた有名な鼠山の吉五郎
  • 盗っ人から鬼より怖いと噂される岡っ引・駒形の弥三郎
  • 元旗本で今は由緒ある本勝寺の住職であり怪力の宗円

さらにここに常磐津の師匠で此村の恋人である文字栄、馬喰町・伊豆屋の娘お雛、敵役などが加わり登場人物は多彩です。

どれも一癖あるキャラクターですが、本作品のように盗賊が活躍する作品を歌舞伎や講談では"白浪物(しらなみもの)"と呼んだようです。

ストーリーのテンポは良く、次から次へと場面が切り替わる描写は読者を夢中にさせ、一気に最後まで読ませてしまうような魅力があります。

物語が膨らみすぎて回収されない伏線も多少ありますが、こうした作品に必要なのは勢いとテンポであり、個人的にはあまり気になりませんでした。

本作品を読んでいると講談を聴いてるような気分になり、子母澤寛がかなりの講談好きだったのではないかと推測してしまいます。

子母澤寛の祖父は御家人であり、幕末には彰義隊にも加わった経験があったといいます。

作者はこの祖父からの影響を強く受けているためか、今の作家には表現できない江戸時代の雰囲気を作品中に漂わせる力があるような気がします。

時代小説好きであれば古典的な作品として一度は読んでみることをおすすめします。

楼蘭王国



スウェーデンの地理学者であり、探検家でもあるヘディンの執筆した中央アジアの紀行文「さまよえる湖」を読んだ時に、荒野に打ち捨てられた都市・楼蘭(ろうらん)を発見し、さらにその近郊で状態のよい女性ミイラ(通称:楼蘭の美女)を発掘したという記述が印象に残っていました。

ヘディンにとって1番の探検目的は、かつて存在し幻と言われた湖「ロプ・ノール」を発見することであり、言わば楼蘭の発掘は副次的なものでした。

しかしかつて湖畔に存在し、広大なユーラシア大陸の東西を結ぶオアシスの道の要衝として栄えた古代都市・楼蘭には歴史的ロマンがあり、タイトルを見ただけで思わず手にとってしまったのが本書です。

ヘディンが発見し言及したのは"都市としての楼蘭"ですが、本書ではタイトルから分かる通り、首都を含め周辺に点在する諸都市を支配下に置いて繁栄を誇った"国家としての楼蘭"を対象にしています。

前半では「史記」や「大宛列伝」など、歴史書の中に現れる楼蘭の記述から、王国が辿った歴史的な遍歴を考察しています。

当時、モンゴル高原から中央アジア、中東にかけては匈奴、烏孫、月氏といった大きな勢力が存在し、さらに中国では秦を倒したが積極的に西方へ進出してきたこともあって、複雑な力関係の中で楼蘭が存在してきたことが分かります。

後半では前述したヘディン、さらに彼のライバルであったイギリスの著名な探検家スタインの足跡を辿りながら、考古学的な観点から楼蘭を含めたロプ・ノール周辺の発掘により明らかになった事実を紹介しています。

終盤では先ほど登場した2人の探検家の功績から100年近くが経過し、最新の研究結果によって判明してきた楼蘭について紹介しています。

楼蘭王国の版図だった遺跡から見つかった文書は大部分がガンダーラ語で書かれており、かつてインド北西地方で使用されていた言語がこの地方の公用語であったことが分かります。

著者の赤松明彦氏はインド文学、哲学の専門家(教授)であり、ガンダーラ語つながりが本書を執筆するきっかけになったようです。

どちらかと言えば専門的な内容で書かれた新書であり、少しとっつきにくい部分があると思いますが、シルクロード、中国やオリエンタルの歴史に興味のある人に是非手にとってほしい1冊です。

ユーモアは最強の武器である



「仕事は真剣勝負の場であって笑い声は慎むべきである」といった考えは遠い過去のものとなりつつあります。

私語がまったく聞こえず全員が気難しい顔をして仕事をしている職場は、ストレスで溢れているようであり、そうした重苦しい雰囲気の会社では働きたくないと思ってしまいます。

もちろん真剣に仕事に取り組む姿勢は大切です。
著者の1人は周囲から「仕事人間」と思われていましたが、あるきっかけでユーモアの持つ可能性に気づき、専門的な研究を始めたことが本書の生まれるきかっけとなりました。

つまり本書はユーモアが人びとのモチベーションや意思決定、心身の健康にどのように影響するか、さらに有意義な影響をもたらすためにユーモアをどのように活躍できるかといったテーマで執筆されており、スタンフォード大学ビジネススクールでこうした授業が創設されるに至ります。

本書の目次は以下の通りです。
  • 第1章 ユーモアの4つのタイプ
  • 第2章 ユーモアの脳科学
  • 第3章 プロのコメディアンのテクニック
  • 第4章 ユーモアを仕事に活かす
  • 第5章 ユーモアとリーダーシップ
  • 第6章 職場で陽気な文化をつくる
  • 第7章 ユーモアのグレーゾーンを切り抜ける
  • 第7.5章 ユーモアは人生の秘密兵器

重大な意思決定を下したり、難しい交渉を迎えた会議室での重苦しい空気、トラブルが発生し深刻な雰囲気が流れる現場など、これらに共通するのはそこにいる人間たちが緊張し、心の余裕がまったくない状態です。

しかしユーモアはそうした雰囲気を一変させたり、相手と打ち解け信頼感が生まれたり、時には創造力を高める力を持っていることが研究によって明らかになっています。

ときには職場にユーモア(笑い)が必要という意見には殆どの人が同意すると思いますが、本書ではそれを積極的に取り入れることを推奨しています。

一方で場違いで相手に嫌な思いをさせるユーモアは和らげようとした雰囲気をより一層悪くしたり、おやじギャグで場を白けさせてしまう危険性があります。


目次から分かる通り、本書ではプロのコメディアンを参考にしたり、グレーゾーンの見分け方にも言及しており、適切なユーモアを取り入れるための参考となります。

そういえば日本の政治家の失言には配慮のない不適切なユーモアに関連するものが多く、本書を活用すべきかも知れません。

本書の主題は先ほど説明した通りユーモアをビジネスで活用する方法ですが、ユーモアの持つ真の効能はビジネスに留まらず、人生そのものを幸福にするほどのパワーを秘めているのです。

世界的に日本人は勤勉という評価を受けていますが、それを裏返すと日本人はユーモアが下手、もしくは通じないという印象が潜んでいるような気がします。

人生を楽しく過ごすためにもユーモアや冗談を言える余裕くらいはいつも持っておきたいものです。

蒼き狼



東アジアの北にある広大な草原地帯(現代のモンゴル高原)には、古代より多くの遊牧民族が暮らしてきました。

時に遊牧民の中から強力な民族が台頭することがありましたが、基本的には広大な草原に点在する形で無数の民族が遊牧をしている状況でした。

しかしこの草原を統一するや否や中国(金)へ攻め入り、中央アジアから中東、東ヨーロッパにまで攻め入り、かつてない広大な版図を持つ帝国を築き上げたのが本書の主人公チンギス・カンです。

そのためチンギス・カンといえばアジアだけに留まらない世界的な英雄ですが、彼の生涯を(たとえば信長や家康のように)知っている人は少ないのではないでしょうか。

もっとも自分たちの歴史を文字で書き残す習慣を持たなかった遊牧民ということもあり、チンギス・カンの一代記として伝わっているのは彼の死後に編纂された「元朝秘史」くらいしか残されていません。

しかし前述したように世界的な英雄であるチンギス・カンを研究した人は東西を問わず存在し、これらの記録を併せて参考にして書き上げられたのが本書「蒼き狼」です。

彼の生まれた部族には次のような伝承がありました。
上天より命(みこと)ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる惨白き牝鹿ありき。大いなる湖を渡りて来ぬ。オノン河の源なるブルカン獄に営盤(いえい)して生まれたるバタチカンありき。

チンギス・カンは自らを蒼き狼の末裔だと信じ続け、草原を疾駆してその支配者たるべく奮闘するのです。

しかしその道のりは困難を極めるものであり、有力者であった父の死後に一族のがことごとく離反し、家族だけで外敵からの驚異にさらされながら暮らす日々が何年も続いたこともありました。

本作品の特徴は、チンギス・カンの一生が井上靖の叙事詩のような格調高い文章で一貫して執筆されていることであり、歴史小説というより壮大な英雄譚を読んでいるような気がしてきます。

まだ見ぬ敵を求めて地平線のさらなる先へと進み続けるチンギス・カンと彼と苦楽を共にしてきた武将たち、そして次世代の蒼き狼たる息子たちの姿が浮かぶようであり、かつて世界中を席巻した最強の騎馬民族の見果てぬロマンを感じさせる名作です。

発酵―ミクロの巨人たちの神秘



農学博士である小泉武夫氏による発酵学入門の1冊です。

発酵といえば食品やお酒がすぐに思い浮かびますが、日本食にとっても発酵は絶対に欠かすことのできない要素です。

それは納豆や漬物といった定番の食品以前に、醤油や味噌といった発酵食品がなければ和食という分野自体が成り立たないからです。

世界的に見ても地域や民族ごとにさまざまな発酵食品が存在し、発酵が世界中の食文化を支えているといっても過言ではありません。

しかし本書で紹介されている"発酵"は食品の分野だけにとどまりません。

発酵が重要な役割を果たすのは、化学工業への原料供給、抗生物質やビタミン・ホルモン剤、消化酵素剤といった医薬品、自然界での環境浄化といった生活のあらゆる分野に及んでいます。

発酵によってある物質が人間にとって有用なまったく別の物質へと変わるという現象は、"神秘的"、"奇跡"、"魔法"といった言葉がお袈裟でないほど驚異的です。

そして発酵は、カビ、酵母、細菌によって行われます。
これらはいずれも顕微鏡でなければ観察できないミクロの世界の住人ですが、人類は太古の昔よりこの目に見えない微生物たちの効用を知って活用してきた歴史があります。

そして発酵の研究は今なお盛んであり、次々と新しい発見が続いています。

今まで発酵食品やお酒に関係あるといった程度で認識していた発酵の仕組みを知ることで、その世界の奥深さと重要性を知ることができます。

例えば発酵が無ければ食品のみならず、病気になったときの薬も入手できず、家庭や工場からの排水は浄化できないまま川や海の環境汚染を引き起こし、さらには洗剤など多くの化学製品の供給にも影響を及ぼします。

本書では近代に入ってからの発酵を利用したテクノロジーの解説のみならず、食をはじめとした日本文化における発酵を活用した歴史などにも詳しく言及されており、まさに発酵ずくしの1冊です。

本書は1989にはじめて発表されていますが、専門的な内容でありながらも今なお一般読者に読み続けられている発酵の啓蒙書なのです。

沢彦 (下)



美濃を統一して上洛を果たし、さらには浅井朝倉連合軍を姉川の戦いで打ち破り、上洛を目指した武田信玄が病没するなど危機を脱した信長ですが、その頃から信長の少年時代からの学問の師であり、参謀役でもあった沢彦との間に溝が出来るようになります。

それは比叡山の焼き討ち、長島や越前における一向一揆での老若男女を含めた信徒たちの虐殺(根絶やし)など、信長の統治者としての苛酷な手腕が目立ち始めたからです。

しかもそれは敵対する勢力だけでなく自らの家臣へも向けられました。

たとえば歴代の重臣であろうと、直近の成績が振るわなければ佐久間信盛父子のように容赦なく放逐され、残った家臣たちは休む暇なく必死に転戦を続け実績を出し続けるために必死だったのです。

民の命のいたわらず家臣を大切に扱わない信長を見て、沢彦は諫言しますが信長はまったく聞き入れようとせず、逆に彼を遠ざけてしまいます。

信長は古い権威や伝統的な風習にこだわらず、新しい時代を切り開いてゆく手腕にかけては天才的でしたが、彼の欠点といえるのが戦国時代であることを考慮しても冷酷過ぎるとう部分でした。

単純に言えば、信長はほかの戦国大名と比べて人の命を奪い過ぎていたのです。

そして信長に仕える家臣たちも信長へ対して尊敬よりも恐怖と緊張を抱いていたに違いありません。

そう考えると信長の最期は偶然ではなく、必然であったように思えます。

ストーリーの前半は、家督を継いだ後の不安定な立場にある信長と二人三脚で天下統一という大きな共通の夢へ向かってゆくという内容でしたが、それが現実として形になりつつなると信長は暴走を始め、沢彦の手を離れてゆくのです。

それからの沢彦は不幸にもかつて2人で抱いた夢を終わらせるために奔走するという悲しい展開となります。

壮大な歴史小説でありながらも、一組の師弟の生涯が描かれた作品であるとも言え、数多くの信長を描いた作品の中にあって独特のアプローチによって読者を楽しませてくれるエンターテイメントな作品に仕上がっています。

沢彦 (上)



織田家の重臣であり信長の傅役でもあった平手政秀からの依頼により、信長の教育係となったのが本作品の主人公である沢彦(たくげん)です。

彼は妙心寺で「菅秀才(菅原道真)の再来」と言われるほどの学識を備えており、誰から見ても教育係として申し分ない人物でした。

一方で吉法師と呼ばれていた当時の信長は、うつけ者と評判されるほど奇行の目立つ少年であり、沢彦の前に教育係として招かれた学僧たちはいずれも逃げ出していました。

しかし沢彦は自分がただの教育係として終わるつもりはなく、いずれ信長の名を天下に響かせるための参謀役になるという野心を秘めていました。

実際に彼は、吉法師が元服して"信長"となった際の名付け親であり、岐阜という地名、信長が使った有名な印文「天下布武」の考案者でもあり、元服後も信長の側を離れず参謀として活躍することになります。

沢彦は今川義元の参謀役として政治や軍事で中心的な役割を担っていた自分と同じ妙心寺出身の僧である太原雪斎の存在を強く意識していました。

仏僧といえば世俗から離れ、宗教的な活動や修行に打ち込む人たちといった印象がありますが、戦国時代において学問を身に付けるには僧になるのが最もてっとり早かったのです。

さらにそこで習得した知識を実践して成果を出すには、彼らのように大名の参謀役になるのが最短距離だったといえます。

やがて信長と沢彦は次々と現れる障壁を乗り越え、尾張一国を平定し、太原雪斎亡き後に上洛を目指した今川義元を討ち取り、さらには美濃をも平定して上洛を果たします。

いわば沢彦にとって信長は自分の一生の夢を託した作品であり、その最終目的でもある天下統一という形が輪郭となって現れ始めてきたのです。

織田信長という戦国大名の中でもとくに強い個性を放った人物を、彼の教育係でもあり参謀でもあった沢彦の目線から描くという試みは面白く、新しいアプローチの歴史小説として是非おすすめしたい1冊です。

故郷忘じがたく候



本書には司馬遼太郎氏の中編歴史小説が3作品収められています。
順番にレビューしてみたいと思います。

故郷忘じがたく候

豊臣秀吉による朝鮮出兵(1592年、慶長の役)で海を渡った島津義弘は、南原城を攻め落とした際に70人ほどの朝鮮人を捕らえて自らの領地に連れて帰ることにしました。

彼らは陶工の技術を持っており、定住を始めた苗代川においてのちに薩摩藩御用達となる薩摩焼(白薩摩)を生み出します。

それから400年が経過した今も彼らは苗代川において陶工を続け、性も朝鮮時代のものを使い続けているといいます。

明治までは韓語が使われ続けたと言われ、今でも祭祀の歌謡や窯仕事の専門用語に韓語が残っているといい、当地を訪れた著者は風景までが朝鮮のようだという感想を抱きました。

本書に登場し著者と交友を持つことになるのが、十四代目となる沈壽官(ちんじゅかん)氏です。

いわば彼らの先祖は400年前に強制移住させられた形ですが、沈壽官氏は韓語は喋れず、完璧な薩摩弁を操ります。

名前を知らなければ誰が見ても日本人にしか見えないでしょうし、彼自身も自分は日本人であると自覚しています。

しかし自らのルーツを知るために訪れた先祖の地でまるで里帰りを果たした親族のようなもてなしを受け、一族が400年もの間想い続けた"故郷"というものを実感してゆくのです。

歴史小説というより時代を超えたドキュメンタリーであり、著者がこの作品をタイトル作にした思い入れが伝わってくる力作です。


斬殺

鳥羽伏見の戦いで勝利した薩長軍は、間髪入れずに東北地方鎮撫のための軍を派遣します。

しかし広大な東北地方に派遣された人数はたったの200人と公卿だけであり、長州藩側の責任者として彼らを率いたのが本作品の主人公・世良修蔵です。

徳川家の大政奉還そして鳥羽・伏見の戦いでの勝利によって誕生した維新政府は、徳川家の時代が終わったことを東北諸藩に広く告知しすることで雪だるま式に味方が増えることを期待していました。

しかし結果からいえば、その目論見は外れてしまうことになります。

世良修蔵は長州藩で有名な奇兵隊の出身です。

奇兵隊といえば身分を問わず編成されたいわば日本初の近代的訓練を受けた軍隊です。
つまり村田は戦国時代から続く古臭い考えを否定する考えを持っており、相手が藩主であろうと遠慮なく命令を下します。

それが旧態依然とした仙台藩の武士たちの反発を招いてしまうのです。

日本でもっとも先進的な考えを持つ村田と、まだ徳川幕府の封建時代を生きる保守的な東北諸藩の武士たちの対比がある意味で滑稽であり、一味違った感覚で楽しめる作品です。


胡桃に酒

明智光秀の三女で細川忠興の正室である細川ガラシャ(たま)を主人公とした作品です。

ガラシャは洗礼名であり、彼女は聡明で仏教の素養がありながらもキリスト教に改心するほど前衛的な考えを持っていましたが、忠興は異常なほどに独占欲の強い性格であり癇癪持ちでもありました。

武将としての忠興は、その性格が良い方向に働きますが、それはガラシャにとっても必ずしも幸せを意味するものではありませんでした。

本書の中ではもっとも歴史小説らしい作品ですが、それだけに本書の中ではもっとも平凡な作品であると私個人は感じてしまいました。


全体的にはコンパクトな1冊の文庫本で司馬遼太郎ワールドを充分に楽しめます。

オリンピア1936 ナチスの森で



1936年、ナチス政権下のベルリンで行われたオリンピックを題材にした沢木耕太郎氏によるノンフィクションです。

本書は1998年に出版されていますが、その時点でもベルリンオリンピックが開催されて60年が経過しており、この大会をフィルムに収め「オリンピア」という二部作の映画を監督したレニ・リーフェンシュタールが90歳過ぎという高齢ながら現役で創作活動を続けていたため、著者がドイツを訪れ彼女へインタビューを試みる場面から始まります。

のちに第二次世界大戦を引き起こすことになるヒトラーが開会宣言を行い、51カ国から4000人の選手が参加しました。
日本選手団もオリンピックに参加しましたが、まだ交通手段としての航空機は整備されておらず、船で大陸に渡りシベリア鉄道ではるばるユーラシア大陸を横断してドイツへ向かいました。

さまざまな角度から当時のオリンピックを紹介していますが、何と言っても印象に残るのは、期待に応えメダルを獲得した勝者たち、また逆に期待に応えられずメダルを逃した敗者たちにそれぞれスポットを当てて紹介している点です。

オリンピックの建前はアマチュアスポーツであり、勝敗そのものよりも参加することに意義があるとされていますが、当時から熱狂的な国民たちの応援を背負う選手たちは相当なプレッシャーにさらされていたのです。

また本書で面白いのは「素朴な参加者」という章が設けられている点です。

当時の日本では陸上と水泳が強く、逆に言えばそれ以外の競技にはほとんど注目が行きませんでした。

そんな中でホッケーやサッカー、バスケットボールといった当時の日本ではまだマイナーだった競技にも日本人選手が参加していました。

テレビ普及前でラジオ中継と新聞の紙面でしか大会の様子が伝えられなかった時代だけに多くの国民がルールさえ知らない競技に関心を持つのは無理もないことでしたが、逆にこうした競技に参加した選手たちはプレッシャーとは無縁でメダルには届かなかったものの、のびのびとプレーして奮闘したようです。

また新聞、ラジオ局各社が遠く離れたベルリンから競技を中継する様子、いち早く新聞に掲載する写真を日本へ届けるために奮闘する姿も紹介されています。

私が生まれる前に開催された東京オリンピックは当時の映像が残っておりテレビで紹介されることも多く、大会に出場した選手やそれを観戦した人たちも多くいるので、何となく当時の雰囲気を知ることができます。

一方で、冒頭のレニがオリンピックの様子を収めたフィルムが現存するほぼ唯一の映像であり、さまざまな角度から紹介されるベルリンオリンピックは遠い過去のようでありながらも新鮮に感じられます。

さらには、そこに描かれたアスリートたちの姿も現在と比べて思ったよりも違いがなく、スポーツの本質、またオリンピックといった巨大な舞台装置について色々と考えさせられました。

この大会に参加した日本人選手たちが、のちの戦争に巻き込まれ命を落とすことになることを考えると、戦争は財産や国民の命といった目に見えるものだけでなく、スポーツや文化といった創造的な活動にも大きな傷跡を残すのだと痛感させられ、それは大会に参加したドイツを始め多くの国にとっても同じことが言えるのです。

雪の花



本作の主人公笠原良策(かさはら りょうさく)は福井藩の町医者です。

彼は町の中を毎日のように往来する死体を載せた大八車を見ながら、自らの無力感に苛まれていました。

それは当時毎年のように天然痘が流行し、漢方医である良策は患者たちを治療する術をまったく知らなかったからでした。

ところが西洋や中国ではすでに牛痘苗という天然痘を予防するための手法が確立しており、良策は福井を飛び出し京都の蘭方医である日野鼎哉(ひの ていさい)の門弟となり治療方法を学んでゆくのでした。

しかし良策たちにとって大きな壁が2つ立ちはだかります。

1つ目は牛痘苗そのものが入手困難だったことであり、良策が福井へ牛痘苗を持ち込むために奮闘する場面が本作品のクライマックスであるといえます。

そして2つめの障壁は、牛痘苗という治療法が領民のみならず藩内の役人からも理解されず、接種が広まらなかったということです。

当時の鎖国されている日本国内にあって蘭方(オランダから伝わった西洋医療)は、一般人の目に妖しげな西洋の魔術としかか映らなかったのです。

その中で藩医でもなく町医者であった良策は、私財をなげうって治療にあたり、ときには命をかけて役人たちを正面から非難することさえしたのです。

また藩内で理解されない状況ながらも近隣の藩から請われれば痘苗を快く分けていました。

本書は文庫本で約170ページという読みやすい分量の作品でありながらも、良策の「医は仁術なり」を体現した生涯を鮮やかに描いた名作であるといえます。

Deep Skill



若い頃の一時期はよくビジネス書を読んでいましたが、ここ最近はめっきり読む機会が減ってきました。

それには実用的な書籍を敬遠して、趣味としての読書を楽しみたいという理由がありましたが、今年はもう少し読書のスタンスを広げて、こうしたビジネス書をたまには紹介したいと考えています。

本書は書店のビジネス書の新刊コーナーで適当に手にとって購入した1冊です。

著者の石川明氏は1988年にリクルートへ入社し、インターネット媒体のオールアバウトの創業メンバーだったという経歴を持っています。

タイトルのディープスキルとは、作者の造語であり簡単に言えば「人間心理」と「組織力学」に対する深い洞察力と的確な行動力といった能力を指します。

私なりに表現するとすれば、不朽の名書といわれているデール・カーネギー「人を動かす」の内容をすこし泥臭くして現代風にリノベーションした1冊だと言えます。

本書には21のディープスキルが紹介されていますが、以下に列挙してみます。

  • 01 「ずるさ」ではなく「したたかさ」を磨く
  • 02 上司とは「はしご」を外す存在である
  • 03 優柔不断な上司に「決断」を迫る
  • 04 勝負どころでは、あえて「波風」を立てる
  • 05 会社で「深刻」になるほどのことはない
  • 06 弱者でも「抜擢」される戦略思考
  • 07 「専門性の罠」に陥ってはならない
  • 08 他社の「脳」を借りて考える
  • 09 "敏腕ビジネスマン"のように話さない
  • 10 「協力関係」の網の目を張り巡らせる
  • 11 親切なのに「嫌われる人」の特徴
  • 12 まず、自分の「機嫌」をマネジメントする
  • 13 組織を動かすプロセスを「企画」する
  • 14 上司の「頭の中」を言語化する
  • 15 「権力」を味方につける人の思考法
  • 16 「合理性の罠」に陥らない方法
  • 17 「効率化」で墓穴を掘らない思考法
  • 18 「調整」とは"妥協点"を探すことではない
  • 19 人間の「哀しさ」を理解する
  • 20 「やり切った」うえでの失敗には価値がある
  • 21 「使命感」が最強の武器である

本書ではとくに大手企業といった大きな組織の中で、新規事業を始める人を念頭に置いて書かれています。

それは著者が社内起業に特化したコンサルティング会社を経営しているからであり、同時にもっとも得意とする分野だからです。

そしてそう考えると、本書で紹介されてるスキルの重要性も納得が行きます。

一方で実際には、大企業の組織の中で既存の事業や業界の固定概念にとらわれない新規事業を企画し、成功させるという行為が困難であることは容易に想像がつきます。

私自身は大手企業に所属していた経験はありませんが、取引先には大手企業もありそこでの組織の複雑な力関係やルールの煩雑さといった話は時々耳にします。

こうした環境においては、企画やアイデアの斬新さだけでは物事はまずうまくは進みません。

現実的に何よりも本書に紹介されているような人や組織を巧みに動かすスキルが求められます。

一方で本書で紹介されているのはいわば対人スキルというべきもので、具体的なメソッドや方程式によって当てはめることができないのも事実です。

本書を参考にしながらも、状況に応じた言動が必要となります。
そして何よりも地道な努力と、自らの人間性を磨くことも忘れていはいけないのです。

毒草を食べてみた



著者の植松黎(うえまつ れい)氏は植物学者ですが、とりわけ毒草を熱心に研究されているようです。

ちなみにタイトルに「毒草を食べてみた」とありますが、実際に著者が自らを実験台にして毒草を食べてみたという内容ではありません。

本書には国内外の植物含めて44種類の毒草が紹介されています。

毒草といってもその効果は多彩であり、嘔吐、けいれんといったものから心臓麻痺を引き起こす心臓毒、神経覚醒など麻薬の効果を及ぼすものなどと色々な種類が存在します。

たとえば山菜と毒草を間違えて中毒となるケースもありますが、本書はこうしたケースを防ぐための毒草の見分け方といった点には重点を置いておらず、植物が持つ毒の効果と人類がその毒草とどのように付き合ってきたがという歴史を紐解く、一種のエッセーのような紹介方法をとっています。

いかにも毒草研究に熱心な著者らしいですが、例えばソクラテスが毒杯を煽って死を選んだ際にはドクニンジンのジュースが用いられ、アレクサンダー大王の遠征隊はキョウチクトウの毒によって多くの兵士を失ったという伝説があります。

また毒草にはフクジュソウやスイトピー、スズランやヒガンバナといった身近なものもありますが、この辺りの観賞用植物をあえて食べようという人は少ないと思います。

さらにゲルセミウム・エレガンスという毒草はどこにでも自生してそうなツル植物のような見た目ですが、その葉を3枚噛むと死に至るという青酸カリよりも強力な毒を有しています(幸いにも日本には自生しない品種)。

一方で毒草から特定の成分を抽出することで、画期的な治療薬となった例も多くあります。
キナと呼ばれる毒草からはマラリアの特効薬でありキニーネが、インドジャボクからは抗精神薬としてレセルピンが生み出されました。

先ほど紹介したように本書を毒草図鑑のように利用はできませんが、忌み嫌われがちな毒草を身近に感じることのできる教養や雑学的な知識を与えてくれる本として楽しむのが正しい気がします。

ちなみに毒草といってもそれは人間から見た場合の話であり、本書で紹介されている植物は当然のように人類より古くから存在しています。

一方で科学技術がまったく発展していない古くは紀元前3000年前から人類は(先祖たちの経験から)毒草の効用を知っており、狩猟や治療薬、そして時には自殺や暗殺の道具として利用してきたのです。

全員死刑



2004年、福岡県大牟田市で4人連続殺人事件が起きた。
逮捕された暴力団組長の父、母、長男、そして実行犯の次男という一家4人に下された判決は、「全員死刑」。


事件が発生してしばらく経過していますが、この事件は一家4人が殺人に関わったこともあり記憶には残っています。

何となく一家が暴力団ということもあり、暴力団同士の抗争、もしくは金銭トラブルのような要因があったのかもと勝手に思っていました。

しかし本書で事件の真相を知れば知るほど、その異常性が目立ちます。

殺人の原因は抗争でも金銭トラブルでもなく、ただの逆恨みが原因でした。
逆恨みの対象は1人であったものの、殺人の秘密が漏洩することを恐れてターゲットにした女性のほかに2人の息子、そして息子の友人までをも巻き添えにしていました。

さらに恨みを持っていたのは父母の2人で、次男をまるで鉄砲玉のようにけしかけて殺人計画を遂行していったのです。

本書は鈴木智彦氏の著書になっていますが、内容のほどんとは実行犯である次男が獄中から犯行の一部始終を記した手記を送り続け雑誌へ掲載されたものを1冊にまとめたものです。

同時に4人全員に死刑が言い渡されるほどの殺人事件は滅多にありませんが、手記を読んでゆくとその残忍性ゆえに読んでいて目を背けたくなるような不快感を覚えます。

それは覚醒剤を打ち殺人に快楽や興奮を覚えてゆく自分自身、地獄の苦しみを味わう犠牲者の克明な描写があるのと同時に、一家全員のあまりにも自己中心的で身勝手な言動が目立つからです。

また彼らには家族愛によるものなのか一種の団結力があり、ずさんで行き当たりばったりの計画性のない犯行というある意味でヤクザらしくない手口が目立ちます。

手記を書いた次男は死刑を当然のこととし、親分(父親)の命令はヤクザにとって絶対であり、しかも自分は人殺しを楽しんだのだから人生の一切の悔いはないと言い切っています。

こうした言動の張本人の手記だけに同感も同情もしようがない内容であり、登場する被害者たちがただただ哀れだと思うばかりです。

良心や罪悪感が完全に欠如し、強い残虐性を考えると彼は完全にサイコパスであり、なかなか理解するのは難しいのかもしれません。

しかし本書で描写されている稀に見る残忍な犯行は、おそらく今後も起こり得ることであり、ノンフィクションによって彼らの実態を知ることは決して無益ではないはずです。

サカナとヤクザ



暴力団を題材にしたノンフィクション作家の第一人者である鈴木智彦氏が、暴力団と漁業との関係を5年間に渡り取材した1冊です。

覚醒剤であれば暴力団が関わっていることは容易に想像がつくものの、殆どの人にとって麻薬そのものを身近に感じる機会はないと思います。

暴力団の関わる漁業とは密漁にほかならず、築地市場の年配者であれば暴力団と市場の蜜月を知らない人はいないそうです。

つまり市場から出荷された魚を食べている多くの一般人が、日常の中で暴力団が密漁に関わった魚を食べている可能性があるのです。

本書は文庫化にあたり2編の書き下ろしが追加されていますが、本章は以下のような構成になっています。

  • 宮城・岩手 ~三陸アワビ密漁団VS海保の頂上作戦~
  • 東京 ~築地市場に潜入労働4ヶ月~
  • 北海道 ~"黒いダイヤ"ナマコ密漁バブル~
  • 千葉 ~暴力の港・銚子の支配者、高寅~
  • 再び北海道 ~東西冷戦に翻弄されたカニの戦後史~
  • 九州・台湾・香港 ~追跡!ウナギ国際密輸シンジゲート~


日本中、さらには海外にわたって暴力団が関わる密漁が広く行われていることは、海上保安庁や警察、全国津々浦々の漁協の人たちにとって公然の秘密どころか常識といってよく、一方で漁業に直接関わっていない消費者である市民たちがまったく知らない事実であったということから、本作品が発表された2018年には大きな反響があったといいます。

そして密漁の規模は私たちの想像をはるかに超えており、流通しているアワビや毛ガニ、ウナギの半分以上が密漁によるものである可能性があるのです。

当たり前ですが、安くて旨い魚を求めるのが消費者である一方、そうした仕組みを維持するために密漁が欠かせない存在であるとは認めたくないものです。

しかし密漁が横行することで裏社会へ資金が供給され、何よりも漁獲制限を無視した密漁がはびこることで海産資源が枯渇する恐れがあります。

著者は潜入ルポといういつものスタイルで取材に臨みますが、全編にわたって密漁と暴力団という単語に溢れいて、本当に密漁が日常的に行われているということを実感します。

もちろん密漁という行為は違法であり厳しく取り締まるべきだと思いますが、はたして密漁を淘汰することが本当に可能なのかと疑問を抱くと同時に密漁が根絶した結果、海産物の価格がどれくらい高騰するのだろうと心配してしまいます。

極端に言えば麻薬にしろ魚にしろ需要があるからこそ、金のために法を破ってまで供給しようとする裏社会の組織が存在する事実を考えると、複雑な心境になります。

しかし将来にわたって、それこそ私たちの子孫がおいしい魚を食べ続けられるように本書によって明らかにされた真実に目を背ける必要があるのです。

カンタ



二人の主人公・耀司汗多(カンタ)は4歳のときに同じ団地で出会います。

彼らはいずれもシングルマザーの家庭で育ち、境遇など共通点が多いことからすぐに打ち解けて友だちになります。

耀司はスポーツも勉強もできる秀才として成長しますが、カンタは生まれつき他人の気持ちを読むことができない、つまり人とのコミュニケーションを苦手をする発達障害を持った少年でした。

カンタは唯一心を許せる耀司を頼りにし、耀司は自分にはない純粋さを持つカンタの人間性に惹かれ、幼馴染として小中高校時代を過ごします。

あまり裕福でない家庭で育った二人は、やがて大金持ちになるために耀司がカンタを誘う形で携帯ゲーム会社「ロケットパーク」を起業することになります。

創業期の苦労を乗り越えて一躍時代の寵児となった「ロケットパーク」ですが、2人の前には人生最大のピンチが訪れるのです。。

結末が分かってしまうと面白くないため、あらすじの紹介はここまでにしますが、本作品は2つの要素で楽しむことができます。

1つ目は主人公となる二人の友情の物語としてです。

人間関係や受験、ビジネス上の障壁など誰にでも苦難のときは訪れますが、不器用な二人はそんなハードルを支え合いながら乗り越えてゆくのです。

一見すると障害を持つカンタが一方的に耀司を頼っているように見えますが、尖すぎる感性を持つがゆえに孤立しがちの耀司の側にいつもカンタが居ることで彼自身も救われていたのです。

楽しい時だけでなく、苦しいとき時にこそ側にいるのが友だちだと言われますが、現実的にこうした関係を維持し続けるのは難しいものです。

ともすれば損得勘定や合理的な判断にだけに長けた大人になっていないかと自分自身を振り返るきっかけにもなるのではないでしょうか。

2つ目は会社の創業そして上場、M&Aなどのエキサイティングなベンチャー企業のストーリーを楽しめる点です。

企業戦略は別として、ベンチャー企業はスピード上場を果たし社長が時代の寵児のようにもてはやされると、さまざまな利害関係を持った人間たちが彼らの前に登場します。

無論、彼らに共通する目的は金儲けであり、そこには友情といった感情的なものは不確かなものとして排除される傾向があります。

ジェットコースターのように過ぎてゆくベンチャー企業としての時間と、幼い頃からゆっくりと時間をかけて培ってきた友情という2つの時間軸が物語の中で交差する場面は本作品の見どころであるといえます。

著者の石田衣良氏は過去にも同じようなテーマを扱った「アキハバラ@DEEP」を発表していますが、2つの作品を比べると本作品はエンターテインメント性よりもリアリティ感を重視しているように感じました。