本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

ローマ人の物語〈34〉迷走する帝国〈下〉

ローマ人の物語〈34〉迷走する帝国〈下〉 (新潮文庫 し 12-84)

前巻は次々と皇帝が現れては消えていった時代でしたが、この流れは3世紀後半に突入しても変わりません。

とくに皇帝ヴァレリアヌスが敵の捕虜になるという事態はローマ帝国にとって前代未聞の大失態であり、この事件をローマ帝国の衰退と受け取った近隣の国や蛮族たちが次々と侵入してくる危機を迎えます。

著者の塩野氏は国の統治者として何よりも優先すべき項目は、安全保障だと主張しています。

ローマ人は辺境であろうと町を建設し、インフラを整備した民族でしたが、蛮族や敵国の侵入により辺境に近い町から人が逃げ出し、その結果として農地が荒れ地へと変わり、経済の衰退や文化の後退を招いてゆきました。

つまり安全保障が確立しなければ、経済の繁栄どころか食糧の供給にさえ支障をきたすことになるのです。

現代においても難民の多くが戦争や内乱によって生み出されている現実を見ると、当然の帰結と言えます。

当時のローマ帝国はあらゆる面で統治能力を失いつつあり、それはすぐに目に見える形になって現れます。

まずはローマ帝国の西方、つまりイベリア半島やガリア地方含めた広範囲の地域がガリア帝国としてローマ帝国から分離独立し、続いて東方でもカッパドキアからエジプトに渡る地域が、パルミラ王国として離れることで、ローマ帝国が実質的に三分割されるという出来事が起きます。

こうした背景の中で本巻で登場する皇帝たちを追ってゆきます。


皇帝ガリエヌス(253-268)
ヴァレリアヌスの死と共に相次いだ外敵の侵入、帝国の3分割という危機的な状況下で皇帝に就任する。彼は起死回生のバクチには挑まず、状況の悪化を防ぐための現状維持を再優先事項とする。つまり分離したガリア帝国とパルミラ王国は放っておき、残った領土を蛮族の侵入から守ることに専念し、ローマ軍の伝統的な主力である重装歩兵を騎兵に置き換えるなどの改革を遂行する。
蛮族の侵攻を食い止めることには成功するも、その保守的な姿勢に腹を立てた兵士たちに殺害される。


皇帝クラウディウス・ゴティクス(268-270)
大挙して押し寄せてきたゴート族を騎兵団を率いて撃破するも、疫病によって倒れる。
短いとはいえ、戦死でも謀殺でもなく"病死"という形で治世を終えた久しぶりの皇帝となる。


皇帝アウレリアヌス(270-275)
危機の3世紀に登場した皇帝の中では抜群の実績を残す。
侵入してきたヴァンダル族を撃破し、続いてローマ帝国から独立した状態にあったパルミラ王国を武力によって再び併合し、ガリア帝国は政治的交渉によってローマ帝国へ"復帰"という形で再興させる。防衛上の理由からダキア地方からは撤退するも、ほぼ旧来通りのローマ帝国の版図を回復することに成功する。しかし凱旋から間もなく秘書のエロスによって殺害される。


皇帝タキトゥス(275-276)
「同時代史」で有名な歴史家タキトゥスの子孫。皇帝に就任した年齢が75歳ということもあり、わずか8ヶ月で病死する。


皇帝プロブス(276-282)
大波のように次々と押し寄せる蛮族たちを迎え撃つ日々を送る。またゲルマン人の住む土地へ積極的に攻めこむ方針をとり、捕虜となった蛮族たちをローマ帝国の住民とする同化政策を打ち出す。しかし一部の暴走した兵士たちによって殺害される。


皇帝カルス(282-283)
ローマ帝国の東方を脅かし続けたササン朝ペルシアへの遠征を敢行する。順調にペルシア軍を撃破して進軍するも宿営中に雷によって落命することになる。


皇帝ヌメリアヌス(282-283)
皇帝カリヌス(283-284)
先帝カルスの長男と次男であるが、いずれも兵士たちの信望を得ることは出来なかった。
この時代に軍団からの支持を失った皇帝は、兵士たちによって殺害される道しか残っていない。


やはりこの時代で特筆すべき皇帝は、アウレリアヌスになるでしょう。

戦闘に強い(=戦術に優れた)軍人皇帝ならば危機の時代にも度々登場してきましたが、外交含めた戦略の立案、そしてその実行に際して優先順位を誤らなかった皇帝は久しぶりに登場したのです。

カエサルアウグストゥスの時代から名目上は元老院とローマ市民から承認されることではじめてローマ皇帝と認められるのが慣例でしたが、アウレリアヌスは皇帝としての強権をためらわずに発動し、実力に訴えるタイプの"絶対君主"に近い皇帝として君臨しました。

このスタイルは、すぐ後の時代に登場するディオクレティアヌスコンスタンティヌスといった皇帝たちに受け継がれてゆくのです。

ローマ人の物語〈33〉迷走する帝国〈中〉

ローマ人の物語〈33〉迷走する帝国〈中〉 (新潮文庫 (し-12-83))

本書ではローマ帝国が混迷する時代に触れられているだけに政情不安が続き、皇帝たちが短い在位で次々と入れ替わってゆきます。

読者も混乱してしまうほど目まぐるしい時代ですが、整理のために本巻で登場する皇帝たちを簡単に紹介してゆきます(カッコ内は在位)。


皇帝マクシミヌス・トラクス(235-238)
生え抜きの軍人皇帝。ゲルマン人相手に積極的に攻勢に出て戦果を上げる。
しかし元老院の支持を失い、内戦に突入した直後に配下の兵士たちによって殺害される。


皇帝ゴルディアヌス1世(238)
皇帝ゴルディアヌス2世(238)
マクシミヌスの対抗馬として元老院が推挙した皇帝であり、2人は父子でもあった。
しかし肝心のローマ軍団からの支持が得られなかったため、アフリカ属州から一歩も出られず反乱を起こしたローマ軍団によって責められ父は自殺、息子は戦死する。わずか半月の在位に終わる。


皇帝パピエヌス(238)
皇帝バルビヌス(238)
元老院がゴルディアヌス父子の次に擁立した皇帝。
マクシミヌスを殺害しローマ入りした軍団たちに愛想を尽かされ、間もなく殺害される。在位は3ヶ月。


皇帝ゴルディアヌス3世(238-244)
ゴルディアヌス1世から見ると孫にあたり、わずか13歳で皇帝に即位する。
有能な実務家ティメジテウスを実質的な宰相として採用したこともあり、ローマ帝国は一時的な平和を取り戻す。
急激に力をつけた新興国ササン朝ペルシアの遠征を敢行するが、ティメジテウスの突然死(病死?)によりローマ軍は瓦解し、その混乱の中で兵士たちによって殺害される。


皇帝フィリッピス・アラブス(244-249)
アラブ人としてはじめてローマ皇帝になった人物。元老院寄りの政策を行うが能力は平凡だった。デキウスとの対決を前にして味方の兵士にすら見捨てられて自殺する。


皇帝デキウス(249-251)
叩き上げの軍人であり、ドナウ軍団の支持を背景に皇帝となる。
軍事の才能は豊かでドナウ河防衛の再編成などを行うも、蛮族との戦闘中に戦死する。


皇帝トレボニアヌス・ガルス(251-253)
ゲルマン民族の中でも強大なゴート族が30万人という大軍でローマ帝国に侵入し、彼らとの間に弱腰な講和を結んだことがきっかけで兵士たちの支持を失い、ヴァレリアヌスとの皇位争奪戦に敗れる。


皇帝ヴァレリアヌス(253-260)
能力主義を取り入れローマ軍指揮官たちの再編成を行う。
そしてシャプール王率いるササン朝ペルシアとの戦いで、前代未聞の皇帝捕囚という事態に陥ってしまう。結局解放されることなく、1年余りのちに病死する。


ここに挙げた皇帝たちは権力を濫用するような暴君では無かったにも関わらず、いずれも天寿を全うすることさえ出来ていません。

しかもローマ軍団の支持を背景にしてない皇帝は短い在位で終わり、叩き上げの軍人出身皇帝ですら兵士たちの衝動的な行動の犠牲となるか、外敵との戦闘で戦死するという運命を辿っています。

これまで「ローマ人の物語」を通じて、カエサルアウグストゥス時代のローマ人たちの隆盛、五賢帝時代の盤石の平和を見てきた読者としては悲しい気持になりますが、この時代を統治した皇帝にとってさえ、過ぎ去った栄光だということを実感していたに違いありません。

ローマ人の物語〈32〉迷走する帝国〈上〉

ローマ人の物語〈32〉迷走する帝国〈上〉 (新潮文庫 し 12-82)

副題から分かる通り本巻からは3冊にわたって「迷走する帝国」の時代、つまり73年間(紀元211-284年)で22人もの皇帝が入れ替わるというかつてない混乱の時代を扱っています。

後世からは「危機の3世紀」として伝えられています。

さすがに22人もの皇帝となるといちいち名前を覚えられませんが、この時代を先陣を切るのは現代でも有名なローマ遺跡"カラカラ浴場"で知られている皇帝カラカラです。

正確には先帝でもあり父親であるセヴェルスが着工した浴場ですが、完成するのはカラカラ治世の時代のためこう呼ばれています。

23歳で皇帝に就任したカラカラでしたが、先帝セヴェルスからは弟のゲタと共に力を合わせて共同皇帝として帝国を治めるように命じられていました。

共同皇帝」、つまり2人の皇帝による統治体制はマルクス・アウレリウスの時代に先例があったため特別なことではありませんでした。

しかしカラカラが皇帝に就任して早々に実行したのは、共同皇帝であり実弟のゲタを殺害することでした。

気性が荒く自己顕示欲の強かったカラカラにとって、共同皇帝という制度そのものが始めから気に入らなかったに違いありません。

そして彼が続いて打ち出した政令「アントニヌス勅命」は驚くべき内容でした。

それはローマ帝国の属州民すべてにローマ市民権を与えるというものでしたが、このローマ市民権拡大の政策について著者は批判的な見解を示しています。

それをひと言で表現すれば、ローマ市民と非ローマ市民という区別は以前からあったものの、奴隷にさえローマ市民への道は開かれていました。

そしてこの差別の撤廃により、属州民たちの向上心と元からローマ市民だった人々の気概を失わせてしまったというものです。

続いてカラカラの実施した政策はズバリ「増税」です。

相次ぐ蛮族の侵入、兵士たちの賃金値上げ、そして内戦による浪費などによって増税は避けて通れない状態だったかも知れませんが、いつの時代でも増税政策が不評なのは共通です。

そしてカラカラは、国内の不満を軍事によって帳消しにするかのように積極的な外征を行います。

内政はともかく軍事の才能はなかなかのものだったカラカラですが、遠征先のパルティアで一部の兵士の逆恨みを買って殺害されるという、何ともあっけない最期を迎えてしまいます。

皇帝が不慮の死を迎える度に軍人たちが皇帝に立候補し、バトルロイヤル形式の内戦に突入するという負の連鎖が、この3世紀のローマ帝国の特色でもあるのです。

本巻で触れられているカラカラ以外の皇帝は次の通りです(カッコ内は皇帝在位期間)。

皇帝マクリアヌス(217-218)
カラカラを殺害した兵士たちに担がれて皇帝に就任。カラカラ帝が実行していたパルティア遠征を和平という形で終わらせるが、この弱腰外交が致命傷となり、反対派の兵士たちによって殺害される。

皇帝ヘラガバルス(218-222)
ローマ史上はじめての東方(オリエント)出身の皇帝。セヴェルスの甥として正統性を持った皇帝であったが失政を重ね、帝国内のライバル殺害に熱心になっている間に自らが寝首をかかれる。

皇帝アレクサンデル(222-235)
3世紀には珍しく13年間に渡ってローマを治めることになる皇帝。ヘラガバルスと同じくセヴェルスの甥であり、わずか14歳で皇帝に就任する。祖母のユリア・メサが優秀な法学者ウルピアヌスを補佐に指名したこともあり、順調な治世をスタートします。
ウルピアヌスの死後も東方でパルティア王国を倒した新興国ササン朝ペルシアとの激闘を繰り広げるなど、若いながらも中々の活躍を見せますが、帝国の安全保障を最優先するが余り、ライン河を挟んで対峙するゲルマン人との弱腰外交を不満視する兵士たちに殺害される。


こう並べると蛮族の侵入という侵入だけでなく、ローマ帝国内の政情そのものが不安定だったことがよく分かります。

後世から見るとハンニバル率いるカルタゴの侵攻の時のようにローマが一致団結して困難に立ち向かうことが出来ず、国内の混乱によって彼らが持てる力を発揮できない(=無駄に消費する)状態であったことがよく分かります。

ローマ人の物語〈31〉終わりの始まり〈下〉

ローマ人の物語〈31〉終わりの始まり〈下〉 (新潮文庫)

五賢帝の1人であり哲人皇帝として有名なマルクス・アウレリウスの治世は蛮族の侵入が相次いだ大変な時代でしたが、彼の後を継いだコモドゥスの時代には表面上の平和を迎えます。

しかし皇帝としての素質が欠如していたコモドゥスは、暗殺によってその治世を終えることになります。

これをひと言で「暴君として当然の結末」と片づけることは出来ません。

たとえ素質は無くとも先帝マルクスの長男としての正統性は存在し、またそれを認めたローマ軍団は皇帝コモドゥスの代になろうと忠誠を誓い続けたのです。

つまり唯一の正統性を保持していたコモドゥスの死は、そのままローマ帝国内の内乱勃発に直結し、軍事力を背景にした各地の軍団長や属州長官クラスの人物が4人も同時に皇帝に名乗りを上げるのです。

これは完全なバトルロイヤルであり、この戦いに参加した4人の顔ぶれは以下の通りです。

  • 近衛軍団の支持を背景にしたユリアヌス
  • シリアを中心とした属州の軍団の支持を背景にしたニゲル
  • ブルタニア、ライン河軍団の支持を背景にしたアルビヌス
  • ローマ帝国最大のドナウ河軍団の支持を背景にしたセヴェルス

ちなみに彼ら4人が皇帝に名乗りを上げる前にはペルティナクスが皇帝に就任していますが、ユリアヌスの手によってわずか87日間で暗殺されてしまっています。

さすがにこれだけの人物が同時に登場すると名前を覚えるのも面倒になりますが、結果的にこの帝位争奪戦という名のバトルロイヤルを制するのはセヴェルス1人になります。

ただしこの戦いはカエサルポンペイウスオクタヴィアヌス(アウグストゥス)とアントニウスがローマの覇権のみならず、自らの理想や信条をかけて戦いを繰り広げたような歴史スペクタクル溢れるものではありませんでした。

ただ単にローマ皇帝の座を巡っての争いであり、この戦いに加わった4人の間に大きな政治的信条の違いは存在しなかったのです。

当時のドナウ河流域には、ローマ帝国内でもっとも多くの、そしてもっとも精鋭な軍団が配置されていました。

その軍団の支持を背景に皇帝となったセヴェルスの経歴は、叩き上げの軍人そのものであり、自らの得意分野である軍事によって皇帝としての成果を上げようとします。

まずは軍人の地位と待遇の改善を行い、次に東方のパルティア王国、そして北方のブルタニア(現イギリス)への遠征を実行に移します。

これはマルクス・アウレリウス時代から頻繁になりつつあった外敵侵入の脅威を、積極的な攻勢によって解決しようと試みたものです。

しかしこの遠征によって体を壊したセヴェルスは息子のカラカラに後を託し、真冬のブルタニアで息を引き取ることになるのです。

内乱を収束させてローマ帝国の安全保障を強化したセヴェルスの業績は評価できるものですが、すでにローマの栄光には翳りが見え始めており、その業績があっという間に崩れ去る不安定な時代が到来しつつあったのです。

ローマ人の物語〈30〉終わりの始まり〈中〉

ローマ人の物語〈30〉終わりの始まり〈中〉 (新潮文庫)

本巻では引き続き、マルクス・アウレリウスの治世に触れてゆきます。

先帝アントニヌス・ピウスの治世は23年間に及んだにも関わらず、ローア帝国の平和が完全に維持され続け、経済的にも繁栄を享受した「ローマ人が最も幸せであった時代」でした。

ところがマルクスの治世が始まった途端、本国ローマで飢饉と洪水が発生するのです。

もちろんマルクスは、これらの自然災害の対策に全力で取り組むことになります。

そして今度は東方のパルティア王国がローマ帝国へ対して軍事行動を起こし始めます。

首都ローマで手が離せないマルクスに替わって共同皇帝であるルキウスが対処に向かいますが、ほとんど物見遊山で出かける有り様でした。

しかし結果的にはローマ軍の有能な将軍たちの活躍で勝利で終わることになりますが、続いて発生する危機はさらに大きなものでした。

ライン河、ドナウ河、そして北アフリカの防衛線(リメス)立て続けに破られ蛮族がローマ帝国内へ侵攻してきたのです。

前回ローマが蛮族の侵入を許したのは230年も前の共和制ローマの時代であり、この出来事は長い間に渡ってローマ帝国内が安全であると信じきっていた住民たちに大きなショックをもたらしました。

戦後70年を迎える現代の日本でさえも、ある日突然に自分たちが暮らす町に外敵が攻め込んでくると想像したら、その衝撃の大きさが分かると思います。

それでも理性的で皇帝としての責任感を自覚している皇帝マルクスは、軍の統制や士気の面からも自らが前線へ赴ことへの重要性を理解し、ただちに実行に移しました。

思慮深く軍団の経験がなかったマルクスは、ローマ将軍のアドバイスに注意深く耳を傾け、作戦を遂行してゆきます。

同時代に書かれた歴史書「皇帝伝」ではマルクスを次のように描写しています。

「何かを決定する前には、それが軍事上のことでも政治上のことでも、その方面の専門家の意見に耳を傾けた。これが、皇帝マルクスのやり方(スタイル)なのだった。そしてそれがまだるっこしいと言う人には、次のように答えるのも常だった。『多くの友人の考えを聴いて決めるほうが、正しくはないのかね。友人たちがわたしという一人の人間の考えに、ただ単に従うよりも』
それでいて、彼の哲学(ストア学派)への傾倒によるのか、軍に対しても彼個人の日常でも厳しく律した。この厳格さが、部下たちの批判を浴びることもしばしばだった。批判するほうも面と向かって堂々と批判したが、それに対しても皇帝は、理路整然と反論するのだった。

マルクスはこのスタイルで一進一退の攻防を経ながらも着実に成果を上げますが、スキピオカエサルといった過去の英雄たちが実行した、すべての作戦を独断で決め電撃的な速さで勝利をもぎ取る類の成果を生み出すことは出来ませんでした。

つまりこれは蛮族相手の防衛戦が長引くことを意味しますが、誰よりもマルクス自身がスキピオやカエサルほどの才能が自らに無いこと自覚していたに違いありません。

侵入してきた蛮族を撃退し、さらにローマ帝国の将来の安全保障を見据えて本格的な反攻に打って出ようする最中に、マルクスは前線の基地で病によって亡くなることになります。

彼の治世は平穏な時期がほとんど無いほど慌ただしいものでしたが、その最後もローマから遠く北に離れたドナウ河、つまり遠征先で亡くなったはじめての皇帝となります。

本書の後半ではマルクスの息子であり、19歳でその後を継ぐことになるコモドゥスの治世に触れらています。

まずコモドゥスは父マルクスとは正反対の趣向を持った人物でした。

マルクスが哲学を愛したのに対し、コモドゥスは剣闘士として自らコロッセウムに立つほどの剣闘好きでした。

そして皮肉なことに哲学皇帝マルクスは治世の多くの時間を外敵との戦いに費やしましたが、剣闘皇帝コモドゥスの治世は差し迫った戦争の危機がなかったこともあり、平和なローマでなされたのです。

もちろん戦争が無くともハドリアヌスのように領内を視察巡回するという方法もありましが、皇帝としての責任感が希薄だったコモドゥスの頭にそのような考えが浮かぶことはありませんでした。

肉親や側近による暗殺未遂によって疑心暗鬼に陥ったという同情すべき点もありましたが、やはり放漫で無責任な政治を行ったツケを支払わなければならない時が来ます。

それは愛妾、召し使いによって計画され、コモドゥスのレスリング教師だったナルキッソスの手によって実行されるコモドゥス暗殺です。

自業自得というと言葉は厳しいかも知れませんが、皇帝の責務はそれだけ重いものであり、先帝であり父親であったマルクスが背負ってきた皇帝としての責務を息子のコモドゥスは最後まで理解することはなかったのです。

ローマ人の物語〈29〉終わりの始まり(上)

ローマ人の物語〈29〉終わりの始まり(上) (新潮文庫)

27巻、28巻では古代ローマ通史を一時中断して、ハード・ソフトの両面から見た古代ローマのインフラが話題となりましたが、本巻からは26巻「賢帝の世紀」アントニヌス・ピウスの治世を続きを引き継ぐ形で再開されます。

本巻でまず登場するのは、アントニヌス・ピウスに後継者として指名され、五賢帝時代最後を飾り、ギリシア発祥のストア派哲学に傾倒したことから哲人皇帝とあだ名されることになるマルクス・アウレリウスの治世に触れられています。

彼自身が書き残した「自省録」が後世に伝わっていることから、五賢帝の中でもっとも有名な皇帝ではないでしょうか
「自省録」については本ブログでも紹介しています

マルクスは、将来のローマ帝国を背負って立つ人物に相応しい帝王教育を受けて育ちます。

一方で52歳で皇帝に即位したアントニヌス・ピウスでしたが、結果的としては74歳で天寿を全うするまで治世が続きました。

そのためその後を継いで皇帝となるマルクス・アウレリウスは、青年期の教育期間を経て、その後アントニヌスの右腕としても充分な経験を積んだ40歳にときに即位するのです。

万全の体制で皇帝となったマルクスですが、就任早々に前例のない宣言を元老院で打ち出します。

それは自分と共に先帝アントニヌス・ピウスの養子になっていた、つまり義弟のルキウス・ヴェルスを共同皇帝として指名したのです。

ローマ帝国内にまったく同格の皇帝が2人存在する状態で治世をスタートさせたのです。

物静かで思慮深いマルクスと、明るく開放的なルキウスの性格は対照的でしたが、2人の仲は良好だったようです。

広大なローマ帝国の統治は激務であり、たとえば2人の皇帝で内政と軍事の責任を分担することで効率のよい統治が可能になるとマルクスは考えたかも知れません。

しかし結果的にこの方針は、マルクスの負担を減らすことにはなりませんでした。

たしかにルキウスは、兄マルクスの地位を脅かすような野心を微塵も持ち合わせていませんでしが、同時に天真爛漫なルキウスは、皇帝としての責任感が欠如していたのです。

ルキウスがマルクスの苦労も知らずに友人たちと気楽に遊びまわっている間、マルクスが1人で皇帝としての責務を果たすことになるのです。

それでも皇帝が2人いることによって、マルクスの心理的負担が対多少は楽になった部分があったかも知れませんが、共同統治8年にしてルキウスが病死してしまいます。

今度こそ名実ともローマ帝国唯一の皇帝としての責務が、マルクスの両肩に重くのしかかって来るときが来たのです。

さらに皇帝マルクスにとって不幸だったのは、23年間にわたる先帝アントニヌス・ピウスの統治時代には起こらなかった蛮族の侵入が、立て続けに発生したことです。

休む時間もなく蛮族の撃退のため辺境へ赴く皇帝には、"哲人"としてではなく"鉄人"としてのタフさが求められたのです。

ローマ人の物語〈28〉すべての道はローマに通ず〈下〉

ローマ人の物語〈28〉すべての道はローマに通ず〈下〉 (新潮文庫)

ローマ人のインフラを解説する「すべての道はローマに通ず」の上巻では、街道や水道をはじめとしたハード面でのインフラを取り上げましたが、下巻ではソフト面のインフラに言及しています。

街道や水道をはじめとした建造物であれば遺跡として後世にも伝わりますが、ソフト面のインフラは制度そのものであるためなかなか伝わりにくいものです。

その中でも本巻では、医療教育に分野を絞って紹介しています。

この2つに共通するのは、ユリウス・カエサルが定めた「医療と教育にたずさわる者ならば誰にでもローマ市民権を与える」という法律の対象となっていることです。

まずカエサル登場以前の医療は"家庭内医療"と"神頼み"を中心としたものでした。

しかしカエサルがガリア遠征を行うにあたり、はじめて負傷した兵士たちのために医療団と軍病院を制度化したと言われ、この軍病院は一般人にも開放されていたと考えられています。

しかしそれ以降も首都ローマをはじめとした軍基地以外の都市に公的な大病院は存在せず、ローマ市民権を得た医師たちが私的に小規模な医院を開業している程度でした。

それは「ローマ市民権を得られる」イコール「直接税が免除される」といった経済的なメリットがあり、そのため医師のなり手が多く、適切な市場競争を促進していた背景があると解説しています。

それに加えて著者は、キリスト教公認以前の古代ローマ人の思想、つまり死生観にも起因していたと主張しています。
ローマ皇帝たちには誰一人、支那の皇帝のように不老不死の方策を求めて狂奔した者はいなかったという事実だ。それどころか、死期の迫った皇帝の延命を願って、犠牲式を挙げて祈願するよう神殿という神殿に中央政府からの布告が発せられたという史実もない。
~省略~
若くて元気な者たちの戦闘での傷や病に対しては徹底して医療を施すが、そのような不運に襲われなくても寿命がつきたのならば従容と天に昇ってゆくのが、死すべき身の人間の生き方である、と。

多くの先進国において医療が財政を圧迫し、また行き過ぎた延命治療が問題視されている現代において、こうした古代ローマ人の死生観に賛同する人も多いのではないでしょうか。


続いて教育についても、やはり医療と同じくローマには公立学校は存在せず、私塾がその役割を担っていました。

ギリシア文化に憧れを持っていたローマ人だけに、おもにギリシア人がこの分野を担っていましたが、やはり教育の分野でも自由競争が適切に促進され、授業料が低く抑えられていたために初等教育が相当程度に普及していたと考えれています。

2000年以上も前にローマ帝国内で実施されてきた医療、教育の仕組みは、国の政策や財源によって社会保険義務教育といった制度が提供されなければいけないといった現代では当然だと考えられている常識をもう1度見つめ直すほどの可能性を秘めているのかも知れません。

ローマ人の物語〈27〉すべての道はローマに通ず〈上〉

ローマ人の物語〈27〉すべての道はローマに通ず〈上〉 (新潮文庫)

本巻「すべての道はローマに通ず」ではローマの通史から一旦離れて、ローマ人たちの残したインフラに焦点を当てています。

たとえば日本で代表的な遺跡といえば古墳が有名ですが、そのほか現代に残っているものとしては仏閣や城などが代表的なものです。

もちろんローマ人も神殿や競技場(コロッセウム)を建設しましたが、現代人から「インフラの父」と呼ばれているローマ人がもっとも重視したのが街道水道でした。

日本にも古来から伝わる街道は存在しますが、ローマ人のそれはまったくスケールの違うものでした。

著者の塩野氏はそれを"古代の高速道路"と評しています。

幹線に相当する道路は完全に平坦にならされた地面に4mの車道を設け、そこへ接面がぴたりと合うように切った1辺が70cmの大石を敷き詰め、さらに両脇には3mずつの歩道を完備しました。
加えて道路に沿って排水溝を設けることで、雨水や雪解け水を効率よく排水することを可能としていました。

道は可能な限り直線かつ平坦に整備し、必要があれば山にはトンネル、そして川は、谷には陸橋を通すといった徹底したものでした。

そんな幹線がローマ帝国内に8万キロもの長さによって敷かれ、支線までを含めた街道の総延長はなんと15万キロもの長さとなり、帝国中に血管のように張り巡らされていました。

それは地球3周分にも及ぶ距離であり、古代にこれだけのスケールのインフラを整備したローマ人には驚嘆せざるを得ません。

そんな街道は平和時には異文化同士の交流、そして経済の活性化に大きく寄与し、非常時には軍道路として辺境へ素早く軍を移動させることを可能としました。

古代中国人は敵を防ぐために万里の長城を築き、古代ローマ人は同じ目的で街道を敷設したという点だけを見ても、敗者さえも同化させることを伝統としてきた古代ローマ人の特徴を知ることができます。

さらに「インフラの父」といわれたローマ人の真骨頂は、街道を敷設するだけでなく、たとえば敷き詰められた石が摩耗すればそれを交換するといった不断のメンテナンスを行い続けてきた部分にあります。


他の巻も同様ですが、街道や橋を建設する過程を図解で解説してくれている部分は読者の理解を助けてくれますし、さらに本巻に限ってはローマ時代の街道や水道をはじめとした現代も残る遺跡をカラー写真が掲載されています。

もちろんローマ人にとってのインフラの役割の重要性を説くだけでなく、ローマ時代に旅行者が使用したコップの形をした街道案内、地図といった当時の風景もしっかりと伝えてくれます。

ローマ人の物語〈26〉賢帝の世紀〈下〉

ローマ人の物語〈26〉賢帝の世紀〈下〉 (新潮文庫)

前巻に引き続いて、本巻の前半ではハドリアヌスの治世について、後半ではアントニヌス・ピウスの治世が紹介されています。

相変わらずハドリアヌスは、ローマ帝国の国境をくまなく視察する巡行を続けてゆきます。

その時の様子を同行者は次のように書き残しています。

-われわれは、アプソルスにいた。補助兵から成る五個大隊が駐屯している基地である。われわれ一行は、まず兵器庫を視察した。そして基地をめぐる防壁も、その防壁の外側に掘られている壕も見てまわった。その後で、傷病兵たちを見舞った。病棟を出た足で倉庫に向い、食糧の備蓄状態も調査した。同じ日のうちに、近くの城塞や要塞も視察してまわった。また、騎兵たちの演習も観戦した。この騎兵基地でも、基地の防壁をまわり、壕も外側から視察し、病棟を訪れ、食糧倉庫や兵器庫を視察することをくり返したのであった。-

こうした正規兵の駐屯していない基地さえもローマ帝国皇帝みずからが入念なチェックを行ったのですから、天皇の行幸や将軍のパレードとはまったく異質のものだったのです。

またこの視察によって治世の大半が費やされたことにも納得できます。

ただしハドリアヌスには、当時のローマ知識人に共通していた"ギリシア文化への傾倒"という個人的な趣味がありました。

そこでギリシア文明が色濃く受け継がれているエジプト(アレクサンドリア)や、アテネにしばし滞在することはしましたが、皇帝ネロのように政務をないがしろにし、財政を悪化させるような傾倒は決してしませんでした。

あくまでも視察を終えたあとの息抜きというレベルに留めておいたのです。

何よりもハドリアヌスの偉大さは、彼の治世において外敵らしい外敵が来襲することもなく、まったく平和な時代に安全保障の総点検を行ったということです。

しかし長年の過酷な巡行がハドリアヌスの頑強な肉体さえも蝕み、すべての巡行を終えたハドリアヌスはローマに帰還した途端に体を壊し、後継者とし見込んでいたアエリウスが若くして結核で亡くなったことも加えて、著しく老衰することになります。

若い頃は剣闘士並みの屈強さを誇ったハドリアヌスだけに、そんな自分への腹立ちも大きかったようで、それが元老院への八つ当たりのような形で現れ、その関係が険悪となりますが、それも彼の後を継いで皇帝となったアントニヌス・ピウスによって解決されるのです。

アントニヌス・ピウスは穏健な性格であり、強力なリーダーシプを発揮するタイプではなく、周りとの協調性を大切にした皇帝です。

そのため独断ではなく、元老院へ協力を求める形で政策を進めていったのです。
それは"ピウス"には"慈悲深い人"という意味があり、そのあだ名がそのまま名前になったことからも知ることができます。

その治世は23年間にも及んだにもかかわらず、あまにりも問題がなく、歴史家たちが記録すべきことが殆どないと嘆いた"ローマ人が最も幸せであった時代"だったのです。

外敵が来襲することもなく、トライアヌスのように領土を広げる戦争も、そしてハドリアヌスのように辺境をくまなく視察を行う必要もありませんでした。

外見から見れば"平和を維持する"という意味では、五賢帝の中でもっとも優れた治世を実現したアントニヌス・ピウスでしたが、それはひょっとするとローマ帝国の住民たちに「晴れの日にこそ嵐に備える」ことを忘れさせ、"平和ボケ"をもたらしてしまったのかも知れないのです。

ローマ人の物語〈25〉賢帝の世紀〈中〉

ローマ人の物語〈25〉賢帝の世紀〈中〉 (新潮文庫)

本巻では「至高の皇帝」といわれたトライアヌスの後を継いだハドリアヌスが登場します。

先代の業績が偉大であればあるほど、それを後継する者のプレッシャーは大きなものになりますが、トライアヌスはローマ皇帝に即位した直後から大きな問題に直面しなければなりませんでした。

まずはトライアヌスが志し半ばで倒れることになったパルティア遠征については、同時期に発生したローマ帝国内のブルタニア、北アフリカ、ユダヤ人の反乱を鎮圧させることを優先するため軍を引き上げることにします。

つまり先代トライアヌスの悲願であったパルティア王国の制圧を目立たない形で幕引きをすることに苦心することになります。

続いては近衛軍団長官であり、後見人の1人でもあったアティアヌスから先帝の重臣ら4人が反ハドリアヌスの陰謀を企てているという密書が届くのです。

彼ら4人はいずれも有能かつ有力な元老議員でしたが、アティアヌス率いる近衛軍によって陰謀が表面化する前に素早く粛清を実行します。

アティアヌスはハドリアヌスにとって後見人、すなわち養父とも言える存在であり、この粛清がハドリアヌス自身の指示によるものだったのか、それともアティヌス自身が独断でハドリアヌスの地位を盤石にするための独断だったのかは、ローマ史の謎の1つとされているようです。

ともかく内乱に発展しかねない大きな危機は回避できたものの、トライアヌス時代には良好だった皇帝と元老院の関係に緊張が生まれたことは事実であり、真相が解任か辞任かは別として、近衛軍団長官の地位にあったアティヌスが退くことで事態を収拾させます。

皇帝就任直後には慌ただしい出来事が続きましたが、その後はローマにおいて信用回復のために「寛容、融和、公正、平和」というモットーを打ち出し、またそれを忠実に実行することで平和なローマ帝国を維持し続けることになるのです。

またハドリアヌスは浴場(テルマエ)好きでも知られており、ローマ市民たちも利用する公衆浴場に足繁く通っては裸の付き合いをすることで、ローマ市民からの支持も得るこという一石二鳥の効果をもたらします。

ちなみに日本で大ヒットした映画「テルマエ・ロマエ」シリーズに登場するローマ皇帝はこのハドリアヌスです。

やがてローマに腰を据えて4年が経過し、ローマ帝国の平和とローマ皇帝としての地位が盤石であることを確信したハドリアヌスは、歴代の皇帝たちが誰1人として計画しなかったことを実行に移します。

それは皇帝みずからが広大なローマ帝国の領土をめぐる視察巡行です。
しかもこの視察巡行は、結果的に自らの治世の大半を使って行われるほど徹底したものでした。

国境を守る軍団基地へ赴き、兵士たちの前で激励演説を行い、軍団長たちの適正な人事(配置換え)、そして必要とあれば防衛戦の補修や建設を実行し、さらにコスト削減にまで目を光らせるといった目まぐるしいものでした。

ちなみに本巻ではハドリアヌスの国境視察に合わせる形で、ローマ帝国の防衛線がどのように構成されていたのかを解説しています。

当時は随一の軍事力を誇っていたローマ帝国でしたが、その領土面積は広大であり、人数の面からもコストの面からも長大な防壁に兵士を張り付かせておくほどの余裕などまったくありませんでした。

そのため防壁の内側、つまり領土内には網の目のように幹線道路を張り巡らし、平時にはローマ帝国の住民たちが経済活動などに利用し、有事の際にはたちまち軍事道路として活用される仕組みを導入していました。

たとえば蛮族が攻め込んで来た時には、少数の兵士たちが防壁や塹壕を利用して敵を防ぎ、その間に狼煙によって敵襲を知った近くの軍団基地から完全舗装された幹線道路を利用して大軍が素早く派遣され、最後には敵を撃退するといった効率的な仕組みを築き上げたのです。

しかも軍団基地には設備の整った軍病院や浴場(テルマエ)もしっかりと用意されていたのです。

これらローマ軍団の優れたシステムそのものが、ローマ皇帝の統治能力といった属人的な要素を最小限に抑え、長い期間に渡ってローマ帝国へ平和をもたらした最大の要素となったのです。

いわばハドリアヌスの視察巡行は、このシステムを現地で整備・点検する目的で行われたものであり、また軍団経験の長いハドリアヌスの現場視察における指示は適切だったのです。

ローマ人の物語〈24〉賢帝の世紀〈上〉

ローマ人の物語〈24〉賢帝の世紀〈上〉 (新潮文庫)

本巻から始まる「賢帝の世紀」では3冊に渡ってローマ帝国の五賢帝時代に触れられています。

ちなみにローマの五賢帝は、世界史を選択した受験生にとっては暗記すべき必須のローマ皇帝であり、本書によってローマ史の魅力と出会う前の私にとってこの暗記は苦痛だった記憶があります。

  • ネルウァ(ネルヴァ)
  • トラヤヌス(トライアヌス)
  • ドリアヌス
  • アントニヌス・ピウス
  • マルクス・アウレリウス

※カッコ内は本書記載名。

ちなみに太字部分をつなげて「寝るトラは安心して背を丸くする」という暗記方法があるようです。

五賢帝の1人目であるネルヴァは70歳で皇帝となり、72歳で亡くなる皇帝ということ、またその最大の業績が(結果的に)トライアヌスを後継者に指名したことが評価されていることを考えれば、実質的には"4賢帝時代"としても良いかもしれません。

一方で本書を読んだ読者であれば、ネルヴァの前に登場した3人の皇帝(ヴェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌス)の時代からローマ帝国は平和と繁栄を享受していたことを知っているため、8賢帝としても差し支えが無いという考え方も出来るのです。

所詮こうした括りは後世の高名な史学者たちの分類であるに過ぎないことを「ローマ人の物語」で塩野七生氏は繰り返し述べています。

本巻ではトライアヌスの治世に触れらています。

至高の皇帝」と讃えられたトライアヌスだけに元老院、ローマ軍団兵士、ローマ市民といったすべての層から支持を受けて皇帝の座に就きます。

そして軍事面ではダキアを征服しローマ帝国に最大版図をもたらし、緻密な計画の元に数多くの公共事業を進めつつも財政の健全性は維持するといった皇帝としては申し分のない責任を果たします。

しかし本書で紹介されているトライアヌスとプリニウスとの往復書簡の内容を見ると、細かい事象1つ1つまでに目を配り、大きな枠での政治的バランスも配慮するといった、まさしく心身が削られるような忙しい毎日を送っていたことが分かります。

少なくともローマ帝国に求められる皇帝像とは、すべてを部下に任せ自らは豪遊するといった生活とは無縁であり、誰よりも大きな責任と結果を出さなければいけない過酷な立場だったのです。

著者はローマ皇帝の治世が20年程度で終わってしまう例が多いのは、その激務ゆえ20年を限界に燃え尽きてしまうからではないかという推測さえしています。

そんなトライアヌスもローマから離れたパルティア遠征の最中で病に倒れることになります。

63歳で20年にも及ぶ治世に幕を閉じたトライアヌスでしたが、それでもカリグラやネロは別としても立派に皇帝としての責務を果たしていたにも関わらず、元老院やローマ市民からの評判が悪かった皇帝も少なくない中で、誰からも愛され「至高の皇帝」と評された彼の人生は幸せだったのかも知れません。