ローマ人の物語〈29〉終わりの始まり(上)
27巻、28巻では古代ローマ通史を一時中断して、ハード・ソフトの両面から見た古代ローマのインフラが話題となりましたが、本巻からは26巻「賢帝の世紀」アントニヌス・ピウスの治世を続きを引き継ぐ形で再開されます。
本巻でまず登場するのは、アントニヌス・ピウスに後継者として指名され、五賢帝時代最後を飾り、ギリシア発祥のストア派哲学に傾倒したことから哲人皇帝とあだ名されることになるマルクス・アウレリウスの治世に触れられています。
彼自身が書き残した「自省録」が後世に伝わっていることから、五賢帝の中でもっとも有名な皇帝ではないでしょうか
※「自省録」については本ブログでも紹介しています
マルクスは、将来のローマ帝国を背負って立つ人物に相応しい帝王教育を受けて育ちます。
一方で52歳で皇帝に即位したアントニヌス・ピウスでしたが、結果的としては74歳で天寿を全うするまで治世が続きました。
そのためその後を継いで皇帝となるマルクス・アウレリウスは、青年期の教育期間を経て、その後アントニヌスの右腕としても充分な経験を積んだ40歳にときに即位するのです。
万全の体制で皇帝となったマルクスですが、就任早々に前例のない宣言を元老院で打ち出します。
それは自分と共に先帝アントニヌス・ピウスの養子になっていた、つまり義弟のルキウス・ヴェルスを共同皇帝として指名したのです。
ローマ帝国内にまったく同格の皇帝が2人存在する状態で治世をスタートさせたのです。
物静かで思慮深いマルクスと、明るく開放的なルキウスの性格は対照的でしたが、2人の仲は良好だったようです。
広大なローマ帝国の統治は激務であり、たとえば2人の皇帝で内政と軍事の責任を分担することで効率のよい統治が可能になるとマルクスは考えたかも知れません。
しかし結果的にこの方針は、マルクスの負担を減らすことにはなりませんでした。
たしかにルキウスは、兄マルクスの地位を脅かすような野心を微塵も持ち合わせていませんでしが、同時に天真爛漫なルキウスは、皇帝としての責任感が欠如していたのです。
ルキウスがマルクスの苦労も知らずに友人たちと気楽に遊びまわっている間、マルクスが1人で皇帝としての責務を果たすことになるのです。
それでも皇帝が2人いることによって、マルクスの心理的負担が対多少は楽になった部分があったかも知れませんが、共同統治8年にしてルキウスが病死してしまいます。
今度こそ名実ともローマ帝国唯一の皇帝としての責務が、マルクスの両肩に重くのしかかって来るときが来たのです。
さらに皇帝マルクスにとって不幸だったのは、23年間にわたる先帝アントニヌス・ピウスの統治時代には起こらなかった蛮族の侵入が、立て続けに発生したことです。
休む時間もなく蛮族の撃退のため辺境へ赴く皇帝には、"哲人"としてではなく"鉄人"としてのタフさが求められたのです。