本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

山怪 山人が語る不思議な話

山怪 山人が語る不思議な話

日本の山には何かがいる。
生物なのか非生物なのか、固体なのか気体なのか、見えるのか見えないのか。
まったくもってはっきりとはしないが、何かがいる。
その何かは、古今東西さまざまな形で現れ、老若男女を脅かす。
誰もが存在を認めているが、それが何かは誰にも分からない。
敢えてその名を問われれば、山怪と答えるしかないのである。

本書の冒頭はこのようはじまりますが、内容はホラー小説でもなければ心霊現象を取り扱ったものでもなく、日本各地の山間部で暮らす人びとの不思議な体験や言い伝えをひたすら収録しています。

著者の田中康弘氏は長年にわたり山関係、狩猟関係の現場を渡り歩いたノンフィクション作家ですが、本来こうした不思議な体験談は取材過程のサイドストーリー、もしくは副産物に過ぎませんでした。

元々は囲炉裏で語られたきたようなこのような民話は、現代では全滅しているといっても過言ではありません。

電気が日本の隅々にまで行き渡り、テレビやインターネットが普及して久しいですが、もはやとうに年寄りの昔話は子どもたちにとって娯楽ではなくなっているのです。

そもそも何十年にもわたり核家族化と過疎化が同時進行している状況下で、老人たちが昔話を語る相手さえいないというのが現実です。

著者はこうした小さな逸話が絶滅の危機に瀕していることに気付き、本格的に収集をはじめたのです。

この視点はまさに慧眼というべきものでしょう。

かつて柳田國男によって明治43年に発表された「遠野物語」もまったく同じ視点で発表された本ですが、100年以上前の時点で柳田氏は多くの民話が明治近代化とともに失われつつあるという危機感を抱いていました。

はたして21世紀の現時点でめぼしい逸話が収集できるのか個人的には疑問でしたが、著者はそれを見事にやってのけます。

むしろ21世紀に入ってからも山では新しい逸話が生まれ続けていることに驚きを覚えます。

収録されているエピソードのほとんどは狐火を見た話、大蛇を目撃した話、山に轟く謎の音など、実際の体験談であるが故に起承転結がなくとりとめのない小さな素朴な逸話ばかりですが、だからこそ私自身は食い入るように読み続けてしまうのです。

まずは現在も数少ないマタギ文化が残っている、またマタギ発祥の地といわれる秋田県阿仁地区のエピソードから不思議で魅力的な世界がはじまります.....。

赤と黒 (下)

赤と黒 (下巻) (新潮文庫)

上巻のレビューでは、本作品を恋愛小説、社会風刺小説、そして主人公ジュリヤンの立身出世の物語という3つの要素が含まれていると紹介しました。

実際にどの要素が印象に残るかは、読者によって異なると思いますが、私自身は立身出世の物語として印象が強く残りました。

恋愛小説をまったく読まない訳ではありませんが、美青年と貴婦人、または美少女の恋愛という構図は、当時の読者層(おもに女性)には喜ばれたかも知れませんが、私自身はどうも感情移入も共感も難しい設定です。

社会風刺小説という点では申し分のない内容ですが、著者のスタンダールは当時の支配階級である貴族や聖職者へ対して容赦ない非難を浴びせています。
その舌鋒の鋭さは、反社会的とさえいえます。

またスタンダールはそれなりの野心を持っていましたが、現実には恋愛や出世、そして作家活動さえもうまく行かず、存命中はほとんど顧みられなかった人物であり、その鬱憤を作品中に書き連ねたという側面があることも否めません。

その点でジュリヤンが野心を抱き貴族や聖職者たちへ近づき立身出世を図るという構図は、スタンダール自身の心情と重なる部分があり、(多かれ少なかれどの小説にも言えることですが)赤裸々な私小説としての要素が垣間見れます。

ジュリヤンは聖書やラテン語に通じた才能豊かな美青年でしたが、貴族階級を心底憎み軽蔑していたため、決して彼らと同化することはありませんでした。

これは彼自身の立身出世を考えれば矛盾する理屈であると同時に、その烈しい感情がその聡明な頭脳さえも支配したということです。

文学作品にしばしば登場する青年は、自己を確立しきれていない矛盾と混沌を抱えた存在であり、それ故に強烈なエネルギーを周囲に放つことで魅力的な主人公になりえるのです。

たとえば大江健三郎氏の「遅れてきた青年」は本書より130年後に発表された作品ですが、野望と混沌としたエネルギーを秘めていたという点で両主人公に驚くほど共通点があります。

本作品はフランス革命、ナポレオンの台頭を経て王政復古の時代に書かれた作品ですが、王党派を批判し先鋭化した自由思想の持ち主であったスタンダールが、あと20年早く生まれて青年として革命に立ち会ったならばまったく別の作品を書いたのではないでしょうか。

赤と黒 (上)

赤と黒 (上) (新潮文庫)

日本のみならず世界的に大きな影響を与えたフランス文学
そのフランス文学の中でも最高傑作の1つに挙げられるのが1830年に発表された本書スタンダールの「赤と黒」です。

文庫本にしても800ページにも及ぶ長編ですが、この作品には多くの要素が含まれています。

まず挙げられるのが、美しき青年ジュリヤンレーナル夫人、そしてラ・モール嬢との愛を描いた恋愛小説としての要素、そして彼女たちをとりまく貴族階層や聖職者たちの暮らしや処世術を社会風刺小説として描いた側面、さらに製材屋の息子として生まれたジュリヤンが、野心を心に秘めながらフランスの片田舎からパリへと上京し権謀術数の中で立身出世してゆく小説として読むことができます。

多く要素を詰め込むことで作品全体の焦点がぼやけてしまい、印象に残らない小説になってしまう危険性がありますが、この「赤と黒」はどの要素も高いレベルで完成されています。

身分が低く何の後ろ盾も持たないジュリヤンは、地方の有力者であるレーナル夫人の3人の子どもたちの家庭教師として住み込むことになりますが、そこから身分の違いという理由以前に不倫という禁断の恋愛に発展してゆき、続いてラ・モール伯爵の秘書として有能な活躍するジュリアンと彼の愛娘との恋は、父親が有力貴族との政略結婚を望んでいる中での裏切り行為になってしまうというジレンマを抱えています。

そこで描かれる葛藤や恋の駆け引きは、当時の主な読者層であるご婦人方でなくともドキドキハラハラなくしては読めなかったでしょう。

この小説が執筆・発表された時期は1814年~1830年の王政復古の時期にあたり、ここで描かれる有力者へ対する痛烈な社会風刺は、もはや風刺のレベルに留まらずスタンダール自身の政治的主張までもが垣間見れる過激な内容になっています。

立身出世を企む主人公ジュリヤンは、貴族や高位にある聖職者へ憧れを抱くのではなく、徹底的に彼らを軽蔑し嫌悪しながらも利用しようとするのです。

フランスにおける絶対君主制の崩壊、フランス革命、それに続くナポレオンの台頭と失脚の末に訪れた王政復古は、世界史の中でもっとも受験生を悩ませる複雑な時期でもあり、当時の社会的、政治的な停滞を小説を通じて鋭く観察している点は、本書が不朽の名作と評される大きな要素となっているはずです。

私自身が文学史に詳しい訳ではありませんが、ともかく18世紀前半に書かれた小説が、21世紀の読者を楽しませてくれるという点だけでも読む価値があります。

聞き出す力

聞き出す力

プロインタビュアーを自称する吉田豪氏が「週刊漫画ゴラク」で連載したコラムを書籍化した1冊です。

プレゼンテーションを指南する書籍が多い中で、聞く側をテーマにした阿川佐和子氏の「聞く力」がベストセラーとなりましたが、本書はそのブームに便乗したことを著者はあっさりと認めています。

吉田氏の単行本を読むのは今回がはじめてですが、ずいぶん前に購読していたプロレス雑誌で彼の記事はかなり読んだ記憶があります。

当時はプロレスラーや格闘家のインタビューがメインでしたが、その内容はいつも個性的でした。

それは試合の内容を細かく言及してゆくよりも、試合以外の話題を掘り下げる傾向があり、そこからは意外性のある(もしくはいかにもその人らしい)エピソードが飛び出してきます。

いずれにせよ面白い記事だったことは間違いありませんでしたが、出版不況により雑誌が次々と休刊してゆく過程で、元々実力のあった吉田氏がプロインタビュアーへ転身して活躍していることにそれほど違和感はありませんでした。

肝心の本書の内容ですが、やはり予想通りというべきかインタビューのテクニックに関することは読んでいてもあまり頭に入ってきません。

たとえばインタビュー前に入念に下調べをするという点は、プロとしての真摯な姿勢を感じるものの、それほど目新しさは感じさせません。

それよりも折に触れて明かされる過去のエピソードの方が圧倒的に面白いのです。

大物俳優からアイドル、スポーツ選手、政治家に至るまでさまざまなジャンルの有名人にインタビューを試みています。

例えば吉田氏が長渕剛のインタビューのためにスタジオを訪れてみたら、彼は本格的な機器を現場に持ち込んでのハードなトレーニング中であり、インタビュー内容も「殺すぞ!」とか「死ぬ気」を連呼する物騒な内容になった挙句、原稿チェックで発言内容が大幅に修正されていたなど、数々のエピソードが収録されています。

つまり本書は上手なインタビュー(聞き手)の指南書としてだけでなく、こうした楽しいエピソードを期待して読むだけでも充分に価値があるのです。

下天を謀る〈下〉

下天を謀る〈下〉 (新潮文庫)

藤堂高虎の生涯を描いた歴史小説「下天を謀る」の下巻レビューです。

人生に8度も主君を変えたといわれるだけあって、高虎の実像は分かりにくい側面があります。

傍目からは、常に強い方へ鞍替えを続けた世渡り上手という見方ができますが、それだけの男であれば家康から絶大な信頼を得て32万石もの大名にまで出世はできません。

たとえ有能であっても、いつ裏切るか分からない武将を側に置いておくほど家康は甘い男ではないからです。

本作品で高虎の運命を変えた人物として登場するのが、牢人暮らしをしていた高虎を見い出して召し抱えた羽柴秀長です。

秀長は秀吉の弟として軍事のみならず内政にも手腕を発揮した温厚な人物として知られますが、武力一辺倒だった高虎を文武両道の武将として成長させてくれた恩人になったのです。

秀吉政権下で朝鮮出兵(文禄・慶長の役)へ反対していた秀長でしたが、その直前に病死するという不幸に見舞われます。

さらにその後を継いだ養子の秀保も早世してしまい、秀長の家系(大和豊臣家)はあっけなく断絶してしまいます。

高虎は豊臣家直系の大名として取り立てられますが、亡き主人・秀長と行動を共にしていた千利休豊臣秀次らが次々と切腹を命じられるに至り、豊臣政権へ対して高虎自身の心も離れてゆきます。

これが秀吉の死後、豊臣家で重宝されている大名(徳川家から見た外様大名)にも関わらず、いち早く家康へ味方することになるのです。

高虎が損得勘定だけの人間でなかったことは、関ヶ原の戦い大阪の陣でも激闘を繰り広げ、体中隙間がないほど戦場傷に覆われていたというエピソードからも分かります。

戦場での功名を追いかけてきた高虎が、どういう遍歴を辿って天下を宰領を補佐するまでに至ったのか。
長編小説ということもあり実績だけではなく、その内面的な変化についても細かく描写されています。

藤堂高虎の新しい人物像を開拓したスケールの大きな歴史小説として、戦国時代ファンなら是非抑えておきたい作品です。

下天を謀る〈上〉

下天を謀る〈上〉 (新潮文庫)

最近紹介する機会の多い安部龍太郎氏の歴史小説ですが、今回の主人公は藤堂高虎です。

浅井長政にはじまり徳川家康に仕えるまで実に8度も主君を変えたといわれ、のちに32万3,000石の大大名となった戦国武将です。

儒教に影響された江戸時代の武士道は主君へ忠義を貫き通すことを美徳としていましたが、戦国時代は主君を見限って他家に仕えることは必ずしも悪いことではありませんでした。

現代でいえばキャリアアップのために転職をするようなものであり、実際に高虎も主君を変えるたびに出世してゆきました。

彼のキャリアを見てゆく上で比較として分かりやすいのが石田三成です。

二人とも同じ近江の出身であり、浅井家の滅亡後ほぼ同じ時期に三成は秀吉に見出され、そして高虎は秀吉の弟である秀長に仕えることになります。

同じ豊臣家(羽柴家)の家臣として、三成は文官タイプ、高虎は武将タイプとして順調に頭角を現してゆきます。

そして秀吉の死後、高虎はいち早く豊臣家を見限り徳川家康に急接近しますが、三成は徳川家と敵対し関ヶ原の戦いで敗れて滅びることになります。

藤堂高虎の身の丈は六尺三寸(約190cm)あったといわれ、その体躯から分かる通り猛将として敵将を討ち取り手柄を挙げてきました。

ただし歳を重ねるにつれ築城の名人として、また内政や外交の面でも手腕を発揮して文武両道の武将として家康から重宝されました。

高虎は家康の最期にあっても外様大名で唯一枕元に侍ることを許され、その死後も2代将軍秀忠、3代将軍家光の世話役を勤めるなど、三河以来の家臣以上に信頼されていたのです。

本作品は上下巻合わせて1000ページ近くに及ぶ大長編歴史小説です。
多くの武将が現れては消えていった戦国時代を最後まで生き抜き、太平の世を見届けた藤堂高虎の生涯を思う存分味わうことができます。