赤と黒 (下)
上巻のレビューでは、本作品を恋愛小説、社会風刺小説、そして主人公ジュリヤンの立身出世の物語という3つの要素が含まれていると紹介しました。
実際にどの要素が印象に残るかは、読者によって異なると思いますが、私自身は立身出世の物語として印象が強く残りました。
恋愛小説をまったく読まない訳ではありませんが、美青年と貴婦人、または美少女の恋愛という構図は、当時の読者層(おもに女性)には喜ばれたかも知れませんが、私自身はどうも感情移入も共感も難しい設定です。
社会風刺小説という点では申し分のない内容ですが、著者のスタンダールは当時の支配階級である貴族や聖職者へ対して容赦ない非難を浴びせています。
その舌鋒の鋭さは、反社会的とさえいえます。
またスタンダールはそれなりの野心を持っていましたが、現実には恋愛や出世、そして作家活動さえもうまく行かず、存命中はほとんど顧みられなかった人物であり、その鬱憤を作品中に書き連ねたという側面があることも否めません。
その点でジュリヤンが野心を抱き貴族や聖職者たちへ近づき立身出世を図るという構図は、スタンダール自身の心情と重なる部分があり、(多かれ少なかれどの小説にも言えることですが)赤裸々な私小説としての要素が垣間見れます。
ジュリヤンは聖書やラテン語に通じた才能豊かな美青年でしたが、貴族階級を心底憎み軽蔑していたため、決して彼らと同化することはありませんでした。
これは彼自身の立身出世を考えれば矛盾する理屈であると同時に、その烈しい感情がその聡明な頭脳さえも支配したということです。
文学作品にしばしば登場する青年は、自己を確立しきれていない矛盾と混沌を抱えた存在であり、それ故に強烈なエネルギーを周囲に放つことで魅力的な主人公になりえるのです。
たとえば大江健三郎氏の「遅れてきた青年」は本書より130年後に発表された作品ですが、野望と混沌としたエネルギーを秘めていたという点で両主人公に驚くほど共通点があります。
本作品はフランス革命、ナポレオンの台頭を経て王政復古の時代に書かれた作品ですが、王党派を批判し先鋭化した自由思想の持ち主であったスタンダールが、あと20年早く生まれて青年として革命に立ち会ったならばまったく別の作品を書いたのではないでしょうか。