光る壁画
著者の吉村昭氏は、江戸・明治期に活躍した医術家や医師を題材にした歴史小説を多く手掛けていますが、その中で本作は現代医療を題材にした珍しい作品であるといえます。
著者は小説の資料集めのため南アフリカを訪れた際に、そこにあった胃カメラを世界ではじめて開発したのが日本人だということを教えられ、本作品を執筆するきっかけになったといいます。
実際の作品を読んでゆくと、胃カメラの開発は戦後間もない1949年(昭和24年)から開始されたことが分かり、その歴史が案外古いことに驚きました。
東大附属病院の医師・宇治達郎は、胃の中をカメラで撮影することで病気を早期発見できると考え、その開発をオリンパスカメラ(作品中ではオリオンカメラ)社へ依頼するところからストーリーが始まります。
口から入れる胃カメラには高い安全性と患者へ苦痛を与えないことが条件になります。
胃カメラの構想自体は戦前からあったものの、幾つもの障壁があることが分かり、世界中を見渡しても実用化には遠い状態でした。
戦後間もない物資が不足しがちな時代の中で、若い医師と技術者が世界初の製品を作り上げるために奮闘する姿が吉村氏らしく緻密に描かれています。
胃カメラの管の直径に厳しい制限があるのはもちろんのこと、そこには柔軟性や防水性が求められ、さらにカメラの小型化、胃の撮影に特化したレンズの開発、小型で強力なフラッシュの開発など、作品の中では数々の問題を乗り越えながらカメラの開発が続けられています。
ここまでの内容だとドキュメンタリー作品のような雰囲気ですが、著者はここに小説としての要素を大胆に取り入れています。
それは主人公を曾根菊男というカメラ会社の研究員に設定し、彼が単身赴任で胃カメラの開発に従事する一方で、新婚間もない妻との微妙な関係を描いているという点です。
製品の開発が難航する以上、どうしても連日の残業は避けられない状態であり、妻との間に生まれる心理的な距離感の中で仕事と家庭を両立させようとする主人公の苦悩が小説らしく描写されており、こうした要素が作品を重厚なものにしています。
ちなみに世界で初めて胃カメラを製品化したオリンパスは今でも世界シェア7割を誇る圧倒的なトップメーカーであり、何よりも世界中で早期がんなどを発見することで多くの命を救ってきた功績は計り知れないものがあるのです。
日本の渚
日本の原風景という言葉があります。
それはのどかな里山や田畑に囲まれた農村といったような風景ですが、個人的にはその中に海辺の風景といったものが浮かんできません。
それは日本が四方を海に囲まれているにも関わらず、そうした昔の姿を偲ぶような景観が殆ど残されていないのが原因です。
本書は1999年に刊行されていますが、タイトルの副題には"失われてゆく海辺の自然"とあり、多くの海岸が埋め立てられたり護岸工事によって本来の姿を失っていることを表しています。
たとえばかつての江戸湾には遠浅の広大な干潟があり、さらに河口の汽水域には葦が生い茂り豊かな生態系を保っていました。
そこで行われる潮干狩りやアオギスの脚立釣りは江戸の風物詩の1つでしたが、今の東京湾に当時を偲べるような風景はまったく残されていません。
本書では生態学者の加藤真氏が、渚を干潟、藻場、砂浜、サンゴ礁、ヒルギ林(マングローブ林)に分けて、それぞれの原風景をひともときながら、そこでの多用で豊かな生態系機能が解説されています。
とくに著者の専門である生態系については、海辺の植物や海藻、貝、カニ、エビ、魚などが広範囲に紹介されており、写真や図解などが随所に取り入れられています。
一方でこうした昔からの自然が残されている海辺は日本全国で行われたウォーターフロント開発により、今では本当に僅かしか残されていないことにも気付かされます。
また人びとの生命や財産を自然災害から守るための防波堤は、自然環境や生態系に深刻な影響を与えるといった難しい問題も抱えています。
サンゴ礁、ヒルギ林といった南国特有の渚の風景についても詳しく紹介されているのは嬉しいですが、ここでも深刻な自然破壊が進んでいる現実が紹介されています。
かつて沖縄本島は四方をサンゴ礁に囲まれた美しい渚をもった島でしたが、海辺の人口護岸だけでなく、内陸部の開発に伴う赤土流出などが要因で殆どが死滅状態にあります。
また本書が発行された当時は深刻な状態ではなかったため触れられていませんが、地球温暖化による海水温の上昇によってサンゴの白化現象が深刻であることも報道されています。
本書は渚の豊かな自然と生態系を教えてくれると同時に、一度破壊されたら取り返しのつかない貴重な財産であることを読者に教えてくれるのです。
ポーツマスの旗
吉村昭氏による日露戦争後に調印されたポーツマス条約の全容を描いた歴史小説です。
この戦争は双方100万人以上の戦力を投入し、数十万人の死傷者を生み出した20世紀初の国家総力戦となったこともあり、世界的にも知られている戦争です。
この戦争の経過については司馬遼太郎氏の代表作「坂の上の雲」に詳しく書かれていますが、この後に行われた講話条約に焦点を当てているのが吉村氏らしいといえます。
日本側見ると当時のロシアは国土面積はもちろん経済力・軍事力の面でも大国であり、世界的に見てもこの戦争はロシアの勝利に終わると予想されていました。
また日本の政治・軍事含めた指導者たちは開戦前から軍事力でロシアを屈服させることは不可能であると判断し、局地的な戦闘で優位に立った上で第三国の仲介による講和へ持ち込むことを前提に戦争へと踏み切った背景がありました。
一方でロシア側は勝利を確信した上で開戦しましたが、逆にこの日本への過小評価が思わぬ敗北を招いたといえます。
日本は旅順要塞攻略や奉天会戦、日本海開戦で勝利を得たとはいえ、経済的な限界により戦争を継続できる状態ではなく、このタイミングでの講和条約はシナリオ通りだったといえ、ロシア皇帝ニコライ2世は強固な戦争継続を主張していました。
しかしロシア国内でも帝政や戦争へ対する批判から本格的な革命の気運が高まりつつある不安定さを抱えていたため、最終的には講和条約の席に就くことになります。
このポーツマス条約は一流の政治家、外交官たちによる、あらゆる駆け引きや工作を駆使しながらの交渉であり、作品の至るところからその緊張感が伝わってきます。
このときの日本側全権が当時外相であった小村寿太郎です。
彼の身長は150cm程度と当時の日本人男性の中でも低い方であり、ロシア側全権のウィッテは180cm以上の大男であったことから、2国間の国力差がそのまま2人の体格差として表れているような印象さえありました。
加えて木村は外交官としての経歴が長いにも関わらず社交的ではなく、1人で読書することを好む性格でした。
これには自らの外見へのコンプレックスや病弱だったという要因が関係しているかも知れません。
さらにプライペートでは実家の事業失敗により莫大な借金を抱えており、妻や子どもとの関係は不和で実質的に家庭崩壊の状況にあるなど、その私生活には暗いイメージがつきまといます。
ところが木村はいざ講和条約の席に臨むと強靭な精神力と交渉力を発揮します。
そこには国益を左右する交渉の責任者としての立場を果たそうという覚悟が感じられ、この条約締結直後に体調を大きく壊してしまうほど全身全霊で臨んだのです。
奇しくも日露戦争で世界最強といわれたコサック騎兵を破り「日本騎兵の父」の呼ばれた秋山好古は、「男子は生涯、一事をなせば足る」を座右の銘としていまたが、まさしくポーツマス条約締結における小村寿太郎がそうだったといえます。
一方で当然のように戦争継続のための財政が枯渇しつつあり、兵器や備品も不足している状況を日本国民は知りませんでした。
木村が挙げた成果は首脳陣たちの予想以上のものだったにも関わらず、戦争で勝利した日本がロシアから賠償金を取れないという結果は国民の不満を招き、やがて死者が出る暴動へと発展してゆきます。
つまり国民から見たポーツマス条約の成果は弱腰外交と見なされ、彼の功績は長い間評価されることはありませんでした。
昭和2年東京生まれの著者が、父の思い出話として日露戦争後に起きた都内での騒擾事件、その原因となった木村の屈辱外交の話を聞かされたことが本作品執筆のきっかけとなったといいます。
今でもSNS上で特定の政治家を売国奴などと批判する投稿を見かけますが、外交の世界は奥深く表面に出ている事実はごく一部であることを考えると複雑な気分になるのです。
生麦事件(下)
吉村昭「生麦事件」下巻のレビューとなります。
上巻では生麦事件と事件後のイギリスと幕府、薩摩藩との交渉、そして薩英戦争へと至る経緯が描かれていますが、下巻ではストーリーの規模が一気に広がり、薩英戦争を経て薩英同盟が結ばれるまでの経緯、そして下関戦争や長州征伐を経ての薩長同盟の締結、鳥羽・伏見の戦いへと明治維新そのものの流れが描かれています。
つまり上巻から読み進めると、生麦事件を発端にして明治維新に至るまでの歴史的な関連性が綺麗な直線で結ばれてゆく爽快感を感じます。
一方で本作品のクライマックスは、生麦事件が直接的な原因となった薩英戦争に尽きると思います。
薩摩藩は早くからイギリスの来襲が必至であると予測し、鹿児島の町を中心に台場を築いて大砲を備え付け、火薬や砲弾を量産して備えます。
一方のイギリスは5隻からなる最新鋭の艦隊を率いて錦江湾へと向かいます。
おもに薩摩藩側の視点から見た緊迫した状況、そして実際の戦争経過の描写は、ほかの歴史小説で詳細に取り扱っている作品が少ないこともあり、吉村ファンでなくとも必読の場面であるといえます。
兵器の圧倒的な性能差があるにも関わらず悪天候が薩摩藩へ味方し、さらに藩士たちの士気の高さとイギリス側のミスや事故が重なり、結果はかなりの善戦により事実上の引き分けという形で終結します。
人的被害はイギリス側の方が大きかったものの、薩摩側も台場を破壊され、さらに町の10分の1を焼失するなど、その被害は決して小さくありませんでした。
この戦争の結果がもたらしたのは後に薩英同盟という形で明確になりますが、それには双方の冷静で合理的な判断が根底にあります。
イギリス側は優柔不断で埒が明かない幕府の日本代表としての姿勢を不服に思っており、一方で勇猛果敢で合理的な判断をする薩摩藩との関係を深めることが自国の利益へつながることを見抜きます。
そして薩摩藩側は引き分けたとはいえ圧倒的な兵器の性能差を素直に認め、攘夷を継続することが現実的な路線ではないことに気付き、むしろ彼らの技術を積極的に取り入れることで国内における影響力を強める方針へと転換します。
太平洋戦争末期に本土決戦へ向けて市民へ竹槍訓練を強制していた軍部の迷走と比べて、幕末当時の薩摩藩首脳陣たちの現状把握能力がいかに優れていたかが分かります。
イギリス、薩摩藩に共通して見られる政治的リアリズムは一度は戦争へ至ったものの、本来相性が良かったという見方ができますが、一方で幕府側勢力や一時の長州藩側から見ると薩摩藩は目的のためには手段を選ばない冷徹なイメージを抱いて嫌われていた側面もあります。
今まで吉村昭氏の幕末小説は桜田門外の変、天狗党、彰義隊といった題材を扱った作品を読んできましたが、本書のように(歴史上の勝者を題材にするという意味で)王道の歴史小説を執筆するのは珍しいといえます。
生麦事件(上)
本作の表題となっている生麦事件とは、1862年に生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)で起きた、薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(1名死亡、2名重傷)です。
この事件以前にも過激な藩士や浪人たちの攘夷運動によって外国人が襲撃される事件は度々発生していましたが、これらの事件と大きく異なるのは、白昼堂々と薩摩藩士の手によって行われたことが明らかであり、目撃者が多数存在していたことです。
イギリス側は実行犯、そして藩の実権を握る島津久光の処刑、さらには賠償金の支払いを要求します。
一方の薩摩藩は、下馬せずに大名行列を乱した者は無礼討ちしても構わないことが国法として認められており、それは外国人といえども例外ではないと主張してイギリスの主張を突っぱねます。
(ちなみに被害者のイギリス人たちは不幸にもその法を知りませんでした)
そもそも当時の薩摩藩はもっとも攘夷熱が高かった時期でもあり、こうした背景からもイギリスへ譲歩する気はまったくありませんでした。
その中で困った立場に追い込まれたのが、イギリスを含めた5カ国と通商条約を締結していた幕府です。
この条約では外国人の治外法権(外国人が日本で罪を犯しても日本側は裁けない)が認められており、イギリスは幕府へ対して管理責任を追求したため板挟み状態に陥るのです。
この頃には尊王思想、公武合体運動といった動きが活発になりはじめており(薩摩藩はその急先鋒勢力の1つであった)、幕府の推し進めてた開国政策に反対だったこともあり、幕府からの圧力に屈するつもりは毛頭ありませんでした。
のちの明治維新は薩長両藩を中心に成し遂げられることになりますが、この時点でもっとも世界情勢を正確に把握していたのは幕臣たちであったのは面白い点です。
幕府は西洋列強国の持つ武器や船舶の性能が日本のそれとは次元が異なるほど優れており、開国を拒んで武力に訴えられた場合に勝ち目がないことを冷静に見抜いていたのです。
一方で江戸幕府が整備した優れた官僚主義は、この頃に至ってさまざまな弊害が生じ始め、迅速で大胆な意思決定が行えず、"ことなかれ主義"と"前例踏襲"に終始する有様となっていました。
そのためイギリスからの要求へ対して右往左往して、ひたすら先送りする状態であり、その経緯が吉村氏らしい正確な時系列で描かれています。
業を煮やしたイギリスは5隻の戦艦を率いて薩摩藩を攻撃することを決定し、薩英戦争へと繋がってゆくのです。
本作品を読み進めてゆくと、この生麦事件が幕末の大きな転換点となったことに気付かされますが、意外にも吉村昭氏がこの事件を作品として取り上げようとした当時、この事件についての専門の研究者や研究書が存在しないことを知って驚いたといいます。
つまり吉村氏は作家でありながら、歴史上におけるこの事件の重要性にいち早く気付いた1人ということになり、その着眼点に驚かされます。
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