本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

炎のなかの休暇


吉村昭氏による私小説です。

著者にとってエッセイで自らの生い立ちや日常を語ることはあっても、それを私小説として発表している作品は珍しいのではないでしょうか。

タイトルの""とは、東京大空襲をはじめとする大戦中におけるアメリカのB29による焼夷弾投下を指し、"休暇"とは、戦中の国家総動員法による勤労動員はあるものの、学校が休校状態となったこと、加えて著者の場合は肺結核を患い療養を行っていた時期とも重なるため、その間を長期休暇に例えたものになりあmす。

ちなみに著者自身は徴兵検査で第一乙種に指定されるものの、実際の徴兵には至らずに終戦を迎えています。

つまり本書は戦中、戦後間もない頃の体験を小説化したものであり、昭和52年から55年にかけて発表された8つの短編が収録されています。

空襲により町を焼け野原にして多数の遺体が至るところに転がる風景、戦中の言論統制、さらには終戦を迎えて一層ひどくなった物資の困窮を主観的、かつ感情的に描けばどこまでも悲惨な表現が可能ですが、不思議とどの作品からもそうした印象は受けません。

それは戦争を経験した著者がもっとも多感な時期、つまり青春時代と重なるからであり、後世から見れば大変な時期ではあったものの、著者自身の心情は灰色一色ではありません。

一方で読者の立場からは、戦争がもたらす悲劇が誇張のないリアリティな表現を通じて伝わってくるという迫力があります。

たとえば兄の1人が戦死して遺骨となって自宅へ戻り、それを見て泣き叫ぶ母親の描写、父親が不在のときに大規模な空襲があり、異臭を放つ遺体の群から父親を捜索する描写(このとき父親は結果的に無事だった)、更にはその父も母も間もなく病死してしまう場面などです。

短編集ということもあり、作品間に時系列、間接的なつながりはあっても、それぞれの作品が独立したストーリーとして成立しています。

簡単にそれぞれの短編で描かれているエピソードを書き出してみたいと思います。
  • 近所へ引っ越してきた歯科医一家の息子と毎日のようにトンボを追いかけ、やがてその一家が心中を図った事件
  • ロシアから亡命し近所へ引っ越してきたロドルフ一家のこと
  • 空襲で行方不明となった父親を探しに愛人宅を訪れたこと、
  • 近隣から非難されながらも一心不乱にランチュウの養殖を続けた近所の転居人のこと
  • 結核を患い病臥していた頃に定期的に見舞いに訪れてきた友人との関係

どれも戦争全体から見ればささいな出来事ではあるものの、著者自身の体験だけにそれぞれの場面が鮮やかに描き出されている印象を受けます。

吉村氏は日暮里で生まれ育っていますが、50歳前後の頃に夜間空襲で焼け、大半の住民が居なくなり、さらに戦後復興により戦前の面影が消えてしまった生家の近隣を度々訪れるようになったといいます。

頭の中で消えてしまった町を再構築してゆくうちに、昔の記憶や思い出が突然のように蘇るといいます。

本書はいわば作家・吉村昭氏の原風景が描かれているといってよく、同氏のファンにとって必読の1冊ではないでしょうか。

勝負眼


本書はサイバーエージェント元社長(現会長)藤田晋氏による週刊文春での連載を書籍化したものです。

本書に掲載されている記事の大部分が当時社長だった時に執筆されていること、連載1回あたり2400字程度で、それが50週分連載されていること、さらに社員数約9000人、売上高約9000億円というサイバーエージェントという企業規模を考えると、現役経営者が出版した本としては異例なほど充実しています。

実際に本書で触れらていることは会社経営、趣味のこと、さらにはプライベートな出来事まで多岐にわたりますが、視点としては完全にビジネス書を意識して書かれています。

私自身がかつてサイバーエージェント社と仕事をしていた時期もあり、個人的にはかなり身近に感じている企業です。

藤田氏にとってはじめての著書「渋谷ではたらく社長の告白」を再読したときに本ブログで紹介していますが、はじめて読んだのは2005年に発売された直後でした。

ベンチャー企業創業者としての経験が生々しく綴られている内容に当時は驚いた記憶があり、その後の若いベンチャー起業家にとって一種のバイブルのような存在になっていったように思います。

創業者である著者が社長を辞めると宣言したのは2023年であり、当初は2026年に社長交代の予定でしたが、1年前倒しして2025年11月に会長へと退いています。

私個人としては当時の社長交代宣言を意外に思いました。
なぜなら現在68歳でソフトバンクグループを率い続ける孫正義氏のような存在になってゆくと勝手に想像していたからです、

本書では著者が社長交代を決意した理由が明確に述べられています。
サイバーエージェントは若い社員を思い切って要職に起用する。それが組織の活気に繋がっているし、成長の原動力にもなっている。
なのに、その会社のトップがずっと変わらず、気がついたら60歳というのでは説得力がない。事業内容も若者向けが多く、社長の若さはイメージ的にも必要だ。

26歳で最年少上場社長になった立場を考えると、社内におけるその影響力の強さや自分への依存度の高さを容易に想像できますが、それらを俯瞰的して観察できているといえます。

藤田氏は創業者にありがちなワンマンタイプの社長ではなく、自らの経営者としての強みを「忍耐力」と答えていますが、実際には感情を表に出して怒鳴りたい場面が幾度となくありながらも、その度に自制を続けてきたエピソードがたびたび登場します。

彼は本書を一番読んで欲しいのは、これからもサイバーエージェントで働き続ける社員たちであると言っていますが、それを知って本書の執筆に時間をかけて内容を充実させようとした理由にも納得しました。

先ほど内容は完全にビジネス書であると紹介しましたが、藤田氏は多趣味なことでも知られており、麻雀、競馬、サッカー、映画鑑賞やヒップホップ、そしてお酒いずれにも造詣が深く、いずれもビジネス的に示唆に富む内容でありながらも、単純にエッセイとして楽しく読むことができる1冊です。

志ん朝の風流入門


著者の古今亭志ん朝といえば、昭和の名人として別格の存在である古今亭志ん生の息子であり、36人抜きという異例の抜擢人事での真打ち昇進、「ミスター落語」と評されるほどの完成された話芸、さらに立川談志が同世代に生きた落語家の中で唯一認めていた存在であり、とにかく落語の歴史を語る上で欠かせない噺家です。

唯一惜しむらくは、平成13年に63歳という若さで亡くなったことであり、ファンたちが円熟した名人芸を充分に楽しめる時間が短かったという点ではないでしょうか。

話は変わりますが、よく日本人は四季の移り変わりを愛でる心情があるといいます。
そしてタイトルにある風流とは、季節それぞれの風情を楽しむといった意味もあります。

つまり本書は志ん朝師匠が、落語ではなく風流という視点から四季を語った1冊になります。

作品の元となったのは昭和53年から7年間にわたりNHKラジオで放送された志ん朝自身が担当した「お好み邦楽選」であるといいますが、私自身はそのラジオを聴ける年代ではありませんでしたし、それどころか志ん朝師匠の高座を実際に見たことさえありません。

それでも残された音源や映像を通じて志ん朝師匠の落語は聴いたことはあります。

私自身はたまに落語を聴く程度には好きですが、噺家を評価できるほどの熱心なファンでないことを前提にすると、とにかく綺麗な江戸弁そして日本語を使い、初心者から通な人まで万人へお薦めできる噺家であるということです。

当時のファンからはまるで江戸へタイムスリップしたかのような感覚を与えてくれる名人だったという評価がありますが、本書を読むとそれが単純に話芸の巧みさだけではなく、江戸時代、もっといえば日本の歴史へ対する深い理解と知識に裏打ちされたものであることが分かります。

風流というと心情的なものと捉えがちですが、日本人は昔からそれらを言葉として表現する術を持っていました。

本書を読み進めてゆくと、風流を語る上での語彙は、現代人の方がはるかに乏しくなっていることを実感します。

志ん朝師匠が解説している風流を幾つか紹介してみたいと思います。

たとえば"初音(はつね)"とは、その年に初めて聞く音ではなく、ホトトギスとウグイスに限って、その年はじめての鳴き声を指した言葉であるということです。

そして"節分"とは季節と季節の区切りを指す言葉であり、つまり昔の節分行事は年に4回行われていたということです。

昔は"虫"という言葉は、コオロギやキリギリスに代表される秋の草むらに鳴く虫だけが対象だったこと、その中でもとくにカンタンとスズムシの鳴き声がもっとも美しいとされていました。

さらには昔から日本人がとくに愛してきた花は梅、桜、そして菊であったこと、そうした花々をどのように日本人は愛でていたのかについても細かく解説されています。

例を挙げてゆくとキリがありませんが、本書は決して風流に関する学術書ではありません。

先ほど説明した通り、本書はラジオ番組の台本が元になっているから全般的に口語調で書かれており、さらに所々に登場する志ん朝師匠の小噺が読者を和ませてくれます。

昔の日本人は天気予報など科学的に自然を観察する手段が少なかった分、五感を用いて繊細かつ敏感に自然を観察してきたことが良く分かります。

四季の移り変わりに本書を手にとって読んでいると、自然へ対する感受性が高まったような気がするのです。

成瀬は都を駆け抜ける


本書は、宮島未奈氏によるベストセラーシリーズ第1弾「成瀬は天下を取りにいく」、第2弾「成瀬は信じた道をいく」に続く第3弾となります。

個人的にまだまだ続いていくシリーズだと勝手に思い込んでいましたが、残念なことに著者によると本作で完結となるようです。

本書では前作に引き続き京都大学へ入学し、同校の1回生となった主人公・成瀬あかりを描いています。

本シリーズの魅力は前作までのレビューでも紹介しましたが、簡単に言えば主人公の人間的な魅力、そして作者が在住している地方都市・滋賀県大津市の魅力が融合している点です。

つねにに主人公の言動が三人称で書かれているのは1作目から共通しており、成瀬あかりの友人、知人、ときには親の視点から書かています。

一見すると他人の視点から見た彼女の言動は理解しがたい点が多々ありますが、主人公との会話やさまざまな経験を通じてその意図を知り、実際の行動力を見るにつれその魅力に惹かれてゆくのです。

主人公と同じ京都大学に合格してものの、失恋を経験し生きる意味を失いつつあった坪井さくら、達磨研究会という風変わりなサークルに入ることなった梅谷誠とそのメンバーたち、簿記試験に挑戦する様子を配信しているYoutuberのぼきののかなど、偶然成瀬と出会ったことにより影響を受けてゆく登場人物たちが本作には新たに登場します。

さらに後半になると地元ローカル局の番組に娘と一緒に出演することになった母親の美貴子、前作に引き続き登場する主人公へ密かに恋している奥手の西浦航一郎、さらに1作品目から登場している成瀬の幼馴染で一番の友人である島崎みゆきなど、シリーズ大団円に向けて今まで成瀬と知り合い影響を受けてきた人物たちが総動員という形で登場します。

成瀬自身には人間関係で不器用なところがあり、その場の空気や他人の気持ちを察することが苦手で、自分のやりたい事だけを真っ直ぐに追いかけるという側面があり、そこに彼女の魅力が内包されていました。

基本的に3作品目でも成瀬のスタイルは変わっていませんが、さまざまな人間と関わりを持つ中で、彼女の中にも他人の気持ちを理解しようとする成長が見て取れるようになります。

もちろん他人の気持ちを理解する能力は社会に出る上で必要であり、これは間違いなく成瀬にとって成長であり嬉しいと思う反面、個人的にはそれを突き抜けてこそ光っていた彼女の魅力が薄まってしまうような少し残念な気持ちもありました。

だからこそ誰よりも主人公と向き合い続けてきた作者が、この作品を完結編とした気持ちも理解できるような気もします。

結果として1作目の勢いを失うことなく、3作品目まで駆け抜けたシリーズであり、著者のこれからの新しい作品を楽しみに待ちたいと思います。

酔生夢死か、起死回生か。


本書は平成7年から12年(1995~2000年)にかけて行われた計6回にわたる阿川弘之氏と北杜夫氏の対談です。

2人とも昭和30年頃より活躍し始めた作家ですが、昔からお互いのエッセイなどに登場するとても仲の良い2人です。

ただし阿川氏は作家仲間から「瞬間湯わかし器」と呼ばれるほどの短気で知られており、一方で北氏は自ら躁うつ病であること公言しており、基本的にはうつ状態であることが多く大人しい性格です(ただし彼が躁状態になったときは誰も手が付けられないほど活動的になります)。

一見すると正反対の性格の2人が気の合う友人同士であったというのは興味深い点です。

2000年当時の対談では阿川氏が79歳、北氏が72歳と2人ともそれなりの高齢になっています。

実際の対談では誰が見ても年上の阿川氏の方がまだまだ健在といった感じで、年下の北氏の方は「早く死にたい」、「何とかして今年1年のうちに死にたいです」と弱音ばかりをこぼし、年上の阿川氏に励まされているような始末です(ちなみに阿川氏は95歳、北氏は84歳までご存命でした)。

若い頃から長年の付き合いがある2人だけに、対談の当初から最後まで冗談の飛び交う和やかな雰囲気で進んでゆきます。

対談の中で気付くのは、阿川氏は北氏の父親である斎藤茂吉を、北氏は阿川氏の先生である志賀直哉氏をそれぞれ尊敬し合っている点で、この辺りに2人の相性の良さの秘密があるかも知れません。

一方でこの頃すでに2人にとって共通して交流の深かった遠藤周作氏、三浦朱門氏らなど同時代に活躍した作家たちが何人か亡くなっており、その思い出を語り合うシーンなどは読者として楽しみながらも若干の切なさを感じたりします。

お二人の経歴やお互いの交流については、それぞの作品を通じてある程度は知っていましたが、対談を通じて紙面には書かれなかったその舞台裏などにも触れられており、興味深く読むことができました。

もちろん二人のことをよく知らない読者が読んでも楽しめる内容ですが、やはりある程度の作品を知ってから読む方がより楽しみが深まる1冊であることは間違いありません。

2人の老成した作家同士の対談というと堅苦しいイメージがありますが、そのような雰囲気はまったくなく、ユーモアを通じて旧交を温めるといった和やかな雰囲気で終始しているのが読者としては微笑ましく、ページをめくる手が止まらずに一気に読めてしまう1冊です。