新・空き家問題
著者の牧野知弘氏は長年にわたり不動産業界に携わり、現在は不動産事業プロデュースを手がけるオラガ総研の代表を務めています。
私が現在住む街は首都圏に位置することもあり、それほど空き家は見かけません。
一方で車で地方へ出かけたとき、とくに中山間地域では空き家を見かける機会がかなり増えました。
たまたま訪れた私でも空き家だと判断できるのは、家屋がかなり傷んでいる状態であったり、庭が荒れ放題になったりしている場合であり、手入れされている場合は空き家であると判断できません。
一方で都心へ目を向けると、1部屋1億円超えのタワーマンションが飛ぶように売れていると聞き、全国的に空き家問題が報じられる中で不動産投資が加熱しているという不思議な現象が起きています。
本書では空き家問題の基本的な知識、そして空き家が引き起こす問題、さらには空き家を生み出さないためのアドバイス、視点を広げて国や自治体の空き家問題への取り組みやその評価を幅広く行っています。
まず2024年時点で日本全国に空き家は900万戸あるといわれています。
とてつもない数字ですが、この数字には賃貸物件の空室、別荘なども含まれているため、実際には全体の約40%である385万戸が放置状態にある個人住宅空き家だそうです。
それでも大きな数字には違いなく、たとえば東京では"空き家率"は低いものの、母数となる住宅の数が大きいため"空き家数"で見ると圧倒的に全国ワースト1位になります。
23区内の世田谷区では2万3千戸もの個人住宅空き家が存在するという数字には驚きを感じました。
また空き家の半分以上はマンション空き住戸であり、外見からはまったく分からない場所にも空き家が多く存在することが分かります。
何かと問題になる空き家ですが、人口減が始まっている日本では空き家を賃貸にしたり、そもそも売却することが困難(老朽化した家屋の解体費が土地代を上回る)であることが多いようです。
著者は1つの選択肢として相続土地国庫帰属制度を利用するアドバイスもしています。
たしかに活用する予定もなく、売ることもできない土地の税金を払い続けるよりは、現実的な選択肢であるといえます。
ただしこうした対処ができるのは、相続人が存在する場合であり、そもそもおひとりさま世帯で相続人がいない場合は問題はもっと深刻になります。
これに対しても著者は遺贈をおすすめしています。
生前のうちからお世話になった人や団体や学校など有効利用してくれそうな相手へ遺贈する旨を遺言状へ記載しておくというもので、法定相続人がいない場合は(分与で揉めないため)かえってスムーズに進むとアドバイスしています。
また著者は2030年以降に空き家が加速度的に増えてくると警告しています。
統計的に(すでに配偶者を亡くした)高齢者単独世帯主が寿命を迎え、都心であっても次々と空き家が生み出される状況になるというものです。
しかも相続人が1人息子(娘)であった場合、都心であればあるほど高い相続税の支払いが出来ないため、それらが中古住宅として市場に出回るというもので、かなり説得力があります。
著者はこうした現象がタワーマンションを中心とした不動産投資ブームを終わらせると予測しています。
つまり大量の不動産が市場に出回り始めることで、価格が手頃になり、住宅の購入が35年ローンによる一世一代の買い物ではない時代が来るといいます。
本書の副題に"2030年に向けての大変化"とあり、著者が本書でもっとも伝えたかったことはまさしくここにあると思います。
私自身は分譲マンションに住んでいますが、これから住人の高齢化や修繕費の値上がりがあることは確実であり、将来この住まいが空き家にならないよう色々考えさせてくれる1冊になりました。
「最期は自宅で」30の逝き方
若い頃は「死」というものを概念的に想像することはあっても、自分自身の死について具体的に考えたことがある人は少ないのではないでしょうか。
やがて中年に差しかかり、家庭を持つ人が出てきて子どもが成長し、両親が高齢になってくると「死」を具体的に考える機会が増えてくるはずです。
自分が何らかの病気で人生の最期を迎えるとき、無機質な病院の一室で点滴や人工呼吸器、心電図モニターに繋がれたまま1人で死んでゆくのを望む人はいないと思います。
出来ることなら自宅で家族に見守られながら最期を迎えることを望み、たとえ独り身であったとしても病院よりも自宅で最期を迎えたいと考える人は多いはずです。
現時点では健康体ではあるものの、こうしたことは元気なうちに考えておいた方が良いため、本書のタイトルだけを見て手にとってみることにしました。
本書の著者である高橋浩一氏は広島市の開業医であり、在宅緩和ケアを積極的に展開しています。
"在宅緩和ケア"とは病院ではなく、住み慣れた自宅で病気による身体や心の苦痛を和らげるケアを行いながら、自分らしい生活を送れるよう支援する医療サービスのことです。
実際には末期がんや老衰の患者が利用する場合が多く、本書はタイトルにある通り、著者が実際に在宅緩和ケアで担当した30例の最期を紹介したものとなります。
事例を見てゆくと80代、90代の事例が多いですが、中には60代の事例もあったりします。
ピンピンコロリ(最後は寝込まずにコロリと死ぬこと)を望む人は多いと思いますが、皮肉なことに医療の進歩によってネンネンコロリ(寝たきりの要介護状態を経たのちに死ぬこと)が増えているのが実情です。
この辺りは自分で決めるこは出来ませんが、本書では1年以上も在宅緩和ケアを続けた上で静かに最期を迎えた例も多く、必ずしも悲観する必要はありません。
大切なのは、早い段階で周りの家族を含めて在宅緩和ケアを望むことをはっきり意思表示しておくことです。
それは認知症が進んだ状態、言葉を発することが出来ない状態に陥ってからでは伝えることが難しいからです。
著者は在宅緩和ケアの患者へ対して、お菓子やアイス、またお酒であっても好きに口にしてよいとアドバイスしているようです。
たしかに病院では食欲がない中で入院食を食べる気にはなりませんし、飲酒は禁止されています。
好きなものを食べて飲むという行為は、自分らしく生きる上でもっとも基本的な部分だと思います。
漠然としか知らなかった在宅緩和ケアの実態を手軽な形で知ることができるのは"新書"の持つメリットであり、実際に2時間もあれば読み終わる分量でもあるため、多くの人に手にとって欲しい1冊です。
古今百馬鹿
本書は、遠藤周作こと狐狸庵山人が50代前半の頃に雑誌「オール讀物」で連載していたエッセイを書籍化したものです。
まずは本書の最後に書かれた短いあとがきを引用してみます。
「古今百馬鹿」は今より10年ほど前、つれづれなるままに、日ぐらし硯に向いてチビ筆なめつつ書きつらねた世にも人にも役にたたぬ原稿である。
したがって、読書によって徳をたかめ、知識を磨きたい青年男女にはこの本は何の益もなく、役にもたたざることを、あらかじめ、お断り申しあげる次第である。おわかりか。
柿生の里に庵結べる
世捨人 狐狸庵山人
遠藤周作といえば文学の王道のような重いテーマを扱った長編小説が特徴ですが、狐狸庵山人を名乗ったときには雰囲気がガラリと変わり、ユーモア溢れる軽快なエッセイを書くことで知られています。
遠藤氏と交友の深かった作家たちのエピソードを読む限り、その素顔はかなりのイタズラ好きで、ユーモアに溢れた人柄であったことが窺い知れます。
よって狐狸庵山人と名乗っているときの方が等身大の遠藤周作に近く、本人もそのバランスを取るために雅号(ペンネーム)を用いていたと容易に想像できます。
あとがきに著者自身が何の益もない本と名言していますが。そもそも実益を求めて読書をすることを悪いとは言いませんが、それ以上に私にとって読者は娯楽であり、もっと言えば自由であるべきだと思います。
私自身もスキルや知識を得る手助けとして読書をすることがありますが、やはりこうした場合の読書は楽しさが半減してしまいます。
ともかく「実用性のない本 = 読む価値のない駄本」とみなす意見には反対なのです。
エッセイとはいえ本書ほど肩の力が抜けた作品も珍しく、まさに"つれづれなるままに"書かれています。
日々の出来事、過去の体験談、友人とのエピソードなどエッセイとしは定番のものも多いですが、ときには自分が作った曲(歌詞)や俳句を披露したり、編集者へ対しての愚痴や延々と書くネタが無いとこぼしたり、かなり自由なスタイルで書かれています。
ちなみに著者は50歳そこそこで自らを世捨人であると称しています。
令和の時代から見るとかなり老成している印象を受けますが、本書が執筆された昭和40年代は50を過ぎれば本人や周りも初老という認識を持つ人が多かった時代なのだと思います。
50歳で老け込むには早すぎると思う一方で、大正生まれの人は50歳にもなれば人格的な奥行きや味わいが出てくる人が今の時代よりは多かったとも思うのです。
今の50代には書けない脱力系のエッセイが読みたい人は是非本書を手にとってみることをお勧めします。
さかさま世界史 怪物伝
前回紹介した寺山修司氏による「さかさま世界史」の第二弾です。
サブタイトルの「英雄伝」が「怪物伝」と変わっていますが、20人以上の偉人たちを次々と批評してゆくというスタイルは前作とまったく一緒です。
本書で登場する偉人たちは以下の通りです。
- ラスプーチン
- アラン
- 写楽
- サド侯爵
- アンデルセン
- ニュートン
- 西鶴
- ポオ
- スウィフト
- 馬琴
- サン=テクジェペリ
- マキャベリ
- ヴィヨン
- モーゼ
- 魯迅
- ガンジー
- ヒットラー
- クラウゼヴィッツ
- ランボー
- グリム兄弟
- ネロ
- 空海
- ダーヴィン
寺山氏自身が歌人・作家として活躍していたこともあり、作家や詩人といったジャンルの偉人たちが比較的多く含まれている印象を受けます。
彼の批評で一環しているのは、偉人・天才と呼ばれた人たちも、彼らの生涯や作品を掘り下げてゆくと、そこに見えてくるのは市井の人たちと変わらない欠陥だらけの人間であるという点です。
一方で怪僧・ラスプーチン、独裁者・ヒトラー、暴君・ネロといった異名と共に語られることが多い人物へ対しては、別の視点を提供しています。
ラスプーチンへ対しては宮廷に棲み着いた一匹の豚としてではなく、革命の水先案内人としての視点を、ヒトラーへ対しては狂信的殺人者としてではなく、歴史の歯車に軍服ごと引きずり込まれた芸術青年という視点、ネロへ対しては母親殺しの皇帝としてではなく、市民に愛されることを望んだ若すぎた青年という視点を読者へ提供しています。
もちろん歴史の専門家ではない著者によって偉人たちの評価が180℃変わることはありませんが、本書に登場する偉人たちの姿を"逆さま"、あるいは"裏側"から見てみると今までとは違った姿が見えてくるのです。
寺山氏の手掛けたドラマの演劇の脚本は、まさしくこうした視点から生まれたものであり、彼のスタイルは多くの批判を受けつつも、多くの支持者をも獲得しています。
いずれにしても従来の価値観を1つ1つ取り上げては疑ってかかり、新しいものを作り上げようとする著者のエネルギーは凄まじいものがあり、本書からその一端を垣間見ることができます。
さかさま世界史 英雄伝
寺山修司氏が世界史に登場する偉人たちを縦横無尽に批評してゆく1冊です。
本書には20人以上の偉人が登場しますが、1人につき文庫本で10ページほどでテンポよく次々と批評しています。
- コロンブス
- ベートーベン
- エジソン
- イソップ
- ガロア
- シェークスピア
- 二宮尊徳
- ゲーテ
- ダンテ
- スタンダール
- 毛沢東
- カミュ
- ニーチェ
- 聖徳太子
- カフカ
- マルクス
- 紫式部
- セルバンテス
- トロツキー
- 孟子
- キリスト
- プラトン
- リルケ
寺山修司といえば歌人や小説家としても有名ですが、何といってもラジオやTVドラマの脚本、そして演劇作家として知っている人が多いのではないでしょうか。
彼の特徴を1つ挙げるとすれば、「つねに批判的」であるという点です。
それは世の中で大多数が当たり前、もしくは良いとされている価値観へ対して、それを決して鵜呑みにはせず疑ってかかるという姿勢であり、世の中で悪いとされている物事へ対してもその姿勢は同様です。
またそれらの物事を批判するにあたり、評論家のような難解な言葉を用いず、時には土俗的で卑猥な表現を使いつつユーモアを交えつつ評論している点も寺山風といえるのではないでしょうか。
こうした姿勢は劇団・天井桟敷を主催し、アングラ演劇というジャンルを開拓してゆく実行力とも密接に関係してゆきます。
ここまで書けば分かると思いますが、本書に登場する誰もが知っているような偉人たちは、寺山氏の前で同様に料理されてゆくことになるのです。
ドイツの文豪ゲーテの作品に登場する恋愛に悩む主人公へ対して精神主義型自家発電と表現したり、聖徳太子を国家権力の元凶であり、今も高額紙幣として幅を利かせ続けていると断じてみたり、プラトンに至っては毛深いただの中年男であるソクラテスへラブレターを書き続けた男だと書かれています。
本書は偉人たちの伝記はないという点は注意であり、世間一般の評価から偉人たちを"さかさま"に見ることで寺山ワールドを楽しめる1冊なのです。
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