ノラや
内田百閒(うちだ ひゃっけん)は夏目漱石の門下生として、また数々の小説や随筆を残した昭和を代表をする作家として知られています。
名前は以前から知っていたものの、その作品を読むのは今回がはじめてです。
本書は月刊誌「小説新潮」に連載された随筆の中で、家猫のノラ失踪の顛末とそのあとに住みついたクルについて書かれたものがまとめられたものです。
時期としては昭和31~45年の間、内田氏にとっては60代後半~80歳の時期に相当し、晩年に書かれた随筆ということになります。
内田氏は作品中で元々猫が好きだったわけではないと述べており、たまたま近所の野良猫が庭を訪れるようになり、餌を与えるうちに自宅に棲み着き、夫婦揃ってその猫を溺愛するようになったという経緯です。
作品中に描かれるノラやクルの愛くるしい仕草や性格、癖、また生活の中に猫のいる風景は、猫好きであれば読みながら思わず頬が緩んでしまいます。
私自身も2匹の雌猫を飼っており、1匹は元野良、もう1匹は元保護猫であることから著者の気持ちはよく分かるような気がします。
ところでノラとクルは同時に棲み着いていたわけではなく、ノラは飼い猫になってから約1年後に失踪し、クルはその2ヶ月後に自宅に棲み着くようなった猫です。
ノラが失踪した後、内田氏は毎日のようにノラの居た頃を思い出しては泣き出すという日々だったようで、それは数年が経過しノラが戻ってくる見込みがなくなってからも変わりませんでした。
作品中では昼夜構わず数え切れないほど涙を流す場面が登場し、すこし泣き過ぎではないかと思ったりしまたが、70歳近くではじめて猫を飼い、年をとって涙もろくなっていることが関係しているに違いありません。
さらに失踪したノラの行方を知るために幾度となく新聞の折込ビラを配布したり、読者が教えてくれた迷い猫が帰って来るおまじないと毎日続けたりと、出来る限りのことを試みます。
一方で作品を読み進めてゆくと、ノラが失踪した悲しみを新しく家に来たクルが少しずつ癒やしてくれる過程についてもよく分かります。
クルは失踪することはありませんでしたが、約5年度に重い病気にかかり、この時も毎日のように獣医に往診してもらうといった手厚い看護を夫婦で続けます。
そしてこの2匹の猫を失った悲しみがあまりも大きかったこともあり、その後に猫を飼うことは二度とありませんでした。
作品中には内田氏が猫たちへ抱いた喜怒哀楽がすべて描かれており、猫たちが人生を豊かなものにしてくれたことは間違いありません。
ちなみに本書は猫好きにとって有名な文学作品のようであり、長い猫ブームが続いているだけに長く読み継がれている作品になっているようです。
月下美人
吉村昭氏の短編集です。
本書には8作品が収められいますが、全ページの3分の1が表題作の「月下美人」に割り当てられています。
この「月下美人」は以前本ブログで紹介した作品「逃亡」の取材ノートというべき作品です。
この「逃亡」は昭和19年に霞ヶ浦海軍航空隊に所属する若い整備兵が、米国のスパイと思われる謎の日本人の指示で戦闘機を爆破し、そのまま終戦まで逃亡を続けたという事実を元にした戦史小説です。
著者は最初、この事実を偽名を名乗る人物からの電話により知ることになります。
(結局、この人物の正体は最後まで判明せず。)
この情報提供を頼りに直接本人へ取材をすべく訪れますが、彼は結婚して東京郊外の市役所に勤めており、職場の同僚はおろか妻にもそうした過去を秘密にして暮らし続け、最初は著者へ対して心を許さず警戒していました。
終戦から25年が経過しているとはいえ、本人にとっては出来れば誰にも知られたくない過去であったことは容易に想像できます。
しかし著者の取材申し入れが長年に渡る心の重荷を下ろす機会になると考えた元整備兵は、重い口を開く決心をするのです。
ただし当然のように吉村氏が発表した「逃亡」では作品中の出来事はノンフィクションであるものの、プライバシーを考慮して登場人物はすべて仮名(小説では望月)で執筆されています。
しかし作品が発表され肩の荷が下りたと感じた元整備兵は、かつて逃亡を続けた自らの軌跡を確かめるかのように旅へ出るようになり、ついには本人自らが歴史研究家との共著で本名を公表して回想録を出版するに至るのです。
そこまでの過程はそれほど単純ではなく、元整備兵の心の浮き沈みが激しく、何度となく吉村氏を困惑させるような出来事があったことが書かれています。
一方で著者が取材を申し込まなければ元整備兵がそうした過去を生涯心に秘めたまま人生を終えた可能性も充分あり、吉村氏は彼へ対して一種の罪悪感を抱き続けていました。
そうした作品発表の前後を併せて10年間にも及ぶ彼との関わり合いが書かれた「月下美人」は、元になった「逃亡」と併せて是非読んで欲しい作品です。
残りの7作品については私小説的な短編になっており、吉村昭の代表作といえば長編小説が有名ですが、短編小説を書かせても超一流の作家であるというのが個人的な感想です。
つまり本書はとてもお得な1冊であり、吉村昭ファンであれば必読の1冊といえるでしょう。
遠い幻影
吉村昭氏の短編集で、300ページ弱の文庫本に14篇の作品が収められています。
- 梅の蕾
- 青い星
- ジングベル
- アルバム
- 光る藻
- 父親の旅
- 尾行
- 夾竹桃
- 桜まつり
- クルージング
- 眼
- 遠い幻影
今まで読んできた吉村昭氏の作品もかなりの数になってきたこともあり、上記のうち半数以上は自らの体験を元に幾らかの要素を付け足した、いわば"準私小説"のような作品であることが読んでいると分かります。
残りの作品は、僻地の診療所へ自ら志願して赴任したきた医師、囚人の脱走騒ぎを体験した刑務官、探偵のアルバイトをする学生など、さまざまな題材が扱われています。
吉村昭氏のおもな長編小説は、はじめは純文学、続いて第二次世界大戦を扱った戦史小説、そして江戸時から明治時代を扱った歴史小説へとテーマが変わっていきます。
それに比べて短編小説はその変化の遍歴が分かりにくい部分がありますが、それでも作風が確実に変わっていっていることが分かります。
著者はあとがきで次のように語っています。
竹は節があるから強靭なのであり、直立した地上茎は、細いのに高く伸びても折れることはない。
私が短編小説を書くのは、竹にとっての節に似た意味を持つからである。
竹の節のように、一定の時間の間隔をあけて短編小説を書く。苦しい仕事ではあるが、それを書かなければ、小説を書く私が、もろくも途中から折れてしまうような危惧をいだいている。
つまり長編小説でテーマが変わってゆく過程は、まずは短編小説がきっかけになっていると捉えることができます。
たとえば本書では1980年代に書いた私小説を、同じテーマや場面を扱いながらもあえて準私小説のような形で書き直しているような作品もあり、著者がさまざまな試みによって自らのスタイルを進化させようとしている姿勢が見てとれます。
この"進化するための努力"は、著者が言うように"苦しい仕事"でもあり、作家として確固たる地位を築き上げてのちも、その地位に甘んじることのないプロとしてのストイックさが作品からも充分に伝わってきます。
著者の徹底した取材や調査によって書かれた作品は、なるべく華美な装飾を避けるかのように抑制された表現で事実をそのまま記述し、それを綿密な構成でつなぎ合わせるようにして完成している印象を受けますが、そのバックボーンが本書に収録されている短編小説であると考えると、感慨深いものがあります。
いま中国人は中国をこう見る
2025年11月に高市総理による台湾有事に関連した発言(いわゆる高市発言)を受けて中国政府は即座に反応し、強い批判を繰り返すとともに、国民への訪日自粛の呼びかけ、輸出入規制といった報復措置に踏み切りました。
かねてより中国共産党(なかでもとくに習近平政権)にとって台湾統一は"核心的利益中の核心"であることを公言しており、すこし注意深く考えれば高市発言の反応としては当然であり、中国政府の姿勢や態度は終始一貫していて分かりやすいという見方ができます。
一方で中国国民たちがどのような考えを抱いているかについては徹底した監視社会ということもあり、なかなか実情が分かりにくいという現状があります。
つまり中国人による自国の政府批判はただちに検閲に引っかかり、直接的に自身のリスクへと繋がるのです。
政府は国民のあらゆる個人情報を把握・監視・検閲しており、日本人の感覚では中国国民は極端に表現の自由が制限されているように思えます。
こうした理由から外交や軍事といった側面以外からも、中国社会の実態をルポ取材、またはノンフィクションで紹介した本を今まで何冊か読んできました。
「ルポ デジタルチャイナ体験記」
「ルポ 中国「潜入バイト」日記」
「さいはての中国」
これらの本から得た情報を大雑把にまとめると以下のようになります。
- 中国人は良くも悪くも寛容であり、政府に個人情報を管理・監視されていることをさほど気にしていない。
- それでも政府に目を付けられるような面倒はなるべく避けつつ、個人の生活を自由に楽しんでる。
- (特にIT分野における)中国人のビジネス展開は日本人以上に柔軟さと臨機応変に富んでおり、技術革新という側面で中国を追従するのは容易ではない。
- 社会との調和を重んじる(空気を読む)日本人とは対照的に、中国人は他人の目をあまり気にしない個人主義の傾向がある。
- 一方で身内(仲間)だと認めた人へ対してはとことん親切であり、日本人なら躊躇するようなお金の貸し借りにも応じることが多い。
一言で表せば、一党独裁の政治体制を敷く国家の中で生活をする中国人たちはしたたかに生活しているといえます。
しかし状況はつねに変化してゆくものであり、情報をアップデートするために本書を手にとってみました。
本書はコロナがほぼ収束した2023年に出版されており、中国に詳しいフリージャーナリストの中島恵氏によって執筆されています。
はじめに注意すべき点として、あくまでも著者の個人的な知人やそこから紹介された中国人へ対して取材する形をとっており、これは大々的なアンケート調査や世論調査を行えるような国柄ではないため仕方のないことですが、統計的な意見ではないという点です。
また当然ですが、取材対象となった人の経済状況、学歴、職業、地域などによって意見はさまざまであるという点も頭に入れておくべきです。
インタビュー内容は政治、経済、教育と広範囲に及びますが、全体として先に紹介した中国人へ対する印象が大きく変わることはありませんでした。
一方で本書によって新しく知ることも多く、その一例を紹介したいと思います。
例えば中国国内ではマナー意識が高まりつつあり、都会の中で大声でケンカをするような光景は見られなくなったといいます。
ただし都市部住民と地方出身者ではマナー意識の格差が大きく、都市部住人はマナーの悪い地方出身者と同じ中国人だと思わないでほしいとさえ考えています。
先に紹介されたように厳しい情報統制が行われている中国社会では、共産党幹部の汚職など都合の悪いニュースは報じられません。
しかし多くの中国人が日本や欧米のニュースソースへアクセスできる手段を持っており、次のように語っています。
もし本当に、中国人は自国の都合の悪いことは何も知らない、と信じている日本人がいるとしたら、あまりにもお気楽というか、時代の変化に鈍感だと思います。
ここ近年の中国の科学技術やAIをはじめとしたIT技術の発展は目覚ましいものがあるは私自身も感じており、中国人たちも自国のサービスや商品に自信を持ちつつあります。
結局は1人の人間として考えたときに、日本人と中国人にそれほど違いはないのかも知れません。
本書の最後にインタービューに答えた中国人は次のように答えています。
中国中の人が覇権主義に賛同し、中国に世界でナンバーワンの国になってほしいなんて考えているわけではありません。
多くの中国人は自分と家族の生活を守り、ただもっと豊かになることだけを望んでいます。 求めているのは社会の安定と家族の幸せ、それだけなんです。
地形と日本人
著者の金田章裕(きんだ あきひろ)氏は、地理学者であり京都大学名誉教授などを務めています。
本書では地形を空間と時間の両面から研究する歴史地理学の視点を紹介しており、学術的な内容の新書です。
地理学というと取っ付きにくい印象を受けますが、「ブラタモリ」のような番組が好きな人であれば抵抗なく読むことができると思います。
また新書というページの制限もあり、多くの地形の中でも"平野"に焦点を当てて解説が行われています。
日本国土の7割が山林であることはよく知られていますが、人口の大半は平野に集中しています。
中でも国内最大の関東平野には、日本の人口の1/3以上が生活を送っていることから、もっとも身近な地形ということになります。
平野では河川によって運ばれる堆積物が扇状地を構成し、川の氾濫によって低湿地が生まれ、侵食によって土地が削られ台地が形成されたりします。
ときには山崩れによって一気に地形が大きく変化することもあり、また海岸線も陸化、または反対に侵食されることもあります。
ここまでは自然条件による平野の形成や変化ですが、そこに人間が住み着くようになり、やがて土木技術が進化するにつれ水害を防ぐために堤防を築くようになり、農業のためにため池を造成したり、反対に湿地や海を干拓して埋立地にしたり、人の手によっても地形は変化してゆきます。
本書ではこうした平野における地形の変化を時間の経過とともに考察しており、古地図と比較することによってその変化が具体的に解説されている箇所も随所に見受けられます。
趣味として江戸時代の古地図と比較しながら東京を散歩する人も多いようで、書籍だけでなく専用のスマホアプリも存在するようです。
また単純に自分が今住んでいる場所が昔はどのような場所だったのかを知るのは、好奇心以外にも防災の面でも役に立ちます。
ちなみに私の今住んでいる場所は平野の中でも台地に位置し、明治頃までは雑木林だったようです。 つまり地盤は安定しているものの水には乏しく、昔はあまり人が住むのに適した土地ではありませんでした。
本書には写真や地図も各所に掲載されており、大学の講義を手軽に新書で楽しめると思って気楽に手にとってみてはいかがでしょう。
登録:
コメント
(
Atom
)




