渋沢家三代
著者の佐野眞一氏は1996年に「旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三」を発表して大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
私はまだ読んでいない作品ですが、民俗学者として生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続けた宮本常一にとって最大の理解者でありパトロンであったのが渋沢敬三であり、彼は渋沢栄一の孫にあたります。
著者はそこから渋沢家の歴史に興味を持ち、本書を執筆するきっかけになったといいます。
よく知られているように渋沢栄一は500社にも及ぶ企業の設立に関わったことから「日本資本主義の父」と呼ばれ、本人にその気さえあれば三菱・三井を凌ぐ財閥を形成することが出来たはずです。
しかし本人は自らが設立した企業の株を多くても5%以上持つことはなく、企業支配そのものに興味を持ちませんでした。
それは戦後にGHQが一旦は渋沢家を財閥指定したものの、その実態が無いことからすぐに解除したことからも分かります。
それゆえ渋沢家は「財なき財閥」とも言われ、そうした経緯も新一万円札の顔として選ばれた大きな要因になっています。
ちなみにタイトルにある渋沢家三代とは渋沢栄一・篤二・敬三を指します。
ノンフィクションが本業の佐野氏ですが、本書は取材よりも資料を元にした伝記・または近代歴史小説と呼ばれるジャンルに属します。
また"渋沢栄一"を扱った書籍は数多く出版されていることもあり、私も何冊か読んだことがありますが、"渋沢家そのもの"をテーマにしたものは本作品を除いてほぼ皆無です。
その理由も当然で、渋沢家は栄一から代を重ねるごとに日本経済へ与える影響力が急速に縮小してゆき、中でも栄一の息子である篤二に至っては放蕩により廃嫡されるという渋沢家の歴史の中では半ばタブーとされている事実があるなど、特筆すべき華やかさが無いことに起因します。
さらにあまり知られていない事実として、栄一の女性関係は息子の篤二以上に派手であり、複数の愛人を持ち生涯で認知した子供は20人近くにのぼると言われています。
つまり篤二が廃嫡された背景には、単純な放蕩以上の理由があったことが推測されます。
その結果として篤二の息子である敬三は、父を飛び越えて栄一の後継者、つまり渋沢家の当主の地位に就くという重圧を背負うことになります。
その敬三は官民含めて多くの役職を務めることになりますが、冒頭にあるようにGHQに渋沢家は財閥には該当しないと通告されながらも、東京三田にあったの5000坪の豪邸を進んで財産税代わりに物納したといいます。
そして小さな家に移り住んだ後の口癖が、
「ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷の百姓に戻ればいい」であったといいます。
人間は逆境になればなるほど本性が出てしまうものですが、こうした何気ない言葉の中に維新志士として時代の荒波を経験した祖父・栄一の精神を受け継いでいる凄味を感じます。
こうした作品のアプローチは普通の歴史小説や伝記にはないものであり、やはりノンフィクション作家である佐野氏らしい作品に仕上がっていると思います。
いちのすけのまくら
春風亭一之輔師匠が週間朝日で2014年5月から2017年6月まで連載していたエッセイを書籍化したものです。
当時は真打ち昇進から1年ほど経過した時期で、「笑点」メンバーになる以前の連載ということになります。
「笑点」はたまにしか見ませんが、私が知る限りすこし強面の顔での毒舌キャラ(なかでも司会の昇太師匠が標的になることが多い)という側面と、飄々としながら時事ネタで笑いを取る一面があり、今や完全に番組に馴染んでいる「笑点」の欠かせないメンバーになっているというイメージです。
さらに年間800~900席という数の落語をこなしながらも「最もチケットの取れない噺家」としても知られており、紛れもなく落語会のトップランナーの1人です。
これだけの活躍をしていると努力家でストイックな噺家という印象を受けますが、実際に本書を読んでみると「芸」へ対して厳しい一面は殆ど見せず、完全に脱力系のエッセイになっています。
しかもここに連載されているエッセイは手書きの原稿という形ではなく、寄席の合間で立ち寄った喫茶店や移動時間などを利用してガラケーでひたすら文字を打ち込んで連載を続けていたといいます。(さすがに今ではスマホを使用していると思いますが。)
忙しい毎日の中で週1回といえども連載を続けるのは大変だと思いますが、落語には"まくら"という本編に入るまでのフリートークを行うのが慣例としてあります。
前座や年配の噺家であれば"まくら"を最小限にしたり、演目と関連した定型的な内容を喋ることも珍しくありませんが、やはり最近の出来事や時事ネタの方がウケると思います。
つまり本書のタイトルにある通り"まくら"のネタを作る習慣のある噺家にとって、エッセイの連載も同じような作業ではないかと推測できます。
実際に連載の中でも時事ネタを使って落語の登場人物(熊さん、八っつぁん、ご隠居さんなど)に演じさせて、そのまま"まくら"に使えるような回もあります。
また先輩・後輩とのやり取り、家庭での出来事、前座や学生時代の思い出などを話題に出すことも多く、噺家らしく毎回最後にオチを付けて終えるという形をとっています。
また著者は本書の解説をビッグネームへ頼むのが恐縮だと思ったのか、自分の高1の長男に書かせるといった試みも笑わせてくれます。
(しかもその解説がよく書けているので驚きです。)
よって深い話は殆ど掲載されていませんが、色々な話題について気楽に読むには最適な1冊だと思います。
ちなみに私は一之輔師匠は間違いなく影で努力するタイプの噺家だと思っていますが、エッセイからはそうした姿を微塵も感じさせないのは、彼自身の美学なのかも知れません。
私自身はまだ一之輔師匠の落語を生で聴いたことはありませんが、なるべく近いうちに噺を聴きに行きたいと思います。
師匠
本書は落語家の立川志らく師匠が、自らの師匠・談志について語った1冊です。
私自身は昔からの落語ファンではないため、音声や動画を通じて談志師匠の落語を聴いたことはありますが、生で聴いたことはありません。
落語の良し悪しには詳しくありませんが、十八番である「らくだ」、「芝浜」の迫力は動画からも伝わり、談志にしかできない落語という印象を受けます。
また音声で30代の頃の落語を聴いてみても、キレのある畳み掛けるような話芸はとても若手の噺家とは思えない技術と貫禄が感じられます。
一方で自分が落語家を志望して誰かに弟子入りすると考えた場合、談志師匠は選びたくないなと思ってしまいます。
それはよく知られているように、破天荒な言動や短気な性格という印象があり、とにかく面倒臭そうだからです。
実は入門前の志らく師匠もまったく同じことを考えていたようで、はじめは金原亭馬生師匠(昭和の名人・古今亭志ん生師匠の長男)へ弟子入りするつもりでしたが、弟子入りする前に馬生師匠が亡くなってしまい、たまたま入った池袋演芸場で出番のあった談志師匠の落語を聴いてシビレてしまい、弟子入りを決意したそうです。
そして実際に弟子入りして毎日師匠の家へ通うようになると、予想通りというべきか色々な場面でカミナリを落とされる日々が続きます。
弟子の立場から見ると理不尽としか思えないようなことばかりですが、どんな場合でも談志独特の価値観に基づいたものであり、弟子の中で唯一師匠の家に通い続けて家事やカバン持ちをしているうちに、その考えか少しずつ理解できるようになってきます(ちなみにほかの弟子は人間修行と称して築地の魚河岸へ送られていたそうです。)。
志らく師匠は兄弟子の中でも年齢の近い談春師匠と行動を共にすることが多く、兄弟子たちとの二つ目昇進のための試み、晴れて二つ目となり祝賀パーティーにまつわる話、その他数々のエピソードなどを読んでいると、苦労しながらも青春小説のような爽やかさを感じてくるから不思議です。
たまに談志師匠が弟子の反論に合って言葉に詰まる場面や、珍しく弟子を褒める場面などもあり、理不尽一辺倒ではない師匠の優しさが垣間見れるのもポイントです。
しかし師匠と弟子の関係は永遠に続くものではなく、ガンを患い声が出なくなってきた談志師匠の晩年に差し掛かると別れを予感した寂しさが滲んでくるようになります。
その頃は志らく師匠を含め弟子たちは真打ちとしてそれぞれ忙しい日々を過ごしていることもあり、カバン持ちの頃のように病身の談志師匠に付き添うこともできません。
そして言葉も交わすことも出来ないほど衰弱した師匠との最後の対面は本作品のクライマックスだといえます。
作品からは弟子たちの中でもっとも長く談志師匠の側にいた志らく師匠は、もっとも師匠を理解し、そして自分が師匠からもっとも評価されていたという自負が感じられます。
同時に「それは勘違いだ」、「思い上がりだ」という兄弟子やファンたちの声が聞こえてきそうですが、そうした批判も覚悟した上での作品であることも感じられました。
人生を豊かにしたい人のための講談
講談師で人間国宝でもある神田松鯉先生による1冊です。
本ブログで過去に著書を紹介したこともある人気講談師・神田伯山先生の師匠であることでも知られています。
初心者向けにやさしく講談を解説している内容ですが、所々に自身の経歴も書かれており自伝的な要素も含まれています。
- 第一章 講談と落語はどこが違うのか
- 第二章 講談の魅力
- 第三章 講談はどこで聞けるのか
- 第四章 講談の有名な話は
- 第五章 講談師の修行とは
- 第六章 講談の歴史
- 第七章 講談古川柳
私自身は年に2、3回ほど寄席へ行きますが、15人ほどが出演するプログラムで過半数が落語家、その中で1人か2人ほどの枠で出番がある講談師の一席を聴く程度であり、まったくの初心者ではありませんが、詳しくもありません。
よって本書の解説によって、たとえば講談の始まりが戦国時代にまで遡ること、細かい作法などを始めて知ることも多くありました。
現在は若手・中堅の活躍もあって再び講談が脚光を浴びていると言いますが、かつての講談の最盛期は江戸後期から明治時代にかけてであり、江戸だけで講釈場が200件以上あったという信じられない数字が残っています。
昭和25年に開業した東京唯一の講釈場であった本牧亭も平成23年に幕を閉じてしまい、人気を盛り返してきているとはいえ、現時点で常設の講釈場は1件もない状態が続いています。
とくに松鯉先生が講談の世界に入った昭和45年頃は沈滞し尽くした状態だったといいます。
客がなかなか入らず、自身も講談1本で暮らしてゆくことが難しいため、結婚式司会者などのアルバイトを兼業していたといいます。
それでも講談師を廃業することなく地道に修行を続け、今では500席以上という途方もない演目数を誇るまでに至っています。
松鯉先生には弟子も多く、講談冬の時代と言われようとも研き続けた技を次の世代へ伝えてきたからこそ今の人気があるのだと思います。
またそれどころか今でも83歳という年齢で寄席へ上がり続けており、私も1度聴いたことがありますが、年齢をまったく感じさせない素晴らしい芸だったことを覚えています。
ちなみに講談には連続物と呼ばれる連続ドラマのような長編があり、松鯉先生はこの連続物こそが講談の醍醐味だといいます。
中でも赤穂義士伝には300前後の演目があると言われ、その数には驚きますが、いつか20席くらいの長編を数日かけて聴き続けたら楽しそうだなと思います。
日本人の「あの世」観
前回に引き続き梅原猛氏の著書です。
「百人一語」は学者らしいエッセイでしたが、本書では著者の取り組んできた研究成果の講演や論文が掲載された学術的な1冊です。
著者ははじめ西洋哲学を研究していましたが、経済発展に伴う環境破壊や格差拡大といった近代社会における諸問題を自我中心の哲学では解決できないと考え、人間を自然(宇宙)の一部としてとらえる日本文化を根本的に問い直す研究へと転向します。
なぜ対象が日本文化かといえば、いま一度、人類の歴史を根本的に反省し直すためには、人類が狩猟採集していた頃の原始的な文化(つまり縄文文化)にまで遡って知る必要があり、そうした文化の名残りが世界的に見ても日本の中に著しく残っていると考えたからです。
日本文化の中でもとくにアイヌ文化、沖縄文化にそうした傾向が強いとして、そうした一連の研究成果が体系化されてゆき、「梅原日本学」とまで呼ばれるようになりました。
その研究範囲は文学・歴史・宗教・民俗学を包括した広大なものであり、本書ではそうした研究活動の内容を包括的、またはその一部分が紹介されています。
本書のはじめでは日本人の死生観、つまりタイトルにある「あの世」観について語った講演内容が収録されています。
まず原始仏教(インド仏教)では、宗教として人間の死に関する儀式は司っていませんでした。
それを葬式として司るようになったのは、仏教が日本へ伝来して発展を遂げたのちであり、それは元々日本人が持っていた「あの世」観への強い信奉と融合した結果だといいます。
もともと日本人は「あの世」を"天国と地獄"、もしくは"極楽と地獄"といった上下の位置関係では捉えておらず、人間の魂は「あの世」と「この世」を行き来するものだという考えがあり、「あの世」へ行ったご先祖様はいつか「この世」に生まれ変わる、つまり行き来するものとして考えていました。
たしかにお盆の送り火を見ると、宗教行事というより土俗的な儀式の名残りといった雰囲気を感じます。
こうした傾向はとくにアイヌ文化、沖縄文化において顕著であり、その理由はまず大陸から稲作文化と最新技術が九州へと伝わり、やがて西日本から近畿地方にかけて日本史上初の中央集権を打ち立てた際に、その勢力が及びにくい日本の南北両端において原初の日本文化が色濃く残り続けたからだと説明しています。
もちろん中央集権化された日本人たちも縄文文化をまったく消去してしまうのではなく、その一部を取り込んでいます。
そうした観点から本書ではアイヌ語と日本語の共通点、さらには沖縄方言とアイヌ語の共通点などを過去の言語学研究の成果を交えて紹介しています。
さらに梅原氏は「古事記」、「日本書紀」を研究することで仏教伝来前の日本文化を研究したり、日本仏教が独自に発展してきた過程を研究したり、さらには「万葉集」や「古今集」といった和歌に残る日本語や考え方の中からも、日本文化の基層を見つけ出そうと試みています。
私には本書の内容が学術的に正しい・誤っているという判断はまったく出来ませんが、とても興味深い研究アプローチだと思いますし、少なくとも充分な説得力があるように思えました。
これまで紹介してきたように本書は学術寄りの内容ではありますが、一部を除いて難解な箇所は少なく、たまには活字から一般教養や知識を深めるたにこうした本を手にとってみるのはいかがでしょうか。
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