遠い幻影
吉村昭氏の短編集で、300ページ弱の文庫本に14篇の作品が収められています。
- 梅の蕾
- 青い星
- ジングベル
- アルバム
- 光る藻
- 父親の旅
- 尾行
- 夾竹桃
- 桜まつり
- クルージング
- 眼
- 遠い幻影
今まで読んできた吉村昭氏の作品もかなりの数になってきたこともあり、上記のうち半数以上は自らの体験を元に幾らかの要素を付け足した、いわば"準私小説"のような作品であることが読んでいると分かります。
残りの作品は、僻地の診療所へ自ら志願して赴任したきた医師、囚人の脱走騒ぎを体験した刑務官、探偵のアルバイトをする学生など、さまざまな題材が扱われています。
吉村昭氏のおもな長編小説は、はじめは純文学、続いて第二次世界大戦を扱った戦史小説、そして江戸時から明治時代を扱った歴史小説へとテーマが変わっていきます。
それに比べて短編小説はその変化の遍歴が分かりにくい部分がありますが、それでも作風が確実に変わっていっていることが分かります。
著者はあとがきで次のように語っています。
竹は節があるから強靭なのであり、直立した地上茎は、細いのに高く伸びても折れることはない。
私が短編小説を書くのは、竹にとっての節に似た意味を持つからである。
竹の節のように、一定の時間の間隔をあけて短編小説を書く。苦しい仕事ではあるが、それを書かなければ、小説を書く私が、もろくも途中から折れてしまうような危惧をいだいている。
つまり長編小説でテーマが変わってゆく過程は、まずは短編小説がきっかけになっていると捉えることができます。
たとえば本書では1980年代に書いた私小説を、同じテーマや場面を扱いながらもあえて準私小説のような形で書き直しているような作品もあり、著者がさまざまな試みによって自らのスタイルを進化させようとしている姿勢が見てとれます。
この"進化するための努力"は、著者が言うように"苦しい仕事"でもあり、作家として確固たる地位を築き上げてのちも、その地位に甘んじることのないプロとしてのストイックさが作品からも充分に伝わってきます。
著者の徹底した取材や調査によって書かれた作品は、なるべく華美な装飾を避けるかのように抑制された表現で事実をそのまま記述し、それを綿密な構成でつなぎ合わせるようにして完成している印象を受けますが、そのバックボーンが本書に収録されている短編小説であると考えると、感慨深いものがあります。
いま中国人は中国をこう見る
2025年11月に高市総理による台湾有事に関連した発言(いわゆる高市発言)を受けて中国政府は即座に反応し、強い批判を繰り返すとともに、国民への訪日自粛の呼びかけ、輸出入規制といった報復措置に踏み切りました。
かねてより中国共産党(なかでもとくに習近平政権)にとって台湾統一は"核心的利益中の核心"であることを公言しており、すこし注意深く考えれば高市発言の反応としては当然であり、中国政府の姿勢や態度は終始一貫していて分かりやすいという見方ができます。
一方で中国国民たちがどのような考えを抱いているかについては徹底した監視社会ということもあり、なかなか実情が分かりにくいという現状があります。
つまり中国人による自国の政府批判はただちに検閲に引っかかり、直接的に自身のリスクへと繋がるのです。
政府は国民のあらゆる個人情報を把握・監視・検閲しており、日本人の感覚では中国国民は極端に表現の自由が制限されているように思えます。
こうした理由から外交や軍事といった側面以外からも、中国社会の実態をルポ取材、またはノンフィクションで紹介した本を今まで何冊か読んできました。
「ルポ デジタルチャイナ体験記」
「ルポ 中国「潜入バイト」日記」
「さいはての中国」
これらの本から得た情報を大雑把にまとめると以下のようになります。
- 中国人は良くも悪くも寛容であり、政府に個人情報を管理・監視されていることをさほど気にしていない。
- それでも政府に目を付けられるような面倒はなるべく避けつつ、個人の生活を自由に楽しんでる。
- (特にIT分野における)中国人のビジネス展開は日本人以上に柔軟さと臨機応変に富んでおり、技術革新という側面で中国を追従するのは容易ではない。
- 社会との調和を重んじる(空気を読む)日本人とは対照的に、中国人は他人の目をあまり気にしない個人主義の傾向がある。
- 一方で身内(仲間)だと認めた人へ対してはとことん親切であり、日本人なら躊躇するようなお金の貸し借りにも応じることが多い。
一言で表せば、一党独裁の政治体制を敷く国家の中で生活をする中国人たちはしたたかに生活しているといえます。
しかし状況はつねに変化してゆくものであり、情報をアップデートするために本書を手にとってみました。
本書はコロナがほぼ収束した2023年に出版されており、中国に詳しいフリージャーナリストの中島恵氏によって執筆されています。
はじめに注意すべき点として、あくまでも著者の個人的な知人やそこから紹介された中国人へ対して取材する形をとっており、これは大々的なアンケート調査や世論調査を行えるような国柄ではないため仕方のないことですが、統計的な意見ではないという点です。
また当然ですが、取材対象となった人の経済状況、学歴、職業、地域などによって意見はさまざまであるという点も頭に入れておくべきです。
インタビュー内容は政治、経済、教育と広範囲に及びますが、全体として先に紹介した中国人へ対する印象が大きく変わることはありませんでした。
一方で本書によって新しく知ることも多く、その一例を紹介したいと思います。
例えば中国国内ではマナー意識が高まりつつあり、都会の中で大声でケンカをするような光景は見られなくなったといいます。
ただし都市部住民と地方出身者ではマナー意識の格差が大きく、都市部住人はマナーの悪い地方出身者と同じ中国人だと思わないでほしいとさえ考えています。
先に紹介されたように厳しい情報統制が行われている中国社会では、共産党幹部の汚職など都合の悪いニュースは報じられません。
しかし多くの中国人が日本や欧米のニュースソースへアクセスできる手段を持っており、次のように語っています。
もし本当に、中国人は自国の都合の悪いことは何も知らない、と信じている日本人がいるとしたら、あまりにもお気楽というか、時代の変化に鈍感だと思います。
ここ近年の中国の科学技術やAIをはじめとしたIT技術の発展は目覚ましいものがあるは私自身も感じており、中国人たちも自国のサービスや商品に自信を持ちつつあります。
結局は1人の人間として考えたときに、日本人と中国人にそれほど違いはないのかも知れません。
本書の最後にインタービューに答えた中国人は次のように答えています。
中国中の人が覇権主義に賛同し、中国に世界でナンバーワンの国になってほしいなんて考えているわけではありません。
多くの中国人は自分と家族の生活を守り、ただもっと豊かになることだけを望んでいます。 求めているのは社会の安定と家族の幸せ、それだけなんです。
地形と日本人
著者の金田章裕(きんだ あきひろ)氏は、地理学者であり京都大学名誉教授などを務めています。
本書では地形を空間と時間の両面から研究する歴史地理学の視点を紹介しており、学術的な内容の新書です。
地理学というと取っ付きにくい印象を受けますが、「ブラタモリ」のような番組が好きな人であれば抵抗なく読むことができると思います。
また新書というページの制限もあり、多くの地形の中でも"平野"に焦点を当てて解説が行われています。
日本国土の7割が山林であることはよく知られていますが、人口の大半は平野に集中しています。
中でも国内最大の関東平野には、日本の人口の1/3以上が生活を送っていることから、もっとも身近な地形ということになります。
平野では河川によって運ばれる堆積物が扇状地を構成し、川の氾濫によって低湿地が生まれ、侵食によって土地が削られ台地が形成されたりします。
ときには山崩れによって一気に地形が大きく変化することもあり、また海岸線も陸化、または反対に侵食されることもあります。
ここまでは自然条件による平野の形成や変化ですが、そこに人間が住み着くようになり、やがて土木技術が進化するにつれ水害を防ぐために堤防を築くようになり、農業のためにため池を造成したり、反対に湿地や海を干拓して埋立地にしたり、人の手によっても地形は変化してゆきます。
本書ではこうした平野における地形の変化を時間の経過とともに考察しており、古地図と比較することによってその変化が具体的に解説されている箇所も随所に見受けられます。
趣味として江戸時代の古地図と比較しながら東京を散歩する人も多いようで、書籍だけでなく専用のスマホアプリも存在するようです。
また単純に自分が今住んでいる場所が昔はどのような場所だったのかを知るのは、好奇心以外にも防災の面でも役に立ちます。
ちなみに私の今住んでいる場所は平野の中でも台地に位置し、明治頃までは雑木林だったようです。 つまり地盤は安定しているものの水には乏しく、昔はあまり人が住むのに適した土地ではありませんでした。
本書には写真や地図も各所に掲載されており、大学の講義を手軽に新書で楽しめると思って気楽に手にとってみてはいかがでしょう。
彦九郎山河
本書は吉村昭氏による高山彦九郎を主人公にした歴史小説です。
私にとって名前は知っているものの、そこまで詳しく経歴を知っている人物ではありませんでした。
林子平、蒲生君平らと並んで"寛政の三奇人"と言われ、幕末の倒幕運動の主流となった尊王論、そして外国からの脅威へ対しての海防論をいち早く唱えた先駆者として知られています。
ちなみに"奇人"という言葉は「おかしい人」という意味ではなく、「優れた人」という意味で使われていました。
彦九郎が活動していた時期は、ペリー総督による黒船来航より約半世紀も早く、幕府の支配力に僅かなほころびこそ見られるものの、まだまだその力が強大な時代でもありました。
本作品は彦九郎の生涯を描いたものではなく、舞台となるのは42歳から46歳までのわずか4年間です。
それでも本作品は文庫本で400ページ以上にもなる長編歴史小説になっており、それを可能にしたのは彦九郎が筆マメで彪大な日記を残していたからです。
彼は妻子を故郷に置いてきたまま江戸へ出ており、作品の始まり時点ですでに儒学者・細井平洲門下の高弟として有名な存在でした。
普通であれば自らも一派を構えて私塾を開くなり、どこかの藩に学者として招聘されてもおかしくない立場でしたが、彦九郎はとにかく1つの場所に落ち着いていられるような性格ではなく、4年の間に蝦夷へ渡るべく東北地方を訪れたり、京都で活動したり、さらには九州全域を回ったりしています。
また交友関係も驚くほど広く、日本各地に知人が点在しており、旅先での滞在先にもそれほど困ることはなかったようです。
彦九郎の悲願は朝廷による王政復古であり、そたのめ手段を講じるため尊王派の国学者たち、革新派の公卿たちと会合を重ねる日々を過ごしています。
それだけにのちに幕末の志士たちへ与えた影響は大きく、とくに吉田松陰は彦九郎を尊敬していたといいます。
その当然の結果として彦九郎の行動は幕府によって厳重に監視されるようになり、とくに九州各地の遊説ではつねに幕府から尾行を受けるようになります。
また彦九郎は各地を歩きながら、浅間山の天明大噴火、天明の大飢饉による惨状に驚きつつも、農民たちの困窮へ対して有効な手を打てず、多くの餓死者を生み出した為政者(幕府)への批判の気持ちが一層と高まってゆきます。
学者という立場に満足できず、時には潜伏しながら日本各地で政治活動を続けてきた高山彦九郎の生き方は幕末の志士そのものであり、それをまだ幕府の支配力が強力で、のちの水戸や薩摩、長州のような尊王攘夷派の藩が1つもない時代に、たった1人でやり続けてきことに価値があるように思えます。
最後に孤立無援の中で亡くなった高山彦九郎の遺した辞世の句を紹介したいと思います。
朽ちはてて身は土となり墓なくも
心は国を守らんものを
一号線を北上せよ
"一号線"といえば国道1号、つまり東京~横浜間の別名・第二京浜を個人的には思い浮かべますが、本書ではヴェトナムのホーチミン~ハイノ間を結ぶ国道1号のことを指します。
ヴェトナムでもっとも大きい2つの都市を海岸沿いに縦断する国道であり、その距離は約1800km(日本列島でいえば青森~下関間の距離)にも及びます。
しかもこの道を旅するのが「深夜特急」で知られる沢木耕太郎となると、同作品のファンであれば本書を手に取らない理由はありません。
この旅を行ったのは本ブログで以前に紹介したNHKの番組製作のために訪れたブラジルへの旅を描いた「イルカと墜落」の翌年であり、2002年ということになります。
著者は1947年生まれで当時54歳であり、ユーラシア大陸をバスで横断したときの年齢が20代半ばであることを考えると、決して若いとは言えない年齢です。
当時のヴェトナムはインフラの整備状況が充分な状態とは言えず、一気にバスで踏破しようとすれば、かなり過酷な旅になるはずです。
しかし若くはなく、作家として確固たる地位を築いている沢木氏にとって若い頃のように乏しい所持金を気にしたり、バスの中で長時間にわたり過酷な道に耐え続けるといった苦痛を自ら求めるような旅をする必要はありません。
また作家としてのスケジュールを考えると、定職に就いていない若い頃のように、心ゆくまでヴェトナムに滞在し続けるといったことも出来ません。
つまり本書で描かれているヴェトナム旅行は若い頃のように無計画なものではなく、年齢相応の旅を楽しむというスタイルを取っています。
このような表現をすると、刺激が少ない物足りない内容ではないかと思う人がいるかも知れませんが、実際には旅のそして何よりも人生の経験を積み重ねてきた円熟味のようなものが感じられ、「深夜特急」とは違った魅力を楽しむことが出来ます。
無理のない距離で途中下車し、その町の風景やそこに住む人々の暮らしをじっくりと観察する余裕のようなものがあり、こういった旅なら自分もしてみたいと思わせるものがあります。
一方でバイクタクシーや商店などで料金を吹っ掛けられていると感じたら躊躇なく値切り交渉をする場面などは、昔と変わらない著者らしい旅慣れたしたたかさを感じさせます。
著者は林芙美子氏の小説「浮雲」からの文章を引用しつつ最後を次のように結んでいます。
「何時か、何処かで、消えるともなく消えてゆく、浮雲」のような旅人になるのも悪くないな、と思ったりもしていた。
私自身は今まで1人旅をした経験が殆どないこともあり、なかなかこの心境に達することはできません。
一方で本書を読むと、何歳になっても体が動く限りは自分なりの1人旅を楽しむことが出来るのではないかと思わせるものがあり、ちょっとした冒険を楽しんでみたい気持ちに駆られます。
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