本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

生麦事件(上)


本作の表題となっている生麦事件とは、1862年に生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)で起きた、薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(1名死亡、2名重傷)です。

この事件以前にも過激な藩士や浪人たちの攘夷運動によって外国人が襲撃される事件は度々発生していましたが、これらの事件と大きく異なるのは、白昼堂々と薩摩藩士の手によって行われたことが明らかであり、目撃者が多数存在していたことです。

イギリス側は実行犯、そして藩の実権を握る島津久光の処刑、さらには賠償金の支払いを要求します。

一方の薩摩藩は、下馬せずに大名行列を乱した者は無礼討ちしても構わないことが国法として認められており、それは外国人といえども例外ではないと主張してイギリスの主張を突っぱねます。
(ちなみに被害者のイギリス人たちは不幸にもその法を知りませんでした)

そもそも当時の薩摩藩はもっとも攘夷熱が高かった時期でもあり、こうした背景からもイギリスへ譲歩する気はまったくありませんでした。

その中で困った立場に追い込まれたのが、イギリスを含めた5カ国と通商条約を締結していた幕府です。

この条約では外国人の治外法権(外国人が日本で罪を犯しても日本側は裁けない)が認められており、イギリスは幕府へ対して管理責任を追求したため板挟み状態に陥るのです。

この頃には尊王思想、公武合体運動といった動きが活発になりはじめており(薩摩藩はその急先鋒勢力の1つであった)、幕府の推し進めてた開国政策に反対だったこともあり、幕府からの圧力に屈するつもりは毛頭ありませんでした。

のちの明治維新は薩長両藩を中心に成し遂げられることになりますが、この時点でもっとも世界情勢を正確に把握していたのは幕臣たちであったのは面白い点です。

幕府は西洋列強国の持つ武器や船舶の性能が日本のそれとは次元が異なるほど優れており、開国を拒んで武力に訴えられた場合に勝ち目がないことを冷静に見抜いていたのです。

一方で江戸幕府が整備した優れた官僚主義は、この頃に至ってさまざまな弊害が生じ始め、迅速で大胆な意思決定が行えず、"ことなかれ主義"と"前例踏襲"に終始する有様となっていました。

そのためイギリスからの要求へ対して右往左往して、ひたすら先送りする状態であり、その経緯が吉村氏らしい正確な時系列で描かれています。

業を煮やしたイギリスは5隻の戦艦を率いて薩摩藩を攻撃することを決定し、薩英戦争へと繋がってゆくのです。

本作品を読み進めてゆくと、この生麦事件が幕末の大きな転換点となったことに気付かされますが、意外にも吉村昭氏がこの事件を作品として取り上げようとした当時、この事件についての専門の研究者や研究書が存在しないことを知って驚いたといいます。

つまり吉村氏は作家でありながら、歴史上におけるこの事件の重要性にいち早く気付いた1人ということになり、その着眼点に驚かされます。

世界の一流は「雑談」で何を話しているのか


序盤に次のような一文があり、まさしく自分自身に当てはまると思い本書を手にとってみました。
日本のビジネスマンは、雑談を「本題に入る前のイントロ」と考えている。
多くのビジネスマンが雑談に苦手意識を持っている原因は、手探り状態で無難な話題を口にしていると不安が芽生えてくることに起因する。

著者のピョートル・フェリクス・グジバチ氏は、経営コンサルタントや投資家といった経歴があり、グーグルに在籍していたこともあるようです。
そして日本でのビジネス経験も長く、日本語に堪能で日本文化にも深い造詣を持っている方です。

本格的な打ち合わせに入る前に、天気の話や世間話をしたりする経験が私にもありますが、それは私だけでなく相手にとっても本質的に興味のある話題ではなく、次の日には忘れてしまうような内容です。

つまり場の空気を和ますために無理に雑談をすることに苦手意識を持つことは多くの人にとって自然なことだと思います。

一方で著者は一流のビジネスマンが雑談をする目的を次のように語っています。
1. お互いに「信頼」できる関係を築く
2. お互いが「信用」できることを確認する
3. お互いを「尊敬」できる関係を築く
これらを心理学で「ラポール」を作るという。

つまり雑談自体に明確な意図があり、お互いの沈黙と気まずさを埋めるだけの雑談は「愚かな行為」ということになるのです。

そしてビジネスの場の雑談は取引先企業だけを指すのではなく、社内で行われる雑談も対象になります。

ここでは主にグーグル社内で行われていた雑談を対象に事例が紹介されています。
グーグルの取り組んでいる内容が無条件で良いこととは思いませんが、それでも本書に書かれていることは説得力があります。

それは上司と部下は日本企業でいう「上下関係」にあるのではなく、プロスポーツチームにおけるコーチと選手のような関係であり、その時間は基本的に部下のためにあるというものです。

また雑談を含めオフィスに笑い声があるということは、「笑ってもいい」ほどにリラックスして働ける環境であるだけでなく、仕事で結果が出ている証拠であるとも言及しています。

たしかに話し声が殆ど聞こえず、キーボードを叩く音だけが響く職場というのは緊張感が漂い、少なくとも楽しく働ける職場という印象は抱けないでしょう。

続いて実践的なビジネス雑談の方法が紹介されていますが、要は一流のビジネスマンは周到な準備をして雑談に臨み、究極的には本題に入る前に仕事を終えてしまうというと著者は主張しています。

ここまで来ると何だか「雑談」という言葉自体が相応しくないような気がしてきますが、そもそも英語には"Chat"、"Small talk"といった近い意味の単語はあっても、雑談そのものを意味する単語は存在しないようです。

ちなみに本書で言及されているのはあくまでもビジネスにおける雑談であり、家族や友人、近所の人や恋人との雑談を対象にしたものではないのでご注意を。

疲労とつきあう


最近、書店を見て気付くのは疲労回復、休日の過ごし方、睡眠に関する本など、体調管理に関する本が多いことに気付きます。

仮にいつも最高のコンディションであれば、仕事でパフォーマンスを出すこともできますし、何より毎日を楽しく過ごせると思います。

しかし現実的には忙しさが続くと疲労やだるだ、さらには気分が乗らないといった不調を感じる場面があり、何よりも若い頃より疲れやすくなったことを実感します。

一方で書店に並ぶそうした本をパラパラをめくっても、いまいちピンと来ないことが多いのも事実です。

それは著者の専門とする知識、そして経験に基づく内容であることが多く、合う合わないに個人差があるように感じてしまうからです。

そこで手にとったのが本書です。

新書という手軽に疲労についての基本的な知識を得ることができる、しかもそれが岩波新書であれば読書好きとしては手にとってしまうものです。

出版は1996年と少し古いですが、医学の最前線を知りたいわけではないので、基本的な知識を得るのには差し支えがないはずです。

著者の飯島祐一氏は信濃毎日新聞社の編集者という肩書であり、いわゆる専門家ではありませんが、記者という経験を生かし、70人を超える医師、研究者、さらには患者へ取材をして本書を書き上げたといいます。

まず意外だと思ったのが、インターネットが本格的に登場する以前の1995年当時にも関わらず、科学の進歩・発達がもたらした豊かさの反面で、急速な技術革新の波が現代人へ精神的な負担をもたらし、疲労を蓄積させていると指摘している点です。

そこから30年の間にSNSや動画サイト、AIの登場などにより、さらにテクノロジーが進化し続けている現在ではその負担はさらに増大していると考えるのが妥当です。

続いてそこから生じるさまざまな病気や症候群について言及していきます。

ちなみに全国ではじめて慢性的な疲労を専門とする疲労外来が登場したのもこの頃(1993年)です。

さらに疲労は多くの場合、心の疲労が潜んでいると指摘しています。

その疲労が進むと「心そのものの病気」である精神疾患(さらにうつ病と神経症に分かれる)と「心がかかわる体の病気」である心身症へと発展してゆき、それらの病気が発生するメカニズムやそうした病気に陥りやすい性格、さらには実際の症例などが解説されています。

これはあくまで大きなカテゴリー分けであり、さらには休日神経症、燃えつき症候群、過敏性腸症候群、緊張型頭痛、パニック障害等々に細分化されてゆき、それぞれの症状についても解説されています。

また疲労回復と睡眠の関係性、不眠症や睡眠のリズムが崩れる睡眠相後退症候群にもページを割いて解説しています。

加えて疲労回復、ストレス解消のためのお酒がいつの間にかアルコール依存症となる危険性についてもページを割いて、その仕組みや症例が紹介されています。

新書でありながら幅広い症例に言及されており、こうした病気にかからないことが1番ですが、もし自分や身近な人が同じような症状になってしまったとき、多くの人が同じように苦しんでいること、また客観的にその症状を把握することは必要であり、手元に置いておいて損はない1冊だと思います。

けものたちは故郷をめざす


本書は安部公房氏にとって初期の作品でありながらも、その代表作の1つとして知られています。

著者は少年期を満州で過ごし、そこで終戦を迎えて父親を病気で失い、その翌年に引き上げ船で日本へ帰国するという経歴を持っています。

安部公房氏の作風を一言で表すと、非現実を現実的に描くという印象であり、言い方を変えるとリアリストが幻想文学を執筆するというイメージがあります。

それらと比べると自らの体験に構想を得て書き上げた本作品は戦争小説という側面があり、これまで読んできた阿部氏の作品とは異なる印象を受けました。

主人公の久木久三は満州で両親を失い、終戦に伴いその地を占領したロシア軍人たちと生活を共にするようになります。

しかし終戦から時間が経ち、戦後はじめて南(日本)へ向かう列車が出るという情報を入手し、ロシア軍人たちの目をかいくぐって日本へ帰国することを決意します。

久三はロシア軍人たちに虐待されているわけではなく、極寒の地に関わらず暖かい住居と充分な食料を入手できる恵まれた環境で暮らしていましたが、躊躇することなく故郷に戻ることを決意するのです。

それは動物が持つ帰巣本能のようなものであり、本作品のタイトルにもなっています。

一方で当時の旧満州地域はロシア軍、国府軍(国民政府軍)と八路軍(中国共産党軍)が入り乱れる混沌とした治安の悪い地域であると同時に、厳しい寒さで知られる東シベリア地域でもありました。

故郷を目指す久三は列車に乗り込みますが、それを待ち伏せした武力勢力に襲撃され、荒野に取り残される形となります。

そこで日本人の母を持つ中国人・高石塔と出会い、2人で荒野を歩いて安全な町を目指す逃避行を続けることになるのです。

ただし主人公と同道する高は、自らをジャーナリストと名乗るものの、明らかにそれが嘘と分かるような得体の知れない不気味さと謎を持った人物です。

作品の前半部分を読み進めている段階で、レイテ島から祖国への脱出を試みる兵士を描いた大岡昇平氏の「野火」とストーリー上で共通する部分が多いことに気付きます。

ただしいずれの主人公も飢えながら異国の地で彷徨するという共通点がありながらも、舞台が南国フィリピンと極寒の東シベリアという差異があり、また主人公が1人で行動するのか、2人の行動なのかという違いがあったりします。

久三はつねに他人への信頼と不信感の間で心が揺れ動き、何度も絶望するような状況に陥ります。

しかもそれが極寒の見渡す限り広がる地平線しかない大自然との対比の中で描かれている点に、作品のスケールの大きさを感じるのです。

極限の状況に置かれた人間がどのような心理の中でどのような行動を取るのか、その点の描写も作者によって大きく異なる点があり、読書の醍醐味の1つだといえます。

飢餓同盟


昨年から読み始めた安部公房も本書で6作目になります。

彼の作品の特徴は、どの作品からも完成度の高い独特の雰囲気が漂っている点です。

この"雰囲気"は作品の舞台だけでなく、登場人物たちも含まれます。

こうした登場人物たちの中には、主人公自らが唯一正気を持っている(と信じている)場合もあれば、主人公を含めた登場人物全員の正気を疑うようなストーリーが繰り広げれたりします。

本作品は後者に属します。

舞台は花園町というどこにでもありそうな架空の地方都市であり、かつては温泉街として賑わっていましたが、20年ほど前の大地震の影響で温泉がとまってしまい、今では目玉となる産業や観光地もない、雪深い寂れた町という設定です。

この町では代々の大地主、そして事業によって成功した大金持ちが絶大な権力を持つ、保守的な雰囲気が漂ってます。

一方で彼らによる実質的な町の支配を快しとはしない、不幸で複雑な過去を持つ恵まれない環境にいる人たちも存在していたのでした。

また保守的な町が故に、ほかの町から移住してきた"よそ者"として疎外されている人も存在しました。

花井太助もこうした境遇にいる1人でしたが、彼らを束ねて既存の権力者を打倒する(つまり革命を起こす)ために"飢餓同盟"を結成するのです。

花井は既得権益者たちの"富"を徹底的に否定しますが、同時に現実問題として革命を遂行するためには金(資金)が必要であるという矛盾に直面するのです。

そこでかつて温泉街で栄えたという地域性を生かして地熱発電所を建設する計画を思いつきます。

計画は壮大であるものの、秘密結社のメンバーは10名足らずであり、それぞれのメンバーが事情を抱えていてなかなか計画通りに進みません。

それどころか敵同士を離反させる作戦が、逆にその結束を高めてしまったり、女性問題が邪魔したりと前進どころか後退してしまう始末です。

それなりに深刻な状況に置かれている登場人物たちは誰もがどこか楽観的に描かれており、絶望的な状況がつねに喜劇のように感じてしまいます。

もし自身の境遇から将来への希望がまったく見えず、社会からも疎外された状態であれば、すくなくとも権力者たちの没落や社会の混乱を心のどこかで望むと思いますが、同時にそれが非現実的な妄想であることも意識するはずです。

中には花井のように本気で革命を企てる人間も出てくると思いますが、それは傍から見れば狂気であり、その結末は悲劇どころか喜劇で終わってしまうという現実を非現実的に描いた作品であるといいます。