本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

妖怪と歩く―ドキュメント・水木しげる

妖怪と歩く―ドキュメント・水木しげる (新潮文庫)

本ブログでまだ紹介できていませんが、漫画家"水木しげる"の自伝は間違いなく日本で3本の指に入る傑作であり、中でも「のんのんばあとオレ」、「ねぼけ人生」、「ほんまにオレはアホやろか」の3冊はすべての人にお勧めできる作品です。

太平湯戦争へ出兵して戦地で片腕を失いながらも奇跡的に帰還した壮絶な体験、売れない貸本作家として長い赤貧の生活を過ごした体験、もちろん「ゲゲゲの鬼太郎」の作者として漫画家として成功した経験はどれも起伏に富みながらも、微塵の悲壮感すら感じさせないその天真爛漫さに衝撃を受けます。

陽気にそして逞しく生きてゆく水木しげるの自伝は、その略歴からは決して伝わってこない圧倒的な迫力に満ちています。

水木氏が魅力あふれる人間であることは間違いありませんが、(失礼ながら)大変人であることも間違いありません。

しかし自伝であるが故に水木氏を客観的に見た時の"等身大の人間像"が分かりにくくなっていることも事実です。

本書はノンフィクション作家・足立倫行氏が1年間にわたる密着取材を行い執筆されたドキュメント作品であり、ある意味で水木ファンの待望だった1冊ではないでしょうか。

本作品の元になった密着取材は1993年に行われ、その時の水木氏は70歳を迎えていました。

足立氏は水木氏と故郷(境港市)一緒であることをきっかけに水木氏に興味を持ちますが、いわゆる熱狂的な水木ファンではありませんし、妖怪に特別興味がある訳でもありません。また足立氏は戦後生まれのため、水木氏とは一世代以上年齢が離れています。

さらに足立氏はノンフィクション作家という職業のため水木氏に密着取材をしながらも、冷静にそして微妙な距離感で眺めつつ本ドキュメンタリーを執筆している姿勢が伝わってきます。


当時の水木氏は、水木プロの経営者として多数のアシスタントを抱えながら精力的に執筆活動に行い、加えて年に3回も海外取材に赴き、さらに故郷(鳥取県境港市)にオープンした水木しげるロードの視察やイベントなどにも出席するといった、とにかく忙しい毎日を過ごしていました。

もちろんマンガ家は自営業ですから、引退時期は自分で決めて辞めることが出来ます。

にも関わらず水木氏は、パプアニューギニアの文明から離れた環境でのんびりと余生を過ごしたいという南洋幻想を常々抱いており、こうした二面性が水木氏の魅力でもあります。

本書の1つの山場は「アメリカの霊文化を訪ねる旅」と題されたアメリカンインディアンのホピ族を訪問する旅行です。

そこで伝統的に行われている神聖な儀式"ニーマン"を見学した水木氏の興奮した様子などに彼の思考がよく表れています。

「すごいです!あの祭りは予想以上に素晴らしいです!民族にとって祭りは一巻の書物と言われますけど、まさにその通りです!」
~中略~
水木は自説を強調するときの癖で、顔を少し傾け、唇を尖らせ、中空に振り上げた拳を何度も上下させた。
「いつ始まるともなく始まり、いつ終わるともなく続く、そこがいいんです。魂がこもってるんです。長い間聞いていても飽かない。オーケストラのような響きがありますよ、あの音楽は。精霊たちと本当に感応しあってるわけです!」

またホピ族の長老で精霊のメッセンジャーでもあるバンヤッカへ、精霊と妖怪との関係について熱心にインタビューを試みる水木氏の様子は、彼自身が妖怪マンガを書きながら人智を超えた妖怪(神)の存在を心底信じているのが分るエピソードです。

水木氏は戦時中にラバウルで分遣隊に所属している時に土民軍に襲撃され、たまたま歩哨として部隊から離れていたおかげで1人だけ生き残ったという経験を持っています。

その他にも多くの兵士たちの死を間近に見てきましたが、決して""や"人生"というのを達観することはありませんでした。

それどころか、むしろ死んでいった戦友の分まで貪欲に生きようとする旺盛な生命力に溢れています。

一見複雑そうに見えますが、実際の水木氏の人間像は単純であり、平和な時代に育ち小さな出来事に右往左往する私たちにとって水木氏の存在があまにも眩し過ぎるが故に、その正体が見えにくくなっているのかも知れません。

婚約のあとで

婚約のあとで (新潮文庫)

前回に引き続き、またもや恋愛小説を手にとってみました。

著者は昭和を代表する作家・阿川弘之氏の娘で、TVでも活躍している阿川佐和子氏です。

本業はエッセイストのようですが、本書のような本格的な長編小説も手がけています。


化粧品会社に勤めながらも、恋人と婚約を交わした20代後半の波(なみ)の何気ない日常からストーリーが始まります。。

続いて波の妹で海洋生物研究所の助手である碧(あお)のストーリーと展開してゆき、その他にも総勢7名の女性が次々と登場し、オムニバス形式で物語が展開してゆく手法で書かれています。

タイトルのように婚約を前提とした恋愛もあれば、不倫という形の恋愛、結婚してからも続く恋愛、もちろん普通に付き合っている恋愛という形もあります。

しかし恋愛へ対する考えは、年齢や立場、そして性格などによって千差万別であり、女性作家ならではの切り口で彼女たちの心理を巧みに描写しています。


そして本作の主人公はあくまでも"彼女たち"であり、全編にわたって"男性の存在感が薄い"のも特徴です。

恋愛小説であるため当然のように多くの男性が登場しますが、彼らの行動や発言はあくまでも登場女性たちの視点を通じたものであるのが特徴です。

もちろん女性読者をターゲットとしている理由が大きいでしょうが、視点を"女性"に絞ることでストーリーの純度を高める効果もあります。

女性の(もちろん男性も)恋愛の価値観は人それぞれであり、"自由な恋愛"そして当然のように生じる"結果としての責任"というのが本書に一貫して流れるテーマのように感じます。

男性読者としても、オムニバスの最大の魅力である1章ごとにストーリーが切り替わることで飽きることなく最後まで楽しめますが、やはり女性が読むとより共感できるのではないでしょうか。

眠れぬ真珠

眠れぬ真珠 (新潮文庫)

普段滅多に読むことのない恋愛小説というジャンル。

読書の秋ということで、思い切って手にとってみました。

著者の石田衣良氏は、どんなテーマで小説を書いてもテンポの良いストーリーで読者を惹きつけてしまうタイプの作家であり、普段は敬遠しがちな恋愛小説の敷居を低くしてくれるのです。


本作のヒロインは、45歳のバツイチ独身で版画家として活躍する内田咲世子(さよこ)。

3歳年上で画商の三宅卓治という愛人はいるものの、咲世子自身は結婚を諦め、仕事に徹した有能なキャリアウーマンといった感じの女性です。

その咲世子がある日、17歳年下(28歳)の青年・徳永素樹と出会った時から大きく日常が変化してゆくのです。。


登場する人物の年齢から分かる通り、「大人のための恋愛小説」であることはすぐに気付きます。

そして物語の設定も昼メロのようであり、少なくとも若者向けのラブストーリーや爽やかな青春小説の類ではありません。

そもそも恋愛小説を読み慣れている読者であれば、「眠れぬ真珠」というタイトルから雰囲気を推測できるかも知れません。

ともかくありがちな登場人物と設定という素材を目の前に、真正面から切り込んだ恋愛小説と表現できるかも知れません。

もちろんドロドロしたシーンが登場することもあり、読者によっては抵抗を覚えるかも知れませんが私はすんなりと読むことができました。


今の時代、20代後半と40代半ばの恋愛自体は珍しくありませんが、男性作家にも関わらず女性の心理に鋭く迫った描写には説得力を感じます。

ヒロインが私自身の立場とはかけ離れているのはもちろんですが、性別や年齢を超えて共感できるところが小説ならではの魅力であり、新鮮な読了感を得た1冊でした。

自省録

自省録 (岩波文庫)

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

広大な領土を統治したローマ帝国の皇帝として、後世からは五賢帝の1人に数えられています。

当時から完全に政治や軍事機構が整備されていたローマ帝国でしたが、それゆえ皇帝が最終的な判断や決裁を行うことも多く、まるで大企業の社長のように忙しい立場でした。

もちろん皇帝としての権力を持ってすれば部下にすべてを任せ、自身は政務から離れて贅沢な生活を送ることも可能だったでしょうが、少なくともマルクス・アウレリウスは自らの責務を忠実に果たそうとしました。

ただしマルクス・アウレリウス自身は、ストア派のギリシア哲学に大きな影響を受け、本心は皇帝よりも学者として一生を送りたい願望を密かに抱いている内面的で繊細な精神の持ち主でもありました。

そんなマルクス・アウレリウスの著書として有名な「自省録」ですが、原題は「自分自身に」ということから分かる通り、元来はひとに読んでもらうためでなく、自分自身への戒めや感慨などを綴った手記として記録されたものです。

そんな自省録の和訳として1956年に岩波文庫から出版され、多くの重版を重ねている神谷恵美子氏による本書「自省録」は日本でもっともスタンダードな1冊です。


ローマ帝国という広大で強力な組織を統べる立場としての重責はとてつもなく重いものでしたが、彼が個人としてどのように考えを持ち、また反省しながらどんな理想を目指そうとしたのかが、よく分かる本です。

引用しやすい箇所を少し紹介してみます。

何かするときいやいやながらするな、利己的な気持からするな、無思慮にするな、心にさからってするな。君の教えを美辞麗句で飾り立てるな。余計な言葉やおこないをつつしめ。なお君のうちなる神をして男らしい人間、先輩の人間、市民であり、ローマ人であり、統治者でもある人間の主たらしめよ。(第3巻 5章)

ローマ帝国としての絶大な権力を乱用することを戒め、常に熱心でありながらも謙虚であり続けようとした心境がよく表れています。同様の記述は何度も本書の中に登場します。

もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。(第6巻6章)

人の誤りを出来る限り許そうと務めた心優しい皇帝であると同時に周りの空気に流されず、自らの良心や理性によって慎重に物事を判断する哲学を持っていました。

昔さんかに讃めたたえられた人びとで、どれだけ多くの人がすでに忘却に陥ってしまったことであろう。そしてこの人びとを讃めたたえた人びともどれだけ多く去ってしまったことであろう。(第7巻6章)

後世からも讃えられるような存在からも無縁でいたいという、名誉欲さえも彼は自分の中から追いだそうと努めていました。
これはそのまま本書に幾度となく登場する彼の死生観に繋がっています。

どんな立場であれ、この本を読む読者が何らかの責任を果たさなければならない立場であり、またその重責や煩わしさに苦悩しているのなら、本書は多くの示唆と勇気を与えてくれます。

2千年近くが経過している現代においても、当時のローマ帝国皇帝ほどの責任を背負っている人は殆ど居ないはずなのですから。

龍馬を創った男 河田小龍

龍馬を創った男 河田小龍

坂本龍馬がもっとも影響を受けた人物は?

真っ先に思い浮かぶのは龍馬が師として仰いだ勝海舟ですが、福井藩主・松平春嶽も外せません。

もしくは武市半平太中岡慎太郎といった同志、西郷隆盛桂小五郎といった盟友だったも知れません。

その中で藩士でもなければ明治維新で活躍した志士でもない、土佐城下に住む絵師である河田小龍を挙げる人は、なかなかマニアックではないでしょうか。

小龍は少年の頃から絵師を目指す傍らで、学問にも熱心に取り組みます。

長崎でオランダ語を学んだことをきっかけに、土佐の漁師として漂流し10年間ぶりに帰国したジョン万次郎中浜万次郎)と起居を共にし、その見聞録をまとめた「漂巽紀畧(ひょうせんきりゃく)」は藩主の山内容堂をはじめ、当時の知識人たちに大きな影響を与えました。

つまり小龍は、土佐の中にいながら当時の知識人の中でも有数の海外通でもあったのです。

18歳で江戸へ剣術修行へ向かい、19歳に土佐へ一時帰国した坂本龍馬が小龍からはじめて海外情勢を聞き、後年の海援隊(亀山社中)の構想を得るにあたり大いに影響を受けたというのが、本書のテーマにもなっています。


残念なことに小龍の日記の大部分が2度の災害で焼失しているため、きわめて資料が少ないというのが現状のようです。

それでも小龍の塾(墨雲洞)からは、長岡謙吉近藤長次郎といった海援隊で隊士となる人物を多く輩出していることからも、小龍と龍馬の強い結びつきを推測することができます。

小龍に活躍の場を与え世界情勢へ目を向けるきっかけを与えてくれたのは、山内容堂に重宝され参政として藩政改革を行った吉田東洋です。

東洋と小龍は互いに盟友と呼べる関係でしたが、東洋は自ら(墨雲洞)の門下であった武市半平太たちによって暗殺されるといった痛ましい経験をしています。

小龍を中心として墨雲洞には、今まで挙げた人物のほかにも後藤象二郎板垣退助岩崎弥太郎といった後の土佐の偉人たちが集い時世を論じ合ったといいます。

つまり河田小龍は幕末の土佐藩を語るにあたり欠かせない存在であり、長州藩の吉田松陰松下村塾のように積極的に評価されるべきなのかも知れません。

魔王と呼ばれた男・北一輝

魔王と呼ばれた男・北一輝

本書のタイトルにある通り北一輝をはじめて"魔王"と呼んだのは、有名な国家主義的思想家であった大川周明です。

戦後に過去を振り返って北一輝を次のように評しています。

北君は実に善悪の分別など母親の胎内におき忘れてきた人で天衣無縫というのは彼の事でしょう。
あるとき北君がひどく義理に外れた行為をしたので私が之を詰ると、義理人情に拘泥して革命ができるかというから、僕は之に反駁して、僕の革命は義理人情を回復するためにやるのだと言ったのがねえ、どうも危なっかしくて見ていられないことを平気でやる人だったですよ。
世の中には神がかりはあるが北君は魔がかりだと僕がいってから、人が彼を魔王と呼ぶようになりました。

まさに明晰な頭脳と人を魅了する弁舌、圧倒的な威圧感とカリスマ性を持った北は、人を惹きつけてやまない魔力を持った人物でした。

彼の著書「日本改造法案大綱」は、二・二六事件を引き起こした青年将校たちを感化し、北自身もその精神的な支柱として隠然たる力を備えていました。

一方で体制側の視点から見ると彼は革命家であり、また国家社会主義者であり、手段を選ばずに国家転覆を企てたテロリストとして見なされてきました。

もっと分かり易く表現するなら北一輝は「暴力装置」そのものであり、恐喝やテロ、裏切りといったことを平然とやってのける狂信的な思想家ということになるでしょう。

しかし人間・北一輝の中身は複雑であり、独学によって思想体系を作り上げて革命家として奔走しますが、やがて熱心に日蓮宗を信仰し始め、彼の後半生は"現実と神仏の世界の狭間"に生き続けたといえます。

本書は今まで注目される機会の少なかった彼の著書「霊告日記」の記録を元に、北の持つもう1つの顔を考察した本です。

「霊告日記」は昭和4年4月27日から書き始められ、二・二六事件により北が逮捕される直前の昭和11年2月28日まで、ほぼ毎日記録された日記です。

その内容は異色なもので、北が法華経を唱え、妻すず子に降霊した神仏や神霊のお告げやヴィジョンが記載されています。

"お告げ"を行う存在も多彩で、観音やスサノオといった神仏から、西郷隆盛や大山巌、明治天皇、さらには宮本武蔵といった人物までもが登場するオカルトな内容です。

そう考えると確かに「霊告日記」を歴史的な検証を行う資料としては扱いにくいのですが、著者は「霊告日記」にこそ、北の判断材料や行動指針、そして潜在的な願望までもが含まれていると考え、詳細な考察を加えています。

さらに付け加えるなら本書は、北とその妻・すず子が持つ霊能力(予知能力)をある程度までは認めるといった解釈さえ許容しています。

これをどのように評価するかは読者に任せますが、本書を読む意義は充分あるように思えます。

とくに昭和初期の歴史は入り組んでおり、年表を並べて政治家と軍部が対立し、やがて軍の内部でも統制派皇道派を抑えて権力を掌握し、太平洋戦争に突入するといった単純な図式では、歴史の半分しか理解できないのではないでしょうか。


血盟団事件における井上日召五・一五事件における大川周明、そして二・二六事件における北一輝の役割や彼ら(民間右翼団愛)の横のつながりを知ることで、より立体的に時代の背景が見えてくるのではないでしょうか。


二・二六事件の結果、銃殺刑となった青年将校たちはその直前に「天皇陛下万歳」「大日本皇国万歳」と三唱したといわれますが、同じ運命を辿った北一輝は完全に神仏の世界に没頭し、ただただ静かに死を受け入れました。

一方で北が獄中で詠んだ句に「若殿に兜とられて負け戦」というものがあります。

"若殿"とは昭和天皇のことに他ならず、こうした句の中に北一輝という人間の凄みが垣間見れるような気がしてなりません。

水木しげるの妖怪101ばなし

水木しげるの妖怪101ばなし (てんとう虫ブックス)

タイトルから想像できると思いますが、水木しげる氏が101体の妖怪をイラストと共に解説している本です。

読書というより、フリーマーケットでたまたま入手してから、気の向いた時に眺めているといった感じです。

私にとって"妖怪の知識"はすべて水木しげる氏から得たといってもよく、小学生の頃は「ゲゲゲの鬼太郎」に夢中になった時期もありました。

"つるべ落とし"、"こなきじじい"、"一反木綿"、"ぬりかべ"、"小豆洗い"、"河童"などなど、、子どもの頃にみたイラストがそのまま掲載されいるのを見ると、懐かしさとともに改めて興味が湧いてきたりします。

劇画調でありながらも、どこかユーモアのある水木氏の画風は、そのまま私にとって"妖怪のイメージ"として定着しています。


水木氏は妖怪の熱心な研究家であると同時に、幼い頃から妖怪の存在を身近に感じることのできる繊細な心を持っていました。

少年向けに書かれた本にも関わらず、各地の民間伝承やその妖怪が登場する昔の書物を丁寧に解説し、また自らの体験をさりげなく紹介している点などは、大人が読んでも楽しめて好感を持てます。

もし"妖怪は昔の人びとの空想の産物に過ぎない"として片付けられてしまうのなら、人間が自然や昔から信仰されてきた神々(八百万の神)へ対する畏敬の念を忘れてしまった時であり、それはきっと悲いことに違いありません。

21世紀になった現在でも妖怪が町の片隅に、そして山奥や墓地にひっそりと生息し続けると考えた方が、豊かな気持になるということを教えてくれたのが水木しげる氏なのです。

どくとるマンボウ青春記

どくとるマンボウ青春記 (新潮文庫)

本ブログではお馴染みの北杜夫氏の"どくとるマンボウシリーズ"です。

タイトルから分かる通り、本書は北氏の青春時代を余すことなく書き綴ったエッセイです。

具体的には、旧制松本高等学校か東北大学にかけての学生時代を振り返っています。

旧制高等学校といえば白線帽高ゲタボロボロの学生服の上からマントをまとい、酔っ払いながら哲学議論をやったり、ストームと呼ばれるバカ騒ぎなどに代表される自由な気風で知られています。

さらには普段の振る舞いも粗野で野蛮であることを誇り、"バンカラ"という気風で知られています。

北氏の学生時代は、そうした旧制高校の時代に青春時代を送った最後の世代です。

一方で世の中は、日太平洋戦争とその敗戦によって多くの人びとが犠牲になり、深刻な物資不足に悩まされた"暗黒の時代"でもあったのです。

それでも若者の有り余る時間とエネルギーは、そんな暗黒の時代さえも明るく照らすようなパワーに溢れていました。

北氏らしいユーモア溢れる逸話が沢山収められていますが、中には当時の日記や俳句なども引用して、当時の多感な時期の心情も紹介されていたりします。

本書から幾つかのエピソードを拾って紹介してみます。

紙にイロハを書き、一本の箸を何人かで持って、
「コックリさま、コックリさま、お出でになりましたでしょうか。学期末の試験では誰と誰が落第(ドッペ)るでしょうか、お教え願います」
などと真剣にやっている光景は、どうしても尋常なものをはいえなかった。

普段はろくに勉強しない学生たちも、やはり落第は怖かったようです。

ある教師は、終戦の翌日、生徒たちを整列させておいてこう述べた。
「負けるが勝ち、ということもある」
幼稚園ではあるまいし、この訓話もちょっとひどすぎる。今となって思えば、この文句もあんがい深い意味がありそうに見えるが、そのときその教授はたしか幼稚園の先生の水準において述べたのだ。

旧制高校には色んな教師がいたようです。
もちろん生徒が先生に酷い仕打ちをすることも珍しくありませんでした。

西寮の末期に、一人が言いだした。
「どだい女というものは不潔で低級なものだ。そんなものを愛するのは俗物のやることだ」
もっとも彼のそのばに本当に低級な女性であれ一人現れれば、彼はそんなことを言わなかったろう。
「われわれはすべからく少年を愛さねばならぬ。これこそ高邁なギリシャの少年愛(クナーベン・リーベ)である。」
私たちはこれに賛同の意を表した。

男だけで寮生活を続け、さらにまったく女性からモテないとなると、こうした方向に暴走するのもしょうがない気がします。

著者が青春を過ごした時代から70年が経過しますが、今もまったく色褪せることのない、現在の学生が読んでも共感できる名著ではないでしょうか。


韓非

韓 非 (講談社学術文庫)

中国の戦国時代末期に登場した"韓非"。
日本では"韓非子"と呼ばれる機会の方が多いかもしれません。

私自身、"韓非"に興味を持ったというよりも、貝塚茂樹氏の著書を通じて中国思想史に触れてみたいという動機で読み始めた1冊です。

貝塚氏は著名な学者でありながらも一般読者人にも分かり易く解説してくれる著書が多く、中国史古代史に興味がある方であれば、是非彼の著者を読んでみることをお勧めします。


韓非の著書を読んだ秦王・政(のちの始皇帝)は感動して傾倒しますが、秦を訪れた韓非を脅威に感じた李斯の讒言により、毒殺されるという数奇な運命を辿ることになります。

それでも彼の法治主義の思想は、秦の国家統治の政策に採用されることになります。

法家の源流は、斉の管仲、鄭の子産、魏の呉起、秦の商鞅などに求めることが出来ますが、彼らはいずれも政治家や将軍として活躍した人物であり、学者として思想を確立することはありませんでした。

法家を思想として完成させたのが韓非であり、諸子百家の中では後発であるため、彼の思想はさまざまな影響を受けており、彼の著書である「韓非子」を過去の研究内容や最新の考古学の成果を元に厳密に検証してゆくといった手法で、韓非の思想を解説してゆきます。

従来は韓非は筍子とはじめとした儒家の影響を強く受けたとされてきましたが、貝塚氏は韓非の若い頃は道家に、その後は管仲や商鞅に影響されたという説を主張しています。

具体的な内容は少し専門的な内容になるため、興味のある方は本書を読んでみてください。


秦の始皇帝が中国全土を統一する直前に法家の思想家として活躍した韓非の生きた時代は、群雄割拠による戦乱が終わると共に、中国思想史の黄金期である諸子百家が終焉を迎える時代でもありました。

しかし韓非の生まれたは、といった強国に囲まれた危機存亡にある小国であり、溢れる才能を持ちながらも志を遂げることは出来ませんでしたが、2000年以上の時を経て彼の著書の知ることは決して無駄ではないと思います。

ちなみに法家の源流となった管仲や子産、商鞅らは宮城谷昌光氏によって小説化されているため、壮大な春秋戦国時代に興味のある方は是非こちらも読んでみることをオススメします。

本田宗一郎の真実―不況知らずのホンダを創った男

本田宗一郎の真実―不況知らずのホンダを創った男 (講談社文庫)

ホンダ」の創業者といえば本田宗一郎ですが、彼の右腕以上の存在として"実質的にホンダを経営"していのが、藤沢武夫だったことは広く知られています。

本田は会社の実印を藤沢に預け、自身は現場の技術屋に徹し続けました。

もちろんこれは2人の間で了承されていたことであり、本田は藤沢に背中を預けることが出来たからこそ革新的な技術を生むことが可能になり、経営を一任された藤沢の裁量だからこそ2度に渡る大きな経営危機に際して資金繰りできたのです。

タイトルからは分かりにくのいですが、本書は本田・藤沢の生い立ちから出会い、そしてホンダにおける数々のエピソード、引退後の生活に至るまで、元社員たちの証言も交えて迫ったノンフィクションです。

この2人は創業から間もない頃こそ頭を突き合わせて「ホンダ」の未来を構想し続けましたが、成長軌道に乗るにつれ殆ど顔を合わせる機会が無くなり、本田は工場に、藤沢は本社でいることが常でした。

また注目されることの好きな技術屋・本田と、控えめで冷静な経営者・藤沢は正反対の性格であり、そのマネジメント手法や遊び方すら違うものであったため、2人の間には不仲説が噂されたほどです。

実際2人から発せられる命令が正反対であることもしばしばであり、もし同じ場所で働いていたならば衝突を避けられなかったに違いありません。

彼ら2人もそれを充分に認識し、組織のNo1とNo2が正面衝突することを避けるために意図的に距離を置いていたようです。

しかしそれすらも大同小異であり、「ホンダ」を世界的な自動車メーカーに成長させるという2人の目的は完全に一致していました。

普通の企業であれば"2人のトップ"が存在することは考えられませんが、実際に「ホンダ」を成長させることで自分たちの正しさを証明したのです。

何よりも息がピッタリと合っていたエピソードとして、後継者たちに会社経営を託すことを決め、同じタイミングで会社を引退したということが挙げられます。

もちろん2人の間に挟まれ苦労した社員たちもいましたが、同時に彼らも2人の関係や性格をよく理解していました。

光り輝くスポットを浴び、世間から注目され続けた本田宗一郎。
そして実質的に人事や財務において本田以上の権力を持ちながらも、影武者に徹した藤沢武夫の人生を対照的であり、ノンフィクションよりも、まるで小説の物語のような気がしてきます。

私自身も社会人としての月日を経るにつれ、性格や流儀は違えどもお互いの距離を保ちながら認め合い、尊重するといった関係が何となく理解できるようになった気がします。