龍馬を創った男 河田小龍
坂本龍馬がもっとも影響を受けた人物は?
真っ先に思い浮かぶのは龍馬が師として仰いだ勝海舟ですが、福井藩主・松平春嶽も外せません。
もしくは武市半平太、中岡慎太郎といった同志、西郷隆盛や桂小五郎といった盟友だったも知れません。
その中で藩士でもなければ明治維新で活躍した志士でもない、土佐城下に住む絵師である河田小龍を挙げる人は、なかなかマニアックではないでしょうか。
小龍は少年の頃から絵師を目指す傍らで、学問にも熱心に取り組みます。
長崎でオランダ語を学んだことをきっかけに、土佐の漁師として漂流し10年間ぶりに帰国したジョン万次郎(中浜万次郎)と起居を共にし、その見聞録をまとめた「漂巽紀畧(ひょうせんきりゃく)」は藩主の山内容堂をはじめ、当時の知識人たちに大きな影響を与えました。
つまり小龍は、土佐の中にいながら当時の知識人の中でも有数の海外通でもあったのです。
18歳で江戸へ剣術修行へ向かい、19歳に土佐へ一時帰国した坂本龍馬が小龍からはじめて海外情勢を聞き、後年の海援隊(亀山社中)の構想を得るにあたり大いに影響を受けたというのが、本書のテーマにもなっています。
残念なことに小龍の日記の大部分が2度の災害で焼失しているため、きわめて資料が少ないというのが現状のようです。
それでも小龍の塾(墨雲洞)からは、長岡謙吉や近藤長次郎といった海援隊で隊士となる人物を多く輩出していることからも、小龍と龍馬の強い結びつきを推測することができます。
小龍に活躍の場を与え世界情勢へ目を向けるきっかけを与えてくれたのは、山内容堂に重宝され参政として藩政改革を行った吉田東洋です。
東洋と小龍は互いに盟友と呼べる関係でしたが、東洋は自ら(墨雲洞)の門下であった武市半平太たちによって暗殺されるといった痛ましい経験をしています。
小龍を中心として墨雲洞には、今まで挙げた人物のほかにも後藤象二郎、板垣退助、岩崎弥太郎といった後の土佐の偉人たちが集い時世を論じ合ったといいます。
つまり河田小龍は幕末の土佐藩を語るにあたり欠かせない存在であり、長州藩の吉田松陰と松下村塾のように積極的に評価されるべきなのかも知れません。