本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

馬賊戦記〈下〉―小日向白朗 蘇るヒーロー

馬賊戦記〈下〉―小日向白朗 蘇るヒーロー

馬賊戦記」の下巻です。

馬賊として名声を得た白朗ですが、その胸中は、馬賊間で高まりつつある抗日闘争と日本人としてのアイデンティティとの間で葛藤が続きます。

結局は白朗自身の発言力もあり、日本軍と共生する道を選ぶことになります。

しかし日本軍の大部分の幹部は、馬賊たちを見下して都合よく利用することしか考えていないため、その蜜月が長く続くことはありませんでした。

やがて自らの支配下にある馬賊たちを中国へ脱出させ、やがて自らも北京に活動の場を移すことになります。

昭和に入って軍閥が解体しつつあり、日本やロシアの発言力が増すにつれ、馬賊の全盛期は昔日のものとなりつつありました。

本書に登場する白朗も都落ちした馬賊の1人であり、作品中にもどこか哀愁が漂っています。


その要因は様々ありますが、巨大な近代国家が本腰を入れて介入してくることで村や町単位を地盤とした馬賊集団では、重火器、戦車、戦闘機といった軍隊と正面衝突するのは難しく、日本、ロシアいずれかの陣営につかない限り、その活動には限界がありました。

近代へ至る過程でイタリアの都市国家が衰退してゆく姿と根本的には似ている気がします。

その後の白朗の活躍は北京南京上海と舞台を移してゆき、馬賊というより大都市の影の権力者としての名声を得て勢力を拡大してゆきます。

日本人でありながら中国の裏社会で生きてきた白朗は、その活躍の場が特殊なこともあり、日本での知名度や評価は低く、歴史の隅で忘れられてしまうような存在でした。

"満州"、"馬賊"といった思い入れで本作品を読み始めたこともあり、下巻は馬賊の話と離れてしまいましたが、あくまでも白朗は白朗であり続け、勇敢なだけでなく、抜け目のない馬賊の攬把としての流儀を貫き通したように思えます。

いずれにしても白朗自身が存命中に、本人自らが著者の朽木氏へ関わる形でこうした1つの作品に纏め上げられたというのは幸運であったといえます。

小説ゆえの着色もあると思いますが、日本に生まれ満州へ渡った1人の快男児の物語が鮮やかに描かれている歴史的な作品ではないでしょうか。

馬賊戦記〈上〉―小日向白朗 蘇るヒーロー

馬賊戦記〈上〉―小日向白朗 蘇るヒーロー

以前より読んでみたいと思っていた作品、馬賊小説の金字塔ともいえる作品です。

主人公は、満州の歴史に詳しい人なら1度は聞いたことのある日本人馬賊として有名な"小日向白朗"です。


馬賊の首領を"攬把(らんぱ)"といいますが、特に大きな勢力を誇る馬賊の首領を"大攬把"と呼び、更に複数の大攬把を束ねている人物を"総攬把"と呼びます。

広い満州においても"総攬把"と呼ばれるほどの人物は数人しかいませんでしたが、白朗は日本人でありながら、馬賊の奴隷の身分から総攬把にまで出世した数奇な運命を辿った人物です(ちなみに「中原の虹」の主人公"張作霖"も総攬把の1人です)。

日清戦争、日露戦争に勝利した日本は、大正時代には近代国家として国際的に認められる存在になっています。

しかし中国大陸では、清の崩壊後に各地で軍閥が台頭し、やがて国共内戦へと発展してゆく混乱の時期にあり、特に満州は日本やロシアの直接的な干渉もあって、より混沌とした地域でした。

そんな中国へ単身で渡り、数々の困難を乗り越えてゆく快男児"小日向白朗"の活躍は痛快であり、読者を飽きさせません。

馬賊と一口に言っても単なる"ならず者"の集まりではなく、武力で住民の利益を守る"自警団"といった性格が強い集団です。

本書でも書かれているように、略奪を繰り返して焚き火を囲んで肉を食らうような山賊のイメージとはほど遠いものです。

馬賊といえば住民からはヒーローのように憧れられ、尊敬すらされる存在でした。

こう考えると馬賊として勇敢で腕っ節の強さ、銃や馬の扱いに長けているというのは当たり前で、攬把として成功するにはさらに"仁侠"が求められます。

これは人間としての器量の大きさやが伴わなければ実践するのは難しく、時には他人のために自分の命を諦めなければならないくらいにシビアなものです。

がむしゃらに突き進む白朗もやがて敗北を味わい、千山にある道場"無量観"の大長老"葛月潭老師"に匿ってもらうことになります。

しかし転んでもタダで起きないのが白朗です。

千山での拳法修行を経て、やがて葛月潭老師より「尚旭東(しゃんしゅいとん)」の名と破魔の銃「小白竜(しょうぱいろん)」を授けられ、満州各地で匪賊と化した凶悪な攬把を1対1の対決で葬ってゆく姿は、ヒーローの名に相応しいものです。

とにかく大正から昭和初期の混沌とした満州の魅力を凝縮したかのような小説であることは間違いありません。

統ばる島

統ばる島

沖縄の八重島諸島の8つの島それぞれを舞台にした、8つの短編小説からなる1冊です。

今回はじめて読んだ作家ですが、著者の池永一氏は石垣島出身ということもあり、他にも沖縄を舞台とした作品を何冊か発表しているようです。

八重島諸島は15世紀に琉球王国の版図に組み込まれましたが、元来、独立心が旺盛で自ら「ヤイマンチュ」と称し、沖縄本島の「ウチナーンチュ」と意識的に区別していたようです。

一方で文化圏としては1つと考えてもよく、沖縄本島のように開発(都市化)が進んでいない分だけ伝統的文化が色濃く残っている地域であるともいえます。

著者もそうした背景を意識的に取り入れ、八重島諸島の日常と神秘性を織り交ぜた内容に仕上がっています。

小説の題材は恋愛からホラー調のものまで多岐に渡りますが、作品全体のキーワードは島を守護する神々、未開の自然、御嶽、そしてニライカナイ信仰を軸とした、ファンタジー色の強いものになっています。

沖縄の文化に興味を持っている人であれば夢中で読めてしまうこと間違いなしの作品ですが、そうした予備知識が無い人にとっては作品中に詳しい解説が無いため、本作の魅力が十分に伝わらないかも知れません。

新書 沖縄読本

新書 沖縄読本 (講談社現代新書)

90年代後半から21世紀初頭に訪れた「沖縄ブーム」。

そのブームがひと段落した今、沖縄ブームの中心にいた2人の作家が"現在の沖縄"を再検証した1冊です。

今でも沖縄へ対して南国の明るいイメージや独自の文化に魅力を感じる人は多いと思います。

しかし数字上で見ると、沖縄の長寿県としての地位が揺るぎつつあり、高い失業率や離婚率、そして全国で最も低い平均所得といったネガティブな要素が並びます。

また数字に見えない部分でも、太平洋戦争で唯一の本土決戦となった戦場としての歴史、そして戦後のアメリカ統治時代、日本復帰後から現代に至るまでも米軍基地移転問題が横たわっています。

言語や食文化、宗教や音楽など様々な分野で伝統的な文化を保ち続けているという沖縄のイメージは、音を立てて崩れ落ちつつある危機が目の前に迫っています。


本書に沖縄の明るいイメージは微塵もなく、全編に渡って沖縄の抱える問題、そして問題に至った病巣をするどく考察しています。


著者たちは長年に渡って沖縄を取材し続けてきた経験を持っており、過去の著書の中には、沖縄への憧れを無邪気に煽ってしまうような本もありました。

しかし、そういった本を書いてきた本人たちが沖縄の問題に真正面から切り込むところに本書の価値があると思います。

例えば米軍基地の沖縄からの県外移転1つをとってみても、引き換えともいえる補助金漬けの政策によって成り立っている産業があり、本音と建前が複雑に交差しています。

歴代政権も政治的な致命傷になりかねない沖縄の基地問題へ対し、まるで腫れ物に触るかのような一貫性のない政策を行ってきました。


米軍基地を沖縄から無くし、経済的にも独立できるのが沖縄にとって最もよいシナリオであることは確かですが、その道筋は困難を極め、残念ながら本書でもその解決策は提示されていません。

私の周りにも沖縄へ進出している企業が幾つかあります。
しかし実際には、コールセンタなどの業務を不況で人件費が安い沖縄へアウトソーシングしているに過ぎず、表面的にはともかく、継続的な雇用や独自のノウハウに繋がるようなビジョンを本気で持っている企業は殆どありません。

更に沖縄の文化や歴史的背景に配慮している企業となると、まったくの皆無です。

こうしたアウトソーシングの動きも、より人件費の安い中国やインド、ヴェトナムへと移りつつあり、沖縄から見た未来は決して明るいものではありません。

そもそも大きな資本を呼び込んで安易に雇用を創出しようとする底の浅い政策が間違っていて、沖縄を地盤に新たに起業するベンチャー企業へ対してこそもっとも手厚い優遇政策を行うべきです。

話が少し脱線しましたが、はじめに問題を直視しなければ解決の糸口は永遠に見えてきません。

本書は現実に存在する沖縄の問題を直視するという意味では、大変有意義な1冊です。

No.1理論―「できる自分」「強気の自分」「幸せな自分」

No.1理論―「できる自分」「強気の自分」「幸せな自分」 (知的生きかた文庫)

イメージトレーニングの第一人者である西田文朗氏による自己啓発本です。

西田氏の理論は、ある程度"脳科学"に基づいたものであり、決して荒唐無稽なものではありません。

著者が代表をつとめる能力研究室サンリは、スポーツや会社経営の分野で多くの実績を挙げていますが、本書はその核ともなるべき「プラスイメージ」、「プラス思考」を分かり易く解説しています。

実績のある人が唱える自己啓発を実践したいと考えているのであれば、本書は最適でしょう。


本書のカバーにも書かれていますが、プラスイメージが身に付いて自然に成功する人間の心理は以下のようなものであるとしています。

  • 「自分は他の人とは違う。非常にツイている人間だ。だから必ず成功する!」
  • 「自分は何かに守られている気がする。ありがたい!だから自信がある!」
  • 「自分はまだ何も結果を出していない。これからがスタートなのだ!」
  • 「今までの人生はウォーミングアップである。ますます自分はよくなる!」

一方で"努力すれば成功する"といった考え方は誤りであるとし、一流と二流の差は"ツキ"にあると断言しています。

これだけ読むと、"ツキ"は自分でコントロールできるものでないため「?」と思いがちですが、"ツキ"は自分以外の人間が呼んでくれるものだとし、そのためには"プラス思考の人間"と付き合うべきだとしています。

本書は心の癒しや平穏を求める本ではなく、あくまでも積極的に"成功"を掴み取る方法を趣旨に書かれています。


紙面の都合もあり、それ程深く掘り下げた内容にはなっていませんが、基本となる考え方については充分に学べる内容になっています。

より詳しい実践を行いたい人には、西田氏のほかの著書も参考にしてみる、もしくはセミナーも頻繁に開催されているようなので、参加を検討してみてはどうでしょうか。

本書に限らず少なくとも自己啓発は、まず自分の考え方を変えることからはじまります。

そのため本屋に並ぶ数え切れないほどの自己啓発本を読み漁るより、自分に合った本を何度も読んで少しずつでも実践することをお勧めします。

潜入ルポ ヤクザの修羅場

潜入ルポ ヤクザの修羅場 (文春新書)

ヤクザ専門のルポライターという珍しい肩書きを持つ"鈴木智彦"氏の集大成ともいえる取材記録です。

裏社会、そしてバイオレンスを題材とした映画や漫画が多いように、男なら一度は興味を持つ世界ですが、その実態と虚像に迫っています。

著者は長年に渡ってヤクザを取材してきましたが、その過程でヤクザとの同棲や、恐喝や暴力を何度も受けて生きたという経験の持持ち主です。

ヤクザ専門誌での編集長時代、歌舞伎町でのヤクザマンションでの生活体験、ヤクザや元愚連隊との同棲、遊郭で有名な飛田新地にアパートを借りての潜入取材、賭博の現場取材など・・普通に生活していたら一生縁がない裏の社会が次々と紹介されます。

言うまでもなく暴力団(ヤクザ)の活動は法律外(=違法)であることが多いですが、彼らの世界にも長年に渡って培われた秩序が存在し、こうしたルールを(無意識含めて)破ってしまった時には、一般社会では考えられない程の厳しいツケを払うことになります。

これはヤクザ全般が上下や組織の力関係、そして体面を何よりも重んじるためであり、決して「肩で風を切って歩く」ような気楽な稼業でないことを実感させられます。


加えて年々強化される暴力団の排除条例の影響もあって、その活動範囲は狭まりつつあり、ヤクザは完全に斜陽産業となりつつあります。

いつ潰れるか分からない、しかもその原因を作り出す相手は国家権力です。


暴力団員であれば、入店拒否をされる、銀行口座を開設できないなど、一般人と同じ生活を送るのはまず無理です。

分かり易くいえば、一般人との接触さえも制限されているため、孤立を深めて社会的弱者とまで言われる立場になりつつあります。


「人間社会から"悪"を根絶する。」


私自身、それが理想論に過ぎないことは分かっていますが、暴力団が"悪"のすべてに関与している訳ではありません。

暴力団が担ってきたことは、日本社会の仕組みの一部であり、その中の"必要悪"を担ってきたという見方もできます。


世論で暴力団排除条例に反対する人たちが少数であるのは確かですが、安易に「暴力団の絶滅=悪の絶滅」という理論に摩り替えてしまうのは危険です。


著者は暴力団を全滅することで、地下組織化して全容の把握が困難になると同時に、より無秩序、凶悪な"悪"を生み出しかねない危険性を指摘しています。


本書の潜入ルポは取材対象の性質から匿名性の高いものになっていますが、ヤクザとの間に絶妙なバランスをとりつつ行っているものであり、この類の本の中では極めてリアリティとクオリティ共に高い作品です。

ヤクザへの興味有無に関わらず、日本の社会問題という観点からも充分に考えさせられる1冊です。



忍びの国

忍びの国 (新潮文庫)

のぼうの城」に続いて発表された和田竜氏の作品です。

前作の主人公は戦国武将でしたが、今回は少し雰囲気が変わって忍者が主人公です。

物語の舞台は忍者で有名な"伊賀の国"
織田信長の次男"信雄"は伊勢の有力大名"北畠具教"を滅ぼし、隣接する伊賀への侵攻を企てはじめる時期から物語がはじまります。

伊賀は戦国期においても強力な支配者(大名)が生まれず、一種の自治共和制のような独自性を維持しています。
国土の大部分が山林という地形も影響し、有能な伊賀忍者を生み出す土壌となりました。

そんな中央権力が行き届かない混沌とした地域であるがゆえに小説の舞台としてはうってつけであり、伊賀の有力豪族"百地三太夫"配下の凄腕忍者"無門"が縦横無尽に活躍する小説です。

戦国武将が主(あるじ)を持ち、正面から敵と渡り合う武芸や名誉を重んじたのに対し、忍者は奇襲やゲリラ戦法に特化し、名誉に関係なく報酬に応じて働くといった対極に位置します。

見方を変えれば両者が軍人であることは共通していますが、武将が正規軍であるのに対し、忍者は傭兵部隊であるといえます。

小説に登場する無門は、典型的な忍者として主従関係や名声に無縁であり、報酬に応じて自分の好きな仕事をこなすといった自由人として暮らしています。

信長や主の三太夫でさえ無門を従わせることは出来ない中で、唯一他国からさらってきた内縁の妻には頭が上がらないという設定が面白いところです。

義理に縛られた武将たちを小馬鹿にして自由奔放に生きてきた無門ですが、信長という強大な勢力が生まれ伊賀への侵攻が行われる中で、時代の流れに巻き込まれずにはいられなくなります。

様々な忍術を駆使してのアクション、目まぐるしい攻防は充分に満足できる内容です。

賛否が分かれるところですが、和田氏の小説は戦国時代を舞台にしたものであっても分かり易い現代語で書かれているため、歴史小説を敬遠していた人でも抵抗なく受け入れられるのではないでしょうか。

のぼうの城 下

のぼうの城 下 (小学館文庫)

下巻に入り、石田三成率いる10倍近い秀吉軍がいよいよ忍城に押し寄せることになります。

そもそも長親が徹底抗戦を選んだ理由は、三成の送った使者"長束正家"の無礼で威圧的な態度、そして秀吉が美貌の誉れが高い"甲斐姫(城主氏長の娘)"を側室に望んだというのが本作の設定です。

小説での甲斐姫は長親に惚れており、そして密かに甲斐姫を好きだった普段は暗愚な長親が、一世一代の大勝負に出た瞬間でもありました。

一方で領民にとっては領主が勝ち目の無い戦をはじめることは迷惑であり、土地を荒らされる前にさっさと降伏して欲しいというのが本音ですが、城主となった長親のためにこぞって篭城戦に協力することになります。

あの頼りない長親が戦をはじめるのならば、自分たちが助けなければ仕方ないという、これも突拍子のない理由です。

史実においても秀吉の大軍を前に北条一族でもない忍城の成田氏が、勝ち目の無い戦いを挑んだ理由は不明ですが、領民が篭城して一致団結して戦ったのは史実のようで、長親が領民に慕われていた可能性は充分にあります。

長親に近い型の武将を探そうとすれば、漢の"劉邦"がもっと近いイメージであり、本人は何もしなくても自分を慕う家臣たちが押し寄せる三成軍を前に奮戦を続けます。

そこで三成は七里(28km)に及ぶ堤を作り、有名な忍城水攻めを行います。

埼玉県行田市の水郷公園などを見ると当時の面影がありますが、昔この一帯は池や沼地が広がる湿地帯であり、忍城自体が普段から"浮き城"と呼ばれるほど水に縁があった城です。

ここでも領民たちの協力もあって堤を破壊し、逆に三成たちに甚大な被害が出ます。

しかし小田原城が陥落したことを知り、北条勢として戦った忍城軍もついに開城(降伏)することになります。

開城する際にも堂々とした態度で城を明け渡す姿は、無敵の秀吉軍を前に一歩も引かずに戦った武士たちの誇りを感じます。

圧倒的に強い敵に攻められ、自らの命どころか一族・家臣の命運がかかった状態で臆せず戦いを挑める武士は、勇敢な人物の多かった戦国時代においてさえ多くはなく、ここまで見事に戦い抜いた例は更に希少です。


関東の片田舎の小さな城で繰り広げられた戦いは、現代の私たちにも目に見える勝ち負け以上に大切なことを教えてくれているような気がしますし、それが多くの読者に支持されている理由ではないでしょうか。

のぼうの城 上

のぼうの城 上 (小学館文庫)

信長の後継者争いに勝利し、四国・九州を平定、そして家康を実質的に傘下に加えた時点で秀吉は事実上の天下人となります。

残る北条氏の勢力は秀吉の前には比ぶべくもなく、あっけなく滅亡の道を辿ることになります。

これは秀吉の率いる大軍勢を前に、見込みの無い愚かな篭城戦という戦法を選択した以前に、北条氏政・氏直親子の時代の流れを読めない戦略眼の欠如が最も大きな要因でした。

ここまでは日本史の概略になります。

しかしその影で関東八州の片田舎とはいえ秀吉軍(石田光成)の大軍を前に一歩も後ろへ引かずに小田原城の落城後も持ちこたえた小勢力があります。


それが本書の主人公、忍城(おしじょう)城主"成田長親"です。


忍城は武蔵の端に位置する片田舎ですが、平安時代から室町時代に至るまで日本を席巻し最強の武士として畏怖された"坂東武者"の本拠地ともいえる場所で、長親はよほどの豪傑だと期待してしまいますが、作品の始めからそのイメージを裏切られます。


本書に登場する長親は、鈍感・不器用で家臣どころか領民からさえ"のぼう様"(でくのぼうの意)というあだ名で呼ばれている人物として描かれています。

しかも正確には長親は城主ですらなく城主"成田氏長"の従兄弟として、冴えない日々を送っています。
やがて氏長は北条氏に味方すべく小田原城へ入城しますが、この時すでに秀吉へ対して内通の約束までしている用意周到さです。

当然のように氏長の命令で忍城を攻めてくる石田三成へ対しては降伏を行う手筈になっていましたが、些細なきっかけで城代として残された長親は徹底抗戦を決心します。

教科書に載らないどころか、地元の人にさえも知られていない"成田長親"を歴史の中から掘り出して蘇らせた著者の和田竜氏の描く長親像はとてもユニークです。


それに加え彼を取り巻く家臣団も武勇兼備の"正木丹波守"、典型的な豪傑の"柴崎和泉守"、軍師を自負する"酒巻靱負"といった個性的なキャラクターに彩られています。


彼らと長親のやりとりは今までの歴史小説では少ない軽快さがあり、戦国時代のファンでなくとも充分に楽しめる内容になっています。

濁流〈下〉―企業社会・悪の連鎖

濁流〈下〉―企業社会・悪の連鎖 (徳間文庫)

上巻に引き続き読者の期待を裏切り続ける主人公の田宮は、絶対的な独裁者である杉野の思惑通り、長女の"杉野治子"と交際を行うハメになります。


しかし実際に交際を続けてゆく中で、治子自身や母(=杉野の妻)や兄も家庭を顧みない父親のやり方には反発を抱いていることが判明し、吉田を中心とした若手社員の後押しもあり、少しずつ田宮は社長のやり方に反対する言動を見せ始めます。


これには、治子との間に心を通じ合わせ、愛し合う関係になってゆく田宮自身の心境の変化も関係しています。


ただし結果として、田宮は役員に昇格したにも関わらず1週間で2度も降格させられるなど、独裁者へ挑戦したツケを支払わされることになってしまいます。。。


そこへ社内No2の実力を持つ謎の美人秘書である古村が、田宮に近づき驚愕の取引を持ちかけるなど、とにかく怒涛の結末に向かって物語は一気に動き出します。。。


確かに会社を興し、独裁者(オーナー)として君臨する杉野は、運だけではなく当然実力もあります。一方で、その体制が長年に渡って続くことで、地位や欲望に囚われるようになるのが、人間の悲しい性です。

それゆえ当たり前の倫理観を失ってしまうという典型的な人物として描かれています。

そこには企業を私物化する行為への作者の痛烈な批判が込められていますが、"裸の王様"のように側近からさえも心から忠誠心を抱く人間を失ってしまった悲しい孤独な人間の姿が垣間見れる気がします。

濁流〈上〉―企業社会・悪の連鎖

濁流〈上〉―企業社会・悪の連鎖 (徳間文庫)

ビジネスマン小説の大御所である高杉良氏による長編小説。

1990年台初頭、産業経済社という会社を舞台に繰り広げられる人々の欲望と葛藤を描いた意欲的な作品です。

産業経済社のオーナー社長である"杉野良治"は、絶対的な権力者として君臨しています。

早い話がワンマン社長であり、彼の指示する命令は人事、事業に関わらず誰も逆らうことは出来ません。

挙句に自らが信仰する新興宗教への加入、活動を社員に強制する力まで持っており、財界や政治家とのコネをバックに金のためなら恫喝も厭わない強引な手法は、"鬼のスギリョー"のあだ名で社内のみならず多くの企業から恐れれている存在です。

もちろん杉野は架空の人物ですが、モデルとなった人物があり、作者の技量も冴えていることもあって極端な独裁者として描かれているにも関わらず、現実感のある印象を読者へ与えます。


ほかにも産業経済社には、主人公である若手幹部の"田宮大二郎"、社内で2番目の実力を持つ謎の美人秘書"古村綾"。杉野の腰巾着として保身を図る副社長"瀬川誠"。クビ覚悟で会社へ対する反抗心を見せる若手の実力社員"吉田修平"といった個性的な人物がいます。

これに加えて様々な業界の経営者が登場しますが、いずれも元となるモデルが存在するひと癖もふた癖のある人物たちが次々と登場し、読者を飽きさせません。


もちろん読者は主人公"田宮大二郎"が独裁君主である"杉野"へ対して挑戦を行うストーリーを期待しますが、実際には歯がゆい展開が続きます。


田宮は気配りの利く有能な人物で社長秘書を務めることから、長女との交際を勧められるほど杉野のお気に入りであり、それを断れない弱腰な姿勢が目立ちます。

それどころか杉野の代理として弱みを持つ企業から(広告費という名目で)金の取立てを行い、歓心を得るために杉野の信じる新興宗教へも積極的に参加します。要するに納得していない本心を押し殺しながら、杉野の忠実な僕としての日々を過ごしてゆきます。

確かに総理大臣さえも呼び出せる権力を持つ杉野の前には、若さと情熱だけでは決して敵う相手ではなく、実際には現実的な選択であるといえます。

そこには主人公の目線から、企業同士の癒着や裏取引など、実際に起こっていることに近い腐敗した経営者や政治家がいる現実を読者へ伝えたいという作者の意図が感じられます。


また"鬼のスギリョー"に対抗する気骨のある経営者も登場しますが、メディアの力を利用して襲い掛かる杉野の前に例外なく屈してしまいますが、一見、杉野に賛同する姿を見せている人たちの中にも"鬼のスギリョー"を面白く思っていない人たちもあり、結末の見えない混沌とした状況のまま下巻に続いてゆきます。

著者の渾身の大作という印象が全編から伝わってくる読者を飽きさせない展開が続きます。

老子の無言

老子の無言

孔子と並ぶ中国の思想家"老子"の教えを分かり易く解説した本です。

本書の特徴は単に老子の教えを解説するだけでなく、無理のない範囲で普段の生活に活かす方法を紹介しています。

よって老子について体系的な知識と正確な訳語を学びたい人には向いていないかも知れません。


冒頭に「上り坂の儒家、下り坂の老荘」と俗に言われる通り、儒教が君主の学問(≠帝王学)としての側面があるため、物事がうまく運んでいる時には孔子に学ぶのがよく、行き詰まって現状を打破したい時には、老子に学び根本を革新する重要性を訴えています。


ここで本書のほんの一部を簡単に紹介したいと思います。


・足るを知る者は富む
老子の有名な言葉です。
人間は不満の原因を外に求めがちですが、幸せは自分の中にしかない(=自分の感じ方次第)と気付くことができます。人間の欲望は悪いことばかりではありませんが、時には自分自身を見失わせるものであり、ふと歯止めをかけてくれる言葉です。


・善く戦いに勝つ者は争はず
これも現代のビジネスマンへのアドバイスになります。
老子は対抗心が対抗心を呼び、結果として不幸を招く争いに悩むことになると説いています。
心の持ち方次第で、無用な争いを避けられる場面があることを気付かせてくれます。


・功成り名遂げて身退くは天の道なり
成功の果てに更に大きな成功を目指すのは良い面もありますが、絶頂期を見誤って名を汚してしまう例も少なくありません。自らの利己心が膨らみすぎていないかを省みる必要性を教えてくれます。



老子については、バブル崩壊以降、殺伐としてストレスの多い社会を反映して見直される機会が多いように感じます。

決して老子一辺倒になる必要は無いと思いますが、日々の中でライバルに打ち勝つ方法論に偏り過ぎ、一番大切な"自らに克つ"ことを忘れてしまいがちです。


また"自らに克つ"ためには、力や知識は余計なものであり、水のような自由・柔軟さ(上善水如)が必要です。

2500年前に生きた老子の言葉は現代においても大事なことを気付かせてくれます。

日本のITコストはなぜ高いのか?

日本のITコストはなぜ高いのか?

日本サード・パーティ株式会社の代表である著者が、日本のITコストに言及した本です。

日本のIT市場は世界第2位にも関わらず、WEF(世界経済フォーラム)が発表するIT先進国ランキングでは、17位に甘んじている状況です。

これは効率的なIT投資が行われていないのが原因とし、それが主にシステムの保守費用であると断定しています。


著者はシステム保守費用が高いのは、以下に原因があるとしています。

  • 「コンピュータとは難しいものである」という常識
  • 「コンピュータが故障すると大きな影響が出るため専門家へ任せるべき」という常識
  • 「コンピュータにはメーカの機密が詰まったブラックボックス」という常識
  • 「製品のサービスはそれを作ったメーカにしか任せられない」という常識

どれも納得はできますが、新しい視点を与えてくれるには至りません。

本書は、こういった根拠の無い常識に囚われているため年間1兆円もの余計なコストがかかっていると断言していますが、本当にそうでしょうか?

例えば、日本が余りにも高いIT品質にこだわり過ぎる文化や制度を持っているという背景的なものへの言及や、そもそも高い日本の人件費へ対しては言及がありません。


そして保守費用を下げるためには現在受けているサービス内容を第三者機関により監査してもらい、再評価する必要のあるというものです。

本書に書かれている保守費用圧縮のための評価は9つ観点から150項目に渡って行う必要のある全体最適化が紹介されています。

しかしなぜか本書のケーススタディとして紹介されているのは、自ら部品交換を行う「自営保守」、そしてコールセンタの費用を「重量課金制」とするなど部分最適化ばかりです。


あからさまな表現ではないものの、どこか自らの会社を宣伝する「我田引水」の印象を拭えませんでした。

おそらくそれは、コンサルティング業者特有のプレゼン(提案)資料を読まされているような気分になってしまうからでしょう。


個人的な感想としては、ITに関わる仕事をしていなければ殆ど読む価値は無いように思います。

他業種であっても影響を与えられるような本が良書と呼べるべきものでしょう。

深海の女王がゆく 水深一〇〇〇メートルに見たもうひとつの地球

深海の女王がゆく 水深一〇〇〇メートルに見たもうひとつの地球

アメリカの著名な海洋探検家・海洋学者であるシルビア・A・アール氏の著書を和訳したものです。

字も大きく100ページに満たないため、早い人であれば30分程度で読み終える分量です。

本書の大部分は著者が半生を振り返り、様々な海での経験、そしてその素晴らしさを綴っています。

海は地球上の面積の7割を占めているにも関わらず、わすか5%しか人間による探索がなされていないため、21世紀の今日でも新たな生物が発見され続けています。

著者のような探険家・学者にとって海は、これ以上にない魅力的な世界といえます。

後半は一転して、海が人間の手によって破壊されている現状に警告を鳴らしています。

海の汚染によって急激に姿を消しつつあるサンゴ、乱獲により絶滅が危惧される生物など問題は深刻になりつつあります。

著者自身も人類未踏の海底へ到着したにも関わらず、既にそこには人間の捨てたゴミが横たわっていたという皮肉な経験をしています。

要するに本書は、海の環境保護を訴える啓蒙書であるといえます。

はじめにも書きましたが、本書は分量も少なく分かり易い表現で書かれているため、小学生でも充分に理解できる内容です。

親が子供に読んで聞かせるというのも、本書の有意義な活用方法ではないでしょうか。

日本人へ 国家と歴史篇

日本人へ 国家と歴史篇 (文春新書)

「リーダー篇」の続編として出版された塩野七生氏のエッセイ集です。

前巻と比べると、話題がファッションからワインや日本酒、映画、そして執筆活動にまでに及び、よりエッセイ色の強いものになっているようです。

エッセイならではの気楽な雰囲気の中にも塩野氏の明快な文章は健在であり、むしろ話題が自らの趣味に及ぶだけにその切れ味は一層増しています。

今回注目したのは、著者が身を置く出版業界に言及している部分です。

1996年をピークに出版業界の売り上げは2割近くも落ち込み、著者自身も初版部数の削減などの影響を受けていることを告白しています。

読書離れやインターネットにより、今後も出版各社がリスク回避のために短期的に利益を回収できるタイトルに重点を置くだろうとも予測しています。

確かに有名芸能人や売れっ子評論家が短期間に執筆するタイトルが話題に上ることが多い中で、15年間に渡る綿密な取材と調査を元に書き上げた「ローマ人の物語」は対極のスタイルであるといえます。

著者の作品に関していえば読者の知的好奇心を満たすに留まらず、古代~中世イタリア時代を臨場感を持って体験させてくれる楽しさがあります。
それらが著者の地道な活動の積み重ねと情熱による賜物であることは疑いなく、読書好きの人間としても今後こういった種類の本が少なくなってくことに危惧を抱いてしまいます。

また出版の問題も本書で触れられている政治不信や経済停滞、そして安価なブランドの氾濫といた話題もどことなく1本の線として繋がっているような気がしてくるので不思議です。

私自身も「良い本」と感じるものが、必ずしもベストセーと一致することは少なく、読書を有意義なものにするためにも著者の発言は示唆に富んだものとして響きます。

日本人へ リーダー篇

日本人へ リーダー篇 (文春新書)

イタリアを舞台にした歴史小説においては、日本の第一人者である塩野七生氏によるエッセイ集です。

エッセイだけに内容は多岐に渡りますが、主にタイトルにある通り日本を率いるリーダー(とくに政治家)へ向けたメッセージという形をとっています。

本書に限らず著者の作品に共通する特徴は、評論家や学者のようにお茶を濁すような結論を極力避け、明快で分かり易いということです。

同意できるかどうかは別としても歯切れのよい爽快感があり、人気作家として支持されているのも納得できます。


イタリア史に詳しい著者の理想のリーダー像は、言うまでもなく"カエサル"になりますが、さすがに日本のリーダーにカエサルのような人物の登場を望んでいるほど楽観的な内容ではありません。
むしろ、そういった可能性が極めて低い現状に諦めを抱いているような感さえあります。


カエサルに限らず著者が理想のリーダー像としてあげるのは、


①知力・体力の兼備
②清濁併せ呑む度量の大きさ
③ユーモアのセンス


という日本の政治家にとって敷居の高いものではありますが、おおむね本書に書かれている具体的な提言は決して現実から足が離れているような荒唐無稽なものではありません。

例えば、どんなに複雑(なように)見える事象でも「単純化」することが可能であり、ローマ帝国の指導者たちのように高い理想を持ちつつも、1歩ずつ確実に改革を「継続」することの重要性を訴えています。


国際政治の舞台において影響力を持つためには、経済力だけでは不十分であり、背景に"行使できる軍事力"が必要であると説いています。

一見すると過激な発言ですが、先ほどの例のように物事を「単純化」してゆけば、歴史に例を求めるまでもなく力学的に当然の結論に至るわけです。

もっとも著者は日本に軍事力を期待している訳ではなく、大きな領土や軍事力を持たなかったにも関わらず中世イタリアで繁栄した「ヴェネツィア」をモデルとした、徹底した情報収集と分析に基づいた外交を推し進めることを重要視しています。

しかし首相が頻繁に入れ替わることで方針も定まらない今の日本では、本書で「血の流れない戦争」と表現されている"外交"でイニシアティブをとることは難しく、前述にあった「継続」の重要性を感じられずにはいません。


著者の専門分野であるローマ帝国といえば、歴史上最大にして唯一のミレニアムを築いた事例であり、そこで培われてきた統治方法は人類の至宝ともいえるものです。


カエサルの生きた時代から2000年以上経ちますが、本書を読んでいると科学技術以外の分野において、果たして人類がどれだけ進歩したのか疑問になってしまうような無情を感じてしまいます。

迷いと決断

迷いと決断 (新潮新書)

1995年~2005年の10年間にわたりソニー社長を務めた出井伸之氏による1冊です。

1995年というと、Windows95が発売された年でもあり、本格的なインターネット時代の幕開けの時代でもありました。

「インターネットはビジネス界に堕ちた隕石だ」

とインターネットの普及前から出井氏は言い続け、ソニーはいち早くAVメーカからの脱却を進めてゆきます。

その路線を本書では、大きく2つの戦略として紹介しています。


・AV/IT路線
アナログを中心とした路線から、パソコン事業へ乗り出して"VAIO"シリーズを発表します。それと同時にソニーの代表格といえる"ウォークマン"のデジタル化、そしてゲーム機(プレイステーション)の分野にも積極的に進出してゆきます。


・コンバージェンス戦略
情報機器や映画・音楽の枝が四方八方に伸びていたそれまでの体系を、ハードウェアとコンテンツを両端に持つシンプルな形に改めて、それらを"IT"でしっかり結びつけることでインターネットの時代へ柔軟に対応可能な体制を築き上げます。

インターネットは、ライフスタイルの劇的変化をもたらした技術革新であり、各メーカが大きな舵転換を迫られた時期にソニーは創業者(ファウンダー)世代から生え抜き社長へのバトンタッチを行いました。

偶然にしてもベストなタイミングであったと思いますし、その中でも出井氏は適任でした。
実際に出井氏が社長に就任している間に、売上は4兆円から7.5兆円までに伸びており、日本メーカーの中でソニーは、新しい時代の適応に成功したといえます。

本書では触れられていませんが、実際には新しく到来した時代の流れはソニーの予想を超えるほど早いものあり、iPodによるウォークマンの淘汰、家庭用ゲーム機の競争激化と成長鈍化、海外メーカーの成長による液晶テレビやパソコン事業の苦戦といった状況にあります。


本書を数年前にも読んでいるのですが、その時は前社長としてソニー10年間の軌跡を振り返った本というイメージが強かったのですが、今回読んでみると、彼自身が誤った過去の決断についても正直に書かれていたのが印象的でした。

もちろん書けない内容も多いでしょうが、社員16万人を率いるソニー社長の胸中をネガティブな面含めて概ね正直に書いている印象を受けます。

著者は自らの経験を生かし、今でも中小企業を中心とした経営コンサルタントの仕事を続けています。

今なお衰えない出井氏の情熱は尊敬に値しますし、老練な経営者と若い勢いのある経営者の組み合わせが新しい価値観を生み出してゆくことを期待しています。

ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男

ゲームの父・横井軍平伝  任天堂のDNAを創造した男


花札・トランプのメーカだった任天堂を世界的な企業へと躍進させた最大の功労者”横井軍平”の伝記です。

横井氏といえば名言「枯れた技術の水平思考」で有名であり、最先端技術を追いかけるのではなく、安価で普及した技術を利用して世界で初めてのものを作る哲学を貫き通した開発者として有名です。

この遺伝子は、1997年の彼の死後においても「Wii」や「ニンテンドー3DS」に受け継がれ今でも任天堂の中に生きています。

残念ながら横井氏は1997年に事故により急逝してしまいますが、アップル社の「iPod」、「iPhone」もこの考えを継承した例として挙げられることが多く、"横井軍平"の名は海外でも高い評価を得ています。

簡単に実績だけを挙げても、ウルトラハンド(伸縮して遠くのものを掴む玩具)にはじまり、ウルトラマシン(部屋でできるピチングマシン)、光線銃、そしてゲームウォッチからゲームボーイという数々の大ヒット商品を生み出しています。

そしてファミコン生みの親である宮本茂が、"師匠"と仰ぐ人物としても知られています。

本書を読んで驚いたのは、横井氏がインターネットが普及しはじめた初期の頃に、既にゲーム機の将来を的確に予測していたことです。

それはゲーム機の進化はCPUなどの「性能の進化」に過ぎず、その本質は画面上の演出の向上であると予測し、膨らむメーカの開発費用とユーザのマニア化(=ゲーム人口の減少)によって限界(衰退)を迎えるといったもので、今の家庭用ゲーム機の現状そのものです。

私自身含めて、初期のドラゴンクエストやFFシリーズをプレイしていた同世代は多いですが、今でも最新作をプレイし続けている人は随分減ってしまった(=殆どいない)というのが実感です。

横井氏の出発点は、本人が「落ちこぼれ」と自称するように、入社当時は花札の製造に使う糊の攪拌機の改良を行っている程度のエンジニアであり、後に"天才"と評される人物の片鱗をどこにも感じさせない人物でした。

しかし当時の任天堂の山内社長の大抜擢に伴い、頭角を現してゆきます。

横井氏は、ゲーム機やデジタル技術でさえも遊びの1つの手段に過ぎないと割り切っており、本質的な遊びの”楽しさ"を追求し続けます。

そう考えると事業的な責任とマネジメント業務に嫌気が差して、後に任天堂を退社した彼の心境は良く分かる気がしますし、子供の頃に体験した"楽しさ"を大人になっても忘れられず、生涯"遊び"を求道し続けるための出家であった感さえあります。

「枯れた技術の水平思考」を通じてのイノベーション部分を大きくクローズアップして評価する機会が多い気がしますが、真に評価すべき点は、"遊び"の本質を追及し続けてた信念であり、そこから生まれた着眼点だと思います。

特に今のゲーム業界は成熟を通り越し、行き詰まった感さえあります。

この本には、もう1度ゲームの本質を見つめ直すべきだと示唆しているように思えます。

棋神・阪田三吉

棋神・阪田三吉 (小学館文庫)

阪田三吉

半ば伝説と化して、映画や村田英雄の演歌「王将」のモデルにもなった大正から昭和初期にかけて活躍した棋士です。

本書は今から30年前に阪田三吉と交流のあった著者によって書かれたものです。

彼の死後時代が経過するにつれ、「豪快」、「無法者」、「勝負の鬼」、「家族を顧みずに将棋の駒に命をかけた人物」といたイメージが一人歩きしてゆきます。

著者は、それを世間の作り上げた"虚像"とし、自らの体験に基づいたエピソードと共に阪田三吉の人生を振り返り、その"実像"に迫ろうとしています。

彼の生まれ育った家庭は貧しく、成人になった後も草履作りで何とか生計を立てている状態でした。
また充分な教育を受けれなかったこともあり、文字の読み書き出来なかったというのも事実のようです。

そんな境遇の中で阪田青年は、見よう見まねで将棋を覚え、やがてアマチュアの中で頭角を表してゆきます。

しかし日露戦争以降の不景気もあり、当時はプロ棋士といえども生活は決して楽ではありませんでした。
まして結婚して子供も生まれた阪田家では、食事にも事欠くありさまでした。

三吉の妻のコユウも困窮のあまり子供を連れて電車で無理心中を試みたエピソードは有名です。

阪田は将棋に打ち込みながらも、誰よりも妻を大事にし、また子煩悩な一面もありました。
彼の奇行ともいえるエピソードは、文字の読み書きが出来ないことによる僅かばかりの教養不足であり、阪田三吉の天衣無縫、そして礼儀正しい性格は、そうした欠点を補っても余りある魅力がありました。

また生涯の最大のライバルとなった関根金次郎との対決は、本を通じても鬼気迫る緊張感が伝わってきます。

ここ一番の勝負には信じられないくらいの集中力と、「銀が泣いている」に代表される天に身を委ねるかのような指し手は、理論を超えた測り知れないものがあります。


これは羽生善治氏の本を読んだときに感じたことですが、将棋は頭脳、そして人格を賭けた1対1の人間同士が争う究極の勝負の場だと思います。


そこに貴賎の差はなく、過酷ながらも美しい勝負の世界を生きた"阪田三吉"の生涯は、爽やかな印象さえ与えてくれます。

カムチャッカ物語―第二龍宝丸虜囚之顛末

カムチャッカ物語―第二龍宝丸虜囚之顛末

戦時から戦後にかけてカムチャッカ半島へ鮭漁へ出かけた漁船「第二龍宝丸」が、ソ連に拘束され、そのままカムチャッカで強制労働に従事した人たちを題材として描かれた1冊です。

まず圧巻なのが、当時のカムチャッカ半島における船員や漁師たちの生き生きとした描写です。
船内での生活風景、人間関係をはじめとして、そこで働く人たちの心理描写は目を見張るものがあります。

しかしそれもそのはず、著者は捕虜となった当時の数少ない「第二龍宝丸」の一員であり、本書は自らの体験を元に再現した回想録でもあるからです。


カムチャッカ半島は日本の中で最も近い北海道からでさえ1000キロ離れた距離にあり、その面積は日本に匹敵するほど巨大なものです。

そこでの過酷な強制労働や食糧事情による苦しさもさることながら、祖国や家族と引き離されて期限の見えない日々を過ごす状況は、絶望との闘いの日々でもあったと思います。


戦争は当事者だけでなく、様々な人たち(本書では漁業従事者)を不幸に巻き込んでしまう恐ろしいものであることを再認識させられます。

少し残念なのは、著者の都合か紙面の都合かは分かりませんが、抑留生活の半ばにして本書が突然終了してしまっていることです。

それでも規模の大きなシベリア抑留に比べて知名度の低いカムチャッカ半島の抑留経験者によって書かれた本書の存在は、大変貴重なものです。

ほんとうは怖い沖縄

ほんとうは怖い沖縄

沖縄に在住する著者が、自らの心霊体験、そして心霊スポットをエッセー風に紹介した1冊です。

著者は沖縄の民俗伝承に詳しい人物ですが、彼自身オカルト研究家ではなく、まして霊能力者でもありません。

そのため大部分の人(=霊感が無い人)にとって、親しみやすい目線で書かれています。

逆に怪奇談を中心に読みたい人にとっては、少し期待外れになってしまうかも知れません。

沖縄の霊媒師(シャーマン)である"ユタ"の役割、昔から崇められてきた神々、信仰上欠かすことのできない聖域"御嶽(うたき)"といった独自の宗教・死生観を著者の体験を通じて知ることができます。

一方で沖縄は、太平洋戦争において多数の民間人を巻き込んだ地上戦が行われ、悲惨な戦場となった場所が心霊スポットとして全国的に有名となった側面があります。

ただし前半の沖縄民俗・宗教観的な話題から後半は一転して心霊スポットを中心とした話題に切り替わる部分は少し戸惑いを感じるかもしれません。

個人的には前半の流れを最後まで通し、後半部分を別に1冊として出版した方が、どちらも質の高い内容に仕上がったと思います。

今でも沖縄の人にとって”霊”や"死"は身近なものであり、祖先とも強固な絆でつながっています。

こうした沖縄の文化は、"独特・異質なもの"というより、昔の日本人が本来持っていた宗教観や死生観と共通する部分があり、"なつかしさ"を感じるのは私だけではないはずです。

よい意味で"ユタ"をはじめとした沖縄の豊かな民間信仰が今後も保存され続け、若い世代にも伝えられてゆくことを願います。

イノベーションの作法

イノベーションの作法(日経ビジネス人文庫) (日経ビジネス人文庫 ブルー の 1-3)

世の中に新しい価値を生み出した"イノベーション"誕生の背景を取材し、その分析を行った本1冊です。

本書では以下の13の事例に迫っていますが、見て分かるように様々な分野を網羅しており、職種を問わず、また経営者・会社員と幅広い人たちが興味を持って読めるような配慮が感じられます。

  • マツダ(ロードスター)
  • サントリー(伊右衛門)
  • 北の起業広場協同組合(北の屋台)
  • 近畿大学水産研究所(クロマグロの完全養殖)
  • 新横浜ラーメン博物館
  • KDDI(auデザインプロジェクト)
  • シャープ(ヘルシオ - ウォーターオーブン)
  • ソニー(フェリカ - 非接触ICカード技術)
  • ナチュラシステム(ナレッジサーバー)
  • サッポロビール(第三のビール「ドラフトワン」)
  • トヨタ自動車(ハイブリッド車「二代目プリウス」)
  • はてな(インターネットサービス)
  • サッカーJリーグ(アルビレックス新潟)

本書で度々触れられますが、MBAをはじめとしたアメリカ型の経営マネジメントが日本に蔓延し、分析至上主義分析マヒに陥っていると警告を発しています。

そしてイノベーションに大切なのは、情熱と信念をバックボーンとした主観であり、イノベーションの主人公は理論やITから生まれる情報ではなく、あくまで"人間自身"であることを再確認しています。

イノベーションはその性質上、マニュアル化(ハウツー化)できるものではありません。
にも関わらず殆どの会社では、客観的な分析結果や、特定のマネジメント手法が最も説得力のある材料として用いられがちです。

分析から得られるものは過去の情報(バックミラーの景色)であり、そこからは平面的な戦略しか見えてこないと痛烈な批判を行っています。

イノベーションを目指す企業は数多ありますが、本来、手段(ツール)に過ぎない経営戦略やマーケティングといった言葉が一人歩をして、本質的なもの見失いがちになる企業は少なくないと思いますし、巷に溢れる企業向けのセミナーも然りです。

そんな中で、一番大切な自分自身が仕事を通じて成し遂げたい信念や情熱を見つめ直すきっかけを与えてくれる1冊です。

岩崎弥太郎と三菱四代

岩崎弥太郎と三菱四代 (幻冬舎新書)

歴史研究家という肩書きを持つ著者が、岩崎弥太郎の興した三菱の遍歴を綴った1冊。

タイトルにある通り、ひたすら岩崎四代の社長の事業展開をなぞってゆきます。

史伝にありがちな脇道にそれる展開が微塵もありません。

新書の紙面分量を考えると、ジャンルは何であれ題材を絞って深く掘り下げる本書のようなスタイルには交換が持てます。

幕末から活動し、坂本竜馬後藤象二郎らと親交があったという要素を考えると、どうしても初代・岩崎弥太郎に注目が行きがちですが、著者は弥太郎の弟で二代目社長の弥之助をそれ以上に評価しています。

たしかに明治政府との対立によって主力の海運事業から撤退せざるを得ない事態に陥り、一旦は大きく後退したにも関わらず、三菱財閥の基礎となった思い切った多角経営への方向転換という大決断を下したのは二代目の弥之助であり、最後は鮮やかな勇退(禅譲)を行ったという逸話は本書を読んで初めて知りました。

三菱グループという巨大な組織といえども、その礎を築く過程においては何度もの危機を乗り越え、時には能力を超えた運命ともいうべき力にも助けられて現在の姿があります。


栄光に彩られた三菱だけに、それだけ闇の部分も濃いということを念頭に入れつつ読むのがよいでしょう。

「即戦力」に頼る会社は必ずダメになる

「即戦力」に頼る会社は必ずダメになる (幻冬舎新書)

人事コンサルタントをされている方が執筆している本です。

タイトルと内容には微妙なズレがあり、実際には本書の大部分を使って"成果主義"を批判しています。

露骨に言えばキャッチーなタイトルを付けて多くの人に本書を手にとってもらいたいという意図が透けて見えてしまいます。


成果主義は概念的なものであり、会社へより多くの直接的な利益をもたらしているように見える社員のみを評価する会社は存続出来ないというのが本書の要点です。

サラリーマン、そしてこれから社会人を目指す人への啓蒙書として書かれています。

安易に目の前の給料の額面や、職場の雰囲気に流されて転職をするのではなく、「自己育成の場」として捉えることの重要性を説いています。

確かに書かれていることに納得はできるのですが、本書に書かれている悪い会社(制度)の例が露骨過ぎるため、個人的には浅いレベルでの同感に留まってしまいます。

とは言え、著者なりの人事評価の原則・原理についてはしっかりと書かれており、手軽に読める新書としては手堅くまとまっている1冊です。

中原の虹 (4)

中原の虹 (4) (講談社文庫)

いよいよ「中原の虹」の最終巻です。


""や"国民党"の勢力を排除し、ついに張作霖は満州において覇権を確立します。

しかし中国全体で軍閥が割拠する状況は変わらず、小説のタイトルにある通り、誰が中原(中国の中心)の覇権を握るのか全く予想も付かない状況です。

"中原"という言葉は中国の歴史に度々登場する言葉ですが、地理上では黄河中・下流周辺の漢民族の文化(黄河文明)発祥の地域を指しますが、それ以上に「中原を制すものは天下を制す」という歴史的な概念が中国に存在します。

これは他民族間で国家の興亡を繰り広げた中国ならではの概念であり、日本の上京(上洛)といった言葉ともニュアンスやスケールが異なるものです。

元々"清"という国自体が満州民族(女真族)の建国した国家であり、約250年にわたって中国を支配し続けました。

作品の各所に建国の父である太祖ヌルハチ、そして長城を越えて明を滅ぼした3代目の順治帝の時代へと時代を遡って描写されていますが、彼らにとっての"中原"は単なる憧れを超越した、家族や自らの命を引き換えにしても目指すべき"究極の夢"として位置付けられているのが印象的でした。


本作品は張作霖の生涯を描き切ること無く、袁世凱が亡くなる場面で物語を終えています。


個人的には中盤以降、北京を中心にした舞台が続き、満州を舞台としたストーリーの頻度が少なくなってしまったのが残念であり、露骨に言えば、満州を中心にした日本(関東軍)やロシアの暗躍をもっと描いて欲しかったのが本音です。

ただ終わり方を見る限り、未解決の伏線が無数にあり、近い将来、本作品の続編を読むことが出来ると納得することにしました。


本作品で張作霖の役割は終わりつつありので、続編では息子の張学良が活躍することになりそうです。