本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

毒草を食べてみた



著者の植松黎(うえまつ れい)氏は植物学者ですが、とりわけ毒草を熱心に研究されているようです。

ちなみにタイトルに「毒草を食べてみた」とありますが、実際に著者が自らを実験台にして毒草を食べてみたという内容ではありません。

本書には国内外の植物含めて44種類の毒草が紹介されています。

毒草といってもその効果は多彩であり、嘔吐、けいれんといったものから心臓麻痺を引き起こす心臓毒、神経覚醒など麻薬の効果を及ぼすものなどと色々な種類が存在します。

たとえば山菜と毒草を間違えて中毒となるケースもありますが、本書はこうしたケースを防ぐための毒草の見分け方といった点には重点を置いておらず、植物が持つ毒の効果と人類がその毒草とどのように付き合ってきたがという歴史を紐解く、一種のエッセーのような紹介方法をとっています。

いかにも毒草研究に熱心な著者らしいですが、例えばソクラテスが毒杯を煽って死を選んだ際にはドクニンジンのジュースが用いられ、アレクサンダー大王の遠征隊はキョウチクトウの毒によって多くの兵士を失ったという伝説があります。

また毒草にはフクジュソウやスイトピー、スズランやヒガンバナといった身近なものもありますが、この辺りの観賞用植物をあえて食べようという人は少ないと思います。

さらにゲルセミウム・エレガンスという毒草はどこにでも自生してそうなツル植物のような見た目ですが、その葉を3枚噛むと死に至るという青酸カリよりも強力な毒を有しています(幸いにも日本には自生しない品種)。

一方で毒草から特定の成分を抽出することで、画期的な治療薬となった例も多くあります。
キナと呼ばれる毒草からはマラリアの特効薬でありキニーネが、インドジャボクからは抗精神薬としてレセルピンが生み出されました。

先ほど紹介したように本書を毒草図鑑のように利用はできませんが、忌み嫌われがちな毒草を身近に感じることのできる教養や雑学的な知識を与えてくれる本として楽しむのが正しい気がします。

ちなみに毒草といってもそれは人間から見た場合の話であり、本書で紹介されている植物は当然のように人類より古くから存在しています。

一方で科学技術がまったく発展していない古くは紀元前3000年前から人類は(先祖たちの経験から)毒草の効用を知っており、狩猟や治療薬、そして時には自殺や暗殺の道具として利用してきたのです。

全員死刑



2004年、福岡県大牟田市で4人連続殺人事件が起きた。
逮捕された暴力団組長の父、母、長男、そして実行犯の次男という一家4人に下された判決は、「全員死刑」。


事件が発生してしばらく経過していますが、この事件は一家4人が殺人に関わったこともあり記憶には残っています。

何となく一家が暴力団ということもあり、暴力団同士の抗争、もしくは金銭トラブルのような要因があったのかもと勝手に思っていました。

しかし本書で事件の真相を知れば知るほど、その異常性が目立ちます。

殺人の原因は抗争でも金銭トラブルでもなく、ただの逆恨みが原因でした。
逆恨みの対象は1人であったものの、殺人の秘密が漏洩することを恐れてターゲットにした女性のほかに2人の息子、そして息子の友人までをも巻き添えにしていました。

さらに恨みを持っていたのは父母の2人で、次男をまるで鉄砲玉のようにけしかけて殺人計画を遂行していったのです。

本書は鈴木智彦氏の著書になっていますが、内容のほどんとは実行犯である次男が獄中から犯行の一部始終を記した手記を送り続け雑誌へ掲載されたものを1冊にまとめたものです。

同時に4人全員に死刑が言い渡されるほどの殺人事件は滅多にありませんが、手記を読んでゆくとその残忍性ゆえに読んでいて目を背けたくなるような不快感を覚えます。

それは覚醒剤を打ち殺人に快楽や興奮を覚えてゆく自分自身、地獄の苦しみを味わう犠牲者の克明な描写があるのと同時に、一家全員のあまりにも自己中心的で身勝手な言動が目立つからです。

また彼らには家族愛によるものなのか一種の団結力があり、ずさんで行き当たりばったりの計画性のない犯行というある意味でヤクザらしくない手口が目立ちます。

手記を書いた次男は死刑を当然のこととし、親分(父親)の命令はヤクザにとって絶対であり、しかも自分は人殺しを楽しんだのだから人生の一切の悔いはないと言い切っています。

こうした言動の張本人の手記だけに同感も同情もしようがない内容であり、登場する被害者たちがただただ哀れだと思うばかりです。

良心や罪悪感が完全に欠如し、強い残虐性を考えると彼は完全にサイコパスであり、なかなか理解するのは難しいのかもしれません。

しかし本書で描写されている稀に見る残忍な犯行は、おそらく今後も起こり得ることであり、ノンフィクションによって彼らの実態を知ることは決して無益ではないはずです。

サカナとヤクザ



暴力団を題材にしたノンフィクション作家の第一人者である鈴木智彦氏が、暴力団と漁業との関係を5年間に渡り取材した1冊です。

覚醒剤であれば暴力団が関わっていることは容易に想像がつくものの、殆どの人にとって麻薬そのものを身近に感じる機会はないと思います。

暴力団の関わる漁業とは密漁にほかならず、築地市場の年配者であれば暴力団と市場の蜜月を知らない人はいないそうです。

つまり市場から出荷された魚を食べている多くの一般人が、日常の中で暴力団が密漁に関わった魚を食べている可能性があるのです。

本書は文庫化にあたり2編の書き下ろしが追加されていますが、本章は以下のような構成になっています。

  • 宮城・岩手 ~三陸アワビ密漁団VS海保の頂上作戦~
  • 東京 ~築地市場に潜入労働4ヶ月~
  • 北海道 ~"黒いダイヤ"ナマコ密漁バブル~
  • 千葉 ~暴力の港・銚子の支配者、高寅~
  • 再び北海道 ~東西冷戦に翻弄されたカニの戦後史~
  • 九州・台湾・香港 ~追跡!ウナギ国際密輸シンジゲート~


日本中、さらには海外にわたって暴力団が関わる密漁が広く行われていることは、海上保安庁や警察、全国津々浦々の漁協の人たちにとって公然の秘密どころか常識といってよく、一方で漁業に直接関わっていない消費者である市民たちがまったく知らない事実であったということから、本作品が発表された2018年には大きな反響があったといいます。

そして密漁の規模は私たちの想像をはるかに超えており、流通しているアワビや毛ガニ、ウナギの半分以上が密漁によるものである可能性があるのです。

当たり前ですが、安くて旨い魚を求めるのが消費者である一方、そうした仕組みを維持するために密漁が欠かせない存在であるとは認めたくないものです。

しかし密漁が横行することで裏社会へ資金が供給され、何よりも漁獲制限を無視した密漁がはびこることで海産資源が枯渇する恐れがあります。

著者は潜入ルポといういつものスタイルで取材に臨みますが、全編にわたって密漁と暴力団という単語に溢れいて、本当に密漁が日常的に行われているということを実感します。

もちろん密漁という行為は違法であり厳しく取り締まるべきだと思いますが、はたして密漁を淘汰することが本当に可能なのかと疑問を抱くと同時に密漁が根絶した結果、海産物の価格がどれくらい高騰するのだろうと心配してしまいます。

極端に言えば麻薬にしろ魚にしろ需要があるからこそ、金のために法を破ってまで供給しようとする裏社会の組織が存在する事実を考えると、複雑な心境になります。

しかし将来にわたって、それこそ私たちの子孫がおいしい魚を食べ続けられるように本書によって明らかにされた真実に目を背ける必要があるのです。

カンタ



二人の主人公・耀司汗多(カンタ)は4歳のときに同じ団地で出会います。

彼らはいずれもシングルマザーの家庭で育ち、境遇など共通点が多いことからすぐに打ち解けて友だちになります。

耀司はスポーツも勉強もできる秀才として成長しますが、カンタは生まれつき他人の気持ちを読むことができない、つまり人とのコミュニケーションを苦手をする発達障害を持った少年でした。

カンタは唯一心を許せる耀司を頼りにし、耀司は自分にはない純粋さを持つカンタの人間性に惹かれ、幼馴染として小中高校時代を過ごします。

あまり裕福でない家庭で育った二人は、やがて大金持ちになるために耀司がカンタを誘う形で携帯ゲーム会社「ロケットパーク」を起業することになります。

創業期の苦労を乗り越えて一躍時代の寵児となった「ロケットパーク」ですが、2人の前には人生最大のピンチが訪れるのです。。

結末が分かってしまうと面白くないため、あらすじの紹介はここまでにしますが、本作品は2つの要素で楽しむことができます。

1つ目は主人公となる二人の友情の物語としてです。

人間関係や受験、ビジネス上の障壁など誰にでも苦難のときは訪れますが、不器用な二人はそんなハードルを支え合いながら乗り越えてゆくのです。

一見すると障害を持つカンタが一方的に耀司を頼っているように見えますが、尖すぎる感性を持つがゆえに孤立しがちの耀司の側にいつもカンタが居ることで彼自身も救われていたのです。

楽しい時だけでなく、苦しいとき時にこそ側にいるのが友だちだと言われますが、現実的にこうした関係を維持し続けるのは難しいものです。

ともすれば損得勘定や合理的な判断にだけに長けた大人になっていないかと自分自身を振り返るきっかけにもなるのではないでしょうか。

2つ目は会社の創業そして上場、M&Aなどのエキサイティングなベンチャー企業のストーリーを楽しめる点です。

企業戦略は別として、ベンチャー企業はスピード上場を果たし社長が時代の寵児のようにもてはやされると、さまざまな利害関係を持った人間たちが彼らの前に登場します。

無論、彼らに共通する目的は金儲けであり、そこには友情といった感情的なものは不確かなものとして排除される傾向があります。

ジェットコースターのように過ぎてゆくベンチャー企業としての時間と、幼い頃からゆっくりと時間をかけて培ってきた友情という2つの時間軸が物語の中で交差する場面は本作品の見どころであるといえます。

著者の石田衣良氏は過去にも同じようなテーマを扱った「アキハバラ@DEEP」を発表していますが、2つの作品を比べると本作品はエンターテインメント性よりもリアリティ感を重視しているように感じました。

コンカツ?



タイトル通り、石田衣良氏による結婚活動、つまり婚活をテーマに執筆した1冊です。

過去に就職活動をテーマにした「シューカツ!」を本ブログで紹介していますが、その兄弟作品といえるでしょう。

主人公は都内の大手自動車メーカーに勤める29歳の岡部智香であり、彼女がシェアハウスで一緒に暮らす同じ年の綾野、3歳年上の沙都子、3歳年下の有結らと一緒に婚活に奮闘する物語が描かれています。

著者は男性で私より一回り以上年齢も上ですが、私だったら都会に住む年頃の若い女性4人たちの視点から小説を書くことは絶対できません。

しかし本書では婚活中の女性たちの微妙な心理描写、彼女たちが感心のあるファッションやいかにも実在しそうなお洒落なレストランなど、おそらく同じ境遇にある女性が読んでも共感できる完成度になっています。

一方の私は、婚活中の女性の心理、男性を値踏みするポイント、また婚活ビジネスの仕組みなどをなるほどと頷きながら読むことができました。

もちろん小説として成立させるために、さまざまなエンタメ要素も織り交ぜられており、単純にストーリーを楽しむことができ、そのまま映画かドラマの原作にしても人気が出そうです。

日本では少子化が問題になっていますが、とにかく結婚する若いカップルを増やすことが大事になります。

一方で生涯未婚率は未だに上昇し続け、男性の3人に1人、女性の5人に1人が生涯未婚という時代になっています。

やはり結婚となると生涯寄り添い続けること念頭に入るため、年齢、経済的、外見、性格、相性など諸々の要素の一致が必要になります。

一方ですべての条件を満たす異性が目の前に現れる可能性は限りなくゼロに近く、仮に自分の理想に近い異性が現れたとしてもおそらくライバルも多く、簡単には相思相愛とはならないでしょう。

本書ではさまざまなタイプの女性、または男性が登場しますが、今後の人生を賭けた椅子取りゲームといった殺伐とした雰囲気となるシーンもあります。

それでも励まし合い、自らを鼓舞しながら婚活をする女性たちの姿は笑いあり、涙ありの起伏に富んだもので、全体としては婚活を頑張る人たちへのエールが込められている作品となっています。

死について考える



生と死』は、文学にとって永遠のテーマであるといえます。

このテーマに挑戦した作家は多いが、カトリック教徒である遠藤周作氏にはとりわけその傾向が強かった印象があります。

それは彼がカトリック教徒として自身の宗教観から作品を描いたこともありますが、何より自身が若い頃から何度か大病を患い生死の境をさまよった経験が大きいのではないでしょうか。

こうした経験を元に遠藤氏は「心あたたかな医療」キャンペーンを立ち上げ、実際に重病患者の立場に立った医療を広める活動を行っています。

また今から40年前には、当時国内では少なかった治療よりも緩和ケアを重視するホスピスの普及をエッセーや取材などで事あるごとに訴えかけていました。

本書はこうしたバックボーンを持つ著者が「死について考える」という直球テーマで執筆した随筆です。

本書に書かれていることは哲学的な話ではなく、極めて具体的です。

まず私自身に当てはめてみると、今は健康に不安はなく日常の中で死を考えることはほぼありません。

どちらかというと仕事や家族、その他生活のことで日々が過ぎてしまい、考える時間がないというのが正直なところです。

しかし自分が老いてゆき両親や自分の周りの同世代の人が亡くなり始めると、否が応でも死について意識せざるを得ないタイミングが来るでしょう。

著者は自分の知る作家たちの死に方についても紹介しています。

「死にたくない」とあがき苦しみながら死んだ人もいれば、周りに集まった人たちに別れの挨拶を済ませて眠るように亡くなった人もあり、人それぞれです。

著者は日本人は死に様が美しく、言い方を換えれば潔くなければらないという意識に縛られていると指摘し、別にジタバタあがいて心の奥にある死の恐怖や人間の弱さを見せてもよいと言い、さらに自身もそうなる可能性が大いにあると述べています。

著者は出版社からの依頼で「死について」を書く、つまり本書を執筆することを最初はためらったようであり、なるべくキリスト教談義になることを避けて本書を書き上げたといいます

そして実際に本書が出版されると入院生活を送っている人や、たとえ健康であっても高齢であまり先の長くない人たちに多く読まれ、心の安定を得るための一助となったようです。

自らの死に対して心の準備をすることをデス・エデュケーションと言い、長年連れ添ったパートナーなどとの死別の悲しみに備えた準備教育をグリーフ・エデュケーションと言うそうです。

心の準備は一朝一夕に出来るものではないないので、自分自身が健康なうちにこうした準備をしておくことが大切なのは言うまでもありません。

その手始めとしてせひ若い世代の人たちにも手に取っていただきたい1冊です。