本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

販促手法の基本 この1冊ですべてわかる

販促手法の基本 この1冊ですべてわかる

タイトルそのままの本です。

個人経営の店から大企業に至るまで、あらゆる規模や手法で行われている販売促進を体系的に解説しています。

漠然としたイメージでしか"販売促進"を捉えていない人にとって、本書はまさに"基本中の基本"を叩きこんでくれます。

逆にマーケティングにおける最先端の知識、画期的な手法を模索している人にとってはまったく物足りないかも知れません。

本書の内容を解説するよりも、あらゆる分野に渡って体系的に分類されている目次を記載した方が分かり易いと思います。


  1. 販売時点直接型
    • 試用体験手法
    • 価格訴求手法
    • キャンペーン手法
    • プレミアム手法
    • 制度手法
    • 店頭手法
  2. 新規顧客向け・媒体活用型
    • 折込チラシ
    • ポスティング
    • 街頭配布(ダイレクト・ハンド)
    • 店頭・屋内設置(テイク・ワン)
    • ダイレクトメール(DM)
    • FAXDM
    • 同封・同梱広告
    • フリーペーパー
    • 交通広告
    • 屋外広告
  3. 既存顧客向け・媒体活用型
    • 手紙
    • ダイレクトメール(DM)
    • ニュースレター
    • カタログ
    • Eメール
  4. イベント活用型
    • セールス型イベント
    • 認知促進型イベント
    • 社会貢献型イベント
    • 商談型イベント
  5. インターネット活用型
    • 検索連動型広告
    • コンテンツ連動型広告
    • バナー広告
    • テキスト広告
    • メール広告
    • ストリーミング広告
    • 成果報酬型広告(アフィリエイト)


本書で特筆すべきは、媒体活用型に含まれるべきマス広告(テレビ、新聞、ラジオ、雑誌)が含まれていないことです。

理由が本書に明記されていないため不明ですが、この分野だけは広告代理店に問い合わせた方が早いからでしょうか。

幻想と怪奇 おれの夢の女

幻想と怪奇 おれの夢の女 (ハヤカワ文庫NV)

序文から抜粋して本書の概要を紹介します。

本書『幻想と怪奇』は、1950年代を中心にして、英米仏の現役異色作家たちの短編から主として選んだホラー・アンソロジーである。

つまりホラー小説の短篇集です。

"ホラー"と聞くだけで敬遠する人がいますが、皆さんの想像とは少し違うかもしれません。

現代ホラー小説の主流は"恐怖"の感情を鋭利に切り取った作風が多い中で、50~60年前の海外の古典的ホラー小説には、SFやダークファンタジーといった要素を織り交ぜた作風が主流でした。

実際にSF、ファンタジーを描いている作家が、ホラー小説を手掛ける機会も多く見られました。

350ページという文庫としては標準的な分量の中に、様々な作家による13編ものホラー短篇を収めた魅力的な1冊に仕上がっています。

1作品あたり10~15分くらいでテンポよく作品を読めてしまいますが、作者の立場からすると短い時間で読者を惹き込み、物語の導入から完結させなければいけないという、実力の見せ所ではないでしょうか。

本書は1970年代後半にハヤカワ文庫NVより発刊された『幻想と怪奇』全3シリーズの新装版であり、その3作目にあたるそうですが、すべて短編集という形をとっていることもあり、どの巻から読み始めても楽しむことができます。

どれも印象的な作品で甲乙つけがたいレベルに仕上がっており、作品の舞台が今から半世紀以上前にも関わらず、まったく違和感なく作品へ没頭できます。


編集者の作品の選別眼、訳者の実力が本書のレベルを高いものにしているのではないでしょうか。

サラミスの兵士たち

サラミスの兵士たち

サラミスといえば地中海の小島ですが、実際には紀元前480年にそこで行われたギリシアとペルシアの間で行われた古戦場として有名です。

とはいいつつも、本書は「サラミスの海戦」を題材とした作品ではなく、1930年代後半のスペイン内戦をテーマとした小説です。

スペイン内戦というと日本にはあまり馴染みがないかも知れません。

一般的には、反乱軍人民戦線内閣(共和国軍)へ対し蜂起した事件ですが、ファシズムvs反ファシズムの側面もあれば、復古主義vs共産主義といった側面もある複雑な背景に持っています。

ただしいずれにせよ、スペインの国内を二分して多くの犠牲者を出した内戦であることは確かです。

著者はスペイン人のハビエル・セルカス氏ですが、本書ではセルカス氏自身がふとしたきっかけでスペイン内戦に興味を持つところから始まります。

それは反乱軍(より正確にはファランヘ党)の思想的な指導者であるサンチェス=マサスが共和国軍に捉えられ、集団銃殺の場から偶然に逃れた事件を息子のフェルロシオから聞いたことに端を発します。

やがてフランコ将軍が共和国軍を撃破し権力を掌握した際にサンチェス=マサスは大臣となりますが、根が政治家ではなく、思想家や小説家といった性格のサンチェスは大臣を辞任し(罷免という説もあり)、程なく歴史の表舞台から姿を消します。

つまりスペイン内戦においては些細で、歴史の闇へ永遠に葬られれもおかしくない事件を執拗に追うことになります。

実際はわかりませんが、作品に登場する著者は小説家になることを諦め、新聞記者として生計を立てる人物として描かれていますが、自身が生まれる前に起こった内戦の埋もかけた事実を知ることで、再び文章家としての血が騒ぎ始めます。

物語の後半には、銃殺の現場から逃走したサンチェス=マサスを発見しながら見逃した1人の共和国軍の兵士に興味を抱くことになり、その人物を推測し、そして追い求めることになります。


やがて著者は探求の終着駅ともいえるフランスの介護施設で暮らす老人(元兵士)"ミラリェス"と出会うことになります。。。

著者はそこで今の平和な時代が無数の名も無き兵士たちの活躍によって築かれたものだと確信します。それは祖国を守るべくペルシアと戦った名も無き多くのギリシア市民たちのイメージと重なるものでした。

本作品はスペイン内戦の戦史でも回想録でもなく、戦争文学と位置づけられるべきものです。
感動や感傷、戦争から学んだ教訓めかしいものは極力排除し、ひたすら事実を探求し、その過程で巡り会った人々との会話を元に物語が進んでいきます。

日本ではあまり知られていない作品ですが、スペインではベストセラーになっています。

スペイン内戦を題材とした戦争文学を味わえる数少ない作品ではないでしょうか。

新選組の新常識

新選組の新常識 (集英社新書)

小説やドラマ、映画などで常識化しつつある新選組のイメージ。
果たしてそうしたイメージは本当だったのか?

本書では新選組にまつわる常識を1つ1つ検証してゆきます。

新書という分量のためか対象となる項目はそれほど多くはありませんが、丁寧に文献を引用して分析を繰り返している姿勢には好感が持てます。

いきなり1章から新選組の羽織や隊旗のデザインや色などをかなり細部に渡って検証しており、少々戸惑いますが、新選組隊員のシンボルともいえるダンダラ模様と背中に""と染め抜かれた独特の羽織は、賞味3ヶ月しか使用されておらず、隊員たちから愛着されたどころか、殆ど着る機会さえ無かったとのことです。

本書は新選組の基礎知識があることを前提としているため、これから新選組を知りたいという人にはお薦め出来ない敷居の高さがあります。

逆に新選組に精通しているファンであれば、その知識を肉付けしてくれる格好の1冊です。

著者のように細部にわたって新選組を研究しようとする人たちが多いのも魅力がそれだけ大きいからに他なりません。

政治家の殺し方

政治家の殺し方

元横浜市長である中田宏氏による著書です。

著者は松下政経塾出身で衆議院議員として当選した後、2002年から2期にわたって横浜市長を務めた経歴を持っています。

中田氏は横浜市長に就任してから様々な行財政改革へ着手し始めます。

例えば公共事業の一般競争入札化特殊勤務手当の大幅な圧縮退職前日の昇給制度の停止無駄な交際費の廃止などなど。。

民間企業の基準から見ればどれも適切な改革だと思いますが、長い間に慣例化した仕組みの裏には既得権益を持った人々が形成されてゆきます。

彼ら抵抗勢力(保守派)が選んだ手段が、中田氏をスキャンダルに陥れるというものでした。

特筆すべきはハレンチな下半身スキャンダルであり、市長本人が知らない間に元愛人と称する人物が市役所内で記者会見を行うといったエスカレートさを見せ、妻や子供もいる中田氏にとっての精神的な苦痛は想像を絶するものがあります。

本書が出版された2011年の時点で、一連の報道へ対する名誉毀損の訴えで中田氏が全面的な勝訴を得ていますが、当時のマスコミの姿勢に対して強い疑問を投げかています。

一方で著者は自らを妥協する(=清濁併せ呑む)ことが苦手であり、改革を徹底的に推し進める姿勢が相手を追い込んでしまったと分析していますが、確かにその通りだと思います。

そしてタイトルにもある通り、テレビや新聞、週刊誌でスキャンダルを取り上げられることは政治家にとって致命傷となるものです。

個人的には例えそのスキャンダルの一部が真実であったとしても、その人物の功績や能力などを考慮して総合的に判断するべきであり、あまりにも容易に政治生命を絶たれかねない今の風潮には疑問を感じます。

まして著者の場合にはほぼ100%が濡れ衣であり、自殺こそ考えなかったものの不眠症になり、家族や支援者の存在、政治家としての自らの信念といった心の支えが無ければ、スキャンダル報道に毅然として耐え続けれた自信はなかったと告白しています。

中田氏が言及しているように「政治は魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する世界である」というのは、経験者の言葉だけに重い現実であるという認識と共に、まだまだ改革の必要があることを意味しています。

過去のしがらみに囚われず、自ら正しいと思ったことを決断し実行する

単純に聞こえますが、政治の世界でこの姿勢を貫くことの難しさを感じた1冊であると同時に、そうした信念を持った人に1票を投じて応援してゆきたいものです。

「健康食」はウソだらけ

「健康食」はウソだらけ (祥伝社新書 109)

健康ブームと言われて久しいですが、一方でTV番組の捏造問題過激なダイエットが問題になっています。

著者はそうした健康ブームに警鐘を鳴らしており、健康食、健康成分、ダイエット食、自然食など、あらゆる「食」へ対してのウソを指摘しています。

特に健康成分では、カテキンカルシウムビタミンCコラーゲンヒアルロン酸、コエンザイムQ10、アミノ酸ギャバなど話題になったものがオンパレードです。

これらは健康に役に立たないばかりか、時として有害であるとしていますが、著者の述べることが本当であるならば、我々消費者にとって安全な食品は殆ど存在しないということになってします。

問題の指摘はよいとして、本書では具体的な解決方法(もしくは代替方法)に乏しいという面が否めません。

本書を読み進めてゆくと、著者の真の意図は「健康」というキーワードを利用して、あらゆる方法で利益をあげようとする商業主義への批判であるという点が分かってきます。

例えば下記のような一文です。

厚生労働省は名指しで大手健康食品メーカーに偽装効能表示に対して改善指導をしたにもかかわらず、新聞やテレビなどのマスコミではほとんど報道していません。
新聞社もテレビ局も改善指導を受けた会社から多額の広告費をもらっているから報道できないのでしょう。
社会保険庁やミートホープなどの不祥事に対しては批判できても、自分の会社に利益をもたらしてくれる会社の不祥事は隠そうとしているのです。

確かにこうしたマスコミの姿勢は問題視し始められており、消費者も情報を鵜呑みにせずに、自分の身を守るための知識を必要とされている時代になってきています。

例えば特定保健用食品(通称:トクホ)消費者庁が認可しているだで無条件に健康増進に役立つと信じてしまうような傾向があります。

本書は徹頭徹尾、健康ブームへ対する批判で一貫されていますが、消費者の不安を煽るだけ煽っているような印象も受けます。

そうしたことも踏まえて冷静に読むことが出来れば、本書から得るものもあるのではないでしょうか。

プロ野球2.0

プロ野球2.0 (扶桑社新書 24)

題名だけを見てプロ野球の新しい勝負論が語られた本だと早合点して購入したのですが、よく見ると副題に"立命館大学経営学部スポーツビジネス講義録"とあり、日本プロ野球を1つの物差しとしてプロ・スポーツ全般をビジネスとして考えてゆくことをテーマにした本です。

個人的に野球は好きなスポーツですが、何らかのプロスポーツに興味がある人であれば、充分楽しめる内容になっています。

具体的には、スポーツ界において長年マネジメントやサポートに関わってきた著名人を大学に招いて行った講義の内容が収録されています。

  • ラリー・ルキーノ氏(ボストンレッドソックスCEO)
  • 団野村氏(スポーツエージェント)
  • 水戸重之氏(弁護士)
  • 飯島智則氏(日刊スポーツ新聞社)x小野寺俊明氏(ナノ・アソリエーション取締役)
  • 畑野幸博氏(阪神タイガース)x森本譲二(福岡ソフトバンクホークス)
  • 藤井純一氏(北海道日本ハムファイターズ球団社長)x大堀隆氏(元横浜ベイスターズ球団社長)

日本プロ野球の特徴は、企業主導での運営であるという点です。
しかもプロ野球チームを持つからには、当然のように規模と体力のある企業がバックに付いています。

広報活動の一環として強烈なバックアップを行うことで安定した運営を行えるメリットがありますが、他方では排他的で、球団が自力でマネタイズする努力を失わせてしまうというデメリットがあります。

更には球団を所有している企業の発言力が強くなり、選手の発言力が弱くなるという傾向も見られます。

その他にも色々な弊害あるのですが、そもそも100年近く続く日本プロ野球の仕組みそのものを見直す時期が来ているかもしれません。

本書で日本プロ野球界とよく比較されているのはMLBJリーグであり、いずれも球団を中心とした運営をしているプロスポーツとの対比です。

プロスポーツそのもののビジネスの仕組みを知る上でも大変参考になる本です。

壬生義士伝 下

壬生義士伝 下 (文春文庫 あ 39-3)

新撰組監査役、撃剣師範を努めた"吉村貫一郎"を主人公とした「壬生義士伝」の下巻です。

幕末に東北を襲った飢饉により南部藩は困窮を極め、多くの餓死者や難民を生み出します。

そして足軽の家に生まれた吉村は、家族を養うために脱藩を決意することになります。

彼には勤皇、攘夷といった思想も無ければ、幕府や藩へ忠誠を尽くすに相応しい待遇を受けている立場ではありませんでした。

少しでも家族によい暮らしを送って欲しいと願う父親が、都会へ出稼ぎへ出て行ったというべきでしょう。

しかし幕末とはいえ当時は江戸時代。
出稼ぎなど許される訳もなく、藩の重臣で身分を越えた友人でもある"大野次郎右衛門"の忠告を振り切り、脱藩して新撰組へ加わることになります。

吉村が人並みの才能であれば脱藩を決意するに至らず、南部藩に留まって飢えと貧困に耐える道を選んだでしょうが、幼少の頃よりひたすら学問と剣術に打ち込み続け、幸か不幸か彼の能力は新撰組にとっても貴重な戦力となるものでした。

それは時代の激動の最先端、言い換えればある意味でもっとも過酷な現場に身を投じることを意味します。

厳しい規律と危険が伴う新撰組の中には、酒や女で一時の安らぎを得る隊員が多いのが現状でした。

もしくは命に執着しない漂々とした剣客タイプの人間か、新撰組を踏み台にして己の野望を実現しようとする人間のいずれかに分類され、その雰囲気はどこか殺伐としたものになりがちです。

その中で吉村は、酒や女に目をくれず、まして大それた野望を持つわけでもなく、ひたすら受け取った給金を故郷へ仕送り続け、家族への愛、更には同僚、部下たちへの優しさを忘れなかった特異な人物であったといえます。

ある人物は吉村を武士にあるまじき"守銭奴"と嗤い、ある人物は穏やかで素朴な人柄へ畏敬の念を抱きますが、その底で共通しているのは、混沌とした時代にあって一途に家族と故郷を愛し続ける彼への憧れだったのではないでしょうか。

時代の流れは早く、やがて鳥羽伏見の戦いで新撰組は壊滅的な打撃を受けます。

吉村自身も重傷を負い大阪の南部藩屋敷へ逃れてきますが、ここで誰よりも彼の生き方を理解を示してきた大野次郎右衛門により切腹を命じられることになります。

ついに南部から遠く離れた京都の地で最期を迎えることになりますが、新選組で経験した死闘の数々や明治までの一連の戦いは、この物語にとってあくまで背景であり、その中心は素朴に生きたひとりの人間"吉村貫一郎"です。


命を捨てるでもなく惜しむでもなく、ひたむきに家族のために生き続けた1人の武士の姿は、維新を生き延びた人々の脳裏に残り続け、やがて時代を超えて日本人の心を打つような物語となったのです。



壬生義士伝 上

壬生義士伝 上 (文春文庫 あ 39-2)

浅田次郎氏の代表作であり、司馬遼太郎氏の「燃えよ剣」、「新選組血風録」などと並ぶ新選組を題材とした歴史小説でもあります。

本作品の主人公は南部藩を脱藩し、新選組に参加した隊士"吉村貫一郎"です。

物語は鳥羽伏見の戦いに敗れ、吉村貫一郎が重傷を負って大阪の南部盛岡藩屋敷へ辿りつく場面からはじまります。

そこから時代は一気に明治後半~大正時代へと飛び、生き残った新選組隊士や南部藩士たちが吉村貫一郎を回想し、再び場面が幕末の南部藩の大阪屋敷へ交互に戻るといった形式で話が進んでいきます。

実際に吉村貫一郎に関して分かっていることは、南部盛岡藩出身で彼の名前が偽名(=本名ではない)ということ、新選組では撃剣師範、監察方を努めていたということです。

監査役として時には危険な密偵を行うこともあり、幅広い知識と機敏さが必要となります。
また当然のことながら撃剣師範は、猛者が集う新選組のなかでも屈指の剣の技倆が必要とされます。

つまり客観的に見れば、文武両道の人物であると言えます。

本作品の中では、新米隊員の先生として部下思いであるのと同時に、凄まじい剣の腕で数々の修羅場をくぐり抜ける姿がある一方、家族を愛し(武士にあるまじき)守銭奴と言われながらも故郷へ仕送りを続ける二面性を持った人物として描かれています。

新選組の作品に共通するのは、新しい時代の波に乗り遅れた当時の武士よりも武士らしい悲劇の集団として描かれるのが一般的です。

そして厳しい隊内の規律の中においても不思議にも個人が埋没することなく、パーソナリティが際立った集団であるという点も共通しています。

その中で小説の主人公として抜擢された"吉村貫一郎"がどのように描かれるのか?

新選組ファンにとって必読の1冊です。

民主の敵

民主の敵―政権交代に大義あり (新潮新書)

第95代内閣総理大臣、野田佳彦氏による著書です。

表題の「民主的の敵」の民主とは、本書の中で民主党、そして民衆の2つの意味で使われています。

2009年7月に出版された本のため、本書の執筆時点では民主党政権は誕生しておらず、野田氏自身もわずか2年後に総理大臣に就任するとは想像していなかったのではないでしょうか。

ただ本書が執筆された時点で自民党の支持率は下降の一途であり、衆参ねじれ国会の状態でもあったため、近い将来に民主党が政権を奪取できるという予測は出来ていた時期にはありました。

その勢いもあってか本書の前半では、"死に体"である自民党へ対して批判の集中砲火を浴びせることに費やしています。

紙面の都合なのか細かい政策面には触られていませんが、約50年にわたる自民党政権の継続により様々な利権が生まれ、政権交代によるリセットでしか、この国を変えることは出来ないと言及しています。

野田氏は世襲の政治家ではなく、まして裕福な家庭に育った訳でもありません。
そのため1000円散髪に代表される"庶民派の宰相"と評されます。

地盤や資金力が無かったことを考えると、相当な苦労をしてきたと思いますが、当然のように世襲代議士に対しては批判的な態度をとっています。

後半では松下政経塾の1期生出身の影響ということもあるのか、ダイナミックな壮大な宇宙開発を中心とした国土開発にも言及しています。

当時の民主党幹部という立場もあり、個人的な主義主張よりも党の政策を宣伝する印象を受け、全体的に歯切れの悪い印象を受けてしまうのは残念な点です。

経済、財政、外交それぞれ抱負を述べていますが、結果として民主党が2009年9月に政権を取ってから何一つ好転していないのは、本人にとっても残念な状況でしょう。

現時点では、本書は斜め読みする程度の価値しか無いのかもしれません。

小太郎の左腕

小太郎の左腕 (小学館文庫)

「のぼうの城」「忍びの国」に続いて和田竜氏の作品をレビューします。

本書も著者の得意な戦国時代を舞台にしていますが、今回は登場人物含めて完全なフィクションです。

本作では、小大名同士の領土争い(戸沢氏vs児玉氏)の場に突如現れる、天才的な鉄砲の使い手"雑賀(鈴木)小太郎"が主人公です。

実際の物語の大部分は、戸沢氏の武将として登場する"林半右衛門"の目線で描かれており、領土を巡って命がけで戦う戦国武将の心理を細やかに描いています。

林半右衛門は臆病や卑怯を嫌い、己の武勇や敵への情けを重んじる理想的な戦国武将であり、、敵方(児玉氏)の武将として登場する"花房喜兵衛"も同じ気質を持っており、お互いに切磋琢磨するライバル関係にありました。

しかし世は戦国時代。
いずれかが滅びるか降伏するまで戦いが繰り広げられる定めであり、戸沢氏は児玉氏に大敗を喫し城下まで攻めこまれ、勝ち目の薄い篭城戦へ突入することになります。

そこで半右衛門は、以前知り合った鉄砲の天才"小太郎"を苦悩の末に、不本意にも騙す形で味方に引き入れ、一気に形勢を逆転するに至ります。

一見すると百発百中の腕を持つ小太郎の活躍が目立ちますが、本作品のテーマは戦国時代に生きた武将たちの生き様ではないでしょうか。

それは一族の命運と君主への忠誠という狭間で葛藤する姿でもあります。

いつの時代にもこうした"生きる上での矛盾"は存在し、例えば幕末志士であれば勤皇活動と藩への忠誠、現代であれば家庭と仕事の両立といったものが当てはまるかも知れません。


そうした葛藤を描きながらも、読後は爽快な気分にさせてくれるストーリーになっています。