壬生義士伝 下
新撰組監査役、撃剣師範を努めた"吉村貫一郎"を主人公とした「壬生義士伝」の下巻です。
幕末に東北を襲った飢饉により南部藩は困窮を極め、多くの餓死者や難民を生み出します。
そして足軽の家に生まれた吉村は、家族を養うために脱藩を決意することになります。
彼には勤皇、攘夷といった思想も無ければ、幕府や藩へ忠誠を尽くすに相応しい待遇を受けている立場ではありませんでした。
少しでも家族によい暮らしを送って欲しいと願う父親が、都会へ出稼ぎへ出て行ったというべきでしょう。
しかし幕末とはいえ当時は江戸時代。
出稼ぎなど許される訳もなく、藩の重臣で身分を越えた友人でもある"大野次郎右衛門"の忠告を振り切り、脱藩して新撰組へ加わることになります。
吉村が人並みの才能であれば脱藩を決意するに至らず、南部藩に留まって飢えと貧困に耐える道を選んだでしょうが、幼少の頃よりひたすら学問と剣術に打ち込み続け、幸か不幸か彼の能力は新撰組にとっても貴重な戦力となるものでした。
それは時代の激動の最先端、言い換えればある意味でもっとも過酷な現場に身を投じることを意味します。
厳しい規律と危険が伴う新撰組の中には、酒や女で一時の安らぎを得る隊員が多いのが現状でした。
もしくは命に執着しない漂々とした剣客タイプの人間か、新撰組を踏み台にして己の野望を実現しようとする人間のいずれかに分類され、その雰囲気はどこか殺伐としたものになりがちです。
その中で吉村は、酒や女に目をくれず、まして大それた野望を持つわけでもなく、ひたすら受け取った給金を故郷へ仕送り続け、家族への愛、更には同僚、部下たちへの優しさを忘れなかった特異な人物であったといえます。
ある人物は吉村を武士にあるまじき"守銭奴"と嗤い、ある人物は穏やかで素朴な人柄へ畏敬の念を抱きますが、その底で共通しているのは、混沌とした時代にあって一途に家族と故郷を愛し続ける彼への憧れだったのではないでしょうか。
時代の流れは早く、やがて鳥羽伏見の戦いで新撰組は壊滅的な打撃を受けます。
吉村自身も重傷を負い大阪の南部藩屋敷へ逃れてきますが、ここで誰よりも彼の生き方を理解を示してきた大野次郎右衛門により切腹を命じられることになります。
ついに南部から遠く離れた京都の地で最期を迎えることになりますが、新選組で経験した死闘の数々や明治までの一連の戦いは、この物語にとってあくまで背景であり、その中心は素朴に生きたひとりの人間"吉村貫一郎"です。
命を捨てるでもなく惜しむでもなく、ひたむきに家族のために生き続けた1人の武士の姿は、維新を生き延びた人々の脳裏に残り続け、やがて時代を超えて日本人の心を打つような物語となったのです。