応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱
中公新書では日本の歴史上に起きた"乱"を扱った本を刊行しており、過去に「壬申の乱」、「承久の乱」を扱ったものを本ブログで紹介してきました。
今回はタイトルから分かる通り、歴史学者である呉座勇一氏による「応仁の乱」を扱った1冊です。
歴史上の大抵の乱は「誰が誰へ対して起こした反乱なのか?」、「誰が勝者なのか?」といったことが明確ですが、この応仁の乱ではそのいずれもが曖昧であり、しかも10年以上に渡って続くことになります。
分かりやすく整理すると、お互いに室町幕府の有力守護であった細川勝元(西軍)と山名宗全(東軍)が対立した戦いということになります。
また8代将軍・足利義政は西軍を支持していたため、東軍が反乱側という見方ができます(しかし東軍ものちに義政の弟・義視を将軍として擁立)。
事件の発端は、室町幕府管領である畠山氏、さらには斯波氏の家督争いであり、両家それぞれの後継者候補の後ろ盾として細川家と山名家が名乗りを上げたという構図で、元々、細川家と山名家の仲が悪かったわけではないようです。
さらに言えば、両軍の総大将(細川勝元・山名宗全)は、いずれも乱が終わるのを見届けることなく病没しています。
この争いの焦点が畠山家と斯波家の家督争いだけに終始していれば、教科書に載るような歴史上の出来事にはなりませんでした。
しかし結果から見ると、この争い(応仁の乱)がつづく戦国時代の幕開けを引き起こし、さらには後世の研究から近代歴史の転換期とまで評価される大事件になるとは、当事者たちも想像していなかったはずです。
有力な守護大名だった細川・山名家の元に、利害関係で敵対するほかの守護や守護代たちが次々に集まってきてしまい、元々の家督争いを大きく超えた規模の争いへと發展してゆき、さらにその両軍の力が拮抗していたため、戦いが長引き、また犠牲も大きくなっていったのでした。
著者はこの様子を次のように解説しています。
彼らはそれなりに、"出口戦略"を考えており、終戦に向けて様々な努力や工夫をしている。
にもかかわらず、コミュニケーション不足やタイミングのずれによって、終戦工作は失敗を重ね、戦争は無意味に続いた。
"損切り"に踏み切れなかった彼らの姿勢は、現代の私たちにとっても教訓になるだろう。
今も行われている世界各地の紛争はもちろん、身近な例として個人間のいざこざがグループや派閥を形成しての大きな対立に発展するということは起こりうることです。
本書は時系列に沿って解説されていますが、大和の興福寺で当時別当を務めていた経覚、尋尊によって詳細な日記が残されており、貴重な史料として各所で引用されています。
また興福寺自体が、応仁の乱自体に深い関わりを持っていることが本書から分かります。
とても一言で解説することが難しい「応仁の乱」ですが、乱が起きるまでの時代背景や経緯、また10年以上に及ぶ乱の経過に至るまでが丁寧に解説されているため、整理された情報が頭の中に入ってきます。
専門家が執筆する新書の中には難解な内容のものが少なくない中で、本書は複雑な出来事が分かりやすく書かれている印象を受け、歴史の教養書としてお勧めできる1冊になっています。
