レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

遅れた時計


星への旅」、「月夜の魚」に続いて3冊連続で吉村昭氏の短編集レビューとなります。

本書には以下の10作品が収録されています。

  • 水の音
  • 駆け落ち
  • 笑窪
  • 蜘蛛の巣
  • オルゴールの音
  • 遺体引取人
  • 遅れた時計
  • 十字架
  • 予備校生
  • 歳末セール


以前レビューした2冊の短編集に収められている作品が昭和36~53年の間に発表されたものであり、本書に収録されているのは昭和53~56年の間に発表された作品となります。

丁度このブログと同じ順番で読み進めてみると、吉村氏の作風がどのように変化してきたのかを分かりやすく感じることができます。

ちなみに吉村氏の代表作は長編小説が多く、これら短編小説を執筆している間に長編小説についてもコンスタントに発表し続けています。

その作風の変化を一言で表すのは難しいですが、あえて表現するならば次第に"シンプル"になっていると個人的には感じました。

それは文章の構成や単語そのものが単純になってゆくという意味ではなく、たとえば文章で自分の考えや想いを読み手へ対して伝える場合には文字数が増えてゆく傾向がありますが、吉村氏はそれを登場人物の何気ないセリフや状況描写の中で伝えてゆく、言い換えれば限られた紙面の中でより多くの情報を効率的に読者へ伝えることが出来ると言えるでしょう。

彼は事実を客観的に描写してゆく記録文学の第一人者と言われるようになりますが、それらは膨大な数の資料や関係者の証言を元にして執筆されています。

一方でそれらすべての情報を盛り込むことは不可能であり、長編小説といえども限られた紙面の中で多くの情報を伝える必要があり、こうした作品を執筆してゆく過程で作風も少しずつ変化していったのではないかと推測しています。

本書に収録されている作品でもっとも多い共通のテーマは「男女の関係」であると言えます。

しかし吉村氏は恋愛小説を書く気は始めからなく、それらはいずれも失恋、駆け落ち、さらには無理心中といったものであり、やはり恋愛成就という結末は文学作品に相応しくないのかも知れません。

一方で「オルゴールの音」、「十字架」、「予備校生」は恋愛とは関係のない作品であり、とくに「十字架」に関しては著者が戦争の取材や情報収集を行う中で長編小説にするには難しいエピソードへ対してフィクションの要素を加えた形跡が見られて個人的には好きな作品です。

吉村昭氏は30歳を過ぎてから本格的な作家活動を始めていますが、本書に収録されている作品を発表した頃(50歳前)にはその作風が完成し、成熟の時期を迎えていたのではないかと思われます。