ローマ人の物語〈26〉賢帝の世紀〈下〉
前巻に引き続いて、本巻の前半ではハドリアヌスの治世について、後半ではアントニヌス・ピウスの治世が紹介されています。
相変わらずハドリアヌスは、ローマ帝国の国境をくまなく視察する巡行を続けてゆきます。
その時の様子を同行者は次のように書き残しています。
-われわれは、アプソルスにいた。補助兵から成る五個大隊が駐屯している基地である。われわれ一行は、まず兵器庫を視察した。そして基地をめぐる防壁も、その防壁の外側に掘られている壕も見てまわった。その後で、傷病兵たちを見舞った。病棟を出た足で倉庫に向い、食糧の備蓄状態も調査した。同じ日のうちに、近くの城塞や要塞も視察してまわった。また、騎兵たちの演習も観戦した。この騎兵基地でも、基地の防壁をまわり、壕も外側から視察し、病棟を訪れ、食糧倉庫や兵器庫を視察することをくり返したのであった。-
こうした正規兵の駐屯していない基地さえもローマ帝国皇帝みずからが入念なチェックを行ったのですから、天皇の行幸や将軍のパレードとはまったく異質のものだったのです。
またこの視察によって治世の大半が費やされたことにも納得できます。
ただしハドリアヌスには、当時のローマ知識人に共通していた"ギリシア文化への傾倒"という個人的な趣味がありました。
そこでギリシア文明が色濃く受け継がれているエジプト(アレクサンドリア)や、アテネにしばし滞在することはしましたが、皇帝ネロのように政務をないがしろにし、財政を悪化させるような傾倒は決してしませんでした。
あくまでも視察を終えたあとの息抜きというレベルに留めておいたのです。
何よりもハドリアヌスの偉大さは、彼の治世において外敵らしい外敵が来襲することもなく、まったく平和な時代に安全保障の総点検を行ったということです。
しかし長年の過酷な巡行がハドリアヌスの頑強な肉体さえも蝕み、すべての巡行を終えたハドリアヌスはローマに帰還した途端に体を壊し、後継者とし見込んでいたアエリウスが若くして結核で亡くなったことも加えて、著しく老衰することになります。
若い頃は剣闘士並みの屈強さを誇ったハドリアヌスだけに、そんな自分への腹立ちも大きかったようで、それが元老院への八つ当たりのような形で現れ、その関係が険悪となりますが、それも彼の後を継いで皇帝となったアントニヌス・ピウスによって解決されるのです。
アントニヌス・ピウスは穏健な性格であり、強力なリーダーシプを発揮するタイプではなく、周りとの協調性を大切にした皇帝です。
そのため独断ではなく、元老院へ協力を求める形で政策を進めていったのです。
それは"ピウス"には"慈悲深い人"という意味があり、そのあだ名がそのまま名前になったことからも知ることができます。
その治世は23年間にも及んだにもかかわらず、あまにりも問題がなく、歴史家たちが記録すべきことが殆どないと嘆いた"ローマ人が最も幸せであった時代"だったのです。
外敵が来襲することもなく、トライアヌスのように領土を広げる戦争も、そしてハドリアヌスのように辺境をくまなく視察を行う必要もありませんでした。
外見から見れば"平和を維持する"という意味では、五賢帝の中でもっとも優れた治世を実現したアントニヌス・ピウスでしたが、それはひょっとするとローマ帝国の住民たちに「晴れの日にこそ嵐に備える」ことを忘れさせ、"平和ボケ"をもたらしてしまったのかも知れないのです。