ローマ人の物語〈30〉終わりの始まり〈中〉
本巻では引き続き、マルクス・アウレリウスの治世に触れてゆきます。
先帝アントニヌス・ピウスの治世は23年間に及んだにも関わらず、ローア帝国の平和が完全に維持され続け、経済的にも繁栄を享受した「ローマ人が最も幸せであった時代」でした。
ところがマルクスの治世が始まった途端、本国ローマで飢饉と洪水が発生するのです。
もちろんマルクスは、これらの自然災害の対策に全力で取り組むことになります。
そして今度は東方のパルティア王国がローマ帝国へ対して軍事行動を起こし始めます。
首都ローマで手が離せないマルクスに替わって共同皇帝であるルキウスが対処に向かいますが、ほとんど物見遊山で出かける有り様でした。
しかし結果的にはローマ軍の有能な将軍たちの活躍で勝利で終わることになりますが、続いて発生する危機はさらに大きなものでした。
ライン河、ドナウ河、そして北アフリカの防衛線(リメス)立て続けに破られ蛮族がローマ帝国内へ侵攻してきたのです。
前回ローマが蛮族の侵入を許したのは230年も前の共和制ローマの時代であり、この出来事は長い間に渡ってローマ帝国内が安全であると信じきっていた住民たちに大きなショックをもたらしました。
戦後70年を迎える現代の日本でさえも、ある日突然に自分たちが暮らす町に外敵が攻め込んでくると想像したら、その衝撃の大きさが分かると思います。
それでも理性的で皇帝としての責任感を自覚している皇帝マルクスは、軍の統制や士気の面からも自らが前線へ赴ことへの重要性を理解し、ただちに実行に移しました。
思慮深く軍団の経験がなかったマルクスは、ローマ将軍のアドバイスに注意深く耳を傾け、作戦を遂行してゆきます。
同時代に書かれた歴史書「皇帝伝」ではマルクスを次のように描写しています。
「何かを決定する前には、それが軍事上のことでも政治上のことでも、その方面の専門家の意見に耳を傾けた。これが、皇帝マルクスのやり方(スタイル)なのだった。そしてそれがまだるっこしいと言う人には、次のように答えるのも常だった。『多くの友人の考えを聴いて決めるほうが、正しくはないのかね。友人たちがわたしという一人の人間の考えに、ただ単に従うよりも』
それでいて、彼の哲学(ストア学派)への傾倒によるのか、軍に対しても彼個人の日常でも厳しく律した。この厳格さが、部下たちの批判を浴びることもしばしばだった。批判するほうも面と向かって堂々と批判したが、それに対しても皇帝は、理路整然と反論するのだった。
マルクスはこのスタイルで一進一退の攻防を経ながらも着実に成果を上げますが、スキピオやカエサルといった過去の英雄たちが実行した、すべての作戦を独断で決め電撃的な速さで勝利をもぎ取る類の成果を生み出すことは出来ませんでした。
つまりこれは蛮族相手の防衛戦が長引くことを意味しますが、誰よりもマルクス自身がスキピオやカエサルほどの才能が自らに無いこと自覚していたに違いありません。
侵入してきた蛮族を撃退し、さらにローマ帝国の将来の安全保障を見据えて本格的な反攻に打って出ようする最中に、マルクスは前線の基地で病によって亡くなることになります。
彼の治世は平穏な時期がほとんど無いほど慌ただしいものでしたが、その最後もローマから遠く北に離れたドナウ河、つまり遠征先で亡くなったはじめての皇帝となります。
本書の後半ではマルクスの息子であり、19歳でその後を継ぐことになるコモドゥスの治世に触れらています。
まずコモドゥスは父マルクスとは正反対の趣向を持った人物でした。
マルクスが哲学を愛したのに対し、コモドゥスは剣闘士として自らコロッセウムに立つほどの剣闘好きでした。
そして皮肉なことに哲学皇帝マルクスは治世の多くの時間を外敵との戦いに費やしましたが、剣闘皇帝コモドゥスの治世は差し迫った戦争の危機がなかったこともあり、平和なローマでなされたのです。
もちろん戦争が無くともハドリアヌスのように領内を視察巡回するという方法もありましが、皇帝としての責任感が希薄だったコモドゥスの頭にそのような考えが浮かぶことはありませんでした。
肉親や側近による暗殺未遂によって疑心暗鬼に陥ったという同情すべき点もありましたが、やはり放漫で無責任な政治を行ったツケを支払わなければならない時が来ます。
それは愛妾、召し使いによって計画され、コモドゥスのレスリング教師だったナルキッソスの手によって実行されるコモドゥス暗殺です。
自業自得というと言葉は厳しいかも知れませんが、皇帝の責務はそれだけ重いものであり、先帝であり父親であったマルクスが背負ってきた皇帝としての責務を息子のコモドゥスは最後まで理解することはなかったのです。