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真田三代 下



昌幸は真田家が武田家に従属する証しとして信玄の元へ人質として送られましたが、その子である幸村は最初は織田家の滝川一益の元へ、のちに上杉景勝の元へ人質として送られて青年時代を過ごします。

それは強大な大名に囲まれた弱小勢力である真田家が生き残るために必要な手段でもありました。

昌幸は状況に応じて武田・北条・織田・徳川・上杉・豊臣という実に6人もの大名に仕えることになりますが、それは彼の幼少期からの体験から身に付けた知恵がそうさせたのです。

次々と主君を変える昌幸は当時から油断のならない人物として評価されていたようですが、個人的にはむしろ小気味よい印象さえ受けます。

これを現代に当てはめると、より良い条件の会社へ次々と転職を繰り返すようなものです。

そして昌幸が次々と主君を変えることができたのも、それだけの能力が彼に備わっていたからに他なりません。

しかし最終的には関ヶ原の戦いで西軍(豊臣家)に味方し、上田城に迫る3万8千の徳川秀忠率いる東軍をわずか3千の軍勢で守り切りますが、結果的に次男・幸村とともに高野山の麓にある九度山へ流刑となります。

やがて昌幸は流刑の地で失意のうちに病没することなります。

昌幸の意志を継ぐ形となった幸村ですが、彼には祖父の幸隆や父・昌幸とは違い、守るべき領土も仕えるべき主君さえ持っていませんでした。

ちなみに実質的な真田家の当主は、関ヶ原の戦いの際に昌幸・幸村らと袂を分かち家康に仕えていた幸村の兄・信幸でした。

しかし幸村には、祖父や父、そして兄とは違った別の野心を持っていました。

それは表現欲とも言えるもので、物欲とは違い、芸術家が持つような表現へ対する情熱とも言えるものでした。

そしてその結晶となるのが大阪城から不自然なほどに突出した真田丸であり、そこで自らが積極的に徳川の大軍を引き受けることで、己の持つ能力を試すという手段を取ります。

そこで彼が表現したかったものは、祖父や父から受け継いだ知恵(智謀)であり、それは弱小勢力として戦国時代を生き抜かざるを得なかった真田家の集大成といえるものでした。

これを現代に例えれば大企業のような資本力は持たないが、ニッチな分野で最先端の技術を持つベンチャー企業であり、幸村の生き様はこれからチャレンジしようとする若者たちへ今も共感を与える続ける存在なのではないかと思ったりしました。