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逃亡


軍用機をバラせ・・・・その男の言葉に若い整備兵は青ざめた。
昭和19年、戦況の悪化にともない、切迫した空気の張りつめる霞ヶ浦海軍航空隊で、苛酷な日々を送る彼は、見知らぬ男の好意を受け入れがばかりに、飛行機を爆破して脱走するという運命を背負う。
戦争に圧しつぶされた人間の苦悩を描き切った傑作。

背表紙にある作品紹介を引用しましたが、本書の執筆は、未知の男からの「或る男に会え」という指示の電話がきっかけだったと著者の吉村昭氏は振り返っています。

この或る男こそがかつての若い整備兵であり、自らの経歴を隠すように暮らしていた本人を著者が直接取材して書き上げたのが本作品です。

吉村昭氏の作家としてのすごみは、歴史上の大事件を題材にするときも、そして人知れず歴史の闇へ葬り去られるような小さな事件も同じスタンス、手法で執筆し続けるという点です。

この整備兵(作品中では幸四郎)は、特別な反戦思想も何も持たない、ありふれた19歳の青年でした。

幸四郎はちょっとしたボタンの掛け違いから、冒頭のように飛行機を爆破して脱走するとう、とんでもない行為に走ることになります。

旧日本軍の軍律の厳しさを考えたとき、幸四郎が軍法会議、または私的制裁によって生命の危機に陥る可能性は充分にあり、脱走そのものは決して不自然ではありませんでした。

しかし当時の時代背景を重ねて見ると、幸四郎の犯した行為は非国民そのものであり、国家権力や世間の目から逃亡し続けなければならない日々の始まりを意味していました。

繰り返しになりますが、この幸四郎はどこにでもいる普通の青年であり、それこそが重要な意味を持ちます。
著者は作品の冒頭で次のような感想を述べています。

かれは十九歳で、歳を繰ってみると当時の私は十七歳だった。
もしも私が彼の立場に身を置いていたとしたら、私はかれとほとんど大差のない行動をとったにちがいない。
戦時という時間の流れは、停止させることのできぬ巨大な歯車の回転に似た重苦しさがある。十九歳であったかれの行動は、その巨大な歯車にまきこまれた自然の成行きにほかならない。

つまり歴史上における事件の重要性は皆無といってよい出来事ですが、時代を象徴する性格を持っているという点です。

当時の幸四郎青年が戦後も長らく誰にも話すことが出来なかった真実が、200ページの文庫本に詰まっているのです。