太宰と安吾
タイトルにある太宰治と坂口安吾といえば昭和を代表する作家という共通点はすぐに分かりますが、2人とも昭和の文豪らしく傍から見ると自己破滅的な生き方を選んだという点でも共通しています。
もちろん有名無名に関わらず他にも同じような人生を送った作家はいますが、著者である檀一雄とこの2人の間には生前深い交流があり、かつ多大な影響を受けた存在でした。
前半では太宰治、後半では坂口安吾との思い出や作品の評価を書き綴るという構成になっています。
掲載されているのは本書専用に書き下ろした文章ではなく、檀氏がかつて文芸雑誌や新聞、作品全集等へ向けて執筆したものであり、内容はかなり重複している部分がありますが、そこからは2人の文豪の性格や逸話、また等身大の姿が浮かび上がってきます。
まず太宰治については檀が戦争で招集されるまでの数年間、毎日のように飲み歩いた仲であり、太宰がガスの元栓を開いて2人で自殺未遂のようなことをした経験さえあります。
またある時は家族からの依頼で熱海に逗留している太宰を連れ戻しに出かけた檀が、ミイラ取りがミイラになりそのまま2人で放蕩三昧を続けてしまうということがありました。
しかも東京へ金を無心に出かけた太宰がいつになっても戻ってこず、1人残された檀は未払い金のために半分人質のような形で旅館に軟禁されますが、とにかく見張り役付きで東京へ戻ってみると太宰が何食わぬ顔で井伏鱒二と将棋を指していたという、檀自身はこれを「熱海事件」と名付けています。
普通に考えれば親友として絶交に値する出来事ですが、檀は彼の個性、そして何よりもその才能を愛していたのです。
それだけに本書には檀でなければ書けない太宰のエピソード、その心内にあるもの、作品評価などを読むことが出来ます。
そして本書の後半に登場する坂口安吾と壇との本格的な交流が始まったのは戦後からのようです。
もちろん互いに痛飲し合う間柄でありつつも太宰のように親友同士というよりは、仲の良い先輩(安吾)・後輩(檀)といった関係だったようです。
戦後間もなく「堕落論」によって流行作家になった安吾ですが、その時ですら金は左から右へ流れるように使い、ドテラと浴衣、あとはフトンとナベとお皿1枚さえあれば三畳の貸間で充分という考えの持ち主でした。
酒は強いを通り越して異常な飲みっぷりであり、つねに酩酊していなければ気が済まないといった様子で、現代であれば確実にアルコール中毒者と診断されるような状態でした。
また周期的な躁鬱による度を越した言動で周囲を困らせるとった、やはりこちらも出来れば付き合いたくない先輩です。
檀はそんな安吾を真の自由な精神をもった人間として尊敬し、また思いやりの深い潔癖な一面もあり、そこから生み出される明確、かつザックバランで自由自在な文章へ敬意を抱いていました。
また何よりも檀は安吾を歴史上の偉人(たとえば信長、秀吉、家康)と肩を並べられるほどの人物だと考えていた節があります。
この1冊を丸々と読んでみると、2人がなぜ優れた作品を生み出すためには自己犠牲を伴うと考えていたのか、また戦争という大きな時代の流れに迎合したりせず、普遍的な真実をどこに求め続けたのかが分かってくるような気がします。