沢彦 (上)
織田家の重臣であり信長の傅役でもあった平手政秀からの依頼により、信長の教育係となったのが本作品の主人公である沢彦(たくげん)です。
彼は妙心寺で「菅秀才(菅原道真)の再来」と言われるほどの学識を備えており、誰から見ても教育係として申し分ない人物でした。
一方で吉法師と呼ばれていた当時の信長は、うつけ者と評判されるほど奇行の目立つ少年であり、沢彦の前に教育係として招かれた学僧たちはいずれも逃げ出していました。
しかし沢彦は自分がただの教育係として終わるつもりはなく、いずれ信長の名を天下に響かせるための参謀役になるという野心を秘めていました。
実際に彼は、吉法師が元服して"信長"となった際の名付け親であり、岐阜という地名、信長が使った有名な印文「天下布武」の考案者でもあり、元服後も信長の側を離れず参謀として活躍することになります。
沢彦は今川義元の参謀役として政治や軍事で中心的な役割を担っていた自分と同じ妙心寺出身の僧である太原雪斎の存在を強く意識していました。
仏僧といえば世俗から離れ、宗教的な活動や修行に打ち込む人たちといった印象がありますが、戦国時代において学問を身に付けるには僧になるのが最もてっとり早かったのです。
さらにそこで習得した知識を実践して成果を出すには、彼らのように大名の参謀役になるのが最短距離だったといえます。
やがて信長と沢彦は次々と現れる障壁を乗り越え、尾張一国を平定し、太原雪斎亡き後に上洛を目指した今川義元を討ち取り、さらには美濃をも平定して上洛を果たします。
いわば沢彦にとって信長は自分の一生の夢を託した作品であり、その最終目的でもある天下統一という形が輪郭となって現れ始めてきたのです。
織田信長という戦国大名の中でもとくに強い個性を放った人物を、彼の教育係でもあり参謀でもあった沢彦の目線から描くという試みは面白く、新しいアプローチの歴史小説として是非おすすめしたい1冊です。