あすなろ物語
一般的には井上靖氏の自伝的小説とされている作品です。
200ページ程度の分量であり、長編小説としては比較的短いながらも主人公(鮎太)の少年から青年、そして壮年に至るまでの過程を描いています。
まず主人公は天城山南麓の村で、軍医として各地を転々とする父、そして母とは離れて血のつながっていない祖母(おりょう)と2人で暮らしていました。
そこへ祖母の血縁である冴子がやってきて一緒に暮らすところから物語が始まります。
この小説は、豊かな感受性を持つ鮎太少年が個性豊かな人びとと出会い成長してゆく物語といえますが、傍から見ると必ずしも順調とはいえないかも知れません。
何度も挫折と自問自答を繰り返しながら歳を重ねていくという表現が正しいと思いますが、ひとつひとつの壁を乗り越えるたびに鮎太の内面が少しずつ変わってゆきます。
そのキーマンとなるが、冴子とはじめとした鮎太の前に現れる女性たちです。
それは祖母にはじまり、姉、教師、憧れの異性、恋人といったように、さまざまや役割や性格をもって鮎太の前に現れては去ってゆくのです。
そして彼女たちも鮎太と同じく、色々な屈折を経験してきたことが作品の中から伝わってくるのです。
人間誰しも夢や目標のような明確な形でなくとも、将来へ対してある種の"希望"を持ちながら生きてゆくものです。
同時にその希望を100%実現できる人間などこの世界に存在しないという宿命を持っているのです。
この誰もが願いながらも叶わわない象徴が、タイトルにある"あすなろ"なのです。
"あすなろ"とはヒノキ科の樹木のことであり、見た目は檜(ヒノキ)に似ていますが、その"あすなろ"に主人公の鮎太を初めとした登場人物たちの姿を重ね合わせる場面が登場します。
「あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木よ。でも、永久に檜にはなれないんだって!それであすなろうと言うのよ」
「だって、貴方は翌檜(あすなろ)でさえもないじゃありませんか。翌檜は、一生懸命に明日は檜になろうと思っているでしょう。貴方は何もなろうとも思っていらっしゃらない」
鮎太にとって身近な人間が戦死するといった悲劇もあり、作品のテーマを考えると暗いイメージを抱きがちですが、不思議なほど作品中に悲壮感は漂っていません。
それは"あすなろ"は挫折の象徴ではなく、もがきながらも前を進んでゆこうとする青春の象徴であり、人間の運命を前向きにとらえようとする著者の姿勢がはっきりと伝わる作品になっているからです。