風林火山
NHK大河ドラマの原作にもなった井上靖氏の歴史小説です。
大河ドラマは見ないため原作と比べてどのような内容なのかはまったく知りませんが、少なくとも"風林火山=武田信玄"というイメージです。
しかし本作の主人公は信玄ではなく、山本勘助です。
山本勘助といえば実在そのものが定かではなく、仮に実在したとしてどのような役割を果たしたのかよく分かっていない人物です。
つまり"歴史"に重点を置いて歴史小説を書こうとすれば山本勘助は適しませんが、"小説"に重点を置くならば作者の想像を挿入しやすい点で扱いやすい題材といえるでしょう。
実際、武田信玄を主人公した歴史小説でありながら、山本勘助が一切登場しない作品もあるくらいです。
ともかく本作品では、江戸時代初期に成立した「甲陽軍鑑」を元にした、もっとも知られた武田信玄の軍師としての山本勘助を描いています。
軍師といえば三国志をはじめとした中国のイメージが強く、君主にとってある種の先生・師匠のような存在であり、戦争においては敵の裏をかく作戦を考え出し、外交においても策略(計略)を練って相手を陥れるある種の天才というイメージがあります。
また軍師は冷静沈着である必要があるためか、色白で目元が涼しい美男子が似合います。
一方で勘助は背が低くて色黒、さらに容貌醜く、隻眼、足が不自由で、指も不揃いだったと伝えられています。
さらに信玄に仕えた時点で50歳を過ぎている当時でいえば老人であり、外見上では何一つ褒めるべき箇所がありません。
ただしこうした容貌が、人知れず死線をくぐり抜けてきた凄みのようなものを放っていたのかも知れません。
もう1つ軍師には、自らの才能を発揮できる場所さえあれば、出世や名誉とにはそれほど関心がないという浮世離れした部分がありがちですが、これは勘助にも共通しています。
ありきたりの出世には無関心でしたが、本作品では勘助がどうしても実現したい夢が2つだけありました。
1つめは戦略を駆使して大軍を手足のごとく動かして思う存分戦ってみたいという野望です。
これは信玄にとって生涯のライバルとなる長尾景虎(上杉謙信)が出現することによって実現します。
そしてもう1つは、由布姫(諏訪御料人)、そして息子である四郎勝頼をもり立てて、世継ぎにするという野望です。
なぜなら勘助は、由布姫へ対して密かに思慕の念を抱いていたからです。
戦国の世に自由に人生を選択できる女性はごく限られていました。
由布姫も例に漏れず、父・諏訪頼重を死へ追いやり、一家を滅ぼした張本人(信玄)との政略結婚を強制させられた立場でした。
もちろん勘助には自らを重用してくれる信玄へ対する恩義もあり、その板挟みになる場面が何度となく描かれます。
そこには嫉妬も絡むため、さすがに勘助も冷静沈着という訳には行きませんが、ともかく四苦八苦しながら乗り越えてゆきます。
不気味さを漂わせる外見からは想像のつかない、人間らしい軍師・山本勘助の活躍が描かれている歴史小説といってよいでしょう。