エンブリオ (上)
タイトルの"エンブリオ"とは、受精後8週目までの胎児を意味する専門用語であり、本書によれば広義には出産するまでの胎児全般を指す場合にも用いられるようです。
言うまでもなく日本人の平均寿命は世界でも最高水準にあり、それに裏付けされる医療技術も高く評価されています。
一方で日本では毎年約100万人の新生児が誕生していますが、その裏では同じく毎年約30万件もの人工妊娠中絶が行われているのです。
最近では妊婦の出生前診断(血液検査)によりほぼ確実にダウン症の診断ができる検査が国内の病院に導入されるニュースが話題になりましたが、「命の選別」という反論も根強くあり、倫理的道徳的にはまだ議論の余地があり、法律の整備もまだ充分ではありません。
本書は2002年に発表されながらも、こうした人工中絶をはじめとした"胎児"の問題にいち早く真正面から切り込んだ作品です。
著者の箒木蓬生氏は医療を題材にした小説を多く手掛けていますが、本作品からは最先端医療技術へ言及する意欲が特に強く感じられます。
よく練られたストーリーというよりは、胎児へ対する、または胎児を利用した(近い将来実現する可能性のあるものを含めた)最先端の医療行為が実現した結果、どのような事態が現実に起こりえるのかをシュミレーションしたものが本作のストーリーを構成しているといえるでしょう。
主人公である岸川が経営する私立病院(サンビーチ病院)の中では、倫理を無視した医療行為が行われているという設定です。
皮肉にも「倫理を無視した医療=最先端の医療」という図式が成り立つわけであり、こうした技術の発達が人類の脅威になり得る現実は、原子力や軍事技術の発展にも共通するのではないでしょうか。
医療の発展が人類にとっての福音であることを疑わない岸川の自信は、次のセリフに集約されています。
「サンビーチ病院でやっていることは、すべて正解だ。誤答はひとつもない」
しかし内心では、自らの医療行為が世間に波紋を巻き起こすことを充分に自覚しており、
「ある先駆的な医療行為が宗教的、哲学的、倫理的、法律的、社会的な波紋を起こすのは、医学の歴史を振り返れば明白です」
という演説を学会で発言しています。
つまり岸川の目指す"先駆的な医療行為"は、地方のサンビーチ病院の中でのみ行われいるのであり、この閉鎖的な空間で濃密に繰り広げられるストーリーの中には、医療全般のあり方を問うような壮大なテーマを含んでいる問題作なのです。