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遠野物語・山の人生

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)
遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

民俗学の開祖である柳田国男氏の代表作である「遠野物語」、そして山にまつわる民間伝承などを研究、考察した「山の人生」、学会での講演内容を収録した「山人考」の3編が収録されています。

「遠野物語」で語られる"河童"や"座敷わらし"はあまりにも有名であり、作品の舞台となった岩手県遠野市では"遠野民話"を活用して観光にも力を入れているようです。

「遠野物語」は柳田氏自身が遠野で民話を直接収集したわけではありません。

知人となった遠野出身の佐々木喜善氏の知っている地元の民話を柳田氏がインタビューして書き留めたものが「遠野物語」となったのです。

そこには119編もの民話が納めらていますがどれも簡潔で短いものであり、2時間もあれば全編を読み終えてしまう分量です。

そして「遠野物語」に納められている物語には2つの特徴があります。

1つめは桃太郎のような昔話のような説話じみた要素がなく、また怪談のよう恐怖を強調する演出がほとんど殆どない点です。

飾り気のない素朴な伝承そのものといった描写には、柳田氏が主観を排除して正確に物語の"筋(すじ)"を書き残そうとした、後に大成する民俗学者としての冷静な態度が見て取れます。

実際に佐々木氏は訛りの強い方言で語ったようですが、本書に収録されている話はすべて標準語の文体で書かれています。

2つめの特徴は物語の新鮮さです。

中には古くから続く伝承に言及したものもありますが、多くは数十年からつい数年前の体験や出来事に言及した物語が多いということです。

よって当事者となった人名が正確に伝わっていたり、本書が執筆された時点で存命だった人物も存在します。

山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛という人は今も七十余にて生存せり。この翁若かりしころ猟をして山奥に入りしに・・・・(略)

のように若い頃の体験を語る老人の話もあれば、

昨年のことなり。土淵村の里の子十四五人にて早池峰に遊びに行き、はからずも夕方近くになりたれば、・・・・(略)

といったつい最近の出来事も収録しています。

これも柳田氏が時期や地名、名前などが判然としない大昔のエピソードよりは、怪奇な体験であろうともなるべく信憑性の高い内容を重視した結果だといえます。

江戸から明治に時代が移り変わり、急速な科学や経済の発展により便利になってゆく一方で、自然や神々へ対する畏敬の念が失われてゆく世の中へ警鐘を鳴らすといった着眼点は素晴らしいの一言に尽きます。

大げさに言えば柳田国男は、平野の都市部ではとっくに失われてしまい、山深い里でかろうじて語り継がれていた"伝説"を救いだした功労者なのかも知れません。

柳田氏の必死の努力にも関わらず、それでも失われた伝承があることを柳田氏は"遠野物語・第12話"に書き留め惜しんでいます。

土淵村山口に新田乙蔵という老人あり。村の人は乙爺という。今は九十に近く病みてまさに死なんとす。
年頃遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖のようにいえど、あまに臭ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。
処々の館の主の伝記、家々の盛衰、昔よりこの郷に行われし歌の数々を始めとして、深山の伝説またはその奥に住める人々の物語など、この老人最もよく知れり。
○惜しむべし、乙爺は明治四十二年の夏の始めになくなりたり。

ちなみに「遠野物語」が明治43年に発表されています。

つまりほんの僅かな差で、多くの伝承、すなわちそこに隠れている先人たちの知恵が失われたことを意味するからです。