孔子
前回紹介した「毛沢東伝」に続いて、貝塚茂樹氏による著書です。
本書の冒頭には次のように書かれています。
わが国をふくめて、およそ中国を中心とする極東の世界において、孔子の言葉を書き残した「論語」という本ほど長い期間にわたって、広い範囲の読者をもった書物はないであろう。
著者が指摘するように孔子の没後2500年が経過しているにも関わらず、未だに自己啓発書や経営書に「論語」を引用した箇所を多く見かけますし、江戸や明治においても武士や学者のもっとも基本的な素養は「論語」によって培われたといっても過言ではありません。
いわば東洋において「論語」は(広く読まれているという意味で)西洋の「新約聖書」にもっとも近い存在ではないでしょうか。
一方で、春秋時代後期に生きた孔子の生涯を知っている人は殆どいないのではないでしょうか。
つまり「論語」を引用する本を現代でもやたらに見かけますが、当時の時代背景や孔子自身の意図から飛躍して、完成された金言集として無条件に用いられることが多いように思えます。
私にとって本書は、そうした孔子や儒教へ対する先入観や誤解に気付かせてくれた1冊です。
まず"孔子=聖人"といったイメージは彼の死後に後世の弟子たちが作り上げたものであり、生涯に幾度もの苦汁をなめ、晩年に至っても一番弟子である顔回の夭逝を嘆き、"仁"の実践が自身においても容易ではないということを正直に告白している姿からは、等身大の人間像が浮かび上がってきます。
孔子が神の使いでもなければ、悟りを得た現世からの解脱者でもないことは、弟子の子路から"死"の意味を尋ねられた時の、次の言葉に集約されているのではないでしょうか。
いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。
つまり「いまだに生きることすら分からないのに、死のことが分かるはずないよ」ということであり、どこまでも謙虚であり、つねに生の中での実践を重視し続けた孔子らしい言葉でもあります。
また孔子の教えである儒教は為政者による帝王学であり、庶民が学ぶべき学問ではないという理解は間違っているということです。
これはしばしば論語に「君子は~」と書かれていることから誤解されることが多いのですが、著者によれば論語で用いられている"君子"は、そのほとんどが"道徳的な修養を続ける未完成の人間"の意味で用いられており、何よりも孔子自身が貴族といった出自ではありませんでした。
自らの追い求める最高の形を神や真理の中に追い求めたのではなく、夏や殷、周といった過去の王朝に理想を追い求めたとい点も特筆すべき点です。
著者は孔子への敬意は失わずに、学者としての立場から冷静で客観的な視点で孔子の生涯を描いています。
孔子について書かれた本は数多くありますが、本書が半世紀以上前に書かれた本にも関わらず、屈指の良書であることは間違いありません。