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大人の見識

大人の見識 (新潮新書)

阿川弘之氏が晩年に執筆した著書です。

文壇的には安岡章太郎吉行淳之介遠藤周作らと共に「第三の新人」に分類される代表的な作家であり、戦中派の旧帝国海軍に在籍した経歴を持つほとんど最後の世代といっていい作家です。

残念ながら阿川氏は2015年に94歳で亡くなっていますが、学生時代に東条英機の演説を生で聞き、軍部によって統制されてゆく戦前の日本、そして戦争体験、荒廃した戦後の日本を見てきた著者が、現代に日本人へ叡智を育てる参考となればと筆を執ったのが本書です。

まず本書のタイトルにもなっている「大人の見識」ですが、これを私なりに解釈すると、TVやインターネットといったマスコミや世論に流されない芯を持った考えを持つことだと思います。

特に戦中派の世代に感じるのは、彼らが戦争を体験することによって世の中の価値観が一変した経験を持っていることです。
たとえば今やハリウッド映画や音楽が高く評価され、政治的にも日米同盟が健在ですが、戦中は"鬼蓄米英"であり、英語は適性国語として使用することさえ禁じられていました。

つまり時代の流れの中で変化してゆく価値観がある中で、昔から"変わらない大事なもの"を実感として持っているのです。

本書を読んで感じるのは、三つ子の魂百までではないですが、著者が旧帝国海軍の伝統によって受けた影響を色濃く残していることです。

日本の海軍がイギリスを、陸軍がドイツを模範としたことは広く知られていますが、本書はイギリスの持つ成熟した見識へ言及しています。

かつては大英帝国として栄えた国ですが、自らが体験した栄枯盛衰を吸収し、常に一歩引いた客観的な立場で見ることの重要性、そして人生を楽しむ術としてのユーモアを持ち合わせています。

日米開戦といった「やるべからざるいくさ」へ向かってルビコン川を渡ってしまったのは、当時の愚かな指導者の責任が大きいが、当時にも「大人の見識」を持った人間がいたことを旧海軍の指導者を中心に紹介しています。

もちろん旧陸軍や政治家にも見識を持っていた人物がいたと思いますが、旧海軍の空気を吸っていた著者の言葉には説得力があります。

ただし大東亜戦争の緒戦で勝利を上げた日本は、軍人のみならず民間人、そして著者が師事した志賀直哉をはじめ、武者小路実篤谷崎潤一郎吉川英治斎藤茂吉といったそうそうたる文士たちさえ感激し、それを文章として残したことを忘れてはなりません。

つまり当時は、冷静に大局的な状況を俯瞰できた人物はごく少数に過ぎなかったのです。

続いて日本人がもっとも伝統的に重んじてきた思想が神教でも仏教でもなく、孔子の教えだったと主張しています。

儒教の中核をなす四書五経のうちでもとくに論語の中に江戸時代、明治維新後の日本人一般の倫理基準が置かれていたとあります。

本ブログで「孔子」や「孟子」に関する本も紹介していますが、私含めて現代日本人には脈々と受け継がれてきた孔子(論語)に関する素養が足りないのかも知れません。

日本人が「一億総白痴化」となることを憂いた著者が、老文士の個人的懐古談として書き残したのが本書ですが、我々はそこから学ぶべき事が多いように思えます。