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禅学入門


元々本書は、1934年に鈴木大拙氏が海外へ禅を紹介するために執筆した「An Intrroduction to Zen Buddhism」が原本になっており、それを鈴木氏自らが1940年に邦訳して国内出版したものとなります。

禅に馴染みのない欧米人向けの入門書ということもあり、仏教が身近にある日本人であれば容易に読めると思い手に取りましたが、その考えは序盤で裏切られました。

決して書かれている文章そのものが難解というわけではありません。
たとえば物語が理論的に構成されていない小説、回答が掲載されていない参考書を読むと人はストレスを感じるはずですが、それと同じような感覚になります。

しかしそれこそが""が何かを知るにあたり当然のようにぶつかる壁でもあるのです。

禅が目指す「悟り」とは、論理的二元主義とは違う物事の見方を会得することでもあるからです。

少し考えれば、生と死、善と悪、肯定と否定、白と黒、富と貧、楽と苦、暖かい寒い、好き嫌い、高い低いなど世の中のあらゆる物が二元主義に支配されていることが分かります。

むしろそれ以外の見方を知らないと言ってよいくらいです。

こうした価値判断、固定概念を徹底的に捨て去るための手助けとして"法案"がありますが、理論的な考えを捨てきれないと意味不明で難解な質問にしか思えません。

たとえば禅師が座禅の際に弟子たちの肩を打つときに使われる竹篦(しっぺい)を示しながら次のような問いを発します。

「お前達がこれを竹篦と言うなら、それは肯定だ。もしまたそうでないと言うなら、それは否定だ。だが肯定もせずに、さてこれを何と言うか。さあ言って見よ。」

まさしく"禅問答"です。

この質問を少しでも不合理と考えた時点で、イコール理論的な考え方を捨てきれていないということになり、そこに禅は存在しません。
そもそも理論から自由である"禅"は、文字で説明することすら不可能なのです。

そう考えると、禅には初心者向けの入門書も、ましてや上級者向けの学術書も存在しないということになり、本書そのものの存在が矛盾であると言えます。


それでも過去の先達が辿った道やその語録を用いつつ、読者に少しでも"禅"の世界を垣間見せようとする著者の努力は伝わってきます。

加えて禅を通じた修行の方法、僧たちの生活などにも具体的に触れられている箇所は、わずかに入門書として相応しいと思える部分です。

いずれにしても気軽に禅を学びたいと手にとった本書が、迷宮の入り口になってしまう人は私を含めて多いはずです。


ちなみに鈴木大拙氏は、仏教学者であると同時に臨済宗の僧侶でもあります。
つまり本書で触れられている内容は、只管打坐で知られる曹洞宗など他の禅宗が定義する"禅"とは当然のように異なることは頭に入れておくべきでしょう。